著者の古川隆久という先生は、本の奥付によると、この本が書かれた段階では日本大学で教鞭をとっていらっしゃる方です。この本は昭和天皇の出生から亡くなるまでを丹念に記述した伝記になると思います。有名なエピソードから、私が全然知らなかったことまで書かれてある、大変情報量の多い本です。
私が特に印象深かったのは、晩年の部分で「厭世的になる」という小見出しがつけられているところでした。高松宮が亡くなり、孤独をかみしめるようになり、侍従に対して「弟を見送り、戦争責任論が未だ尾を引き、そして負担軽減云々で長生きしすぎたか」(382ページ)と述べたとのことなのですが、昭和天皇はその後半生で戦争責任のことをたいへん重圧に感じていていたことが分かります。戦争については当然、言いたいことはたくさんあったと思いますが、ある意味では飲み込んで、象徴天皇に徹する覚悟で生きていらしたと思いますので、いつまでも批判が続くことに疲れたというのがあったかも知れません。首相がころころ変わる中、アメリカと戦争するようになる経緯を全部知っているのはこの人ですが、同時に立憲君主という建前と、事実上、発言したらいろいろ反応があるという板挟みで、苦労な思いをしたに相違ないと思います。
「理性の君主の孤独」という副題がついていますが、陸軍が勝手に戦争を始める、もっと部隊を送ると言う、「やめろ」と言うと「友軍を見捨てるんですか」と詰め寄られる、反論される、しつこく説得される、立憲君主なので意見の対立があったら自分の方が折れなくてはいけない。というあたり、実際その立場になったら結構、しんどいと思います。頭が良いので、立憲君主がどういう立場ということは充分に理解しているけれど、やっぱり頭がいいので、つい口も出したくなる、口を出しちゃいけないと思うけど、出したくなる。利用しようと思う輩はいくらでも湧いて出てくる。というのも苦しかったのではないでしょうか。一般人としての自由もないですから、溥儀の孤独に近いようなものも、もしかするとあったかも知れません。
明治憲法下では主権者の立場ですから本人は戦争責任に対する自覚はきっとあったと思います。しかし、天皇制度を維持するためには、責任を引き受けるわけにもいかない(あの時、退位していたら、皇太子の践祚が行われず、そのまま天皇家終了ということもあり得たでしょう)。結果、自分は生き延びた。重臣たちは自分の代わりに死刑になった。もしずるいと言われたら、確かにそれはあたってると思う。というような個人的な心境があったのではないかなあといろいろなエピソードから私は想像します。想像ですよ。想像。
重臣たちに愛情も感じていたようですし、戦後になっても国会の開会とか楽しみにしていたそうですし、北方領土について御進講があったときは「潜水艦は通れるのか」のような質問があったとのことですから、結構、政治と軍事は好きだったんじゃないかなあと思います。
徳川慶喜は政治も軍事も得意な人で、もうちょっと言うと、結構そういうのが好きだったと私はにらんでいますが、維新後は一切表舞台に出ないことに徹しましたが、それに近いものが昭和天皇にもあったのかなあなどという想像も働いたりします。
この本が出たときは昭和天皇研究の決定版みたいな感じでしたが、最近は昭和天皇実録が出てますから、昭和天皇実録に関する研究と合わせて読むと、いろいろ立体的に理解できるかも知れません。