ベルサイユ宮殿に行った時の話

ベルサイユへはパリ市内から小一時間電車に乗っていきます。駅を降りると普通の街並みですが、改札を出て右へ歩き、最初の大きな角を左に曲がると少し遠目に立派なベルサイユ宮殿があります。駅の方からみて丘の上になるように考えて作られていて、ルイ14世が自身の「君臨」ぶりを見せつけることを意識していたことが分かります。

てくてく歩いていくと観光客の行列が見えます。現地ツアーに申し込んだ人や団体さんはすっと入れますが、個人旅行でぶっつけで来てる人はここで延々と待たなくてはいけません。朝10時ぐらいに着いたのですが、ぎっちり人が並んでいます。入れるまで2時間半ぐらいかかりました。

ただ、入ってみればいいところです。こじゃれています。天井画も家具も壁もこじゃれています。おーさすがだなー。と思います。かつての王の寝室とか、全部廊下でつながっていて、博物館を見るみたいにしながら歩いて行けます。実は当時からそのような作りになっていて、王家の人々の生活(顔を洗ったり食事をしたり)は全部公開されていたそうです。不思議な習慣ですが、王は国民のものなので全て公開しなくてはいけないみたいな話だったそうです。思いついたのはルイ14世でしょうから、絶対王政がちょっと変な方向に向き始めていたことが分かります。

鏡の場は立派です。とても広いです。第一次世界大戦後のベルサイユ会議のメイン会場に使われた部屋です。鏡がばーっと並んでいます。体育館くらいの広さがあります。しかしベルサイユ宮殿のおもしろいところは「母屋」だけではありません。広大な庭があります。市町村一個くらい入りそうなほどの広い庭です。広大の庭の中には第二宮殿みたいについて使われた「グラントリアノン」、ルイ16世が結婚の時にマリーアントワネットにプレゼントした「プチトリアノン」、マリーアントワネットの田舎風趣味を現実のものにした「農村」などがあります。

グラントリアノンはまあまあいいですが、第二宮殿ですから、ベルサイユの母屋を小さくした感じで、当時の美術に詳しくない人にとっては大体同じ感じに見えなくもありません。プチトリアノンはわりと素朴で、建物は白が基調で、ベルサイユ宮殿みたいにごてごてとデコっていません。マリーアントワネットはプチトリアノンがお気に入りで、大体そこで暮らし、友達を集めて遊んでいたそうです。気になるのは「農村」ですが、本当に田舎の農村風の民家があります。人は住んでいるわけではなく観光用みたいです。マリーアントワネットが素朴な田舎趣味を好んで作らせたとのことですが、当時、本当に人が住んで普通に農業とかしていたのか、それとも単なるデモンストレーション、エグジビションのつもりで建ててあっただけなのかはどこにも書いてありませんでした。フランス史を勉強して、それもブルボン王朝専門とかの人でないと知らないのかも知れません。

それらの場所には始めは歩いて行くつもりでしたが、あまりの遠さに断念し、庭園の中を小さな列車が走ってますのでそれでグラントリアノンまで移動。その後は普通に歩いて見たいものを見たという感じです。庭園ではじゃがいもをふかして売っているお店がありましたので、それを購入。じゃがいもとバターのシンプルな味がよかったです。いろいろ工夫するよりこういうのが一番いいんじゃないかなぁとか思ったりしました。

ベルサイユの庭園で食べたジャガイモ。フランスで食べたものの中ではこれが一番おいしかった気がします。
ベルサイユの庭園で食べたジャガイモ。フランスで食べたものの中ではこれが一番おいしかった気がします。

マリーアントワネットが愛した農村。当時人が暮らしていたかどうかは不明。
マリーアントワネットが愛した農村。当時人が暮らしていたかどうかは不明。

ルイ16世とマリーアントワネットのエピソードはパンフレットとかにいろいろ書いてあります。マリーアントワネットがこっそり作らせた自分だけでゆっくり過ごせる密室があった話とか、密室の窓から抜け出して遊びに行っていた話とか、恋人ができたときの話とか、そういう感じのやつです。一応、人妻なわけですが恋人を作ってはいけないような気もしますが、当時のフランス貴族はそのあたり、婚姻と貞操の関連性がどうなっていたのかが私には知識がないですし、そういうことについて議論している本も読んだこともないので、それについては永遠の謎です。

こんなあほみたいにデコりまくった建物を作らせたのはルイ14世ですが、どうしても世間は私も含んでマリーアントワネット=ベルサイユ宮殿で贅沢生活。というイメージが先に来ます。ショップでもマリーアントワネットの肖像画の入ったクリアファイルとか売っています。マリーアントワネットものは売れ筋なのに違いありません。1789年に起きたフランス革命でルイ16世一家はチュイルリー宮に移らされ、次いでタンプル塔に移され、ルイ16世はそこから革命広場に引き出されて断頭台にかけられます。マリーアントワネットは更にシテ島のコンシェルジュリーに移され、裁判にかけられて最期はやはり革命広場で断頭台にかけられます。そういう事情を現代の我々は知っているので、デコった宮殿が悲劇的に見え、人をひきつけるのではないかと思います。




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