私個人の印象ですが、台湾はわりと格差社会のように思います。いわゆる中産階級の層が日本に比べれば薄く、とてつもなくお金を持っている人が多く、というか一部の人にかなりの富が集中しており、一方でその日の生活に暮らしに困るという人の割合も日本よりは少ないように感じます。
今はバブル頂点をちょっとピークアウトした感じですが、バブルによって利益を得るのはそういう不動産を気軽に売り買いできるだけの元手のある人で、その他大勢は地価の高さに正直参った…と思っているという印象です。
この映画の主人公の男性はいわば「負け組」に属しており、家がなく、奥さんは出て行き、子ども二人(兄と妹)を賃金の安い労働でどうにか育てています。住まいはどこぞのビルの屋根裏みたいなところで、公衆トイレで体を洗います。自然と涙がこぼれてきて、自暴自棄になってしまいそうな衝動を常に抱えています。
娘がいつもカルフールでうろうろしているので、カルフールで働いている中年の女の人が「この子はお風呂に入っていない」と気づき、髪を洗わせ、どうにか救う方法はないかというようなことを模索し始めます。
最後は男性が子どもを連れて舟に乗り、どこか遠くへ連れて行こうとします。この世ならぬあの世へと子どもも道連れにするのではないかという不穏な空気が漂います。カルフールの女の人がとっさにかけつけ、子どもたちを救い出し、男は一人舟に流されていきます。
この映画で最も話題になったのは、おそらくは、廃墟となったビルの中で分かれた奥さんの後ろに男性たちが立ち、時々ウイスキーを飲みながら、じっと佇む場面です。台詞なし、ほぼ動きなしで20分くらいそれが続きます。私個人はなぜこんなひどい場面をみせられなくてはならないのかと精神的に強い疲労を感じましたが、ごく個人的には「能」を意識しているのではないかと思わなくもありません。能の上演では出演者がじっと佇み、ほんの僅かな動きで心境や環境の変化を表現します。もしかするとそれと同じことをしようとしたのではないかなあという気がしなくもありません。ただ、能のそういう場面は「序」「破」「急」の序でされる場合が多く、この映画の場合は逆にある種のクライマックスとして(最終的に奥さんがその場を離れて行き、男が人生を放棄することを決心する場面として)扱われているので、「ここに来て動きを止めないでくれ、頼むから次の場面に行ってくれ」と懇願したくなる気持ちが私の中で大きくなり、そういう意味でショッキングでした。もう一回観たいかと問われれば、「いや…もういい…」と答えると思います。
実に平凡な感想ですが、やっぱり男は甲斐性がないとだめなのか…と思うと同時に我が身を振り返り、ため息が出たのでした。
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