ロシア映画『変身』の毒虫の正体

カフカの『変身』は誰もが一度は通る道、短いですし、思春期のあたりになるといろいろ不安定になりますから、何かのきっかけで手に取って、普通の市民として生きていた主人公がある日突然毒虫になり、忌み嫌われ、完全に無用な存在として死んでいくことに驚愕し、もしかすると自分もそんな風になりはしないかと怯えたりするものだと思います。

私は三回ほど読んだことがありますが、小説に「毒虫」と書かれている以上、本当に、文字通りの巨大な嫌な虫に変身したのだと思い込んでいましたが、このロシア映画では、主人公は映像では人間のままです。ただし、行動は虫です。

私は最初「ああ、なるほど、グレゴールザムザは本当は虫になったのではなくて、心が虫になったのだ、自分が無用な存在なのではないかという潜在的な恐怖を常に抱えていた主人公が現実から逃避し、責任を放擲するために心理的に虫になり、虫として振る舞ったのだ、少なくともこの映画を作った人はそう解釈しているのだ」と思いました。

ところが、映像的には人間であるにもかかわらず、他に登場する人物たちは彼を虫だと信じ、虫として扱い、忌み嫌います。よって、私の理解は正しくなかったということになりますが、これなら虫の着ぐるみを作る必要もなく、撮影はほとんど全部室内ですから低予算で作ることができたことでしょう。また、人間の姿かたちをしているにも関わらず、虫だと信じ、文字通り虫けらのように扱っている映像はシュールというか、不思議というか、何か意味深なものを含んでいるのではないかとさらに深読みしたくなるというか、余計にいろいろなものを観る側に考えさせます。映画を観ると考えてばかりですが、そもそも映画なんて考えるために観るようなものです。

ただ、人の姿かたちをしているのに忌み嫌われる姿、つい先日まで普通に生きていたのに突如、排除される様子は、グレゴールザムザが人の姿のまま虫扱いされることによって、よりその心境を想像することができます。より、その深刻さを理解することができるかも知れません。本当に毒虫になったら映像的にきつすぎて、観客は感情移入できないかも知れないです。

カフカの作品は常に喪失や孤独、距離感、すれ違いが描かれます。『アメリカ』のように作風が少し違う作品でも、かくも明るい主人公が登場する作品でも、主人公は故郷を追放され、アメリカの東海岸でも居場所をなくし、西へ西へと流れて行きます。その他の作品について言わずもがなです。かくも深く苛まれる心は、小説を密かに書き溜めるほかにはやり場がなかったのかも知れません。

カフカの『変身』が映画になること自体が画期的なようにも思えます。あの小説を映像化できるとしたら実相寺昭雄監督が特撮するくらいしかなさそうですが、実相寺昭雄さんはそんなことはしないまま他界されてしまいました。実相寺昭雄監督は、ウルトラマン特撮シリーズでは、怪獣は本当に悪い存在か、もしかするとかわいそうな存在なのではないかと感じてほしいと考えていたそうです。何となく分かります。怪獣は上陸してきただけで、即ち存在するという、ただそれだけで、攻撃され、有無を言わさず排除されます。ゴジラもそうです。それは怪獣の視点に立てば無慈悲な、酷い仕打ちではないかと私は思ったことがあります。実相寺昭雄さんは人間同士でもそういうことは本当に起きていないか考えてほしいと思ったのかも知れません。子どもは単に「ウルトラマンきたー」としか思いませんから、私がちょっと変な子どもだったのかも知れません。

この映画の最後の場面はプラハの街の映像です。行ったことがないので全然知りませんでしたが、プラハってこんなに美しいのかと驚きました。毒虫になったグレゴールザムザが死に、そのことでほっとした家族はまるで祝日を喜ぶかのように郊外へと電車に乗ってでかけます。死ぬことで喜ばれる人生って酷すぎますが、家族の安堵と喜びのお出かけの様子がその酷さを強調しています。



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