宮沢賢治『銀河鉄道の夜』‐死者の旅路

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のいわばハイライトになる場面は、沈んだ船からやってきた家庭教師と、彼が保護する二人のまだ幼い姉と弟と、ジョバンニとカムパネルラが邂逅する場面にあるのではないかと個人的には思っています。

家庭教師と姉弟が幻の銀河鉄道に登場することにより、読者は銀河鉄道は死者の乗る列車だということを理解するからです。そしてさらに、神様の御国へと行ける駅でこの3人は降りることも、この列車が天国へ行く列車だということが分かります。また、カムパネルラが最後にジョバンニに向かってさよならと言い、列車から落ちるようにして姿を消しますが、後でカムパネルラが川に落ちて見つからなくなってしまったことをジョバンニは知ります。他にもいろいろな場面がありますが、あまり長くならないように、ジョバンニ、カムパネルラ、そして沈んだ船に乗っていた3人に絞って、少し考えてみたいと思います。

まず第一に、家庭教師と姉と弟の3人は神の御国へ行くために、途中で下車します。銀河鉄道が死者の乗る鉄道だとすればなぜカムパネルラがそこで下車しないのか、また、神の御国が終点でなければその先どこへ列車がどこへ行こうというのかということが気になります。単純に考えれば、カムパネルラは確かに死んでいるのだけれど、神の御国に召されない、深い業を背負っているということになります。彼にはどこへも到着する場所がなく、列車の走る途中で飛び降りてしまうほか選択肢がなかったのだと言えます。「神の御国」という表現にはキリスト教的な発想法を感じられますが、ちょっと仏教的に言うと、先に降りた3人は成仏し、カムパネルラは成仏できず、無間地獄のようなところへ落ちてしまったことを意味しているのではないかという気がします。先に降りた3人は、ある意味では生きようとし、またある意味では他人を押しのけてまでは生きようとせず、更にある意味ではやむを得ざる運命を静かに受け入れたと言うことができます。一方でカムパネルラは他人を手伝って川に落ちたということになっていますが、多分に自ら命を絶った可能性を示唆しているのではないかという気がしてなりません。それゆえに死者の世界に入ったとしても先に降りた3人のような安寧や安楽、平和を手に入れることができず、闇の彼方へと去って行かざるを得なかったのかも知れません。

そして次に考えなくてはいけないのは、なぜジョバンニは死んでいないのかという疑問が湧いてきます。ジョバンニは学校でカムパネルラ以外に友達と呼べる相手はいなく、カムパネルラも次第にジョバンニを相手にしなくっていったという物語の前提があります。更に母親が病気で、父親は高い可能性で監獄に入っており、姉は本当に存在するのかどうかも怪しい感じで、学校の後は低賃金労働をして辛うじてパンや牛乳、角砂糖を手に入れる生活を送っています。ある人はそれをして、大正・昭和初期にかけての貧富の格差、労働者階級の辛さ、人間疎外という現象として説明しようとするかも知れません。私もある程度、それには賛成します。ですから、毎日がおもしろくないジョバンニは心の深いところでやけっぱちになっており、星祭りの夜、彼はもしかすると彼も自殺を考えていたかも知れず、それだけ死に近い存在になっていて、死者の旅路に使われる鉄道にちょっとした手違いでまだ乗り込んでしまったと見ることは可能です。また、ジョバンニが銀河鉄道の幻を見ているまさにその時、カムパネルラは川に落ちて死につつあったということを考えれば、ジョバンニはカムパネルラに呼ばれたと見ることも可能なように思えます。

さて、しかしです、銀河鉄道に乗って幸福感を得ていたのはジョバンニでしょうか。それともカムパネルラでしょうか。明らかにジョバンニがより強い幸福感を得ていたように私には感じられます。自分が死んだということを理解していたカムパネルラが多少なりとも憂鬱そうにしていたのは、ジョバンニが真相を知らなかったからだとも言えますが、一方でジョバンニにとっては自分を棄てたと思える友達のカムパネルラが一緒に旅をしてくれるということに深い感動、大きな癒し、そしてこれからもどこまでもずっと一緒に旅をしたいという切ない願いが心の中に宿っていることを読者は感じ取ることができます。とすれば、カムパネルラが一方的に呼んだのではなく、ジョバンニもカムパネルラを深層心理では声をからすほどに、いつも、絶叫せんばかりに呼んでいて、それが呼応関係になったということかも知れません。

しかしながら、ジョバンニは銀河鉄道から生還します。カムパネルラはジョバンニを改めてジョバンニを棄てた、一度拾うふりをしてもう二度棄てたと読むこともできます。友人に棄てられるというのは時に恋人に棄てられるよりも激しく心を痛めつけます。有名な作品ですから色んな意見があるでしょうけれど、私にはカムパネルラがジョバンニを死出の旅の共として不合格を出し、ジョバンニと一緒にいるよりも一人で暗い闇へと吸い込まれていくことを選んだということが、ジョバンニにとってどれほど切ないかということ思わずにはいられません。




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『銀河鉄道の夜』と近代

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最近、ようやく1985年公開のアニメ映画『銀河鉄道の夜』を観て、今までこの作品を観ていなかったことを大いに後悔し、かつ、観ていなかった自分のことを恥ずかしいとすら思います。ため息が出るほど素敵な作品です。

ごくごく個人的なことですが、私には宮沢賢治に対して「暗い…暗すぎる…」という思い込みがあり、宮沢賢治は日本のファンタジーの大家、死後高く評価されたという意味ではゴッホみたいな壮絶な天才であるにも関わらず、「現実が辛いから、ファンタジーに行ったんでしょ」的な偏見が私の中から抜けず、宮沢賢治が好きだという人に出会うと、内心「へぇw」と思う程度に傲慢でしたが、今回、『銀河鉄道の夜』をアニメ作品で観て、自分の偏見は間違っていた、この映画を作った人はもちろんえらいが、原作者の宮沢賢治もめちゃめちゃえらいと考えを改めざるを得ませんでした。私が悪かったです。反省します。謝罪もしたいくらいです。

主人公のジョバンニのまっすぐな目、真摯な動き、善良な表情など、どれをとってもジョバンニに好意を抱かないわけにはいかず、クラスメイトたちがジョバンニをからかう中で、ただ一人、ジョバンニに対して優しさと愛情をもって接するカムパネルラに憧憬と尊敬の念を抱かざるを得ず、久々に凄い作品を観てしまった、感動してしまってではないか…。と大いに驚いたのでありました。

私が個人的に注目すべきと思うのは、作品の中には古典的近代の記号がちりばめられていることです。家に帰ってスイッチをひねれば電灯に明かりが入るというのは現代人にとっては普通のことですが、宮沢賢治の時代では、それ以前とは全く新しい時代が始まったことへの感動や驚き、それが西洋と一緒に入ってきたという事実に対する畏怖・畏敬で全体が構成されているとすら思えます。天文学の知識ももちろんですが、病気のお母さんのために買って帰るパンと角砂糖、そして牛乳。これらは西洋人が日本人にもたらした新しい食生活のスタイルであり、パンを食べれば脚気が治るという、当時の日本人にとっては驚愕の栄養失調からの回復方法であり、牛乳を飲めば元気になれるという半分神話みたいなことが浸透しつつあった時代です。時代的に若干のずれはあるものの、19世紀の後半にスペンサーの社会進化論が多いに流行り、福沢諭吉の弟子が日本民族改造論みたいなものをぶちあげて、肉とパンを食べれば西洋人みたいになれるぞというアホみたいなことが喧伝されていた時代の名残が、20世紀の初頭を生きた宮沢賢治の時代にはあって、そういうもの、古典的に、科学は万能と信じられた新時代の扉が開いた時代です。ヨーロッパで言えばニーチェであり、日本で言えば宮沢賢治と言ってもいいかも知れません。

そうは言ってもニーチェが東洋的無神論をその思想の支柱に据えようとしたのに対し、宮沢賢治はヨーロッパ伝来のキリスト教への憧れを隠そうとはしていなかったように思えます。ただし、宮沢賢治本人は仏教への帰依が厚かったとも言われています。宗教はいろいろなタイプがありますが、長く残っている宗教は大抵の場合、その土地土地で人の心を安らかに救済することを役割として背負っていますから、宗教について真剣に考えたいという人、そういう方面に探求心がある人は、遠藤周作さんのように仏教にもキリスト教にも深い理解を持つようになっていくものなのかも知れません。

『銀河鉄道の夜』のタイタニック号に関する部分は素直に泣けます。アニメ作品の中で、荘厳な音楽と一緒に崇高な場面に仕上げた制作者の方に対しては素直に尊敬いたしますとしか言えません。

遠い銀河をどこまで行くかも分からない、延々と旅が続くかのような錯覚が起きる作品ですが、考えてみれば銀河鉄道999と似通う部分があり、原作、アニメ、松本零士さんの漫画が相関関係にあると見て、おそらくそうは外れてはいないでしょうし、もうちょっと言えば、千と千尋で省線列車みたいなものに乗る場面にも共通するものを感じます。

大変に見事な作品であり、観なければ損とすら思える一押しであります。