プラザ合意

プラザ合意のこと

1985年、ニューヨークのプラザホテルで行われたG5会合でドルの全面安の容認の合意がされたことをプラザ合意と呼ぶことは大変有名な話です。

ベトナム戦争以降、国力の疲弊から立ち直ることに苦慮していたアメリカが自国製品の輸出を振興するための手段としてのドル安をG5諸国に持ちかけたということなのですが、当時の空気としては、世界の資金がドルから円へと移動することが確実視されており、日本側から見れば事実上の円全面高への移行という理解になります。

交渉に臨んだ竹下大蔵大臣は、プラザ合意は実質的に日本とアメリカの二国間の協議で決まったとして、「とうとう日本はアメリカと肩を並べた」と周囲の人に話したと言います。

プラザ合意後、日本円は一機に値上がりし、言い換えるなら市場の判断する適切な価値がつけられるようになりました。一方で、生産拠点が海外へと流出するようになり、産業空洞化という言葉が使われるようになっていきます。

日本銀行の金融緩和により、国内でキャッシュがだぶつく事態となり、バブル経済が発生しますが、投機の過熱を懸念した日銀が金融引き締めに政策を転じたため、バブルの崩壊といつ終わるとも知れぬ不況へと日本は迷い込んで行くことになってしまいます。

プラザ合意はアジア諸国への産業移転、バブルの発生と崩壊という日本のその後を決定する極めて重大な出来事であったと言うことができますし、アジア諸国が世界の工場と呼びうるほどに生産力を高めることに弾みをつけ、日本から部品を輸出して海外で組み立て、再び日本に輸入する(或いは更に他の国へと輸出する)という経営モデルを定着させる契機となった、今の世界を形作った第一歩になったとも言えそうです。

当時、人々はいずれ日本はアメリカを凌駕する経済大国になるとすら囁き合ったものですが、ちょっと調子に乗り過ぎていたところもあったかも知れません。

経済の調子が上向き続ける時、人は浮かれます。下降が続くと人は内省的になり、思索を深める面もあるようにも思えます。そのような意味では、日本人は経済的には厳しい時代を迎えてしまいましたが、世の中に揉まれることで人格的には向上したというプラスの面もあったのではないかという気もしないでもありません。

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