『オペラ座の怪人』は不幸な生い立ちの「怪人」が若くて美しい歌姫のクリスティーンに対する執念とも言える愛情を燃やすことで知られています。ただ、よく見てみるとフランスの階級社会と時代の変化、それに伴う意識の変化、もうちょっと言うと「欲望」に対する考え方が変わっていこうとしている様子が分かります。更に言うと「怪人」は近代を象徴しています。もうちょっと詳しく述べたいと思います。
『オペラ座の怪人』の前半で、当該のオペラ座の演目は古代ローマ史に関するものだったり、フランスのお貴族様が妻の隙を狙って浮気をする話だったりします。一方、後半に於いて「怪人」が書いた演目である『ドンファンの勝利』を上演することになりますが、それは名もなき一人の男が自分の女性に対する欲望を満たすために何でもするという内容のものになっています。
実はここには時代の変化というものを原作者が意識して入れてこんでいるように思えます。前半で見られる古代ローマ物はいわば定番モノ。よっ中村屋!的なマンネリズムを扱っています(マンネリズムそのものは、それで良いものですし、私も「よっ中村屋!」的世界はわるくないと思います。そもそも歌舞伎は伝統否定から来ているので、その精神も愛すべきものです)。また、お貴族様が妻の隙をうかがって浮気をするというのは、「あわよくば、そうしたい」というもので生活の根本的な変化を求めるものではありません。妻との結婚生活そのものは維持します。特にお貴族様の場合、資産の維持と結婚は直結しますのでそこは死守します。飽くまでも「あわよくば」、目を盗んで浮気したいというものです。観客は「わかる、わかる!自分もそうしたい!」と思い、そこで共感的な笑いを誘うことができます。音楽はお決まりで微温的で微笑に満ちたものです。
一方、後半の「怪人」が書いた譜面では、狙った女性を得るために手段を選びません。「あわよくば」的な甘さは一切ありません。欲望を達成するためには何でもします。人生をかけます。命をかけます。前半に上演される微温的な甘ったるさを拒否するほどの強い精神、エゴ、既存の価値観に対する挑戦と破壊があります。狂気に満ちた旋律と欲望に身もだえするようなダンスは前例を否定し、自分の欲求を肯定し、そしてそれを持て余しています。
前半と後半の違いは近代以前と近代化以降の違いと言ってもいいと私は思います。前半はいわば近代以前。変化を嫌い、自我的欲求は秩序の範囲内で満たす。不変の秩序が支配する世界です。一方の『ドンファンの勝利』は自分のやりたいことのためには秩序など無視します。自分の求めることを達成するためには、新しいものを受け入れ、状況の変化を受け入れ、善悪は別にして目標達成のために最善を尽くします。これは様式美や枠組みよりも実際の効果を優先する近代の戦争や近代資本主義と同様の立場です。
ヨーロッパが階級社会であるということとも密接にかかわります。たとえば覆面舞踏会では「上流」の人は上流同士で品よく楽しみます。一方で「下流」の人は下流同士でバカ騒ぎをして楽しみます。そういう社会であり、そういう時代だということを作者は訴えているわけです。
「怪人」の書いた『ドンファンの勝利』は、そういう階級をも突き崩せ、というメッセージを込めています。階級をはじめとする様々な社会の前提条件を受け入れていてはドンファンの欲望を満たすことは不可能だからです。
時代は19世紀後半から20世紀初頭にかけて。オペラ座がつぶれていろいろな物がオークションにかけられる時は既に第一次世界大戦の後です。戦争の激化により機械化が進んだ時代です。自動車が移動手段の主役になりつつあります。親から財産を受け継ぐ人だけが豊かなのではなく自分で事業を始めて成功した人も豊かに、貴族以上の生活ができる可能性が見え始めて来た時代です。オペラ座の新しいオーナーはスクラップメタル事業で成功した、いわば成金です。貴族でない人が成功するためには怪人の書いた『ドンファンの勝利』のような強い情熱、不屈の精神が求められます。『オペラ座の怪人』を観て、ラウル子爵よりも「怪人」に感情移入する人は多いと思います(そうなるように作られています)。それは不屈の精神でほしいものを手に入れようとして努力する自分を怪人に投影できるからだと思います。自分が手に入れようとするものがタッチの差で手に入らずに悔し涙を流した人は大勢います。私にもそういう経験は何度となくあります。近代がそういう設定で動いているので、近代社会では人はそういう経験をしないわけにはいきません。それによって経済成長は極限を目指すことができます。
しかしながら、21世紀の今、私たちの社会はいろいろな意味でターニングポイントを過ぎており、欲望を満たすためなら「何でもする」時代は過去のものとなりつつあるように見えなくもありません。情熱と努力だけではとても変わっていかないものがあると人々は訴えています。イギリスのEU離脱は「これ以上の競争社会はおうご免だ」と見ることもできますし、トランプ氏はサンダース氏の人気も同じ理由に求めることができます。人々の意識は情熱によって努力を強いられることに疑問を持つようになっています。ピケティの著作がかくも支持されている理由はそこに求めることができます。ポストモダンです。小理屈ですみません。
以前の私でしたらピケティ的価値観を受け入れることができなかったかも知れません。ですが前提条件が違います。AIによる生産性革命がわりと近い将来(そこまで近くはないですが…)に訪れるとすれば、確かに競争しなくて良くなると思います。では『オペラ座の怪人』が過去の作品になるのかというと、新しい時代には新しい解読の仕方があるかも知れません。恋の悩みは生産性とは関係ありません…。