ゴジラと能

能の演目に『鉄輪』というものがあります。

京都の北東にある貴船神社に丑の刻参りを続けた女性が、神職から「三本の足のある鉄輪を頭につけ、火をともすと鬼女になって復讐を達することができる」との「神託」を得ます。夫が他の女性と一緒になり棄てられたことへの怨念を晴らすため、女性は鬼の形相になって舞台に姿を現します。

前の妻から呪われている夫は「最近夢見が悪い」と陰陽師の安倍清明に相談すると、清明は「呪われているので今夜にも命を失う」と告げます。助けを求められた清明は陰陽の術を用いて鬼女を撃退するという内容です。

鬼女は「また時機を得て目的を果たす」として立ち去って行きます。

私はこの物語の存在を知った時、最初に頭に浮かんだのはゴジラでした。赤坂憲雄先生が『ゴジラとナウシカ』で、ゴジラは太平洋戦争で戦死した日本兵たちだという指摘をしていたのを思い出したのです。赤坂先生は天皇と戦死した兵士の対立軸を述べておられますが、私にはそこまで踏み込んだ解釈をするべきかどうかは判断できません。

いずれにせよ、平和と繁栄を楽しむ人々に対して「このままでは済まさない。忘れたとは言わせない」という兵士たちとゴジラの哀切な鳴き声を重複させてみることは充分に可能というか、説得力があると思いますし、私の母方の祖父はサイパン島で戦死していますので、単なる歴史解釈を超えて心に響くものがありました。

能の『鉄輪』の物語の鬼女もまたゴジラと似た叫びを抱えています。新しい妻と楽しくやっている夫に対して「このままでは済まさない。忘れたとは言わせない」という気迫を漂わせます。

ゴジラが東京で撃退されるのと同様に、鬼女は清明の術により撃退されますが、観客の側には一抹の拭い去れない消化しきれない感情が残ります。本当にこれで「めでたしめでたし」なのかという疑問が残ります。ゴジラがもし戦死した日本兵を象徴しているとすれば、死者に対して「生きている人間をわずらわさないでほしい。我々は今を生きて幸福に暮らしたいのだ。思い出したくない過去のことはなかったことにしたいのだ」として生を続けることへの罪悪感かも知れません。また能の『鉄輪』の場合では、前の妻の恨みや言い分はもっともなことであり、とりあえず夫の今の生活を守るというのは理解できるとしても、それで正しいと済ませることには抵抗を感じます。或いは観客の中には身に覚えのある人もいるかも知れませんし、そういう人にとっては『鉄輪』の内容は身につまされるものに違いありません。

「荒ぶる神」は古今東西にその例を見ることができます。ユダヤ教の神はいけにえを要求し、時にはヤコブの息子までをもいけにえとして差し出す覚悟があるかを問うてきます。古事記であればヤマタノオロチが出てきますし、ヤマタノオロチを退治するスサノオもまた高天原では荒ぶる神の役割を負っています。

クレタ島のミノタウロスや古代マヤ帝国でのいけにえの儀式など枚挙にいとまがないかも知れないほどですが、池澤夏樹さんの『マシアスギリの失脚』で登場する巨大で貪欲な水棲生物はそのような荒ぶる存在の心の中の哀しみも描いており、言うなれば人は今の生活を優先するために過去の不都合なことを忘れることができる生き物であることで古今共通しており、その後ろめたい心理的な問題を処理するために荒ぶるものとその退治というプロットが各地で生まれて来たのかも知れません。そういう意味では荒ぶる神は同時に同情や憐みを必要とする存在であり、いけにえはその同情や憐みを実際に目で見える形で提示する役割だったのかも知れません。

ちょっとつらつらとした感じで結論らしい結論もないのですが、『鉄輪』という物語の鬼女の悲しみを考えるとゴジラを思い出したので備忘のために書いてみました。

スポンサーリンク

関連記事
シン・ゴジラとナウシカ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください