「才能」について考える

「才能」とは、ある種の偏りのようなものではないかと私は最近考えています。生まれてきたとき、人は何がしかの天分を必ず備えているはずです。スポーツに向いていたり、音楽に向いていたり、学者に向いていたり、商売に向いていたり、様々あると思いますが、多少の向き不向きを抱えて生まれてくるはずです。

一方で、才能を開花させるためには持って生まれた天分だけでは不十分である程度の環境を備えていなければいけません。両親が音楽家で、音楽家の天分を持って生まれてきた人が徹底した音楽教育を受けて開化したり、スポーツの天分を持って生まれてきた人のお父さんがたまたま阪神タイガースが大好きで(広島カープでも読売巨人で1も、千葉ロッテでもどこでもいいのですが)、夏になると息子を連れて何度も球場に足を運び、もちろん息子には少年野球に通わせて、いい道具もそろえてくれてということになると、息子さんは元々天分がある上に、球場での盛り上がりを知っていますし、いい道具があれば友達に対してもかっこ悪くないですから、メンタル面でも野球に対する愛着が生まれるでしょうから、きっと伸びるに違いありません。

かわいそうなのは、持って生まれた天分と与えられる環境がうまく適合していない場合です。スポーツの天分を持って生まれてきたのに、親御さんは勉強しろとしか言わない。あるいは学問の方面に才能がある一方で、全然運動ができない子どもなのに親御さんが野球大好きで毎週末が阪神タイガースデーで(広島カープでも、読売巨人でもどこのチームであってもいいのですが)、お父さんが懸命に野球を仕込もうとしますが、全然伸びず、ため息をつかれてしまう。などのケースは実に気の毒です。

天分と生育環境が適合した場合、日常の意識の方向や受ける訓練が(「野球」でも「音楽」でもいいのですが)、全て同一方向に向かうとそちらに偏りが生じます。野球のことについては素晴らしいけれど、文学については関心がない、などのように、偏っていきます。この偏りの度合いがあるレベルを超えたとき、人はそれを「才能」と呼び、ある種の完成形をそこに見出し、人によってはその人と応援するためなら自分のお金を払ってもいいと思うようになるのではないか、それを才能の開化と呼ぶのではないかという気がします。

日本では良くも悪くも義務教育では音楽も体育も国語も算数もそこそここなせる人材になれるように教育されます。そのため、悪い面としては才能という名の偏りのある人材を生み出すことに限界があり、良い面としては生まれた家の貧富の関係なく、楽譜の読み方も教えてもらえるし、サッカーや野球のルールも教えてもらうことができるというものがあります。天分を持って生まれて来た子であれば、たとえば音楽の授業は必ず受けますので、その時に必ずなにがしかの才能の輝きを発揮するはずですから、そこから伸びていく、伸びるきっかけを得ていくということは充分に考えられます。

しかしながら、私たちが想像するような才能あふれる開化をみせる人は、三歳から英才教育を受けていますので、義務教育中に輝きを見せるとしても、既に勝負はついているとも言えます。片方はヨーヨーマになれますが、片方は運も手伝ってブラスバンドの全国大会進出あたりでは、才能の「開化っぷり」のように随分と開きがあるように思えますし、後者ではそれで生活していくことはちょっと難しいかも知れません。

ヨーヨーマのような特別なケースは横に置くとして、普通の人(私もその一人ですが)、人並みに義務教育を受けて、高校に進学したり、大学受験をしたり、就職をしたりする「普通」の環境で育った人はそれっきり、才能なんて諦めなよ。といういう結論で終了かというと、そうとも言い切れない気がします。

私は人には少な目に見て最低でも二度の人生の転機があるのではないかと考えるようになっています。一つは思春期で、もう一つは40代あたりに迎えるように思うようになっています。思春期はいろいろなものに出会い、感動し、また感動を求め、それがバンドをやりたいという願望になったり、恋愛に向かったりします。新しい傷つき、立ち直るという経験をしなくてはいけませんが、長い目で見ればそれは貴重なことです。

もう一つの転機は40代で、それくらいの年齢になると、それまでどのように生きて来たか、生き様のようなものが問われます。なんらかの方面で努力を続けてきた人は、その積み重ねが報酬や地位のようなもので現れます。一方で、生き方の変更も余儀なくされてきます。若いころは自己中心的で「自分が〇〇したい」ということだけで走ってこれたのが、40代に入ると献身的で利他的であることの価値を思い知らされるようなことに必ず出会うような気がします。その時にそういう新しい生き方を選択できるかどうか(できない人は多分、生涯できないでしょうし、人によってはすっとそっちへ行ける人もいるかも知れません)で、品格のようなものに違いが出てくるように思えます。

さて、ここで話を「才能」に戻しますが、40代を過ぎて上に述べたような品格や人間性のようなものを高める生き様ができるようになると、もう一度、天分を発揮する機会に恵まれるように人生はできているのではないか、と私は最近感じます。その天分は人それぞれなのですが、天分に加えてそれまでの努力で継続して培った後天的な能力が加わりますし、「生き様」を支持してくれる人も多かれ少なかれ現れて応援してくれたり、協力してくれたり、或いは協力し合ったりするものではないかと最近は思えるのです。

ヨーヨーマみたいな感じではないかも知れないけれど、その人らしい「才能の開化」の方向性が見えて来るようになるのではないかなあという気がします。そういう意味ではコツコツやることは才能を補い得るとも思えますので、がんばって生きようというわりと普通の結論になってしまうのですが、わりと普通なことも意外と大切かも知れません。こんなことを考えるようになったのは年を取ったんだなあと自分でも思います。

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