古い古い東京が舞台の映画です。1967年の作品です。勝新が主人公で、探偵をしています。市原悦子が失踪した夫を探してほしいと依頼します。依頼を受けた勝新が調査に出かける先々に市原悦子の弟が登場します。まるで追尾しているみたいです。弟が殺されます。勝新が事務所を首になります。失踪した夫と関係の良かった若い男性が自殺します。失踪した夫が出入りしていた喫茶店で勝新は殺されかけます。勝新はゲシュタルトの崩壊を起こします。
不思議な映画です。「都会」が主題です。都会で孤独に生きる、名前のない人間が主題です。名前もなく、赤の他人ばかりがいる環境で消耗し、やがて死んで行く私、あるいは私たちがテーマです。満州から帰った安倍公房の実感なのかも知れません。
ただ、東京が古いです。今の東京とだいぶ感じが違います。アメリカ映画に登場するアメリカの某地方都市、みたいな感じに見えます。任意の画面を静止させてフレンチコネクションだと言われれば、そうかも知れないと思ってしまうかも知れません。『北の国から』初期の東京もこんな感じかなあとも思います。カメラワークに凝っています。やたらロングショットだったり、ガラス越しだったりの画面が多いです。画面の切り替わりは早いです。これは当時の映画館の観客の回転の観点から説明されることかも知れないです。
勝新はもてます。当たり前と言えば当たり前、昭和で一番もてた男です。この映画の中でももちろんもてます。勝新の目を通じていろいろな女性が登場します。喫茶店のアルバイトの女性、図書館でこっそり資料を切り取る女性、別居中の妻、妻の事業所で働く女性、依頼人の市原悦子。それぞれの女性がいじらしかったり、笑顔を見せたり、いろいろです。勝新と市原悦子の濡れ場もあります。日本昔話の人の濡れ場は見たくありません。ただ、始まってしまうと見ないわけにもいきません。勝新に執着する女性、勝新を待つ女性、勝新に誘惑される女性がいます。やはり男は女性にモテなくてはいけません。ただ、この映画を観ると、男にとって女の人は本当に必要なものなのだ…という気がしてきます。待ってくれる女性がいなければ、勝新は喫茶店で殺されかけるただの元探偵無職です。そこに男と女という要素が絡むので、なんとか絵になります。私は成人してから今まで、殴られたことも殺されかけたことも死にかけたことも事故を起こしたことも事故をもらったこともありません。この映画を観て、私は何故か、自分の幸運に感謝したくなりました。
途中で音楽らしい音楽がほとんど挿入されません。人の足音、電車の音、車の音などの実際の生活の中で得られる音が強調されています。時々、不気味な地獄の底の叫び声みたいな楽器の音が短い時間だけ入ります。音楽は武満徹さんがやっています。監督勅使河原宏、原作安倍公房、音楽武満徹、主演勝新太郎ですので、ちびりそうなほど豪華な作品です。
勝新はルパン三世が『カリオストロの城』で乗っていた車と同じ感じの車に乗っています。『カリオストロの城』は設定が1968年なのだそうですが、当時はあんな感じの車がおしゃれで人気があったのかも知れません。もし21世紀の今、同じ車が走っていてもやっぱりおしゃれだと思うかも知れません。
終盤で勝新が公衆電話から市原悦子に電話をかけます。ふと、村上春樹さんの『ノルウェイの森』の最後の場面を連想します。どちらも公衆電話から女性に向かって何かを訴えかける男の姿があるのですが、充分に言いたいことが言えないということも共通しています。『ノルウェイの森』もだいたい同じ時代の話です。お金を入れてダイアルを回せば話したい人と話ができる公衆電話にはある種の時代性があるのかも知れません。今の時代に公衆電話はほとんど存在しなくても困りませんが、当時はぐっと来る、存在するだけでいろいろなことを人に連想させるそういう時代だったのかも知れません。
このようなことをつらつらと考えると、安倍公房と村上春樹さんはいろいろ共通するものがあるかも知れません。そう思って読み直してみると新しい発見もありそうです。
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