台湾映画『失魂』の父子の相克と「家」

とてもよく準備され、考えられ、研究されて作られた映画と思います。台湾映画ではあまりない作風で、かつ成功していると思います。

台北の日本料理店で働く息子が精神に失調をきたし、倒れ、台湾中部と思しき山奥に実家に帰ります。精神に失調をきたしたというよりはまるで狐憑きのような変わりようです。山奥の小さな家の中で、息子が姉を殺害します。それを知った父は姉の遺体を隠し、息子を小屋に閉じ込めます。姉の夫が探しに来ますが、父が殺害し、車と一緒に埋めてしまいます。警察が捜査に来ますが、完全にサイコな息子が小屋の窓から攻撃して、刑事を殺害してしまいます。そして逃亡するという何とも気持ちの悪いだけの物語です。

父と息子は互いに憎悪していますが、相手が嫌がることならなんでもやります。相手を困らせる目的でいろいろなことが互いに嫌がらせをやり合います。他に他人の目のない深い山奥です。人が殺されても死体が出ない限り、もう分からない、行方不明だ、そういう場所です。美しい自然というよりは濃密な森の中です。亜熱帯の深い森で、ナウシカの腐海みたいなところです。父と息子は互いに憎悪しているにも関わらず、決して互いを見捨てません。互いに自分が自分でいるために、相手を必要としている、自己への憎悪を互いに投影し合っているように私には思えます。

小さな山小屋という舞台設定で、父と息子の人間関係にフォーカスして描くというのは大変実験的ですが、関係性は違うとはいえ『砂の女』を連想させます。

カメラワークに凝っています。ちょっと古典的な台湾映画では長回しやロングショットが好まれているように私は思いますが、この映画ではむしろ近距離で、接近して普通の人なら見たくないものをみせるという感じです。時に美しい自然の景色が挟み込まれ、映画の残酷な内容との対比が生まれ、森とはまことに恐ろしい場所だと、岩井志摩子さんの『夜啼きの森』もこんな感じかといろいろと感じることができる作品です。

この映画で怖いのは果たして狐憑きみたいになってしまった息子の方でしょうか、それとも明確な意思を持って完全犯罪を冷徹に繰り返す父の方でしょうか。一見、息子の狂気に恐怖を感じますが、むしろ冷静に犯罪を徹底して行い続ける父親の方が恐ろしい存在のように思います。かくも強い意思を持って父は何を守ろうとしたのか、という疑問も湧いてきます。

彼が守ろうとしたものは、「家」かも知れません。儒教的家父長制の価値観が日本よりも遥かに強い台湾では、「家」を守ることは至上命題です。しかし、そんな「家」はとうに崩壊しています。妻を殺し、娘は息子に殺され、憎み合う男二人が残ったところで、それはもはや家と呼ぶことのできない、あんまり見たくない何かです。

台湾に限らず、21世紀の中華圏は変化があまりに速く、今を生きる人たちの心が追い付いていないのではないかなあ、それはとてもしんどいことなのではないかなあと観察していて思うことがあります。核家族化が進み、伝統的な「家」は各地で綻んでしまっています。この映画の深いところに流れているのは、そういう、もはや失われてしまったもの、再び戻ってこないもの、しかしまだそのことを受け入れられていない、そのために人の心が狂っていく。そのようなことをこの映画は実は物語っているのではないか、そのような気がします。

ちなみに、狂気の息子の役は『被偷走的那五年』の心優しき夫の役をしている人です。ついでに言うと、お姉さんの夫の役をしている人は『寒蝉効応』でどうしようもない教授の役をしている人ではなかろうかと思います。

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