縄田雄二『一八二七年の幻燈文学』と映画

縄田雄二氏の『一八二七年の幻燈文学‐申緯、ゲーテ、馬琴』という論文が三田文学に掲載されているのを読んで、とてもおもしろかったので、ここで紹介したい。当該の論文ではまず朝鮮半島の文人申緯が一八二七年に書いたとされる漢文の詩を取り上げ、走馬燈を見るような、燈光に関する言及があることを指摘し、続いてゲーテの『ファウスト』の第二部第三幕を独立させて『ヘレネ 古典的ロマン的幻燈劇』としてやはり一八二七年に出版された作品に目をつけている。論文では鴎外による日本語訳を使用し、「夜の生んだ醜い物を洞穴へ入れる」という表現があることに着目している。このような表現は舞台上でメフィストフェレスが幻影的にたち現れたり、或いはいずこへかと消え去ったりする際に光学機会を用いた影絵のようなものが舞台上の壁なりスクリーンなりに映し出されることが念頭にあるのではないかとの当たりをつけている。続いて同時代の馬琴の『南総里見八犬伝』が幻惑的、または幻術的な表現がなされているのも、実はゲーテのように光学機会を使った幻影装置を見たからではないかとの見立てがなされている。即ち19世紀前半に少なくとも世界の三人の表現者が光学機会を用いた幻燈装置を知っていた可能性を指摘している。

縄田氏は文化史家フリードリッヒ・キットラーに言及し

(キットラーは)ヨーロッパにおいて幻燈の地位をロマン派文学が襲い、幻燈が見せたような連続映像を文字により見せるようになったっ経緯を叙しているいる。キットラーは、映画が登場したときにヨーロッパと北アメリカにおいて観客がすみやかに動画の文法をのみこんだのは、こうした文学が先に行われていたからと推測し、他文化圏との違いを述べる。補正したい。東アジアも同様であった、と

としている(『三田文学』2018年夏季号194‐195ページ)。

とてもおもしろいと思った。馬琴が映画の原型になる幻燈装置を見たことがあったとすれば、それはとてもおもしろいことだし、ヨーロッパで可能であったことなら、日本でも充分に可能なことであったはずだということを思い出させてくれる。江戸時代の社会ががヨーロッパの事情に全く疎かったという解釈は古い物になっていて、長崎でのオランダ貿易を通じて世界中のものが日本に流入していたことはよく指摘されていることだ。江戸時代は総じて貿易赤字の傾向があったということだから、当時の人々は輸入品を生活の中に取り入れていろいろ楽しんでいたはずだ。馬琴と同時代人の葛飾北斎がヨーロッパから輸入された絵具を試しに使った形跡があることが指摘されているものを以前読んだことがあるし、娘のお栄の描いた夜の街の陰影がヨーロッパの絵画に似ているという指摘もある。というか、浮世絵の美術館に行って実物を見れば素人の私でも一発で分かる。ゴッホは日本の浮世絵に強く影響され激しい憧れを抱いたが、日本とヨーロッパは19世紀の前半、既に互いに影響し合う関係にあったのだと捉えれば、とてもおもしろい新しい歴史と世界のイメージが頭の中で結ばれてくるように感じられる。江戸にヨーロッパ最新の光学幻燈装置が持ち込まれ、それを馬琴が見たとして、または朝鮮の文化人が見たとして全く不思議でも不都合でもない。

武田鉄也が坂本龍馬の役をやっていた『Ronin』という映画の冒頭では、長崎で竜馬が初期的な映画を観て驚く場面がある。で、何かの解説でみたのだが、一般にリュミエール兄弟の作品が1895年に試写会をしたのが映画の始まりとされているので、1860年代が舞台の『Ronin』では、まだ映画は存在せず、竜馬が映画を観ることはあり得ないが、製作者の映画を愛する思いのようなものがそこには込められているのではないかと説明されていた。

しかし、幻燈装置が竜馬よりもっと早い時代、馬琴の時代に輸入されていて、それを観た人々が存在したとすれば、竜馬が幻燈装置という映画の萌芽に触れる機会があったことは充分に考えられる。『Ronin』という映画は図らずも充分にあり得た可能性に触れていたのだ。



関連記事
桜井晴也『くだけちるかも知れないと思った音』の美しさ
目取真俊『神うなぎ』の沖縄戦に関する相克するロジック