ドイツ表現主義映画『M』のワイマール精神

ドイツ表現主義という芸術活動が1920年代から30年代ごろにかけて起きましたが、その時代に作られた映画の一つ『M』というのがあります。ドイツ表現主義といえば『カリガリ博士』とかの方が有名で、『M』はいまいち知られていません。でも、いい映画です。

ドイツのとある街で少女が行方不明になる事件が連続して起きます。後日、少女の死体が発見されます。人々は犯人に対して強い怒りを感じます。当然です。どんな手法で少女を上手に誘惑して犯行に及ぶのか、犯人はどこの誰なのか、さっぱり手がかりはありません。

警察が動きますが、ちっとも前に進みません。警部役の俳優さんがいい味を出してます。いい意味で、ザ・刑事(デカ)です。捜査網を強化しますがどっちにしても捕まりません。

市民が自警団を作ります。貧しくて家のない人たちも協力します。路上で生活している人たちは毎日通りを観察しているので、普通に家の中で暮らしている人よりも街で何が起きているのかよく理解しています。そういう人たちの助けによって事件解決に向けて進展します。そのような協力者の中のあるおじいちゃんは目が見えません。その分、耳の感覚が鋭いです。ある時、口笛を耳にします。以前、一人の少女が行方不明になった時、その少女がある男性に風船を買い与えてもらっていて、その時に男性が吹いていた口笛と同じだということに気づきます。それをおじいちゃんから知らされた青年は、口笛を吹いている男の後を追い、何とか取り逃がさないために男のコートの背中に「M」の字を書きます。murdererのMです。

市内のいろいろな人にその情報が伝わります。男をどんどん追いかけます。男は工場みたいなところに逃げたりしますが、結局は捕まります。人民裁判が開かれます。人々は怒っています。とても怖いです。感情的な私刑が行われても全くおかしくありません。というか人々は感情的な私刑を望んでいるように見えます。犯人の男は「自分には精神疾患があって、犯行時のことは何も覚えていない。犯行は自分が計画したのではなく、ある時意識を失っていて気づくと犯行が終わっている。自分にはどうすることもできない」と訴えます。弁護人を担当する人は酒を飲みながら裁判に出ていますが、「精神疾患による犯行ならば、彼には刑罰を与えることはできない。警察に引き渡し、病院に入れるべきだ」と正論を述べます。人々は怒っていますが、弁護人の言うことが正論だと認めて警察に引き渡すことに決まります。法治に対する倫理観や正義感を称賛する内容になっています。法治と理性を信じたいという願いが込められています。

この映画では人々は感情よりも理性的な判断を優先しています。ワイマール憲法の実践を目指したような気もします。フロイトの精神分析が世の中にある程度広まったことも関係があるかも知れません。もちろん、子どもをなくしてしまった人にとっては犯人を生かしておくことはできません。辛いです。しかし、感情と法理法論を分けています。映画の中ではさりげなく、でもきちんと分かるように、第一大戦後のハイパーインフレのことも触れています。犯人が店に入って酒を飲んでいる間に酒の値段が上がっていきます。時代背景を考えながら見るともっと面白いです。

1931年の映画ですから、ドイツでナチス政権が誕生する直前のことです。アドルフヒトラーは当時既に有名人です。そう考えると複雑な心境で映画を観ざるを得ません。この映画の監督はユダヤ人で、ナチス政権が誕生した後に亡命しています。ナチスは感情に訴えて支持を集めて行きました。現代は少しずつ、どこの国でも感情が優先されるようになってきているみたいです。もちろん感情は大切です。人は感情の生き物ですから、感情を抑え込んだり無視したりしては生きる喜びが失われます。選挙とか国民投票とかが行われるのも、小理屈はともかくみんなはどう感じているのかを確認するための手続きと言えます。民主主義はみんなの感情を合法的な意思にするために手続きとも言えます。しかしそこからは独立しています。また小理屈です。すみません。そういったことをいろいろ考えるのにこの映画は手助けになるかも知れません。カメラワークとか演者さんの表情とかいろいろいい映画です。


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