北野武監督『菊次郎の夏』の愛

『菊次郎の夏』はいろいろな意味で凄い映画です。映画の前半と後半で雰囲気が全然違います。前半では菊次郎おじさんの暴言がさく裂しまくっていて、観ていて不愉快というか怖いです。私の父もあんな感じの人で、酒とギャンブルと暴力と暴言と女とやくざな人生を送って最後は血を吐いて死んだのですが、父が生きていた頃のことを思い出して心臓が締め付けられそうな心境になり、嫌悪感マックスな感じでした。悪態は酷いのに喧嘩に弱いところも父親にそっくりでした。母親への暴力が酷い人ですが、この映画で菊次郎が岸本加代子に暴力を振るうかどうかは分かりません。一応、コンプライアンス的にそういうことはないという解釈をしたいと思います。

ただ、映画の後半は野原を駆け回って、旅の途中で知り合ったグレート義太夫さんとか井出らっきょさんとかと一緒にただただ遊びます。夏です。まさしく少年時代の夏休みです。それをいい歳をしたおっさんが夢中になってやっているからおもしろいのです。ひょうきん族を思い出します。ただただふざけ合う。おっさんたちが心から楽しみ、友愛を育む姿は美男美女がスクリーンで愛し合っている姿よりも美しいかも知れないと時には思います。この映画では特に、どこまで悪ふざけできるかを試しているのではないかなあという気がします。

男同士で駆け回って遊ぶというところに北野武さんの映画の真骨頂があるのではないかという気がします。『ソナチネ』でも、『Brother』でも、男たちで海の近くでボールを投げ合ったりして遊ぶ場面があります。文字通り子どもに帰る、無邪気な男たちです。武さんの映画にはだいたいやくざか悪徳刑事かどっちが、場合によっては両方出てきますが、普段ドラッグや女、金がらみで人殺しとかしている人たちが一瞬だけ子どもに帰って海で駆け回るギャップが観る側ぐっといろいろなものを語りかけるのかも知れないとも思います。見た目がスマップほど爽やかではないだけで、男たちが無邪気に遊んでいる姿の美しさを表現するというコンセプトはスマップときっと同じなのだと思います。

この映画の冒頭では、男の子の帰り道にはヤンキーもいるし、さりげなく短い時間ですが、ホームレスで段ボールの上で寝ている人も出てきます。貧しい感じ、ギスギスした感じ、とがった感じと、男同士の友愛(「友情」と言うほどかっこいいわけではなくて、ただ、その時、一緒にいて、遊んで楽しいよねという感じ)、素朴さ、惻隠の情が同居している映画です。北野武さんの映画は観れば観るほど「北野武さんという人は本当はどんな人なんだろう、どういう地獄を心に抱えているんだろう」という疑問が膨らみ、どういう人なのかどんどん分からなくなっていきます。乾いた部分、激しく傷つき、傷つけあう部分と驚くほど深い情愛と優しさの両方を、多分、極端に強く抱えている人なのではないかという気がします。映画を観ているだけなので、ご本人のことは全く知りませんが、作品が人を表すということが真実なのだとすれば、北野武さんの作品からはそのような心の存在を感じてしまいます。悪態を尽くしカツアゲも盗みだってやる菊次郎は一緒に豊橋まで旅をする男の子に深い情愛を持つようになっていくことが分かります。『HANA-BI』でも、いつでも躊躇なく暴力を振るう刑事が、病気の妻にだけはひたすら優しい愛情を表現します。『菊次郎の夏』と『HANA-BI』は偏愛という部分が共通しています。『Brother』でも気に入った黒人の若い部下への優しさと愛情があります。一方で、第三者に対する暴力は酷いものです。やはり強い偏愛が、やたらと印象深い物語を産んでいるのかも知れません。

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