飛鳥・奈良時代は皇族、貴族の間での足の引っ張り合いと殺し合いがあまりに多く、その時代にはいわゆる「古代のロマン」が語られる一方で、そういう血なまぐさい時代でもあったと思いますので、私は当時の人々の心境を考えるとき、ぞっとしなくもないです。
そういう時代の中で、聖武天皇と光明皇后の二人については奈良時代の激しい政治家のぶつかり合いの中で、ちょっとほっとする二人の姿が浮かんできます。
聖武天皇は光明皇后とともに仏教への信仰が厚く、東大寺に大仏を建立させたり、全国に国分寺を建てさせたりしたことで知られています。ですが、今とは仏教に対するイメージが違います。仏教はまだ日本に渡って来てから200年くらいかどうかという時期で、実際に浸透したのはもっと後の時代になるはずです。仏教はまだまだ新しい価値観、思想、スタイルで、今風に言えば聖武天皇と光明天皇はスピリチュアル夫婦だったという気がしなくもありません。
その背景にはちょっと前に壬申の乱があり、天智天皇と天武天皇の系統で皇族が分裂し、皇位継承権の高い天武天皇系(聖武天皇も天武系)の争いがひどくなり、大津皇子が「反逆の疑い」で殺される、自分の治世になってからも長屋王が同じく「反逆の疑い」で自殺させられる、藤原氏の鼻息は荒い、息子の基王が早世するなど、悲嘆に暮れざるを得ない悲劇が身辺で続いたからに違いないように思えます。そういう時代に新しい仏教にすがろうとした心の中を想像すると、ああ、きっと純粋な人だったのだなあという感想が生まれてきます。
聖武天皇の死後、光明皇后が東大寺に聖武天皇の遺品を奉納しているのも、微笑ましい、心の和む、夫婦愛という言葉が頭に浮かぶエピソードです。光明皇后は慈善事業に積極的な人で、公共のお風呂を作って貧しい人や病人を招き、ハンセン病で皮膚全体に膿が溜まっている人が来たときは口で膿を吸い出し、思いっきり汚い客が来たときも根性で体を洗ってあげます。実はどちらも本当は如来様だったというオチがついているのですが、私には一つ目のエピソードがナウシカの原型で、二つ目のエピソードが千と千尋の原型だと思えてしかたありません。
その後、娘が孝謙天皇に即位すると、阿倍仲麻呂の乱、道鏡事件と、また嫌な事件が続くようになり、桓武天皇まで来て「もう、こんな陰謀渦巻く奈良は嫌だ」と遷都が始まります。遷都の主目的の一つは奈良の仏教勢力を政治に介入させないためで、でっかいお寺が引っ越さないのなら自分たちが引っ越す、という強行突破みたいなところもあり、聖武天皇の努力がかえって仇になっていたというように思えなくもありません。時代の皮肉のようなものですが、それでもやっぱり、聖武天皇と光明皇后の夫婦愛を想像すると心が和み、いい話だなあ、いい人たちだなあと思うことができ、少しいい気分になれます。
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