ゴジラは怖い存在ですが、切なく、悲しい存在でもあります。自分のネイチャーに従い、ただ上陸したいから上陸しただけなのに忌みものとして憎まれ、攻撃され、映画を終わらせなければならない関係上、撃退されます。ネイチャーに従っているだけなのに排除されるという意味では『リロ・アンド・スティッチ』と同じであり、一応、首都を狙ってやってくるという意味ではエヴァンゲリオンの使徒とも共通していると言えるかも知れません。実相寺昭雄監督のウルトラマンの怪獣たちが、ただ存在するというそれだけの理由で排除されるのと同様の哀しみを帯びた存在です。
『ゴジラとナウシカ』では、著者はゴジラは太平洋戦争で戦死した兵隊たちの化身だと指摘しています。死んだ兵隊たちのことを忘れ、復興に忙しい日本人に何かを訴えたくてゴジラとなり、敢えて東京を狙ってくるのです。それゆえにゴジラの鳴き声はかくも切実なのだとも言えるかも知れません。また、ゴジラは原子力を象徴しています。これはもはや言うまでもないことです。「原子力の平和利用」が説かれる中、過去を忘れるなかれとゴジラは訴えてきているとも言えそうな気がします。
著者はアメリカ版のゴジラのことも取り上げますが、決して日本人にとってのゴジラとは相いれないと指摘します。何故なら日本人には空襲の記憶があり、日本人にとってそれは東日本大震災と同じく無力に立ち尽くし言葉を失くす他ない体験と同じものであるのに対し、アメリカ人にとってのゴジラものは単なるSFや娯楽の類にすぎず、決してゴジラの秘めたメッセージを受け取る、または再現することはできないとの指摘です。
風の谷のナウシカに登場する巨神兵もまた原子力を象徴しています。漫画版のナウシカでは巨神兵はナウシカを母親だと信じて慕い、ナウシカは巨神兵に命じて新しいけがれなき人類の卵を破壊させます。けがれを背負って生きる。或いはけがれを持つからこそ命と言える、そういうメッセージがナウシカにはあると思いますが、もう一歩進めて言うならば、新しい人類の卵を破壊したナウシカはある種の原罪を抱えることになり、人という存在そのものを代表しています。
ゴジラと巨神兵はともに人の原罪を背負う哀しみと切なさを全身に刻まれた存在だということで共通していると言うこともできるかも知れません。
著者の赤坂憲雄さんの文章は透徹していて無駄がなく、それでいて情感に充ちていて美しいです。読みやすいのですらすらと読んでしまいますが、敗戦と東日本大震災を経験した日本人にとって軽々には片づけられない思いテーマを扱っていますので、読む側が意識して立ち止まり、考え、また読み進めるということをしなくてはいけません。こんな文章が書ける著者を素直に尊敬します。
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