熊井啓監督『海と毒薬』の恥と罰

『海と毒薬』は、太平洋戦争末期に九州大学で実際に行われた米軍捕虜生体解剖実験がモチーフになっていることで有名です。ただ、原作者の遠藤周作さんは、事件と関係者を糾弾する目的で書いたのではないと語っています。日本人の罪意識の欠如を書きたかったということなのだそうです。

日本人に罪意識が欠如しているとは、どういうことなのでしょうか。キリスト教圏の人であれば、他人にバレないところで悪いことをしたとしても全知全能の神が見通しているという発想になります。ですので、社会的な罰を受けなかったとしても、いずれ神の罰が与えられると考えます。バレなければいいや、ということは必然的にあり得ず、言い方を変えれば自分の倫理に照らしてやってはいけないことは、たとえ社会的に罰を与えられないとしても、やってはいけないという自制が働くという倫理構造になっていると遠藤さんは考えていたようです。それに対して、日本人の場合、キリスト教圏のような全知全能の神が設定されていませんので、悪いことをした場合、自分の心の中で不安に感じることはそれが他人にバレて社会的な罰(村八分にされるとか)を恐れ、周囲の目を恐れ、周囲に対して恥をかかされることだけを恐れる、自分に対して恥ずかしいという発想法はないのではないかと遠藤さんは問いかけています。

この遠藤周作さんの問いについては賛否あると思います。私たち日本人も、自分に対して恥ずかしいこと、自分の倫理観に照らしてやってはいけないと思うことは、やらないのではないかなあと私は思います。もちろん、バレなければいいや、とやってしまうこともあるかも知れません。或いは弥次喜多珍道中のように「旅の恥はかき捨て」で自分の所属する村社会の人にバレなければ少々はめをはずしたって構わないということもあるかも知れません。ただ、これは世界に共通しているように思います。どこの地域や社会の人でも、自分の内面の倫理観と欲望と社会や法律のよる罰への恐怖がせめぎ合うのが普通ではないかなあ、ここに宗教的な差異のようなものはないのではないかなあという気がします。ただ、たとえば中華圏の人の内面の倫理観が血縁によって固く律されているのと同じように、倫理の基準は地域や社会によって違ってくるものかも知れません。そのことは論じる価値があるようにも思いますが、ちょっと別の切り口になりそうに思います。

熊井啓監督の作品を観る度に思うのは、真に迫っているなあということです。誰かが会談を上がる場面を見ると、本当に目的があって上がっているように見えます。会話の内容も実にありそうな言葉の調子です。二人の人が立ち話をしている姿も、演技ではなく実際に誰かが話し合っているように見えます。日常の一部が切り取られているように見えます。それでいて、みせるべきところ、劇的な場面、ドラマチックな瞬間は、しっかりと観ている側に分かるように「こういうことだ」と知らせてくれます。そのため、理解しやすく、入り込みやすく、集中して観ることに困難を感じません。今、私、全力で称賛しています。

九州大学医学部の教授が教授回診で病棟を歩く場面は、『白い巨塔』のそれとは随分違います。『白い巨塔』の財前教授の回診では、足音が威圧的で、財前教授の指示も居丈高で、周囲は上から抑えつけられるような息苦しさの中で委縮し、平身低頭しています。ところが、熊井啓監督の『海と毒薬』では、教授回診そのものは威圧的ではありません。教授の言動も圧迫風ではありません。関心のない患者に対しては、無言であり、関心のある患者についても二、三言葉を発するだけです。ただ、周囲が必死で気を使います。圧迫されるから委縮するわけではありません。怒鳴られたりして怖いから平身低頭するわけでもありません。「教授」という存在そのものの権威に自ら頭を下げ、恐縮し、教授の不都合や不便の起きないよう、周到な注意を払います。周囲の人たちは自発的に権威に平身低頭しています。その方がリアルなような気がします。人は権威に頭を下げたいという欲求を持っているのだという感じを受けます。浅井助手が権威に対して卑屈におもねり、自分の都合だけを考えている感じは実によく理解できます。そういう人はいます。そういうのもとてもリアルです。

あと、岡田真澄が占領軍の人物として登場します。どうしても「ファンファン大佐だ~」と思ってしまって、そこだけはちょっと楽しいです。

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