信西という人生

保元の乱平治の乱について語る時、信西のことを外すことはできません。藤原氏に生まれたものの、高階氏の養子に入り、当代最高級の知識人と周囲に認められていたにも関わらず、出世の道が閉ざされてしまったことに抗議の意を示すために出家します。

ところが、妻の朝子が雅仁親王の乳母をしており、近衛天皇が亡くなったことを受けて雅仁親王が後白河天皇に即位することで、信西は突然出世します。雅仁親王は天皇になる見込みはないと誰もが考えていたため、信西の人生は想定外の展開を見せます。自分には出世の見込みはなく、育てている雅仁親王も天皇に即位する見込みもない、宮廷の中で冷や飯グループだと思っていたはずです。禍福は糾える縄の如しです。

これによって信西が中央政界に躍り出て、更に保元の乱で後白河天皇サイドが勝利し、いよいよ盤石。後白河天皇の即位にも彼は策動していたのではないかとの推測があり、保元の乱の戦略会議でも積極策を提案してそれが図星になるなど、狙った通りに物事が動いていくことに彼は自分でも驚いたのではないかと思います。

ただ、想像ですが賢しらさが目につく人ではなかったかと思えます。試行錯誤を経て訓練されて人間性が磨かれたり、知恵がついていくのなら良いかも知れないのですが、信西の場合はもともと自分の頭脳は優れているという自信があったことにプラスして急に出世したこと、更に実際に狙い通りに物事が動いたことで「自分の目に狂いはない」という過信が生まれたのかも知れません。また、策略家であるが故に、やはり策士策に溺れるという様を呈してしまいがちになったのではないかとも思えます。

近衛天皇が亡くなることで運を得て出世できたのですが、自分の才覚で出世できたとどこかで勘違いを始めた、どこまでが運でどこからが才覚によって結果を得られたのか分からなくなっていったのかも知れません。あるいは運勢とかそういったものは一切信用せず、全て自分の才覚で上へ行けたと考えたのかも知れません。だからこそより、自分の策だけを頼りにしたのではないかと思えます。もし、近衛天皇が17歳の元気のさかりで亡くなったことも信西のはかりごとによる結果だとすれば、自分の頭脳に湧いてくる策略だけが頼りだと思うのも、無理はないです。

朝廷全体に反信西派が形成され、後白河天皇派と二条天皇派に割れていた貴族たちが平治の乱では一致して信西排除に動いたと見られるあたり、そういう賢しらさが災いしたのではないかという気もします。また、あまりに策略だけで動き過ぎたことで友人がいなくなってしまったということもあるかも知れません。源義朝からの婚礼の申し出を断って、平清盛と婚礼を進めたのも、策をめぐらし過ぎて不信を買ったであろう彼の一側面をうかがわせています。

完全に想像ですが、若いころに不遇だったことで、心の底で出世していくことへの不安も湧いたことでしょうし、何かがおかしい、こんなに物事が簡単に進むはずがないという恐怖も覚えたかも知れません。不安だから更に策をめぐらせるを繰り返し、策はたいていの場合、誰かに見抜かれますから、不信を買うという悪いスパイラルに入って行ったようにも思えます。

平治の乱で郊外に落ちのび、土の中に隠れて敵をやり過ごそうとしますが、発見され最期を迎えます。このような土遁の術のような奇計を思いつくのも、信西らしいと言えば信西らしいやり方かも知れません。

実際に会えば嫌な人だったに違いないとも思いますが、不遇の人生の中で僅かな運と才覚を頼りに出世しようとした信西に同情してしまいます。かわいそうな人です。素直にそう思います。

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