義経の首は本物か?ニセモノか?

源義経が平家追討を終えた後、頼朝から追放されて各地をさ迷い、最後は奥州藤原氏に裏切られて非業の最期を遂げたということはよく知られています。一般的には義経が後白河上皇から検非違使に任命され、義経が能天気にもそのまま受けてしまったということが武士政権を確立しようとしていた頼朝の逆鱗に触れたとよく説明されます。そのこと事態は私は特に異議はありません。主要な要因だったと思います。

頼朝が伊豆の流刑地で育ったのに対し、義経は京都のお寺で育ちます。価値観が違って当然です。検非違使のような役職のありがたみを噛みしめることができるのも義経の生育環境があったればこそ、だったのかも知れません。しかしながら、義経はそもそもニセモノだったのではないかという人もいます。

頼朝は挙兵後に石橋山で敗れて真鶴から船で千葉へ敗走。その後、鎌倉へとやってきます。京都との位置関係で言えば巻き返しに入っていたと言えます。その時に現れたのが義経で、本人は義経だと言い張るものの、証拠がありません。頼朝が「こいつ、ニセモノじゃねえの?」と疑ってもおかしくないというのです。

義経は最後に奥州藤原氏を頼って東北地方へと行きますが、奥州藤原氏に受け入れてもらうためには過去にステイしていた事実が合っていなければならず、そういう意味ではホンモノだったのではないかなあと思います。義経に関する謎のようなものとしては、義経生存説、東北から北海道へ、更に満州に渡へいってジンギスカンになったというど派手なものがありますが、これは水戸光圀が唱え始めたものらしく、新井白石もアイヌの伝説上の人物が実は義経だったのではないか、のような考えを持っていたようです。江戸時代は平和な時代ですから、そういうことをあれやこれやと考えて楽しむことが流行していたのだろうと思います。

さて、問題は鎌倉に届けられた義経の首がホンモノだったのか、ニセモノだったのかということになります。義経が北海道まで逃げたのなら、首はニセモノでなければいけません。もちろん今となっては証明不可能な話です。義経の首が奥州から鎌倉まで届くのに40日。馬で運んだにしては時間がかかりすぎるので、これは故意に腐敗させ、判別不能にしてから鎌倉に届けさせたというのが水戸光圀の推量です。

和田義盛は義経の首を見て義経を哀れに思い涙を流したという話があります。和田義盛は義経のことが嫌いで、戦地から頼朝に義経の悪口を書き連ねた手紙を送った人です。一緒に戦場に出て戦っていたのにそこまで嫌いということは、和田義盛は義経のことをよく知っている人です。一挙一動にも腹が立って、逐一それを記憶にとどめている人です。普通なら見落とすようなちょっとした特徴まで掴んでいる人です。そのような人がニセモノとホンモノの首の違いに気づかないということがあるでしょうか?「思い込みだよ~」と考えることも不可能ではないですが、思い込みを防止して確認するための首実検です。もしかしてニセモノかな?と思いながら見るのが首実検をする理由です。

そう思うと、和田義盛がホンモノ認定したのだから、ホンモノだったのではないかと私は思います。義経は戦術家だったのだから、もしかして?と思いたくなる気持ちは私にもありますが、平家との戦争の勝ち方は基本、背後からの攻撃ですので正攻法でやったら或いはそこまで優秀ではなかったかも知れません。想像です。

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