大正デモクラシーの時代は、多分、夢と希望と新しい時代への期待に満ちたいい時代だったに違いありません。近代が近代を謳歌した時代と言えそうな気がします。科学技術の進歩はいかなる不可能も可能にできる、そして科学技術は必ず人間を幸せにすると誰もが素朴に信じることができた時代。男尊女卑が古臭い伝統に縛られた陋習と認定され、新しい自由に生きる女性が提示された時代。第一次世界大戦で日本の実業界が大きく飛躍し、その後に酷い不況が来るとしても日露戦争で借金まみれになった日本の将来が明るいと感じられた、そういう時代だったように思います。
特に当時から盛んになり始めた女性解放にとって「自由恋愛」は欠かすことのできない重要なキーワードになります。現代のわれわれが考える自由恋愛ほども派手なものではないかも知れません。しかし、結婚相手を自分で選ぶ、相手の地位財産名誉家柄などの外的な要因ではなく、自分の意思で好きになった人と結婚するという理想がこの時代に広まります。
しかし、現実はそんなに簡単なことではなかったことを『自由恋愛』という映画では描いています。主人公の長谷川京子は超大金持ちの会社オーナー一族のトヨエツと結婚します。「自由恋愛」の理想を信じていた長谷川京子ですが、実際にはお見合いで結婚します。家にはお姑さんがいて、何かと口うるさくのしかかってきます。
トヨエツは新しい時代に理解のあるリベラルで進歩的な男性のはずですが、長谷川京子の女学校時代の同級生の木村佳乃と不倫関係になります。木村佳乃はトヨエツの子どもを授かり、子どものいない長谷川京子はお払い箱で、木村佳乃が本妻の地位を得ます。ところがトヨエツは元妻の長谷川京子との愛人関係は維持する、お姑さんはいろいろ口うるさいなどが重なり、自由で自分の力で生きる新しい女性像を理想としている木村佳乃は平塚らいてうに喚起され、出奔します。
お金持ちで進歩的でほしいものは全て手に入れてやりたいことは全てやれるトヨエツはだんだん形無しになっていきます。男たちの思慮の浅はかさが暴露されていきます。全ての観客に対して「男って本当に馬鹿だね」と語りかけています。そして私のような半端者は、確かにそれは言えていると頷く以外にはありません。
関東大震災が起きます。それによってトヨエツの会社は消滅します。トヨエツは消息不明。木村佳乃は朝鮮人虐殺事件を語ります。長谷川京子は西洋人の友人たちとともに避難します。西洋、帝国主義という日本の近代がここでぎゅっと凝縮されます。
若い映画人たちが戦争に英雄主義を見出します。太平洋戦争を知っている現代の私たちは戦争に英雄主義を見出すようなことはできません。まだ近代の黎明期なので、近代の恐ろしさが認識されていません。ヨーロッパは第一次世界大戦で辛酸をなめましたが、日本人はそのことにまだ気づいていません。日露戦争の英雄神話が生きていた時代です。アナログな機械化の時代なので、兵器や機械のギミック的な美しさが際立っていた時代とも思えます。アメリカの排日移民法の話題がほんの短く入っています。原田眞人監督にとってアメリカは必ず言及しなくてはいけない、絶対に外せないテーマです。排日移民法がその後の戦争を暗示するという視点はソクーロフ監督の『太陽』とも共通したものです。
長谷川京子は女優になって木村佳乃は記者になります。本来恋敵だったはずの二人が手を取り合うようにして最後に記念撮影をする終盤の様子は、和解し合う女性の偉大さと消え入るように去って行くトヨエツのコントラストが印象的です。
原田眞人監督の作品は常に男の心、男のメンツ、男の情がテーマです。この映画も真実のテーマは男です。たいていの男にとって女性は不可欠な存在です。女性がいなければ男は形無しですただ、この映画のトヨエツは違います。形無しのまま去らざるを得ません。女性には新しい時代に順応し、自分を変化させる力があります。男はそういうのはあまり得意ではありません。この映画のトヨエツは話す言葉こそ近代ですが、行動はそういうわけではありません。近代と西洋の波にさらわれた日本の男はどう生きて、新しい時代の女性とどう向き合うかを問うています。物語の舞台は100年も前の日本ですが、時代にかかわらない不変の問題意識が宿っています。