台湾で途轍もない人気を誇り、記録的な興行成績をあげた映画です。終戦直後と21世紀の現代の二つの恋物語が交互に語られます。
終戦直後の恋は、台湾で教鞭をとっていた日本人の教師が、敗戦に伴い日本へ引き揚げることによって喪失された恋の物語です。男性教師が女学生に向けて「台湾を引き揚げるのは自分の本意ではない。戦争に敗けたんだからしかたない」という意味の手紙を送りますが、何十年も経ってから配達されます。郵便事故ですが、女学生は捨てられたと思っていたけれど、そうではなくて国際社会の動きという個人ではどうにもできない事情によって引き離されたのだという釈明をようやく読むことができます。
もう一つの恋物語は現代です。台北の都会で夢破れ故郷に帰った若い男性と日本人の音楽マネージャーをやっている女性が一瞬だけ恋におちますが、女性は日本で仕事をすることに決めて日本に帰ります。
この映画では、終戦によって一度は失われた日本との絆が21世紀、再び結ばれるものの、やはり日本人は台湾人を袖にするということが言いたいことらしいです。台湾人のえらい教授の先生がそういう風に言っていました。
司馬遼太郎の『街道を行く 台湾編』で、著者がご婦人から「何故、日本は台湾を捨てたのですか」と詰問され返答できなかったというエピソードが入っていたらしいですが、問題意識は共通しています。私もこの本は読んだのですが、そんなことが書いてあったかどうかは忘れてしまいました。ただ、司馬遼太郎さんが台湾のことを書いた時代と今とでは何十年もの隔たりがありますので、司馬さんの本を主たる根拠にして現代の台湾人を語るには限界があるような気もしなくはありません。
このような映画で、なぜそこまで「日本」という記号を切ないまでに美化するのか、私にはちょっと理解しかねるところがあります。東日本大震災以降、日本では一機に親台湾の空気が生まれ、いわば日本と台湾は相思相愛とも言えますが、真実には互いを互いに都合の良いように投影しているのではないかと私は思っています。そもそも美化しているかどうかも、ちょっと複雑なところで、『セデック・バレ』と『KANO』をセットにして考えなくてはいけません。
台湾の日本語世代は年齢を重ねた人が増え、もはやほとんどいないに近いところまで来ていますが、日本に対する喪失感をテーマにしたこの映画が記録的なヒットになったということは、もっと若い世代の人たちも日本に対する喪失感が理解できる、共感できる、世代を超えて共有できるものがあるということを示しています。私個人としてはちょっと、やはり、はかりかねる面もなくはないのですが、投影しやすい対象なのかも知れません。これは日本人がアメリカに対して投影するものと似ている部分とそうでないものの両方があるように思います。