昭和史75‐「帝国遂に立てり」orz

手元の資料の昭和17年1月1日付の号では、表紙にでかでかと『帝国遂に立てり』と大きな字が書かれています。やっちまったのです。アメリカと戦争するという一番やってはいけない悪手をとうとう選んでしまった、悪い意味での記念号なのです。

それより少し前の資料では近衛文麿首相の退陣と東条英機首相への大命降下について書かれており、そこでは近衛内閣は閣内不一致で総辞職になったが、国策そのものに関する不一致ではなく、国策遂行手段に関する不一致で総辞職になったと説明されていました。現代を生きる我々は知っています。近衛は大幅に譲歩することでアメリカとの戦争を避けたかった、一方で東条は昭和16年7月2日の御前会議で行われた国策決定をひっくり返すことを拒絶し、アメリカとの戦争も辞さないという彼の態度が内閣不一致に至ったことを。

東条英機は首相就任後に木戸内大臣を通じて昭和天皇から「戦争より外交を優先するように」との内意を受けていましたが、それでもやっぱり戦争することに決定し、その日の夜は自宅で号泣したと言われています。号泣したいのはこちらの方です。政治家たちが何とか戦争を避けたいと思っていたのに対し、陸軍は蒋介石との戦争を止めるくらいならアメリカとも戦争するという主戦派で、アメリカと戦争するとなれば実際に動くのは海軍なわけですが、連合艦隊は準備万端整えており、更に予算がつくのなら半年一年はやってみせると言うものですから、政治家たちも迷い出し、おそらくは戦争になったら儲かる考える財界人も居て、なんのこっちゃらわからんうちに「アメリカと戦争する以外に道はない」という結論に至ってしまいます。船頭多くして船山に上るとはこのことを言うのかも知れません。

私の推測も交えて言えば、当時日本帝国は既に火の車です。蒋介石と戦争するための戦費、満州国の維持費、汪兆銘政権の維持費、更に海軍力の増強に航空戦力の強化と金がザルに水を灌ぐようになくなっていったはずです。それでも世界で一番資本力のある国と戦争しようと言うのですから、正気の沙汰とは残念ながら思えません。

当該の号では「アメリカが癌なのだ」と主張し、癌は切開して切り取らなくてはならないとしていますし、日本軍の強力さも主張しています。短期戦でなら勝てるという見込みは確かに正しかったし、実際に短期的には大勝利なわけですが、後はじりじりと押されてやがて圧倒され、滅亡に至ります。そしてその禍根は種々の面で今に至るまで続いています。あー、やってらんねえと資料を自分で読みながらも、読む気がしなくなってきます。まあ、もう少し、頑張って読み続けたいと思います。

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昭和史67‐ビルマルート爆撃

とある情報機関の発行していた機関紙の昭和15年12月1日付の号では、ビルマの援蒋ルートを日本軍が爆撃したことに関する記事が掲載されていますので、ちょっと紹介してみたいと思います。当該の記事によると「イギリスをはじめアメリカやロシアは飛行機、自動車、弾丸、鉄砲を重慶に売り込んで蒋介石の後押し」をしていると述べられており、イギリス、アメリカ、ロシアの真の目的は日本と蒋介石政府の双方を弱らせて東洋の土地を奪うことだとしています。

で、メコン川の遥か上流のヒマラヤ山脈を伊豆の踊子の如く九十九折りになって重慶へと向かうトラックを足止めするために、ヒマラヤ奥地の橋を爆撃したという武勇談が述べられているわけですが、この段階でイギリス、アメリカをはっきりと「敵認定」していることが分かるほか、当該記事ではソビエト連邦も敵認定していることが感じ取れます。

爆撃した橋は「功果橋」と呼ぶらしく、その橋が果たして誰の所有なのか、イギリス領ビルマの範囲内なのか、それともチベットなのか或いはちょっと見当のつかない場所なのかは検索をかけてみてもわからなかったのですが、蒋介石政府にたどり着く前の地点を攻撃しているわけですから、既にイギリスとは戦闘行為が始まったと受け取ってもいいくらいの事態に昭和15年末頃の段階で発展していたということが分かります。

日中戦争が始まった当初、アメリカはモンロー主義で、芦田均の『第二次世界大戦外交史』ではイギリス、フランスオランダは当初日本と事を構えて東南アジアの植民地を失うことを恐れていたとも書かれてありましたから、そもそも欧米と事を構えることを日本帝国の当局者も想定していなかったのではないかと思います。早々に戦争を終わらせていれば、太平洋戦争になることはなかったかも知れません。ところが、延々といつまでも戦争が終わらず、近衛文麿はここぞとばかりにそもそもの持論である全体主義的統制経済をやり始め、軍需品が必要ですから民生品が品薄になり物資不足で資金も不足という深刻な事態に陥りつつある中で、愈々欧米諸国とも事を構える決心を堅めつつあるあたり、読んでいる現代人の私としては背筋が寒くなる思いです。

当該の情報機関は当初は台湾とその対岸の広東、南京あたりの情報収集及び戦果の宣伝みたいなことをしていたのですが、だんだん手を広げるようになり、フィリピンインドネシアインドシナと範囲が拡大して今回とうとうビルマまで手を出したという感じです。「東亜共栄圏」なる言葉が公然と使われ始め、日満支(汪兆銘政権)だけでなく、東南アジア全域を含む日本経済ブロックを作ろうとしていたわけですが、どうも当初からそのような想定をしていたわけではなく、どこかの時点で「行けるところまで行こう」という発想になったように思えます。行けるところまで行こうとすれば、必ず欧米の大国と戦争になるまで突き進むことになりますから、そういう決心をした段階で日本帝国滅亡フラグが立ったも同然とも思え、かえすがえす「馬鹿なことを…」と思はざるを得ません。広田内閣の五相会議で南進が採用され、近衛内閣の閣議で南進が改めて正式に国策として採用されたことから、官僚主義的に深く考えずに国策通りに進んだのかも知れません。一旦決まった政策について臨機応変できないあたり、今ももしかするとあまり変わらないのではないかという気もします。援蒋ルートを断ちたい陸軍と日本経済ブロックを作りたい政治家と、宮崎滔天や頭山満みたいな民間の大アジア主義がぐちゃっと混ざって肥大したという感もなくもありません。精工に練られた構想というわけではなく船頭多くして船山に登る式の場当たり的、ご都合主義的な拡大主義が見て取れます。

一重に蒋介石との戦争に勝つために遠いビルマまで爆撃に出かけ、英米と険悪になり対抗策としてドイツのアドルフヒトラーと結ぶという悪手を選び、滅亡への坂道を転げ落ちようとしている日本帝国の姿を追うのは心理的なダメージが強いですが、取り敢えず手元の資料は全部読む覚悟で読み進めています。

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昭和史35‐軍人のパラダイス(それって慰安所?)

とある情報機関が発行していた機関紙の昭和13年12月1日付の号に植民地情報として台湾に「軍人のパラダイス」ができたという趣旨のことが書かれてありましたので、紹介してみたいと思います。

軍人のパラダイス
屏東市が予て将兵慰安を目的として武徳殿隣地に建設中の軍人慰安所は工事順調に運んで完成した。因に本建物は和洋折衷の明朗最新式の二階建てであって階下は大食堂に浴場を附属し階上畳敷の大広間と玉突、囲碁、将棋等の娯楽室を設備してある。土曜日、日曜日、祝祭日は軍人専用に提供し其の他は倶楽部組織で一般にも公開することになってゐる。

と書かれてあります。少しいろいろ検索してみたところ、台湾の屏東というところに陸軍の基地はあったらしいのですが、慰安所分布図みたいなものには高雄に慰安所があったことは記されているものの、屏東には慰安所の印はつけられていませんでした。高雄と屏東はわりと地理的に近いですから、いっしょくたに記されてあるだけなのかも知れません。

で、気になるのは世界を巻き込む大論争になっている「慰安婦」問題と、当該記事の「軍人のパラダイス」は関係があるのかないのかということですが、軍人は全員男性という前提ですから、「男のパラダイス」みたいなことが書いてあれば、いわゆる慰安婦の人たちがいる施設を想像することは可能です。また、当該記事の本文でも「将兵慰安を目的として」という風に書いてありますから、やっぱり、いわゆる慰安婦の人たちのいる場所なのかなあとも思えます。しかしながら、大広間があるとは書いてあるものの、個室完備みたいなことは書いてありませんでした。もし、慰安婦の人たちに会いに行く施設なのであれば、個室とか小座敷とかそういったものが絶対に必要なはずですし、そういう施設の宣伝には「貸座敷」みたいなことを文言に入れて、分かる人には分かるようにしてあったという内容のものを読んだことがありますから、ここにはそんな風には書いていないので、断定するにはちょっと躊躇してしまいます。平日は一般に開放というのも解せないというか、そこから何かを読み取ることができるのかどうか…

とはいえ、情報機関が公式に刊行している機関紙ですから「貸座敷」などという文言を挿入することが憚られたとも想像できますし、「将兵慰安を目的」とまで書いてあるのだから、そりゃ、そういう意味でしょうと言うことも可能と言えば可能です。他に情報がないので、これ以上踏み込んだ判断はできません。「慰安婦」論争には、女性たちがどのようにして集められ、どんな待遇を受けたのかということについても喧々諤々、その話題に触れることすらちょっと怖いくらいですが、機関紙を追っている中で、ちょっと無視するわけにいかない記事ではないかと思い、紹介してみました。

当該施設が果たしていわゆるそういう施設だったのか、それとも本当に単にビリヤードをやったり食事したりして楽しむ場所だったのか、意見のある方がいらしたら、コメントに書き込んでいただけると大変幸いです。

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台湾近現代史19 漫画日米戦争

台湾が日本の領土だった時代、台湾通信社というところがあり、そこが『台湾』と題した定期刊行物を発行していたようです。台湾国立図書館のデータベースで検索してみると、「台湾通信社」というキーワードで600以上の記事が登場しますが、昭和の初期に刊行され、その後しばらく運動していたことが発行日の日付等から確認できます。台湾通信社について詳しいことは私も知らないのですが、昭和9年11月20日付の記事にちょっとおもしろいものを見つけました。

映画の上映会の宣伝なのですが「本社の台湾軍慰問映画会」とされています。台湾通信社(おそらくは国策会社)が台湾の日本軍の兵隊さんに楽しんでもらおうと映画会を企画したというわけです。場所は台北山砲隊に於いてと記されていますが、果たして台北山砲隊がどの辺にあったのかみたいなことはさっぱり分かりません。台北市内や周辺で山砲をぶっ放す必要性は多分なかったでしょうし、野戦の準備とかも別にしていなかったとは思いますが、満州事変以降、中国での戦争が常態化しようという時期でしたので、おそらくは台湾経由で上海へ行かされる兵隊さんもそれなりにいたのではないかなあと思います。この会社では満州軍慰問映画会も開いていたようなので、台湾軍であろうと満州軍であろうと関東軍であろうと上海派遣軍であろうと要するに日本陸軍ですから、おそらくは宣伝方面で陸軍に協力する目的を持った会社だったのだろうと推察できます。

で、上映会の映画の内容なのですが『松岡洋右氏演説、日本人なればこそ、漫画日米戦争』の音声映画となっており、随分と勇ましい内容のものであったであろうことが想像できます。個人的には漫画日米戦争というタイトルがやたらと気になります。一般的には昭和9年の段階では日本人がアメリカと戦争することは想定していなかったと考えられていると思いますし、政策決定のレベルに於いてはアメリカとの戦争は空想の段階に過ぎなかったに違いありません。「漫画日米戦争」の中身がどういうものかはさっぱり分かりませんけれど、映画という娯楽のレベル、そして多分に宣伝性を持つレベルに於いては漫画であれ何であれアメリカとの戦争が既に人々の念頭に浮かんでいたということの証左と言えるのではなかろうかと思います。

日本が国際連盟を脱退したのが昭和8年ですから、この上映会はその翌年のことになります。松岡洋右がアメリカとの対抗軸を作るためにドイツやソ連との連携・同盟の可能性を探っていた時期にあたりますから、こういう上映会をするのにも冷静な目で見れば宣伝戦略が行われていたと見ることができますし、もうちょっと感情的な言葉を用いるとすれば、ずいぶんと焦っている様子を感じることもできると言えるかも知れません。

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米内光政内閣‐陸軍による倒閣

阿部正信内閣が当事者能力を失って総辞職すると、陸軍では畑俊六が後継首相として指名されるのではないかという期待が広がり、ある種の熱が生まれてきます。ところが昭和天皇は陸軍が日独伊三国同盟に積極的なことに不安を感じており、昭和天皇の意思によって海軍の米内光政が後継首相に指名されることになりました。

天皇が後継首相の選考に影響力を発揮することは立憲君主という性質上問題があり、本来であればそういうことはできないはずです。ただ、昭和天皇が人事に積極的な意思を示し、それが実現することは異例のこととはいえ、天皇の政治に対する影響力が非常に曖昧なものであったことが分かります。戦後、昭和天皇の戦争責任はどこまで問えるかという議論は無数になされましたが、制度上の権能と実際上の影響力に乖離があり、その乖離の程度には天皇以外の外的要因が働くことも多く、結果として真相が測りがたいという難しいことに至ってしまったという印象が残ります。

また、政党政治家に首相指名の話がいかなかったのは、昭和天皇や西園寺公望のような究極のエスタブリッシュメントが、政党政治家たちのことを、人気投票で選ばれるために嘘もつくし政権を獲るためには見苦しい陰謀も厭わず、白を黒といい抜けようとするレトリックを駆使することに疲れていた、或いは失望していた、「政党政治家は二流の人間のやることだ」という諦観に至っていたというようにも見えてきます。広田弘毅が首相指名される時、天皇は広田氏が名門の出身者でないことを不安に感じたというエピソードもあるようですが、当時のことですから、まだ、天皇と周辺には日本は究極のエスタブリッシュメントが寡頭政治をするのがちょうど良いと思っていたのではないかとも感じられます。もっとも、当時の気配であれば政党政治家が首相になれば陸軍なり憲兵なりに命を狙われる可能性が高く、危なくておちおち首相に指名できないという側面もあったかも知れません。

ヨーロッパではアドルフヒトラーがポーランドを分割占領した後、イギリス・フランスとも西部戦線で対峙していましたが、しばらくは双方ともに積極的な攻勢に出ることがなく、半年ほど事実上の休戦状態に入ります。米内光政はドイツとの同盟に懐疑的で、ヨーロッパで本当にアドルフヒトラーが勝つかどうか分からないという雰囲気の中、同盟締結に踏み切らないままでいましたが、ドイツ軍が国境の森林地帯を抜けてフランスのマジノ線要塞を後方から攻撃するという虚をつく電撃作戦で勝利し、早々にフランスが降伏したことから、陸軍部内ではバスに乗り遅れてはいかんということになり、とにかく非ドイツの米内光政を引きずりおろせという話が持ち上がって、畑俊六が陸軍大臣を辞任し、陸軍の総意として後任の大臣は出さないという挙に出たため、米内内閣は総辞職せざるを得なくなります。

陸軍という際限なき冒険主義者が軍部大臣現役武官制を盾にとり、日本という馬の鼻づらをあらぬ方向へと引きずり回す様子が見てとれ、知れば知るほどがっくり来ます。本当にこの時代の出来事はがっくりくることばかりです。

米内内閣の次は、近衛文麿が二度目の組閣を命じられることになりますが、この段階では西園寺公望は近衛にあまり大きな期待は持っていなかったと言われます。近衛は中国での「聖戦」を貫徹しつつ、日本を国家社会主義みたいな国にして、アメリカ様のご機嫌をとるという無理と矛盾に満ちた国策を進めようとし、やがて運命の太平洋戦争へと続いていきます。


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阿部信行内閣‐当事者能力の喪失

平沼騏一郎内閣が「欧米の天地は複雑怪奇」として総辞職をした後、後継の首相選びは難航します。外交、日中戦争ともに手詰まりで出口がなく、西園寺公望は「(後継首相に誰がいいか)自分には意見がない」とまで言い出したと言われます。首相の成り手がいないという深刻な時代に立ち至った時、陸軍が阿部信行擁立に動き、消去法的に阿部信行が首相に指名されることになります。

阿部信行の出身母体は陸軍でありながら、皇道派にも統制派にも属しておらず、多少リベラルな面も持っていた人物とも言われていますが、外交でも日中戦争でも打てるべき手がなくなっており、始まった時から死に体だった感がぬぐえません。そのような人物を首相に据えざるを得ないほど、日本そのものが当事者能力を喪失していたのではないかとすら思えてきます。

阿部内閣時代にアドルフヒトラーがポーランドに侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告をすることで、第二次世界大戦が始ってしまいますが、阿部はヨーロッパ情勢に対しては中立の姿勢を見せます。更に、行き詰まった外交を打開する目的で、外交権を外務省から内閣へと奪い取ることを画策しますが、外務省職員の強い反発を受け、こちらの方は頓挫してしまいます。

汪兆銘政権を相手に日中講和の可能性を探りますが、そもそもが蒋介石を抜きにした和平案ははっきり言って無理があり、蒋介石とのルートを確保しようとしなかった、またはできなかったということは、日中戦争解決が根本的に不可能だったことを示していると言えるかも知れません。

1940年1月、汪兆銘の側近が香港に逃れ、汪兆銘と日本との間に交わされている和平交渉が「売国的」なものであると暴露し、講和交渉がこれ以上不可能と考えた阿部信行内閣は総辞職へと至ります。阿部は総辞職にあたり「日本の国は陸軍とそれ以外に分裂している。ここを調整するのは想像していた以上に難しかった」という主旨の弁を残したと言われていますが、政治家や外交官がどれほど手を尽くしても軍が実力行使でちゃぶ台返しで既成事実を積み重ねていくという図式がもはや慣例化しており、シビリアンコントロールは喪失していたと見るべきですので、この段階で既に日本の命運は尽きていたと思えなくもありません。

歴代の首相の動きを見ているとかくも複雑怪奇なことが外国人に説明して分かってもらえるわけもなく、知れば知るほど暗澹たる気持ちになっていきます。阿部信行内閣の次はこれもまた短命な米内光正内閣が登場します。


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議会の混乱の収拾がつかないことで広田弘毅内閣が総辞職し、後継首相として一旦、宇垣一成が指名されますが、軍縮派の宇垣に対して陸軍が断固拒否し、陸軍大臣を出さないという手段に訴えたため、宇垣内閣は幻のものになってしまいます。そこでなんとか八方収めるために指名されたのが陸軍の林銑十郎でした。

石原莞爾は林銑十郎は扱いやすいと見ていたようですが、林は混乱した事態を混乱させたまま退陣に至った印象が強く、思ったほど扱いやすい相手でもなかったようか、無用な、無意味な、意義のない内閣だったと見ることができるかも知れません。

内閣は予算を通過させるために議会と様々な取引を行うのが常ですが、林銑十郎内閣の場合、予算が通過してこれでいよいよ一息つける、或いは議会側からすれば予算を通してやることで恩を売ってやったような感じになるのですが、林は予算通過後に懲罰的な意味も含めた衆議院の解散を行います。予算を通過させてもらっておきながら解散したことで、「食い逃げ解散」といういかにも品性のない呼び方がされています。

当時は政友会と改進党の二大政党がどちらも野党で、事実上オール野党状態でしたので、政権運営という観点から論じるならどこかで解散に打って出て政府に協力してくれる政党勢力を確保しなくてはいけないのですが、林の与党であった昭和会と国民同盟は議席を減らし、林は総辞職に追い込まれていきます。社会大衆党が議会の第三党に浮上し、その存在感を示したあたりが特徴的な選挙結果でしたが、プロレタリア文学が流行した時代でもあり、その世相を反映している面もうかがい知れます。林銑十郎が就任してから退陣するまでの間は僅かに四ヶ月。妥協の産物として登場し、妥協しきれなくなって総辞職としたという展開です。

上の流れを見ていると、とにかく陸軍の政府人事に対する威圧が激しく、あたかも政府が陸軍にのっとられているのではないかという錯覚すら起こしてしまいそうになります。議会は議会で、政友会も改進党もさんざん政権を困らせて立ち往生させることで自分のところに首相の指名が回ってくることを狙うのですが、選挙の結果ではなく政争の結果として政権が交代することを西園寺公望が嫌ったために、政党政治も機能しなくなっています。私はロンドン軍縮条約に対して政権ほしさに統帥権を持ち出して政府を論難した犬養毅の責任は相当に思いのではないかと個人的に思います。

せっかく大正デモクラシーが育ったにもかかわらず、昭和初期はまるでみんなで目に見えない大きな力で押されているかのように政党政治は自ら破綻して行き、陸軍ばかりが影響力を持つという負のループにはまっていったと考えるほかはなく、知れば知るほどがっくり来ます。

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第一次世界大戦から日本陸軍は甘い考えを持つようになったかも知れない

 第一次世界大戦は人類が初めて機械化された兵器が全面的に使用された戦争として有名であり、そのあまりの悲惨さから、戦後は国際連盟の結成など、世界平和を志向する流れが生まれてきます。

 大戦中、イギリスが日英同盟を根拠に日本陸海軍の協力を要請してきます。海軍は要請に応じて地中海に艦隊を派遣し、高い評価を受けたそうですが、一方で陸軍は危険すぎると判断したのか、協力を拒否します。
 一方で山東省にあるドイツの利権はしっかりいただこうという動きは見せていますので、なかなかしたたかと言えばしたたか、義理人情に薄く利にさといと言えば、そうとも言えます。

 少ない犠牲で日本は戦後、戦勝国の一つとして欧米諸国から迎え入れられ、国際連盟の常任理事国の一つとして活躍することになります。
 ただし、あまり時を経ずして満州国問題で日本はその席を蹴り、泥沼の長い戦争から敗戦への道を歩くことになりますので、日本が世界に認められたと手放しで喜べない、ちょっと複雑になる歴史の一場面です。

 当時はヨーロッパ大戦とも言われ、日本にとってはあまり関係のない出来事のように考えられているふしもあり、機械化された戦争の恐ろしさを日本軍があまり理解できていなかったということも、アメリカとの戦争に積極的だった理由の一つに挙げられるかも知れません。

 その点では、時運が伸びているその時期に、少し甘い考えを持つようになってしまっていたのではないかと思うと、やはりいろいろ残念というか、複雑な心境になりますねえ