『火垂るの墓』をもう一度みて気づく「無責任の体系」

高畑勲監督が他界されたことを機に、『火垂るの墓』についてよくよく考える日々が続き、もう二度と見たくないトラウマ映画だと思っていましたが、やっぱりもう一回見ないと何とも言えない…というのもあって、改めて見てみました。ネットで広がる清太クズ論は私の内面からは一掃され、それについては完全否定するしかないとの結論に達しました。

父も母も家もない状態で、清太は妹を守ることに全力を尽くしており、金にものを言わせようとした面はありますが、最後に頼れるのはお金と思えば清太が金を使うことは正しく、更に言えば盗みをするのも妹と生き抜くためにはやむを得ません。それこそ非常時です。空襲で家を焼かれなかった人の数倍、清太個人にとってはとても支えきれない大非常時と言えます。

西宮のおばさんが悪いのでしょうか?私は自信をもって西宮のおばさんが悪いと断言できますが、悪いのは西宮のおばさんだけではないというのがこの作品のミソではないかと思います。とはいえ、まずは西宮のおばさんを糾弾するところから始めたいと思います。確かにおばさんにとっては、清太と節子の兄妹は厄介者です。しかし、親を亡くして焼け出された兄妹に対し「疫病神」だのなんだのと言っていびり倒すのは間違っています。印象的なのは清太が決心して節子とともにこっそり西宮のおばさんの家を去ろうとした際におばさんと不意に遭遇してしまった時の様子です。おばさんは「気いつけて」「せっちゃん、さようなら」と言い、心配そうに二人の後ろ姿を見送ります。おばさんは大人なのです。出て行こうとする二人に対して「何をバカなことを考えているのか。二人で野宿でもするのか。いいから家にとどまってこれからのことをよく考えなさい」と説諭してしかるべきです。しかし、心配そうに見送るだけなのです。いびり倒した上に心配そうに見送るだけのおばさんに非があって当然です。おばさんの家には少なくとも三畳間が余っているわけですし、食料がないと言っても清太と節子の食料の配給もあったのです。二人は野宿者となり、配給すら受け取れない状態へと自滅していく様子がおばさんにはありありと見えたはずです。にもかかわらず、心配そうに見送るだけしかしない大人の責任とは問われなくてはいけません。

この作品では大人の「無責任」が随所で強調されています。たとえば清太が盗みを働いた農家の男は清太を殴り倒し、おさない妹がいることを知りながら「自分が受けた被害」だけに憤慨して警察に突き出します。西宮のおばさんは「助け合い」を清太に強調しましたが、おばさんも所属する大人の世界は我が事のみを考える世界だったわけです。警察官は清太に優しいですが、水を飲ませるだけで今後の二人を助けるきっかけを与えようとまでは考えません。警察官も無責任なのです。清太が母親の着物やお金と交換に食料をもらいに行っていた農家のおじさんも清太にお金がないと分かった瞬間に食料の提供を拒み「うちではそんなに余っていない」「お金や着物のことを言っているのではない」「おばさんに頭を下げろ」と米のおにぎりを食べながら諭しますが、はっきり言えば交換できる物のないやつに与える飯はねえというわけです。

節子が亡くなって荼毘にふすために必要な材料を買いに行ったとき、お店の人が呑気そうに「今日はええ天気やなあ」と言いますが、その表情が実に幸せそうであり、清太にとって重大事である節子の死に対する慎ましい態度というものを見せようとする気遣いすらありません。

高畑勲監督が『火垂るの墓』は反戦映画ではないと言っていましたが、今回改めて見てよく分かりました。これは戦争の悲惨さを描く作品なのではなく、丸山眞男が唱えた「無責任の体系」を描く作品だったのです。ですから、美しい日本とか、助け合いの日本とか、公共道徳に優れた日本とか言ってるけど、お前らみんな、清太と節子を見捨ててるじゃん。と監督は言いたかったのではないかと私には思えます。丸山の無責任の体系のその中心に天皇がいるという議論には私は賛成しかねます。天皇制があるから戦争中の日本人が無責任だったのだという議論そのものが無責任だと私には思えるからです。新聞が煽り、国民も多いに沸いて主体的に戦争に関与し、ある人は儲けも得て、戦争に敗けたら〇〇が悪いと言い立てて自分には責任がないと言い張ろうとする姿こそ無責任です。そしてそれは少なくとも『火垂るの墓』が制作されたその時に於いても同じなのだと高畑監督は主張したかった。だから最後に現代のきらびやかな神戸の夜景のシーンを入れたのではないかと私は思います。

余談というかついでになってしまいますが、統制経済を導入し食料を配給制にして、隣組に入っていないと配給すら受けられないとする、ちょっとでもコースから外れたら即死亡という体制翼賛的国民総動員社会を作ったのは近衛文麿です。国民総動員の名のもとに国民の自由意思を制限し、全てをお国に捧げざるを得ないように仕向けた結果、戦争も敗戦も自分には何の責任もないというロジックが生まれたとすれば、敢えて私は清太と節子が死んだのは、近衛文麿がせいだと言いたいです。

トラウマ映画の『火垂るの墓』ですが、今回は初見ではなく節子が死ぬことは最初から分かってみていましたし、いろいろな情報を得て感情面でも中和してみることができましたから、心理的ダメージは少なくて済みました。もう一回見たいかと問われれば、もう二度と見たくありません。


リットン報告書は受け入れてもよかった

1931年に発生した満州事変が石原莞爾と関東軍による画策で行われたということについては、もはや議論の余地はないように思います。思想信条がいわゆる右の人であろうと左の人であろうと、そこは一致するのではないでしょうか。で、この事件は蒋介石の中華民国政府が国際連盟に訴え出て、国際公論の場でなんとかしてもらおうと考えます。軍事力では日本に対抗し難いので、国際世論に助けてもらおうというわけです。この辺り、私は蒋介石はなかなか考えたというか、戦略的思考のできる人だと思います。

さて、日本は満州事変によって誕生した満州国がウッドローウイルソンの提唱した民族自決の趣旨にそったもので、満州地域の住民が自発的に望んで独立したのだと主張したわけですが、蒋介石も第一次世界大戦以降の世界的な平和志向の流れに沿う形で、満州が中国の主権の及ぶ範囲であり、まあ、力による変更は認めないと真っ向から対立します。

で、イギリス人のリットン卿を団長とするいわゆるリットン調査団が日本、満州、北京と歩いてその報告書を提出します。リットン報告書です。一般的なイメージでは、リットン報告書は日本の主張を厳しく批判し、日本を糾弾するものだったかのように受け止められていると思うのですが、内容は全然そんなことはありません。リットン卿は北京で書いたとする報告書の中で、満州国は関東軍の実力行使の結果生まれたもので、現地住民の意思なんか全然反映されてないし、民族自決とは関係ないと壟断していますけれど、一方でその解決策としては中国の主権の及ぶ範囲であると認めつつ、現実的には当該地域の自治と日本の利権を認め、日本を中心とした国際管理を提案しています。即ち、中国には名を与え、日本には実を与えるというなかなかに現実主義的なプラグマティックで実現可能、双方の言い分をそれなりに取り入れた内容になっているように思えます。

しかしながら、日本の代表の松岡洋右はリットン報告書を受け入れるようにとする国際連盟の勧告に強く反発して国際連盟脱退するという悪手を選んでしまいます。この辺りに関するものはどの書物を読んでも非常にがっかりする場面で、読めば読むほどがっくししてしまうのですが、仮にプラグマティックに考えるのであれば、中国には名目上の主権はあるものの、満州に日本主導下の自治政権が立ち上がるわけですからその実をとり、スペードのエースともいえる溥儀を抱えているわけですから、溥儀に満州族の独立の必要性を訴えさせ、少しずつ満州国の既成事実化を図るという選択肢はあったはずです。リットン報告書は日本にとって全然損な話ではなく、受け入れ可能なものでした。にもかかわらず、日本側の主張を全て認めないのであれば脱退するという、残念ながらかなり一方的な外交が行われたことは、慚愧に耐えないとすら思えてしまいます。しかも、イギリス側からは国際連盟とは別のテーブルでみんなで仲良く満州で列強がおいしいおもいができるようにしませんか?という提案すらなされているのに、それをも拒絶しています。なんじゃこりゃ!と言いたくなってしまいます。イギリスの提案にのっかれば、リットン報告書を最低条件にして更に上乗せした条件で交渉できたでしょうから、こんなにいい話は本当はないはずです。それを断るというのは「世間知らず」というものです。

一応ことわっておきますが、日本がどうすれば満州を手に入れることができたかを考えたいわけではありません。「満州は日本の生命線」という当時の言説そのものがプロパガンダみたいなものですし、そもそもアメリカを仮想敵としたから後顧の憂いを断つために満州を手に入れたいという願望が湧いてきたわけですけれど、アメリカを仮想敵にする必要はありませんでしたから、満州は最初から日本人にとって必要のない土地なのだと私は思います。あくまでも当時の政治の責任者たちがどうしても満州に影響力を持ちたいというのなら、違った戦略的思考を持つべきだったのでは?ということです。

近年の研究では内田康哉が松岡に対して「脱退せよ」との訓令を出し、松岡が「外交は腹八分目でなくてはならない」と返信したという発見があったみたいなのですが、この時の内田の発想法は国際連盟から脱退すれば、国際連盟の勧告に従う必要はないという場当たり的で大局観のないもので、このやり取りを見る限り、松岡の方が真人間に見えてきます。松岡は国際連盟の脱退を失敗だったと考えていたようですが、帰国すると国民からは拍手喝采で、日本が大きく道を誤った大きな要因として新聞による世論の誘導は無視できないだろうと思えます。その後、松岡はおそらくは相当に悩みぬいて国際連盟を軸とする世界秩序に対抗するために日独伊枢軸であったり日ソ中立条約であったりというものを構想していきます。近衛文麿内閣の東亜新秩序更にその後の大東亜共栄圏構想というのも、国際連盟による世界秩序に対抗する軸としてどんどん関係者の頭の中で膨らんでいったものなのだろうと思います。結果として日本は敗戦し、今も敗戦国民の地位にいるわけで、本当に後世の日本人の一人としては、なにやってんだよ…としょんぼり突っ込みたくなってしまうのです。


昭和史76‐太平洋戦争は何故起きたのか(結論!)

資料を読み続けてきましたが、一応、手元に集めたもの全てに目を通しましたので、ここで一旦、昭和史については終えることにしますが、そこから私が得た知見を述べたいと思います。太平洋戦争は何故起きたのか、私なりに結論を得ることができました。

1、蒋介石との戦争に固執し過ぎた

日本軍、特に陸軍は蒋介石との戦争は絶対に完遂するとして、一歩も引く構えがありませんでした。しかし、情報・宣伝・調略戦の面では蒋介石が圧倒的に有利に展開していたということに
気づきつつもそこは無視してとにかく重慶を陥落させるということに固執し、空爆を続け、蒋介石のカウンターパートとして汪兆銘を引っ張り出し、新しい国民政府を建設し、蒋介石とは
対話すらできない状況まで持ち込んでいきます。情報・宣伝・調略の面では、蒋介石はソビエト連邦を含む欧米諸国を味方につけており、しかも欧米諸国はかなり熱心に蒋介石を援助していましたから、長期戦になればなるほど日本は疲弊し、国力を消耗させていくことになってしまいました。フランス領インドネシアへの進駐も援蒋ルートの一つを遮断することが目的の一つでしたが、それがきっかけでアメリカからの本格的な経済封鎖が始まってしまいます。アメリカから日本に突き付けた要求を簡単にまとめると、「蒋介石から手を引け」に尽きるわけで、蒋介石から手を引いたところで、日本に不利益はぶっちゃけ何もありませんから、蒋介石から手を引けばよかったのです。それで全て収まったのです。更に言えば、日本帝国は満州国と汪兆銘政権という衛星国を作りますが、味方を変えれば中国の国内の分裂に日本が乗っかったとも言え、蒋介石・張学良・汪兆銘・毛沢東の合従連衡に振り回されていた感がないわけでもな
く、汪兆銘と満州国に突っ込んだ国富は莫大なものにのぼった筈ですから、アメリカと戦争する前に疲弊していたにも関わらず、それでもただひたすら陸軍が「打倒蒋介石」に固執し続けた
ことが、アメリカに譲歩を示すことすらできずに、蒋介石との戦争を止めるくらいなら、そんな邪魔をするアメリカとも戦争するという合理性の欠いた決心をすることになってしまったと言っていいのではないかと思います。

2、ドイツを過度に信頼してしまった

日本が蒋介石との戦争で既に相当に疲弊していたことは述べましたが、それでもアメリカ・イギリスと戦争したのはなぜかと言えば、アドルフヒトラーのドイツと同盟を結んだことで、「自分たちは絶対に勝てる」と自己暗示をかけてしまったことにも原因があるように思います。日本だけでは勝てない、とてもアメリカやイギリスのような巨大な国と戦争することなんてできないということは分かっている。だが、自分たちにはドイツがついている。ドイツが勝つ可能性は100%なので、ドイツにさえついていけば大丈夫という他力本願になっていたことが資料を読み込むうちに分かってきました。確かにドイツは技術に優れ、装備に優れ、アドルフヒトラーという狂気故の常識破りの先方で緒戦に勝利し、圧倒的には見えたことでしょう。しかし、第一次世界大戦の敗戦国であり、植民地もほとんど持たなかったドイツには長期戦に耐えるだけの資本力がありませんでした。更にヨーロッパで二正面戦争に突入し、アメリカがソビエト連邦に大がかりな援助を約束してもいますから、英米はドイツはそろそろ敗けて来るということを予想していたとも言われます。日本帝国だけが、ドイツの脆弱性に気づかなかったというわけです。ドイツは絶対に勝つ神話を広めたのは松岡洋右と大島駐ベルリン大使の責任は重いのではないかと思えます。

3、国策を変更する勇気がなかった

昭和16年7月2日の御前会議で、南進しつつ北進するという玉虫色的な国策が正式に決定されます。フランス領インドシナへの進駐もその国策に則ったものですし、構想としてはアジア太平洋エリア丸ごと日本の経済圏に組み込むつもりでしたから、その後も南進を止めることはできなかったわけで、南進を続ければそのエリアに植民地を持つイギリス・アメリカとは必ず衝突します。アメリカとの戦争を近衛文麿が避けたかったのは多分、事実ですし、東条英機も昭和天皇からアメリカとは戦争するなという内意を受けていたのにも関わらず、国策に引っ張られ、国策を決めたじゃないかとの軍の内部からも突き上げられて戦争を続けてしまったわけです。

以上の3つが主たる原因と思いますが、どれもみな、日本人が日本人の意思としての選択であったと私には思えます。蒋介石との戦争に必然性はありませんから、いつでも辞めてよかったのです。ドイツを信用するのも当時の政治の中央にいた人物たちの目が誤っていたからです。国策だって自分たちで決めることですから、自分たちで変更すれば良かったのです。そう思うと、ほんとうにダメダメな選択をし続けた日本帝国にはため息をつくしかありません。私は日本人ですから、日本が戦争に敗けたことは残念なことだと思います。しかし、こりゃ、敗けるわなあとしみじみと思うのです。

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昭和史75‐「帝国遂に立てり」orz

手元の資料の昭和17年1月1日付の号では、表紙にでかでかと『帝国遂に立てり』と大きな字が書かれています。やっちまったのです。アメリカと戦争するという一番やってはいけない悪手をとうとう選んでしまった、悪い意味での記念号なのです。

それより少し前の資料では近衛文麿首相の退陣と東条英機首相への大命降下について書かれており、そこでは近衛内閣は閣内不一致で総辞職になったが、国策そのものに関する不一致ではなく、国策遂行手段に関する不一致で総辞職になったと説明されていました。現代を生きる我々は知っています。近衛は大幅に譲歩することでアメリカとの戦争を避けたかった、一方で東条は昭和16年7月2日の御前会議で行われた国策決定をひっくり返すことを拒絶し、アメリカとの戦争も辞さないという彼の態度が内閣不一致に至ったことを。

東条英機は首相就任後に木戸内大臣を通じて昭和天皇から「戦争より外交を優先するように」との内意を受けていましたが、それでもやっぱり戦争することに決定し、その日の夜は自宅で号泣したと言われています。号泣したいのはこちらの方です。政治家たちが何とか戦争を避けたいと思っていたのに対し、陸軍は蒋介石との戦争を止めるくらいならアメリカとも戦争するという主戦派で、アメリカと戦争するとなれば実際に動くのは海軍なわけですが、連合艦隊は準備万端整えており、更に予算がつくのなら半年一年はやってみせると言うものですから、政治家たちも迷い出し、おそらくは戦争になったら儲かる考える財界人も居て、なんのこっちゃらわからんうちに「アメリカと戦争する以外に道はない」という結論に至ってしまいます。船頭多くして船山に上るとはこのことを言うのかも知れません。

私の推測も交えて言えば、当時日本帝国は既に火の車です。蒋介石と戦争するための戦費、満州国の維持費、汪兆銘政権の維持費、更に海軍力の増強に航空戦力の強化と金がザルに水を灌ぐようになくなっていったはずです。それでも世界で一番資本力のある国と戦争しようと言うのですから、正気の沙汰とは残念ながら思えません。

当該の号では「アメリカが癌なのだ」と主張し、癌は切開して切り取らなくてはならないとしていますし、日本軍の強力さも主張しています。短期戦でなら勝てるという見込みは確かに正しかったし、実際に短期的には大勝利なわけですが、後はじりじりと押されてやがて圧倒され、滅亡に至ります。そしてその禍根は種々の面で今に至るまで続いています。あー、やってらんねえと資料を自分で読みながらも、読む気がしなくなってきます。まあ、もう少し、頑張って読み続けたいと思います。

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昭和史72‐昭和16年7月2日の御前会議‐日本帝国終了のお知らせorz

昭和16年7月2日、近衛内閣が御前会議で「情勢ノ推移二伴フ帝国国策要綱」を採決します。閣議決定ではなく、御前会議ですから当時の感覚としては変更不能な絶対神聖な決定だと考えられたに違いありません。

私の手元にある資料では「御前会議にて重要国策を決定 内容は公表せず不言実行」と書かれてあります。当時の一般の人はどんな国策が決められたのかはさっぱり分からなかったというわけです。もちろん、現代人の我々はその内容を知る事が出来ます。1、大東亜共栄圏の確立を目指す 2、南進するが状況次第で北進もする 3、そのためには万難を排して努力する、というのが当該の御前会議で決められた国策だったわけです。

「大東亜共栄圏」については、当時はブロック経済圏を持たなくては生き延びることができないと信じ込んでいる人が多かったですから、まあ、理解できないわけではありません。大東亜共栄圏という美名を使って日本円経済ブロックを作ると言うのは、当時、覇権国のプレイヤーを自認していた日本帝国としては悲願だったということは、分かります。しかし、2番目の南進と北進両方やるというのは、玉虫色、ご都合主義、政府内の南進論者と北進論者の両方を満足させるための無難に見えて実は滅亡必至の国策だったと言わざるを得ません。日本帝国はもともとは南進を志向し、広田弘毅内閣以降、それは国策として進められ、日本帝国が南へ拡大しようとしていることは周知の事実であったとも言えますが、一方でソビエト連邦と共産主義に対して警戒感を持つグループでは北に備えるべしとの声が根強く、松岡洋右がソビエト連邦と中立条約を結んだことは平和的且つ低コストで北の脅威を払拭できた「はず」だったにもかかわらず、ドイツが不可侵条約を破ってソビエト連邦に侵攻したことで、「あわよくば」的な発想が持ち上がり、ドイツ側からは日本のソ連侵攻について矢の催促が来ていたことで、まあ、迷いが生じてしまったと言えるのではないかとも思えます。そもそも西で蒋介石と戦争を継続中で既に軍費が嵩んで日本帝国は青色吐息になり始めていたわけですが、更に東のアメリカと睨み合う中、南にも攻めていく、北にも攻めていくというのは、無理難題というものです。日本帝国は誰にも強要されたわけではなく自分たちで無理難題に挑戦することを選択してしまったと結論せざるを得ません。

仮に、ドイツと一緒に戦争に勝って日独新世界秩序みたいなものを作り上げることを優先するとするならば、断然、北進が正しく、ソビエト連邦は二正面戦争になりますから、日独勝利でもしかたら英米も弱気になって妥協するということはあり得なくもなかったかも知れません。この国策を受けて関東軍は満州で関東軍特別演習を行い、北進の機会を伺いますが、世界に「私たちは野心があります」とわざわざ宣言するような行為をしておきながら、日ソ中立条約もありますし、ノモンハンのトラウマもあって一線を越えることはありませんでした。資本力でドイツが劣っていることは一般知識だったとすら言えますから、長期戦でソビエト連邦に絶対に勝てるかと問われれば、普通なら絶対に勝てるとは思えないはずですが、ヒトラー信仰の空気が支配的になっており、日本が加担しなくてもドイツが努力でソビエト連邦を滅ぼしてくれるだろうというあまりに甘い観測で、状況を見誤ってしまったとも思えます。

一方で、南進は以前から国策だったこともあり、南部フランス領インドシナへの進駐をアメリカからの警告を受けていたにもかかわらず遂行し、結果としては経済封鎖を受けて、やむを得ず真珠湾攻撃へと至ります。すなわち、北進優先だったら戦争には勝てたかも知れないのに、南進の方を積極的に進めて日本帝国は滅亡への道をまっしぐらに大急ぎで駆け抜けてしまったと言ってもいいのではないかと思います。しかも「3」で万難を排してそれを遂行すると昭和天皇の隣席で決めてしまったので、アメリカと戦争してでも南進を推し進めることになってしまったわけです。日本帝国終了のお知らせorzです。資料を読めば読むほどがっくしですが、まだしばらくは続けます。

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昭和史71‐植民地と総力戦

日中戦争が泥沼化していく中、植民地では志願兵制が導入されていきます。私の手元の資料では植民地の人の健康管理、体力増進をやたら強調していますので、将来的には徴兵制に対応できるように整えようとしていた意図があったようにも思えます。

朝鮮半島での志願兵制は少し早かったようですが、昭和17年には台湾でも志願兵制が施行されることになり、それに先駆けて皇民報公会なるものも組織されることになったと、手元にある資料の昭和16年7月1日付の号で述べています。

で、この皇民報公会が何をするのかというと、台湾全島民を組織化し、皇民化を徹底し、お国へのご奉公をいつでもやれる組織にするということらしく、これまで「総力戦」という言葉は何度も当該資料で出てきましたが、ここにきてそれを実際にやろうというわけです。とはいえ、既に経済警察が置かれて経済の仕組みは統制経済、近衛文麿が大政翼賛会を作って政治的にも政党政治が死に絶え、蒋介石との戦争に莫大な戦費を使っていますから、とっくの昔に総力戦は始まっているとも言えますし、もうちょっとつっこんだことを言うとすれば、全島民ということですから女性、子供、老人も組織化するとしても、一体、それが戦争にどういう役に立つのか私にはちょっとよく理解できませんし、そういうことをやろうとするというのは日本帝国に焦りがあったことの証明のようにも思えます。

台湾は南進論の拠点と位置づけられており、当時既に東南アジア進出(侵略?)は既定路線になっていたわけが、当時、それらの地域はほぼ全域が欧米の植民地だったので、欧米諸国と戦争するつもりが充分にあったということも分かります。当該の号では、アメリカ、イギリスの民主主義・自由主義の体制に対抗して民族生存の戦いが行われるという趣旨のことが書かれてありますから、やなりわりと早い段階でアメリカとの戦争は想定されていたと言えると思いますが、一方でよく知られているように、中央ではぎりぎりまで本当にアメリカと戦争するべきかどうかで悩みぬき、憔悴していたとすら言える印象がありますし、ぎりぎりのところで近衛文麿が思いとどまろうとして東条英機の反発に遭い、首相の座を投げ出すあたり、政治家は迷っていたけれど、官僚は準備万端整えつつあったと見てもいいのかも知れません。もちろん、官僚は目の前の仕事に力を尽くしたのだと思いますが、大局的な判断するべき閣僚たちが右往左往の状態に陥っていたと見るべきなのかも知れません。

ここは想像になりますが、中央の意思決定関係者たち(政局関係者たち)、軍、官僚、植民地官僚、外交官がそれぞれにある人はアメリカとの戦争は困ると言い、ある人は蒋介石打倒のためなら世界を相手に戦争すると言い、ある人は戦争以外の手段で東南アジアを自分たちのブロックを確立しようとし、全体としては大東亜共栄圏という国策がある以上、周囲との軋轢、摩擦、対立は避けられないとも思えるものの、その国策はやめてしまおうという勇気のある人はいなかった。それが結果としては滅亡への悲劇につながったのではないかという気がします。

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昭和史65‐日独伊三国同盟と昭和天皇の詔書

とある情報機関が発行していた機関紙の昭和15年10月15日付の号では、盛大に日独伊三国同盟の成立を祝福しています。昭和天皇の詔書、更には近衛文麿の告諭、ついでにダメ押しの如くリーフェンシュタールの『民族の祭典』の宣伝まで掲載した狂喜乱舞ぶりを見せています。現代人の視点からすれば、アドルフヒトラーと手を結ぶというのは絶対にあり得ないとしか思えないですし、アメリカ・イギリスが「日本帝国滅亡させてもいいよね」と決心させる決定打になったとも思いますから、当時の資料を読むのはつくづくため息をつかざるを得ないのですが、取り敢えず、まず、昭和天皇の詔書の内容を見てみたいと思います。

政府二命ジテ帝国ト其ノ意図ヲ同ジクスル独伊両国トノ提携協力ヲ議セシメ茲二三国間二於ケル条約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク悦ブ所ナリ

とされています。この詔書を誰が起草したのかは分かりませんが、近衛文麿首相が強く働きかけて詔書の渙発に至ったことは間違いないものではないかと思います。近衛文麿としては天皇に詔書を出させることで三国同盟の正統性を高めたいという意図があったに違いなしと思います。昭和天皇本人がアドルフヒトラーに対してどういう意見を持っていたのかは多少謎ではありますが、昭和天皇は天皇に即位したばかりのころは色々と政治に口を出し、自分の影響力の大きさに驚いて立憲君主に専念しようと誓ったものの、やっぱりついつい口を出してしまうと繰り返していましたから、近衛文麿がアドルフヒトラーと組みたいと言い出した時に絶対反対というわけではなかったのかも知れません。『昭和天皇独白録』では、ナチスと話をまとめて帰って来た松岡洋右について「ヒトラーに買収でもされたのではないか」とかなり冷ややかなことを語っていますが、敗戦後のことですから、昭和15年の時の天皇の心境と敗戦後の天皇の心境には大きな変化があったと考える方が自然と思えますから、やはり昭和15年の段階で昭和天皇本音がどこにあったかはなんとも言えません。首相選びについては昭和天皇はファッショな人物は避けるようにという意見表面をしたことがあったようですが、近衛文麿は全体主義こそ国家国民を救うと信じ込んでいた本物のファシストとも思え、本当に昭和天皇は近衛文麿が首相でいいと思っていたのか疑問にも思えてきます。しかし一方で昭和天皇には名門出身者に対してはある程度寛容で、信用もしていたようですから、天皇家、宮家に次ぐ日本屈指の名門である近衛家の人物ということで、近衛文麿に対しては思想を越えた信頼があったのかも知れません。

昭和天皇が政府要人と会見した際、大抵の場合、要人の椅子の背もたれは暖かくなかったと言います。緊張して背筋を伸ばしていたからです。ところが近衛文麿が立ち去った後、背もたれは暖かかったと言いますから、近衛が昭和天皇に対する時もだいぶリラックスした感じだったことが想像できます。昭和天皇は大正天皇の摂政を努めた時から政治の中心にいて、政治家としてのキャリアは半端なく、大抵の政治家や官僚、軍人は昭和天皇に比べればどうってことないみたいな感じで恐縮するしかなかったのかも知れないものの、近衛文麿は西園寺公望に仕込まれて若いころにはベルサイユ会議にも参加していますから、近衛は近衛で政治家としてのキャリアは半端なく、家柄もその辺の軍人や官僚とは全然違うという自負もあったに違いありません。昭和天皇と近衛文麿、両者の呼吸の具合、人間関係を踏み込んで調べていけば面白いかも知れないですが、取り敢えずここでは日独伊三国同盟に話を戻します。

当該の号では昭和天皇の詔書の下に「内閣総理大臣公爵」近衛文麿の告諭が掲載されています。そこでは

今ヤ帝国ハ愈々決心ヲ新ニシテ、大東亜ノ新秩序建設二邁進スル秋ナリ(ここで言う「秋」とは「時」というニュアンス。一日千秋の「秋」みたいな感じでしょうか)

と述べられています。果たして近衛の言う大東亜がどこまでの広さなのか、東南アジアもシベリアも行けるところまでひたすら突き進むという意味なのか、それともそれなりにどの程度の広さという考えがあったのかどうか、はっきりとしたことは私にも分かりませんが、諸外国の人物が読めば「日本はアドルフヒトラーみたいな凄いのと手を結んだから行けるところまで行くぜっ」と宣言しているように見えたに違いありません。アドルフヒトラーは日本と同盟してソビエト連邦を挟み撃ちにする野望を抱いていた一方で、松岡洋右はベルリンからの帰りに立ち寄ってモスクワで日ソ不可侵条約を結んで帰って来たという一点をとってみても、日本とドイツは同床異夢の関係で、この同盟はほとんど有効に機能することもなく、後世にアドルフヒトラーのような極悪人と手を結んだという日本人に対する悪評だけが残ったわけですから、こうして日本帝国は滅亡していくのかと思うと「ため息」以外の言葉を書くことができません。

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昭和史64‐フランス領インドシナと援蒋ルート

とある情報機関が発行していた昭和15年9月15日付の機関紙で、フランス領インドシナについて紹介する記事がありましたので、ここでちょっと紹介してみたいと思います。当該の記事では、インドシナ半島の風土や気候のようなものを紹介した後で、フランスが領有するに至った経緯が書かれています。そんなに難しいことや裏情報みたいなものは特になく、一般知識の範囲でフランスが徐々に当該地域を領有していった様子が書かれています。ちょっと興味深いのは、当時のフランスがあてこんだ流通ルートと援蒋ルートが同じものだという指摘がされている点です。更にその記事の最後の方では、フランス本国が「衰弱」したので、今後の展開は違ったものになるだろうというような意味の言葉で締めくくられています。

昭和15年の段階では、フランスには親ナチス的なヴィシー政府が成立しており、フランス領インドシナもヴィシー政府の治下に収まっていましたから、日本としては南進という国策がある上に、「東亜経済ブロック」拡大という野心的な視点からも獲れそうな場所であり、同時に援蒋ルートを断ち切るためにもほしい場所であったということが、当該の記事からうっすらと見えてくるように思えます。おそらく財界はマーケットという意味で欲しがり、陸軍は援蒋ルートの遮断という意味で欲しがり、当時の近衛文麿内閣は統制経済、全体主義を是とし、ナチスを理想とする今から見ればとんでもない政権でしたが、統制経済が必要になってくるというのははっきり言えば物資不足の裏返しなので、統制経済をやりたい政治サイドとしてもインドシナ半島の資源があれば助かるという意味で欲しがっていたのかも知れません。

その後日本は同意の上で北部フランス領インドシナに進駐し、更には南部フランス領インドシナに進駐します。南部に進駐する前、アメリカのルーズベルト大統領が、もし日本が南部フランス領インドシナに進駐すれば経済封鎖すると明確に警告していたにもかかわらず、フランス本国がナチスに握られている間に多分大丈夫だろう的な発想で進駐してしまうわけですが、そのような行動に出てしまった背景には、上に述べたように軍、財界、政治家がこぞってそこを欲しがっていて日本の中で残念なことにコンセンサスが取れてしまったことに要員があるように思えます。そしてルーズベルトは警告通りに経済封鎖を始めるわけです。

少し長めのスパンで言えば、日本帝国は満州事変での対応を誤って滅亡への第一歩を踏み出したと言えますが、もう少し短めのスパンで言えば、この南部フランス領インドシナへの進駐が日本の命取りになったとも思えますから、何をやっているのだか…とため息をつくしかありません。

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昭和史57‐南進論とフィリピン

フィリピンは長年スペインの植民地下にありましたが、米西戦争の結果、アメリカ領になります。ただ、フィリピンではスペイン時代から独立運動、抵抗運動が根強く、アメリカ領になってからもその抵抗は続き、しかも宮崎滔天のようなアジア主義者がフィリピン独立運動に協力する動きも見せていましたから、アメリカも相当に手を焼いたようです。結果としては、アメリカの議会でもフィリピン分離論が盛り上がり、フランクリン・ルーズベルト大統領の時代にフィリピン独立法が成立し、第二次世界大戦後の1946年に既定路線通りにフィリピンは独立を果たします。

日清戦争の結果、日本が台湾を領有して以降、西洋列強は日本が更に南に位置するフィリピンに対して領土的野心を持っているのではないかと警戒していたようですが、1905年に桂・タフト協約でアメリカのフィリピンに対する権益を日本が犯さないと約束し、日本が朝鮮半島に対する権益をアメリカは認めるという交換協定のようなものが結ばれ、双方、手出しをしないという状況が続きます(上述したように、宮崎滔天のような民間人はいろいろ動いていたようですが…)。1908年には高平・ルート協定というものが結ばれ、日本はアメリカのハワイ・フィリピンに対する権益を犯さないと約束し、アメリカは日本の朝鮮半島及び南満州の権益を黙認するという協定が結ばれます。アジア太平洋地域に於ける勢力図の再確認のようなものだったと言っていいかも知れません。

ですが、日本国内では南進論が根強く、第一次世界大戦の結果、フィリピン東方の南洋諸島が日本の委任統治領になったことから、フィリピンは日本の領域に囲い込まれたアメリカ領という、ちょっと難しい位置になってしまうことになりました。

さて、先にも述べたように、フィリピンが1946年に独立することは30年代から既定路線になっていたわけですが、日本側が不安に感じたのはフィリピンに米海軍基地が存続するかどうかということだったようです。私が追いかけているとある情報機関の発行していた機関紙の昭和14年1月11日発行の号では、フィリピン独立法について述べられており、しかしその後もアメリカ海軍基地が存続するかどうかについての懸念が述べられています。当該記事では「比律賓の永久中立の問題」と「米軍海軍根拠地の問題」があると指摘しています。当時、この記事が出た段階では、日本帝国は広田弘毅首相の時代に五相会議で南進が決定された後なわけですが、それは云わばこっそり五人の大臣でそういうことにしようと相談して決めた程度のもので、具体的に南進論が閣議で正式に決定されるのは1940年7月、近衛文麿内閣でのことです。当該記事は同じ年の1月という微妙な時期に出されたことになるわけですが、独立後のフィリピンの「永久中立」を求めるというのは、日本の南進にアメリカ海軍が脅威になるという認識があったからに相違なく、もうちょっと踏み込んで言えば、南進論が国策になっている以上、そのうちフィリピンも獲りたい、控えめに言っても「大東亜共栄圏」構想にフィリピンを取り込みたいという狙いが背景にあったことは間違いないように思えます。欧米列強が自国の植民地が日本に獲られるのではないかと警戒したのは、読みとしては正しかったとも言えますし、結果的にこの国策が日本帝国を滅ぼすことになったとも言えるため、何もわざわざ遠い南国を獲りに行かなくても良いものを…という残念な心境になってしまいます。

日本の南進論が具体的に発動するのは北部仏印進駐からで、その後アメリカ側からは日本に対し、もし日本帝国が南部仏印にまで手を出したら経済制裁をすると警告を出していたにもかかわらず、南進の国策通り、日本帝国は南部仏印にまで進駐を始めます。フランス本国がナチスドイツに降伏した後なので、おそらくは渋々ではあったではあろうものの、日本のインドシナ進駐は平和的に行われました。ナチスドイツがフランス本国を抑えてくれていたおかげで楽にインドシナを獲れたという意味ではラッキーだったわけです。ただし、それが結果としては太平洋戦争への引き金へと発展していくわけですから人間の運勢と同じく、国運という言葉がついつい頭をよぎります。当時は、自国のブロック経済圏を持たなければやられてしまうという強迫観念のようなものがあったのではないかとも思えてきます。

太平洋戦争で山本五十六が真珠湾攻撃に出たのも、帝国海軍が如何にアメリカ海軍を脅威に感じていたかを示すもので、フィリピンにアメリカ海軍基地が存続するかどうかは当局者にとっては重大な関心事であったに違いありません。アメリカ軍は蛙飛び作戦で重要な島だけを獲って日本本土へ迫る方針で臨みますが、当初フィリピンは無視していいのではないかとの議論があったのに対し、マッカーサーが良心の観点からフィリピンは奪還しなければならないと主張した背景には、アメリカがフィリピン独立を約束していたということでより説得力を持ったのかも知れません。フィリピンでの戦いでは関東軍の主力が投入され、ほぼ全滅という悲惨な結果になりますが、更には関東軍の主力が不在になっていたために終戦直前になってソビエト連邦の侵攻がより容易になったと思うと、日本帝国がひたすら負のスパイラルへと落ち込んで行ったことが分かります。

フィリピンもインドシナも満州も日本から遠く離れた土地で、それらの地域が誰の主権に収まろうと日本人としては知ったことではないとも言えますが、その遠い土地を巡って何百万人もの日本人が命を落としたと思うと、いったいあの戦争はなんなのだと首をかしげざるを得なくなってしまいます。

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昭和史52‐国民徴用令‐「徴用」か「強制労働」か

昭和14年、近衛文麿内閣に於いて国家総動員法が成立しますが、国家総動員法の第四条に基づき、同年7月に国民徴用令という「勅令」が出され、実際に徴用が実施されます。一応、国家総動員法の第四条の内容を確認しておきたいと思います。

国家総動員法 第四条
政府ハ戦時二際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令の定ムル所二依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務二従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ

となっています。簡単に言うと、勅令によって国民に強制的に労働させることができるが、兵隊さんになる人は別枠という感じに捉えていいのではないかと思います。で、国民を徴用するためには前提として「勅令」が必要になります。その勅令が「国民徴用令」ということになります。この徴用が強制労働なのか、奉仕活動みたいなものなのかで今も果てしない論争が続けられていて、ちょっとブログで書くのも怖い気がするのですが、私が把握できている範囲で書いてみたいと思います。

この徴用令によって同年7月から内地での徴用が始まるわけですが、徴用は事前に日本全国津々浦々にどんな人がどんな技能を持っているかを行政が把握し、必要に応じて技能を持つもの(または体力があると認められるもの)を呼び出してお国のために仕事をしてもらうということになるわけですが、問題は植民地の人たちを徴用したケースということになります。検索をかけた範囲で分かったことは、朝鮮半島では昭和19年8月から徴用が始まり、終戦の直前まで人材が必要なところに送られたようです。尤も、終戦直前のころはアメリカ軍の潜水艦や飛行機が日本列島周辺をうようよしていたため、人員の輸送そのものが困難になったようですが、そうなる前に内地に送り込まれた人たちは、徴用された先で終戦を迎えたことになります。

私の追いかけている資料の昭和14年10月11日付の号では、同年10月から台湾でも徴用が始まるという内容のことが書かれてありました。その実施の方法については、やはり事前にどこにどんな技能を持った人材がいるかを各地の行政が把握しておき、総督府が必要な人材を地方行政機関に求めた場合、事前の調査に基づいて人材を選び、必要な場所に送り込むという流れになっていたようで、徴用された人の旅費については行政が負担するということも明記されてありました。ただ、気がかりなのは、朝鮮半島では昭和19年から徴用が始まったのに対し、台湾では昭和14年から徴用が始まったというこの時間的な差異の意味するところです。案外、日本帝国は朝鮮半島には遠慮があったのかも知れません。当時の日本帝国の感覚としては台湾は日清戦争の戦利品ですから、わりと好きに使っていいと思えた反面、朝鮮半島は実質的には植民地でも名目上は対等合併で、嫌がる相手を無理やり嫁さんにしたみたいな感覚があって、ちょっと後ろ暗いところがあったのではと、とついつい想像してしまいます。私は朝鮮半島の事情には明るくないので、言い切ってしまうことには不安があるのですが、台湾の方が帝国による支配の期間が長いですから、行政の「管理」が行き届き、いろいろやりやすかったのかも知れません。ただ、私が読んだ当該の資料では、細部にすいては現在も「考究中」とも書かれてあったので、制度としては作っても、実際に機能したかどうかまでは確認できているわけではありません。資料を読み進めるうちに、その辺りも分かるようになるかも知れませんから、しばらくは当該の資料に目を通し続けたいと思います。

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