アンナカレーニナとテレーズデスケルウと成瀬美津子

アンナカレーニナはトルストイが描いた自ら不幸を招く愚かな女性の代名詞のように語られる女性です。尤も、村上春樹さんが『神の子らはみな踊る』で、女性登場人物がアンナカレーニナを読み返し、より深く彼女の心の動きを理解できるようになったと書いているように、単に愚かな女性として結論づけて終わるのではなく、それは誰にでもあり得る、誰もが心の内に抱える地獄の一面なのだと考えるとすれば、アンナカレーニナのことを自分の人生と照らし合わせて考えることができるかも知れません。福音書にはイエスの言葉として、天国はあなたの心の内側にあると書かれていますが、人は誰もが心の中に天国と地獄の双方を抱えるのが普通のことであるとの立場を採るとすれば、トルストイの作品を自分の人生に役立てることもできるかも知れません。

遠藤周作さんも女性の心の中の暗い炎のようなものを描くことに大変に熱心であったと個人的には思えます。遠藤周作さんは神と人間の関係性、西洋と東洋の形而上的な対立関係のようなことに関心が深かったため、そういう方面から解説されることも多いですが、その一方で、例えば『スキャンダル』で、女性のある種の野生のようなものと、それに対して強い関心を抱かざるを得ない男性の野生の双方を描こうとしたほか、女性の心を描こうと大変に苦心したことが様々な作品から読み取ることができます。

その代表とも言えるのが、『深い河』の成瀬美津子であり、成瀬美津子は遠藤周作の女性観を集約させたような人物であって、悪女としての性質を存分に発揮しつつ、その物語の最後で聖母のような存在へと生まれ変わっていくという点では遠藤周作さんの願いを込めた存在であるとも言えます。作品中に於いて成瀬美津子が『テレーズデスケルウ』の熱心な読者であることが描かれます。夫を殺そうとして裁判にかけられた恥辱にまみれた女性とも言えるテレーズに対し、成瀬美津子は深い共感を抱きます。自分の内側にある暗い炎、破壊衝動、容易には整理がつかないエロスとタナトスでどうにかなってしまいそうな自分を、テレーズデスケルウに投影しているというわけです。

小説を読んだり映画を観たりという、物語に触れる行為はほぼ例外なく自分を投影する行為と言ってもいいかも知れないのですが、アンナカレーニナとテレーズデスケルウと成瀬美津子は女性が自分を投影しやすい存在かも知れません。『ボヴァリー夫人』を付け加えるのもありかも知れません。また作者が男性ですから、男性が投影した女性像であるとも言え、男と女の深い溝を埋めようとする作業こそ、小説の醍醐味なのかも知れません。

自分を投影するという意味では、男性の場合であれば『マクベス』を読んで、黒沢映画の『羅生門』を観て自分を省みるというのも悪くないかも知れません。

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スピノザと遠藤周作

スピノザはデカルトの思想には強い影響を受けたと言われていますが、デカルトが唱えた物心二元論に対しては批判的であり、この世の全てのもの、人の心から花や草などの自然現象、その他ありとあらゆるものに神が宿るとする神一元論という結論に至るようになりました。これを汎神論と呼びますが、全てに神が宿る、或いは全てが神の現れである、または全てが神の一部であるとする考え方は、「無神論」であるとして強い批判を浴び、社会的に干されてしまい、孤独な最期を迎えることになります。あくまでも神に対する考え方の問題でしかないにもかかわらず、社会的に干されてしまうのですから、お気の毒としか思えません。

この「汎神論」という言葉を聴けば、ちょっといろいろ読んでいる人であれば、遠藤周作さんのことがぱっと思い浮かぶのではないかと思えます。遠藤周作さんはかすてメタフィジック批評、形而論的な観点からの批評を行おうとした人ですが、日本人的な形而上の観念とヨーロッパのそれとは違うという立場から、日本の著述の世界をある種の脱ヨーロッパへ向かわせようと努力します。そこには江藤淳先生の『喪失と成熟』的な立場に立てば、西洋に対する強い反感、ある種の憎悪があるように思えなくもありません。遠藤周作さんは上に述べた汎神論と20世紀に入って話題になった宗教多元論という観点から、最後の長編である『深い河』を書き、その信じるところを小説作品にしています。

この遠藤周作さんの汎神論と、スピノザの汎神論は神は遍く宿っていると考える点で大変によく似ています。スピノザはオランダの人ですが、慶応大学の仏文科を卒業し、フランスに留学してヨーロッパの思想哲学の体系を熱心に研究した遠藤周作さんがスピノザを理解していなかったなどということはあり得ず、スピノザの汎神論のこともよく理解し、スピノザが無神論者だと批判されたことも当然に知っており、彼は自身をある程度スピノザに重ね合わせたのではないかとすら思えてきます。

『深い河』の大津はイエスキリストの如く、人の罪を背負って孤独な死を迎えます。これはスピノザがそうであり、またソクラテスがそうであったように、「自分が正義だ」と信じて疑わない人の罪を代わって受け入れるという広い意味での愛の行為であったと言えるのかも知れません。私にそうする勇気はないですが、そのように思うと、ソクラテス、イエス、スピノザ、大津に繋がる自己犠牲の愛の系譜が出来上がるようにも思え、大変に興味深いことのように思えます。

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マーティンスコセッシ監督『沈黙』の西洋人の視点

遠藤周作さんが原作の『沈黙』が、巨匠のマーティンスコセッシ監督によって映画化されたことで話題を集めています。私は原作30回くらい繰り返し読んだので、原作との違いがどんな風に出るのかな、それとも意外と原作に忠実な作り方をしているのかなというあたりに関心を持って鑑賞しました。

キチジローは一身に「くず」キャラを背負っているわけですが、映画では窪塚洋介がやっているので、なんかかっこいい感じが漂っており、そこまでくずっぽくありません。海に投げ込まれる切支丹のモニカは原作ではわりとおばちゃんな感じがするのですが、映画では美人なので、更に痛々しさを増しているように思えます。ガルペ司祭とロドリゴ司祭はそれぞれはまっているというか、いい感じに雰囲気が出ていると思えました。

あと、陰の主役とも言えるフェレイラの役をリーアムニーソンがやっており、現実を受け入れて適度に腹黒く、適度に計算高く、適度に諦めている感じが非常にはまっており、これも良かったのではないかと思います。

台湾でロケしたとのことですが、自然がやたらと美しく、美しいが故に切支丹迫害の場面が際立っており、原作を何度読んでもイメージできなかった部分を今回は映像で補ってもらうことができたという感じもします。

ぐっと印象的なのは、原作ではエピローグ的な扱いになっているロドリゴの後半生をわりとしっかり描いているというあたりではないかと思います。もちろん、原作でもエピローグはかなりエネルギーが注がれていますので、確かに省略するわけにはいかない場面とも言えるかも知れません。

ただ、私の手前みそな解釈ですが、原作のロドリゴ司祭は遠藤周作さんの内面にある「西洋人神父」が仮託された存在であり、ある部分に於いては教条的であり、または典型的な宣教師というイメージで創作されているとも思えるのですが、今回の映画では、それがより西洋人による西洋人の描き方に近づいた感じに仕上がったのではないかなあと思えます。というのも、原作ではロドリゴ司祭が遂に踏み絵を踏み、鶏が夜明けを告げる鳴き声を上げる場面が文句なしのクライマックスになるわけですが、映画ではその後のロドリゴの人生がわりと時間をかけて描かれており、どういう心境でその後を生きたのかが観客にもそれなりに想像できる、掴みとれるような描かれ方になっています。むしろ、踏み絵を踏んだ後のロドリゴの人生こそがこの映画で語りたかったことなのではないかとすら思えてきます。

私たち日本人の受け手にとっては、ロドリゴは究極的にはよその人でしかないのですが、スコセッシ監督の立場からすればより身内になりますので、その後の人生、大きなターニングポイントを迎えた後の人生、その心境に関心が向いたのではないかという気がします。ロドリゴ司祭のモデルは新井白石が尋問したイタリア人宣教師のシドッチとされていますが、シドッチが使用人に宗教儀式を授けていることが発覚した後、一年ぐらいで彼は死んでしまいます。まず間違いなく拷問などで衰弱死したと推理できますが、ロドリゴ司祭の場合は天寿を全うします。心の中ではイエスキリストを深く信仰しつつ、表面的にはそんなことは一切忘れたという風にして生きていく姿が映画ではわりと淡々と語られています。この辺り、やはり西洋人が作った映画ですので、自分の物語のような語りになっていたのではないかなあ、そこが原作と映画の違いなのではなかろうかという気がします。

ショッキングな場面も多いので、わりと暗い気持ちで映画館を後にしたのですが、映画を観た後に悶々と考えるのも映画鑑賞の楽しみの一部だと思えばいいのかも知れません。

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新井白石とイタリア人宣教師シドッチ

イタリア人宣教師のシドッチは1708年に屋久島に上陸し、直後、地元の人に発見されて長崎に護送されます。長崎ではオランダ語通訳と対面しますが、シドッチはラテン語またはイタリア語を使うため、ある程度の語彙の相似は認められるものの、何を言っているのかはっきりとは分かりません。カトリック宣教師のシドッチは新教国のオランダ人を敵視していたため、出島のオランダ人との直接の会見はためらわれ、襖越しにシドッチと通訳が話すのを聴かせますが、オランダ人もよく分からないと言います。

ただ、シドッチが江戸に行きたいと言っていることは分かったため、それならばそうしようということになり、江戸へ送られて新井白石と対面するという次第になります。

新井白石はシドッチと面会し、来日目的、ヨーロッパ事情、キリスト教の思想などについて質問します。数年後にその時に得た情報を基に、その他の手に入る文献や私見を交えて白石は『西洋紀聞』を書き表すことになります。新井白石とシドッチの対面は、遠藤周作さんの『沈黙』でロドリゴ司祭と通訳武士との宗教問答のモデルになっているとも言いますが、私が諏訪邦夫さんの現代語訳を読んだ限りではシドッチの覚えたての日本語と新井白石のオランダ語を用いての、おそらくは手ぶり身振りと筆談でなんとなくわかるというのが大半のやりとりであったため、『沈黙』のような気迫のある理詰めの話し合いにはならなかったのではないかと思えます。『西洋紀聞』では、イエスキリストの伝承は仏教の伝承によく似ており、イスラエルがヨーロッパに比べて比較的インドに近い土地であることから、ユダヤ教は仏教を下敷きにしているのではないかという推論を立てていますが、これはシドッチとの対面の際のやりとりでそういう話があったというよりは、飽くまでもシドッチの話を聞いてから、白石が自分で論考したとものではないかと思えます。

キリスト教が激しく迫害されて何十年も経ち、もはやヨーロッパの宣教師も日本への布教を諦めたかのように思えるこの時代になぜシドッチが来日したのかについて、新井白石はシドッチが元禄時代の小判をどこからか入手して所持していたことに着目し、元禄時代に財政難陥った幕府が小判の質を落としたことを知り、日本の国情不安と見て人心に訴えかける好機を見たのだろうと書いています。そこに気づく新井白石も慧眼ですが、金貨の質に着目したカトリック教会もさすがです。ただ結果として元禄はインフレになり空前の好景気に沸いたというのは想定の範囲外だったのかも知れません。

新井白石はキリスト教のあらましを理解した上で、その教えは仏教と似ているが浅はかであるとの結論に達しており、これは何となく、遠藤周作さんの『侍』で長谷倉常長(支倉常長をモデルにしている)が、イエスキリストの福音書の物語を聴いてこんな奇怪な物語を信じることはできないと驚愕する部分に通じているようには思えます。 

江戸の小石川に禁教とされていたキリスト教の信徒または宣教師を隔離・幽閉するための切支丹屋敷があり、シドッチはそこで軟禁されますが、シドッチの身の回りの世話をしていた夫婦に洗礼を授けていたことが発覚し、牢に入れられ、その翌年に亡くなったとされています。劣悪な環境での衰弱死が想像され、火あぶりとかそういうのも酷いですが、衰弱死させるのもかなり酷いやり方のように思えます。コルベ神父を連想させられなくもありません。

最近になって跡地から人の骨が見つかり、DNA鑑定の結果、イタリア人のものである可能性が高いとされ、必然的にシドッチ司祭のものではないかと考えられています。『西洋紀聞』そのものについては新井白石の知的好奇心の旺盛さが感じられて、ちょっといい話なのですが、一方でシドッチの最期は壮絶すぎて、両者の運命の違いというものまで考えさせられます。もっとも、新井白石は八代将軍吉宗の時に「お役御免になったんだから今住んでいる屋敷から立ち退け」と言われ「ざけんな、ここは俺の家だ。絶対引っ越さねーからな」というやり取りがあり、幕府の役人がはてどうしたものかと困っていたら大火事が起きて新井白石の屋敷も燃え落ちてしまうという、へんてこりんな晩年を迎えています。私は密かに、新井白石引っ越し問題をどう解決するかで頭を抱えた役人が故意に火事を起こしたのではないかと邪推しています。

新井白石の『西洋紀聞』は後世にに読み伝えられ、魏源の『海国図志』と並び、幕末の知識人の西洋事情を知るための参考資料になったようです。
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熊井啓監督『海と毒薬』の恥と罰

『海と毒薬』は、太平洋戦争末期に九州大学で実際に行われた米軍捕虜生体解剖実験がモチーフになっていることで有名です。ただ、原作者の遠藤周作さんは、事件と関係者を糾弾する目的で書いたのではないと語っています。日本人の罪意識の欠如を書きたかったということなのだそうです。

日本人に罪意識が欠如しているとは、どういうことなのでしょうか。キリスト教圏の人であれば、他人にバレないところで悪いことをしたとしても全知全能の神が見通しているという発想になります。ですので、社会的な罰を受けなかったとしても、いずれ神の罰が与えられると考えます。バレなければいいや、ということは必然的にあり得ず、言い方を変えれば自分の倫理に照らしてやってはいけないことは、たとえ社会的に罰を与えられないとしても、やってはいけないという自制が働くという倫理構造になっていると遠藤さんは考えていたようです。それに対して、日本人の場合、キリスト教圏のような全知全能の神が設定されていませんので、悪いことをした場合、自分の心の中で不安に感じることはそれが他人にバレて社会的な罰(村八分にされるとか)を恐れ、周囲の目を恐れ、周囲に対して恥をかかされることだけを恐れる、自分に対して恥ずかしいという発想法はないのではないかと遠藤さんは問いかけています。

この遠藤周作さんの問いについては賛否あると思います。私たち日本人も、自分に対して恥ずかしいこと、自分の倫理観に照らしてやってはいけないと思うことは、やらないのではないかなあと私は思います。もちろん、バレなければいいや、とやってしまうこともあるかも知れません。或いは弥次喜多珍道中のように「旅の恥はかき捨て」で自分の所属する村社会の人にバレなければ少々はめをはずしたって構わないということもあるかも知れません。ただ、これは世界に共通しているように思います。どこの地域や社会の人でも、自分の内面の倫理観と欲望と社会や法律のよる罰への恐怖がせめぎ合うのが普通ではないかなあ、ここに宗教的な差異のようなものはないのではないかなあという気がします。ただ、たとえば中華圏の人の内面の倫理観が血縁によって固く律されているのと同じように、倫理の基準は地域や社会によって違ってくるものかも知れません。そのことは論じる価値があるようにも思いますが、ちょっと別の切り口になりそうに思います。

熊井啓監督の作品を観る度に思うのは、真に迫っているなあということです。誰かが会談を上がる場面を見ると、本当に目的があって上がっているように見えます。会話の内容も実にありそうな言葉の調子です。二人の人が立ち話をしている姿も、演技ではなく実際に誰かが話し合っているように見えます。日常の一部が切り取られているように見えます。それでいて、みせるべきところ、劇的な場面、ドラマチックな瞬間は、しっかりと観ている側に分かるように「こういうことだ」と知らせてくれます。そのため、理解しやすく、入り込みやすく、集中して観ることに困難を感じません。今、私、全力で称賛しています。

九州大学医学部の教授が教授回診で病棟を歩く場面は、『白い巨塔』のそれとは随分違います。『白い巨塔』の財前教授の回診では、足音が威圧的で、財前教授の指示も居丈高で、周囲は上から抑えつけられるような息苦しさの中で委縮し、平身低頭しています。ところが、熊井啓監督の『海と毒薬』では、教授回診そのものは威圧的ではありません。教授の言動も圧迫風ではありません。関心のない患者に対しては、無言であり、関心のある患者についても二、三言葉を発するだけです。ただ、周囲が必死で気を使います。圧迫されるから委縮するわけではありません。怒鳴られたりして怖いから平身低頭するわけでもありません。「教授」という存在そのものの権威に自ら頭を下げ、恐縮し、教授の不都合や不便の起きないよう、周到な注意を払います。周囲の人たちは自発的に権威に平身低頭しています。その方がリアルなような気がします。人は権威に頭を下げたいという欲求を持っているのだという感じを受けます。浅井助手が権威に対して卑屈におもねり、自分の都合だけを考えている感じは実によく理解できます。そういう人はいます。そういうのもとてもリアルです。

あと、岡田真澄が占領軍の人物として登場します。どうしても「ファンファン大佐だ~」と思ってしまって、そこだけはちょっと楽しいです。

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熊井啓監督『千利休 本覚坊遺文』の静かだが激しい男の意地

遠藤周作『イエスの生涯』で福音書をもう一歩深く理解する

新約聖書に入っている、いわゆる四福音書は通して読んでもどういうことなのかよく分かりません。細部に関する説明が書かれていないだけでなく、前後関係が不明なこと、何を指しているのか分からないことがたくさん書かれているので、はっきり言ってちんぷんかんぷんで意味不明です。イエスの頭に油をかける女が出てきたり、ガダラの豚が群れを成して湖に飛び込んだり、シュールすぎます。「福音書は壮大な文学」みたいに言う人もいますが、あんな意味不明な作品が素晴らしい文学作品だとは私には思えません。日本で福音書を読む場合は、ラテン語→英語→日本語と何重にも翻訳されているという部分を差し引く必要があるかも知れないですが、たとえそうだとしてもあまりに大幅に違うということもないでしょうから、私には不親切な読み物に思えて仕方がありません。

想像ですが、遠藤周作さんも同じ思いを持ったのではないかと思います。『侍』では、主人公がカトリックの教えに触れて、そんな奇怪な物語の男を信心することが信じられないというような感想を持ちます。私も同じ感想です。

遠藤周作さんの『イエスの生涯』ではそういった不明な部分、奇怪で説明のつかない部分に分け入り、詳しく検証し、分析し、聖書に対するインテリジェンスを発揮してくれています。福音書に書いてあることが、一体どういうことなのかを西洋の学者の見解も交えて、著者の知見と結論を述べてくれています。福音書に対する理解が深まり、違和感、意味不明な感覚がだいぶ減ったので、そういう意味では一読して良かったと思っています。もちろん、遠藤周作さんがこの著作の中で述べているように、遠藤さんの人生を投影して書かれているものですので、そこはそういうものだと思って読まなくてはいけません。もっとも、自分の人生や心を投影しないものを人は書くことができません。このブログもそうですし、その他の全ての本、文章、記事もそうだと私は思います。ですので、「私は中立に淡々と述べただけだ」と言う人の書く物よりも、「自分の人生を投影している」と書いてる書物の方が正直で、その分、信頼できるかも知れません。

遠藤さんが取り組んだ最大の疑問は、イエスの弟子たちが、イエスの死後、命をかけて布教に取り組んだのは何故か、ということです。イエスが逮捕された時、弟子たちは驚いて逃げてしまいます。しかし、四散したわけではなく、エルサレムの外のいずれかに固まって身を寄せ合っていたようです。更に一部の弟子たちはイエスの審問の場に同席しており、その一部始終を見ています。遠藤さんが疑問に思うのは、なぜ、一部始終を見た弟子が逮捕されなかったのかということです。弟子のペトロ、またはペトロに代表される複数の弟子たちはユダヤ教会と取引し、いわばイエスを売ることで身の安全を得た可能性があることを遠藤さんは指摘しています。

もしそうだとすれば、イエスの死後、弟子たちが命の危険を省みずに布教したことの説明がつきません。見捨てた師匠のことは早く忘れて新しい人生を歩むと考えるのが普通です。しかも、ペトロに代表されるように、イエスのことは知らない、私と彼は関係ないと言い張って難を逃れようとする心の弱い人たちです。或いは、自分は何とか助かりたいと願う普通の人です。

遠藤さんはイエスが十字架にかにけられた時、最後の言葉の中で決して弟子たちを非難しなかったことをその理由として考えています。普通だったら自分を見捨てた者に呪詛の言葉を吐いて死んでいくものかも知れません。しかし、イエスは最期まで愛の言葉を説き続け、死に至ります。完全な愛とは何かをイエスは自分が十字架にかけられることによって証明したと言うこともできるかも知れません。弟子たちの心の中に感動とイエスを見捨てたことへの後悔が広がります。この時の心の動きが弟子たちを大きく変化させ、不屈の伝道師へと生まれ変わったのだと遠藤さんは考えます。

いろいろ理解できてくると福音書はおもしろいです。イエスがエルサレムに入り、逮捕され、審問を受け、ピラトがイエスの死刑を避けようとするもののうまくことが運ばず、ゴルゴダの丘へと十字架を担いで歩かされる場面を頭の中である程度像を結ぶようになると、その圧巻さ、ドラマチックさを感じられるようになってきます。

遠藤さんが描くイエスのイメージ、またはイエスがこの世に来たことの意味についての考察などは、他に『深い河』『おバカさん』『死海のほとり』『沈黙』『キリストの誕生』などを合わせて読むことでだんだんわかってきます。そのため、『イエスの生涯』だけで全てを理解することはできません。まず、ストーリーとしてイエスがどんな人なのかという像を頭の中に結べるようにするには『死海のほとり』を読むのがいいと思います。「無力で無能だが、弱い人をただ愛するイエスキリスト」の姿は、福音書に書かれている数々の奇跡、即ち合理的に説明のつかない出来事に対して、遠藤さんなりの解釈を加えて、それでもイエスは「愛」だけを説くという深い意味を持つ人だったということが描かれます。理解しやすいです。その上で『おバカさん』『深い河』『キリストの誕生』の順番で読み、実は最後に『沈黙』を読むのがいいのではないかなあと思います。これは私見です。
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遠藤周作『鉄の首枷』の小西行長の裏切る人の心理

遠藤周作『鉄の首枷』の小西行長の裏切る人の心理

遠藤周作さんの『鉄の首枷』という小西行長の評伝を読んで私が思ったのは、小西行長のような人間を友人にしたら大変だということでした。

キリシタン大名だった小西行長は、豊臣秀吉がキリシタン禁令を出した際、高山右近を自分の領地に匿います。これは、まあ、いいと思います。信仰という心の自由を守る戦いです。豊臣秀吉が朝鮮半島に兵を出したとき、小西行長と加藤清正が活躍します。二人とも破竹の快進撃をしますが、小西行長の方はなるべく早期に戦争を終わらせるため、独自に講和を図り、秀吉を上手にだまして手を打とうとします。これも、まあ、平和のためだと思えば、悪いことだとは言い切れません。私は秀吉のことはあまり好きではないですから、秀吉の味方をするつもりもありません。

ただ、一旦なりかけた講和が破綻し、二度目の戦争になった時、小西行長は加藤清正が戦死するよう陰謀をめぐらせ、相手側に加藤清正の行動を知らせて攻撃を仕掛けるように持ちかけます。これはやり過ぎです。やり過ぎという表現ではやさしすぎます。裏切ってます。こういうタイプは大事なことを話して「誰にも言わない」約束しても尾ひれをつけて言って歩きます。友達にしてはいけないタイプです。

私も人生で何人かこんな感じの人に出会ったことがあります。気づかないところで約束を破ったり、さりげない嘘をつきます。味方のふりだけは続けるのでかえってやっかいです。小西行長は自分の内面や良心には正直な人に違いありません。それはいいことです。しかし、自分に正直でいることのリスクを取ろうとしないので八方美人になり、嘘をついてかすめ盗ろうとします。とてもやっかいです。

遠藤周作さんが小西行長に関心を持った理由は幼少期に自分の意思とは関係なく洗礼を受けたということが共通しているからかも知れません。行長の内面を推量するために学術論文や当時の資料などを読み込んで書かれた労作です。とても面白い作品です。遠藤さんは行長が内面の秘密を守り抜こうとしたことに自分を投影したのではないかと想像します。遠藤さんの『母なるもの』で、自分には絶対に他人には言えない秘密が一つだけあると書いてあります。どんな秘密かは多分、どこにも書かなかったと思いますから永遠に分かりません。遠藤さんの作品をとにかく読み込んでそこから推量することは可能かも知れませんが、どこまでやっても推量で、本当のことは分かりません。ただ、社会的な安全のために表面は周囲に合わせてそれが自分の本意であるかのように装い、実は内面では全く違うものを抱えているというのは、確かに苦しいことですし、誰もが多かれ少なかれ抱えるものかも知れません。私には「秘密」というほど大げさなものはないですが、それは違うと思ったことを呑み込んで周囲に合わせるということはよくあります。

秀吉の家臣に小西行長という人物がいて、関ケ原の戦いの時は石田三成の味方をしたということはそれなりに知られていると思いますが、もっと詳しいことはよくは語られません。子どものころに読んだ子ども向けの『太閤記』では、朝鮮出兵の講和のために担当者が適当な嘘をつこうとしたくらいのことが書いてあったのは覚えていますが、その人物が小西行長だとか、小西行長がどういう人物かとか、そういうことは出てきませんでした。名前だけはよく見たことがあるのに、どんな人かこの作品を読むまでは全然と言っていいほど知りませんでした。

もちろん、遠藤さんが描いた小西行長像ですので、本当の小西行長の姿とどれくらい同じなのかということは簡単には判断できません。そんなことは論じても仕方がないかも知れません。私にとっては、大事なところで嘘をついたり裏切る人の心理がなんとなく、ようやく理解できたと感じられたので、とても有益な作品でした。

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遠藤周作『青い小さな葡萄』のイエスキリストイメージ

遠藤周作さんの作品には何度となくイエスキリストの役割を背負う人が登場します。たとえば、初期の作品に『青い小さな葡萄』というものがありますが、この題名の「葡萄」は西洋絵画のイエスのアトリビュートに対応しています。アトリビュートとは、西洋絵画で聖書上の人物を取り扱う際、誰が誰なのかすぐに分かるように、人物と一緒に描く付属品のようなもので、イエスの場合は葡萄がアトリビュートして用いられます。それが100パーセントというわけではないですが、葡萄とイエスがセットだということは、広く認識してされているという程度に考えるのがいいと思います。

『青い小さな葡萄』は、戦争が終わってまだ日が浅いころ、戦争中にフランスを占領していたドイツ軍の兵士だった男と、千葉というフランスに留学してきている日本人の男が一緒にフランス人同士の虐殺された場所を確認しにいくという内容になっています。遠藤さんの心境としては「フランス人だってやってるじゃないか!」ということなのだろうと推量します。

どのようにイエスイメージが関わってくるのかというと、ドイツが戦争で負けることがわかってくるとフランスの各地でパルチザンが蜂起しドイツ兵が襲撃されるようになりますが、このドイツ兵の男も襲撃され、とある建物に身を隠します。それを偶然、フランス人の若い女性が見てしまいます。ドイツ兵にとっては万事休すか…というところなのですが、その女性は恐る恐るドイツ兵のところに葡萄を投げ入れてどこかへ逃げていきます。絶体絶命の時に与えられるささやかな救い、人間的な愛情は遠藤周作さんが終生のテーマにしたことですが、このように女性が葡萄を投げ込んだということは、女性がイエスのイメージを担っているということを意味します。

ドイツ人の兵士は片現場の遺留品から女性の名前と住所を特定し、片腕を失いつつもドイツに帰還することに成功し、戦後、その女性に会うことを目的に再びフランスへに来て、日本人の千葉という青年と出会います。敗戦国民同士の相哀れむような友情が生まれますが、千葉はドイツ人の内面に潜む人種差別意識を千葉は敏感になります。互いに軽蔑しつつ、しかし、離れることができないという関係が二人の間に生まれます。

二人は女性の住所のある街へ行きますが、実際には女性はフランス人内部の反ナチス運動の方針の違いによる抗争に巻き込まれて私刑に遭い、殺されてしまっていたことが少しずつ明らかになっています。ミステリー小説のような要素も含まれています。やがて私刑が行われた場所に辿り着き、ドイツ人の若者は女性が殺されていたという事実を受け入れるようになります。ドイツ兵の若者を助けた女性が理不尽な私刑によって命を落とすことは、イエスキリストが福音書で理不尽な理由で十字架にかけられたことに対応しています。

遠藤周作さんの作品には密かに沢山の聖書の記号が入れ込まれてあるので、それを見つけていくのもおもしろいです。

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遠藤周作さんの『沈黙』はこれまで何十回も読み、新潮文庫がぼろぼろになったら買い換えるというのを三、四回繰り返しました。この作品をざっくりとちょっと乱暴なくらい簡単に要約するとすれば、西洋人が日本に挑戦して敗北する話です。遠藤周作さんは10歳の時に神戸でお母さまの命令で洗礼を受けていますが、内心、極めて強く納得できていなかったということがよく分かります。遠藤周作さんの作品はほとんど全てが「キリスト教は嫌いだが、キリスト教棄てられない」という二律背反を納得できる形に収めるということが主題です。

なぜそれほどキリスト教が嫌いなのかは、想像するしかありません。正面切って西洋が嫌いだと言い切っている作品なら『アデンまで』と『青い小さな葡萄』が思い当たります。ただ、その二つの作品で著者が憤っているのは人種差別に対してです。フランスに留学したことと当然ながら強い関係があります。一方で、キリスト教が嫌いだと正面から書いているものは、ちょっと見当たりません。そのため、あてこすりのようなことをひたすら書き続けているという印象があります。

キリスト教がこんなに嫌いなのに否定できないのは、お母さまがキリスト教を心の支えにしていて、遠藤周作さんがキリスト教は自分とお母さまを結ぶ絆だと感じていたからだと一般には理解されていると思います。そうかも知れません。しかし、母と子の絆にそのような媒介は必要なのだろうか?という疑問が私にはあります。人にもよるでしょうけれど、母子は通常、直接結びつくものではないかという気がして、そこにおそらく遠藤さんの、たぶん、本音中の本音の苦しいところがあるのではないかと思います。

これは大変に品のない想像なのですが、私は神戸時代にお母さまとカトリックの神父さんの間で何かあったのではないか、遠藤さんはそれを知ってしまったのではないかという気がします。これは単なる品のない想像ですので、批判されたら謝ります。

遠藤周作さんの作品をざっくりと時間軸的に追うと、『アデンまで』と『青い小さな葡萄』には西欧に対する深い憎悪、人種差別に対する憤りがあります。『白い人・黄色い人』では憎悪とともに無力感が漂います。『海と毒薬』ではむしろ内省的に日本人の心の問題を扱います。しかし、著者の心理には復讐心があるように私には感じられます。『沈黙』は、いわば日本の完全勝利です。完膚なきまでに叩きのめしたとすら言っていいかも知れません。その後、著者の内面に変化が訪れたと思うのですが、キリストイメージの確立、遠藤さんの考えや好みに合う、遠藤さんの内面の矛盾を解消するキリストイメージを作り上げようとします。そのため、ガストンさんのような人が登場します。ただ、私にはガストンさんのような「おバカでお人よしで人畜無害で心優しくエゴを出さない外国人」の姿は、遠藤さんがフランスで求めらていた姿なのではないかという気がします。現実生活でそのような人間の役割を負わされるのは非常に辛いです。自分は内面とエゴと欲求のある人間なのだ。いい人ばかりやっていられないのだ。と叫びたくなるはずです。

そういう意味では、キリスト教とフランス留学という自分の運命、または人生に対する異議申し立てを書き続けてきたのではないかなあと私は思います。

『深い河』は遠藤さんの宗教論の完成形、結論というような形で語られることが多いです。ですが、私には都合よくいろいろなものを切り取ってきたつぎはぎの作品に見えてしまいます。異議申し立て以上の何かを描こうとされたと私は思いますが、結果としては異議申し立ての念押しみたいな作品になったと思っています。その異議申し立てを美化するために成瀬美津子が登場します。『深い河』での成瀬美津子の心境の変化は私には付け焼刃に見えます。インドの河で沐浴して人生観が変わるというのはお手軽すぎます。

『沈黙』の話を書くはずが全然違う話になってしまいました。遠藤周作さんの作品に対する批判ばかりになってしまいましたが、私がどれほど熱心に読み込んだかをお察しいただき、おゆるしください。

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遠藤周作と満州

遠藤周作は世界中の様々なところに出かけて取材し、作品を書いた作家です。フランスへの留学経験があるため、フランスのことはよく出てきますが、もう一つ、満州のことも彼はよく書いています。

 遠藤は少年期を大連で暮らしており、両親の離婚に伴って母の実家のある神戸へと転居しました。そのためか、遠藤の描く大連の思い出は寂しさや悲しみに満ちているように感じられます。『海と毒薬』、『深い河』で描かれる登場人物にとっての満州はどれも悲劇的、または寂寥感にあふれており、彼がかの地でどのように心象風景を形成していったかを知る手がかりになっていると言うこともできるでしょう。

 遠藤周作は犬が好きなことでも知られている人ですが、満州時代に満州犬を可愛がっていたことと、母と帰国する時に犬とも別れなければならなかったことが、犬好きとも大きく関係していることでしょう。

 大連で出会った中国人には親愛の情を込めた描き方をしており、満州時代に自宅に来ていたボーイの少年との友情が感じられる他、日本人に売り物を徹底的に値切られる売り子への同情も読み取ることができます。

 遠藤よりも少し年上の作家たち、安倍公房や三島由紀夫が小説作品に自身の主張を刻み込んで行ったのに対し、遠藤の世代、いわゆる第三の新人と呼ばれる人たちの作品には主張よりも心の旅を書くことに関心が強かったようにも思えます。或いは心と主張が不可分になっていたのかも知れません。

 満州は日本の侵略によって作られた植民地国家と言ってよいですが、それだけに、同時代を生きた人たちの中では満州と関わりがあったという人も大勢いました。そういう時代の人の書いた満州に関することを読み解いていくことも、日本の近現代史を理解する上での有効な手助けになるのではないかと思います。

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