聖徳太子をとりまく諸現象は第29代天皇の欽明天皇から始ります。欽明天皇の妻の一人に蘇我稲目の娘がいて、その息子が大兄皇子、後の用明天皇になります。聖徳太子はその用明天皇の息子ですから、蘇我氏系の血統をひく人になりますし、実際の政治行動も蘇我氏をタッグを組んでいます。
しかし、用明天皇がそのままストレートに天皇になれたわけではありません。欽明天皇の死後、天皇になったのは敏達天皇で、敏達天皇は蘇我氏の血をひいていませんので、パワーポリティックスとしては蘇我氏にとって不利な状況が生まれます。敏達天皇はわりとバランスの感覚のある人、悪く言えば「そうせい様」みたいな人で、当時の二大豪族だった蘇我がみ氏と物部氏がそれぞれに矛盾する要求をするたびに許可を与え、どっちか勝った方の味方をするみたいな姿勢が見られます。
転機は敏達天皇の崩御の時に訪れます。欽明天皇の息子には穴穂部皇子という人物がいて、次の天皇は俺だと思っていたのですが、蘇我馬子の後押しでもう一人の兄弟の用明天皇が即位します。蘇我氏の血をひく天皇の誕生ということになります。怒った穴穂部皇子は蘇我氏とのカウンターパートである物部守屋と同盟しますが、用明天皇の死後、諮られて穴穂部皇子は蘇我馬子に殺害されます。蘇我氏は同じ年に穴穂部皇子と同盟関係にあった物部守屋も滅ぼし、基盤を確実なものとし、蘇我稲目の血をひく崇峻天皇を即位させることに成功します。二代続けて蘇我氏の血統の人物が天皇になったのですから、もはや万全。事実上蘇我氏の天下です。
ところが思わぬ事態方向へ事態が展開します。崇峻天皇が蘇我氏の天下に不満を持っているということが世の中に広まり、蘇我馬子は決心して崇峻天皇を殺害します。それ以前にも安康天皇が眉輪王に殺害されたり、仲哀天皇が九州で暗殺された可能性があるように、天皇殺害の例がないわけではありません。ただ、誰もが実在を認める第26代天皇の継体天皇以降での天皇殺害、実際に起きたとされる天皇の殺害はこれが最初の例です。そして分かっている限りでは実際にその地位にいる天皇が殺害されるのはその後もなく、崇峻天皇が殺害されたのが唯一の例と言えます。
何が言いたいかというと、蘇我氏にとって都合の悪い人物は次々に殺されているということです。ちなみに崇峻天皇殺害の実行犯である東漢駒もその後に殺されています。その名前から大陸と関係のある人物だったのではないかという想像が可能で、蘇我氏が渡来人であった可能性を示唆する傍証になるのではないかと思います。
崇峻天皇の次に天皇になるのは誰かということで、蘇我氏の系統で後の推古天皇の息子の竹田皇子が即位することが期待されていましたが、どうも若い時に死んでしまったらしく、物部氏との戦争の時に戦死したのではないかという説もありますが、ちょうどいい人物がいなくなってしまい、実在していたと一致して認められる天皇の中で初めて女性の天皇が誕生します。推古天皇です。
さて、これによって蘇我氏の血を引く推古天皇がトップに立ち、実際の政治はこれまた蘇我氏の血を引く聖徳太子が摂政になり、そして蘇我氏本宗家の蘇我馬子が現実的パワーの裏書きをするという、3人によるトロイカ体制が成立します。天皇家の権威と蘇我氏の実力が合同した古代日本で初めての非常に安定した政権と言えます。実際に聖徳太子は蘇我氏の念願である仏教の普及に力を注ぎ、法隆寺は建てるは四天王寺は建てるは、仏法僧を大事にしろと憲法に書くは、それはもう蘇我氏の言いなり。こんなに都合のいい摂政はなかなかいません。便利なことこの上ありません。
ところが系図を見ると分かるのですが、推古天皇は用明天皇の皇后であり、聖徳太子は用明天皇の息子ですから一瞬、万事目出度しかなあと思わなくもないですが、聖徳太子は推古天皇の息子ではありません。用明天皇が蘇我氏の系統の他の女性に産ませた子どもです。果たして、気分良く聖徳太子に政治をさせていただろうかという疑問が湧いて来なくもありません。ましてや、本当の自分の子どもである竹田皇子は物部氏との戦争で死んでいて、一緒に従軍していた聖徳太子が生き延びて摂政になって、将来は天皇になるなんて、なんか話がおかしいじゃないかと思うかも知れません。そう思っても不思議はありません。推古天皇は死後に竹田皇子との合葬することを望んでいましたから、彼をとても愛していたことが分かります。また、トロイカ体制というのは時に脆く、ちょっとしたきっかけで崩れてしまうものです。
聖徳太子は蘇我馬子と協力して『国記』『天皇記』を書き残していますが、現在は失われてしまい内容は分かっていません。残っていれば、『古事記』『日本書紀』以上の貴重な書物として歴史の教科書に載るくらいのものだと思いますが、蘇我氏の邸宅に残されていたものが、蘇我入鹿殺害後に入鹿の父親の蘇我蝦夷が自宅に火をつけて自殺してしまったため、内容は全く分かっていません。蘇我氏との協調で書かれている以上、蘇我氏に都合のいい内容になっていたであろうことは想像に難くありませんが、624年に蘇我馬子から葛城の土地を所望されて断ったというエピソードがありますので、推古天皇はどこかの段階で天皇家が事実上蘇我氏のものになって、自分の子どもではない聖徳太子が天皇になるという筋書きを拒否する決断をしたのではないかと思えてきます。
その前に聖徳太子は斑鳩に引っ込んでしまい、葛城の土地を譲る譲らないのもめ事が起きる前の622年に死んでしまいます。ただ、亡くなる前から自分の死期を予期しており、ナンパして連れて帰ってきた三番目の奥さんもほぼ同時期に亡くなっています。普通、夫婦が同時期に亡くなることはありません。少なくとも自然死でそういうことは考えられません。三番目の奥さんですから、年齢の差がある程度あったと考えられますので、ますます同時期に死ぬことは自然死ではなかった、事故か自殺か他殺のいずれかで、当時の自殺は自殺を強いられる、即ちほぼ他殺と言っていい場合が多いですから、自殺だったとしてもそれを強要された可能性が残されます。聖徳太子を死に追い込めるだけのパワーのある人物が当時いたとすれば、蘇我馬子以外には考えられません。ついでに言うと、聖徳太子が亡くなった後に前述のような土地問題が出て来たということは、当初はうまくいっていたはずのトロイカ体制が、聖徳太子を排除した後に天皇家と蘇我氏が互いに新しい敵として意識し始めていたことも示唆しているように思えます。
蘇我入鹿が後に聖徳太子の息子の山背大兄王とその家族をことごとく殺害するという事件を起こしていますが、この経緯を考えると蘇我馬子が権力維持のために、竹田皇子が死んだおかげで摂政になった聖徳太子に対して不満を持つ推古天皇と連合して聖徳太子を殺したという筋書きがあったとすれば、その息子の山背大兄王が殺されることも流れとしては矛盾しません。その家族までことごとく命を落としたわけですから、そこに深い遺恨があったか、生存者がいると非常に困るという事情があったかを推量することができます。
以上のように考えると、聖徳太子はいずれかの段階で推古天皇に見捨てられ、蘇我馬子に裏切られて殺された。その息子は蘇我入鹿に殺されたという何とも恐ろしいストーリーが見えてきます。わー、こえー、と自分で書いていても思います。
聖徳太子という称号は後に贈られたもので、生きていた当時は厩戸皇子です。馬小屋で生まれたからそういう名前になっているということですが、まず間違いなくネストリウス派キリスト教の影響を受けたものと思います。当時は仏教が最新の思想として日本に入ってきていたわkですが、一緒にネストリウス派キリスト教も教義はともかく物語としては入ってきていたことが想像できます。後に書かれる『古事記』には天照大神が洞窟に隠れることで太陽が消えてしまうというエピソードがありますが、福音書ではイエスが十字架にかけられた時に日蝕が起きたとされていますので、そこに影響関係を見ることも不可能ではないかも知れません。
『日本書紀』の記述では聖徳太子(呼称はまだ聖徳太子ではない)は天才的な人物で、未来のことは予見できるは、十人の話を同時に聞ける派で超能力者みたいな人ですが、これもイエスの奇跡物語みたいなものに作り上げたいと言う意図によるものではないかと考えることもできます。
最後の疑問として、何故、聖徳太子がかくも神格化されたのかということですが、『日本書紀』には天皇の強さを示すために乙巳の変について書き残し、天皇の地位の簒奪を目論んだ蘇我氏を悪役として書かなくてはいけません。結果として蘇我馬子に殺された人物をイエス並みに神格化することを選んだのではないか、更に言えば当時の人は聖徳太子が死んでから数十年しか経っていませんので、事実関係の記憶の伝承はまだ生々しいものがあり、その悲劇性も手伝って、より意図的に神格化する方向に向かったのではないかなあと思うのです。
仮説です。想像です。個人的見解です。
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