仲哀天皇と神功皇后

戦前は天皇の名前を初代から全部覚えさせられたそうですから、戦前の教育を受けた人は仲哀天皇の名前も知っています。ただ、戦後は大和朝廷の歴史は推古天皇あたりから習うことが多いと思いますので、仲哀天皇という名前はほとんど誰も知らないと思います。福岡県の香椎宮に行くと、仲哀天皇と神功皇后のことが立て看板なんかに書いてありますから、私は以前、その立て看板で始めて名前を知り、でも唐突過ぎてなんのことか分からず、しかし関連する書物を読んだりしてだんだんイメージできるようになった、誰なのか自分なりに言えるようになった感じです。

仲哀天皇と神功皇后はともに九州に行き、朝鮮半島征服作戦を計画します。どうも神功皇后が乗り気だったのに対し、仲哀天皇は乗り気ではなく「やっぱやめよう」みたいなことを言いだし、しばらくして九州で亡くなってしまいますので、主戦派に殺されたのではないかという意見もあるようです。私も個人的に、もし仲哀天皇が実在したとしたら、殺されたんじゃないかなあと思います。

話しが複雑なのは、仲哀天皇の父親は日本武尊だということです。日本武尊は九州に征服戦争に出かけたり、東日本に征服戦争に出かけたりして、どこまで本当のことかよく分からない、実在したのかどうかもちょっとどうかなあという感じの人です。行軍中に山を見て、「歩くのが大変だからあそこまで飛びたいなあ」と言ったことから飛騨という地名がついたとか、敵の攻撃に傷ついて鳥になって帰ってきたとか、そういうエピソードのある人ですが、複数の人の業績をまとめたのではないかとも言われていますので、もし仲哀天皇が実在したとしても、いろいろと複雑な人間関係が絡んで即位した人なのではないか、もともと嫡流ではなく、そのうえお母さんの実家に力が無くて後ろ盾が弱いから戦争反対と言ったら殺されたのではないか、というような想像もしてしまいます。

もう一歩話が複雑になるのは神功皇后の出産です。仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后は朝鮮半島へ出征し、華々しい戦果を挙げて帰ってきたことになっています。史実かどうか疑問視されていましたが、大陸で広開土王の碑が見つかり、日本が攻めてきた書いてあるので、これが神功皇后のことだとする考えがある一方で、広開土王の碑改竄説もあるので、なんのこっちゃらよくわからん、みたいなことになっています。それはそうとして、神功皇后は戦争が終わって帰ってきて九州で仲哀天皇の子どもの応神天皇を出産します。でも、計算が合わないらしいのです。どうも、父親は誰かはっきりしないみたいなのです。「万世一系はどうなったのよ…」という疑問が残ります。

仮定のことをいくつか積み上げないといけないのですが、仮に仲哀天皇が実在したとして、神功皇后の出産が計算が合わないとして、天皇万世一系が大前提で、神武天皇もちゃんと実在していて、その男系が天皇の絶対条件だとした場合、神功皇后のわりと早い段階で男系が崩れていたことになってしまいます。ちょっとやばいです。ただ、仮にそうだったとしても、神功皇后は息長氏という天皇家の外戚の家の出身で、系譜をたどれば開化天皇に辿り着くということですから、女系天皇もオッケーということなら、別に問題ないということになります。女系天皇がありと思うかなしと思うかは考え方の分かれるところでしょう。以上は思考の体操みたいなものです。


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