勅使河原宏監督『他人の顔』の失われた自己愛

仲代達也が会社の偉い人ですが、勤務中の事故で顔全体にヤケドを負います。人と会うときは常に包帯を顔にぐるぐる巻きにしていて、素顔を見せないようにしています。ただ、イライラがつのり、周囲に嫌味を言ったり、不平を言ったりが止まりません。夫婦仲も良くないですし、会社の人との関係もだんだんギクシャクしていきます。

仲代達也が病院を訪れます。医者は平幹二郎です。平幹二郎が若いです。それから、常識人の役をしています。子どものころから平幹二郎と言えば怖い人か悪い人という印象が強い私にとって平幹二郎が常識人の役をしているというのが新鮮です。素晴らしい、本物に見える仮面を作成します。仲代達也はそれによって包帯から解放され、その代わりに完璧なマスクをつけて「他人」になります。もみあげからあごにかけて立派な付け髭があって、『猿の惑星』のコーネリアスみたいになります。職業や家庭などのあらゆる立場やレッテルから自由になった時、人はどうなってしまうのかということもこの映画のテーマになっています。

他人になりきったつもりになって奥さんに近づき、誘惑します。奥さんの京マチ子はその誘惑に簡単に乗り、仲代達也が密かに借りたアパートで情事が行われます。全て終わった後で仲代達也が怒り出します。簡単に他人に肌を許したと怒るのです。一方で、京マチ子は「あなただということは気づいてました」と言い放ちます。夫だと気づいた上で、誘惑されているふりをしていたのだと言うのです。これで夫婦仲が完全に終わってしまいます。男がどんなに別人になったふりをしても、どれほど手の込んだギミックをしても女は全部見通すものだという、原作者の安倍公房の男女観が書かれています。安倍公房は男にとって女とは何かを追及し続けた人と言えるかも知れません。学生時代に随分読みましたが、だいぶ忘れてしまいました。

この映画では、仲代達也夫婦とは関係のない姉妹が登場します。兄と妹が二人で暮らしています。妹はとても美しい人ですが、顔に大きな痣があります。二人で海を見に旅館に出かけ、妹は海に入って自殺してしまいます。

自分とは誰か、ということ、そして自分を愛するとはどういうことかということが、この映画では問われています。愛が赦し、受け入れる行為だとすれば、自分を完全に受け入れることが自分を愛することだと言えます。仲代達也と海に入ってしまった女性はともに、顔に傷を受けてしまった自分を赦し、受け入れることができません。

映画は、全くの別人になれたと信じた仲代達也が秘密を知る平幹二郎を殺し、誰でもない人間として一人、サイコパスのように解き放たれるというところで終わります。人は誰でも、時には全くの別人になりたいという夢のようなことを考えます。そして同時に、私は私であって、それ以外の何者でもないと自分に執着します。完全な別人になることは不可能で、そのような心境で生きていくことは精神的に負担です。かと言って、自分に執着し過ぎるのも健全ではないかも知れません。バランス、ということになりますが、私たちは往々にしてそのバランスを欠いてしまうもので、時には自分に執着し過ぎて過度な自己愛に陥り、時には何もかも馬鹿らしくなって自己を放棄したくなります。少なくとも私はそうです。

この映画では、過度な自己愛に陥ってしまった人物が、今度は180度逆に自己を放棄した状態になる姿を描きます。結局のところ、自分の姿を受け入れられない以上、健全な自己愛が失われた仲代達也に明るい未来は待っていそうにありません。自分の生き方を考える上で、いい材料になる映画だと思います。

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