何が現実で何が仮想なのかよく分からなくなってくる、不思議な映画です。狭くて不気味な坂道、五芒星の印の入った提灯、古びた洋館、何故か分からないけれど見るものを不安にさせる白黒の古い日本の街角の写真、思わせぶりな台詞の連続、人が死んだり生まれたり、不思議な世界。一回観ただけでは何が何だかよく分からなくて、二回観てもやっぱりよく分からなくて、わかったつもりになってしまうとかえって、もしかすると何かを見落としたのではないかという不安が更に膨らむ、不思議な映画です。
原田知世が梗子と涼子の二役をしています。しかし、涼子は多重人格者で京子という人物が同じ体の中に生きているので、だんだん、梗子と涼子と京子が混じってきて、分からなくなっていきます。今は京子?涼子?梗子?となっていきます。途中からどうでもよくなってきます。原田知世がいっぱい出てるからまいっかと思います。原田知世が見れるのならそれでいいやという心境になっていきます。更に田中麗奈も出てくるので、充分にお得感があります。
永瀬が若いです。当たり前ですが『KANO』と随分感じが違います。若くて、繊細で、おしゃれな感じがします。関口巽の役ですから、本当だったら地味な筈なのに、それでもおしゃれな感じがするのはさすがだなあと思います。
映像はやたら斜めだったり、遠近法ぽかったりして観ていて頭がくらくらしてきます。ライトの使い方もいろんな工夫があって、着いたり消えたりで目がちかちかしてきます。実相寺昭雄監督がそれを狙って作っているのですから、頭がくらくらして普通です。目がちかちかするのも当然といえば当然です。
音楽もなんか怖いです。武満徹ほど怖くないですが、この映画は映像が怖かったりするので、合わせ技で観る側がエネルギーを使います。エネルギーを使わせるということはいい映画だという証拠です。
第二作の『魍魎の匣』は関口巽以外キャストが同じですが、映画の雰囲気は全然違います。一作目は映画の狙いが観るものを不安に感じさせることにありますが(不安を感じることで楽しいというところでしょうか)、第二作目は合理的、分かりやすくて明快です。どちらもそれぞれにいいところがあるので、どっちがより良いとかそういうことは簡単には言えません。
たとえば夢野久作とか渋沢龍彦みたいな不思議な世界を描く作品は日本の近代の主要な要素な一つだと思います。遠藤周作さんの『スキャンダル』もその流れの中で理解できるかも知れません。その延長線上にこの映画もあるような気がします。フロイト的な心理学を参照してエロスとタナトスに迫ろうとする流れです。心理学はどこまでが科学でどこから先が虚構や仮説になるのかよく分からない学問のように思います。そのよく分からないところを衝いていくので、こういう作品が魅力的に感じるのかも知れません。