明智光秀の自分探し

明智光秀はルーツや経歴が分かったような分からないような不思議な人物で、人物評価も一定しない。本能寺の変の実行犯であることは確かだが、『信長の棺』などで描かれているように、最近は光秀の他に黒幕がいたのではないかという話が流行しており、そっちの方がおもしろいので支持が集まるという構図ができあがっていると言える。

これは、戦前に秀吉が忠臣として高く評価されていたことと関係がある。明治新政府は徳川政権の否定を徹底する必要があったため、明治維新と一切関係のない豊臣秀吉を持ち上げた物語を流布させる必要があった。私が子どものころは戦前の教育を受けた人がまだまだ世の中を仕切っていたので秀吉は立派な人説が流布しており、私も『太閤記』の子供向け版みたいなのを読んで、頭が良くて心がきれいな豊臣秀吉は立派な人だと刷り込まれていた。秀吉は織田信長と良好な人間関係を築き、家臣としても誠実に仕えていて、その誠実さはどれくらいかというと信長が死んだあとに光秀と取引せずに打ち取ったのだからこの上もなく立派な人でそりゃ天下もとるでしょう。というような感じの理解になっていたので必然的に光秀は主君を殺した挙句に自分もやられるダメなやつ説を採用することになる。

やがて時代が下り、21世紀に入ってから秀吉善人説はほぼ姿を消したように思える。光秀を倒した後の秀吉の行動は人間性を疑わざるを得ないほど冷淡で打算的であり、知れば知るほど織田政権の簒奪者だというイメージが強くなってくる。そこから光秀が悪いのではなく裏で糸を引いていたのは秀吉なのではないか、いやいや、家康でしょう、いやいや義昭でしょう、いやいや五摂家でしょうと話がいくらでも散らばって行くのである。

大学で光秀についてしゃべらなくてはいけない時、私は上に述べたような事情をふわふわと考えて、毎年視点を変えてみたり、学生へのサービスのつもりで様々な陰謀説があるという話をしたりする。で、なんとなく光秀の肖像画を見ていて、新しい視点を得た気がしたのでここに備忘のために書いておきたい。憂鬱そうな光秀の表情は自分探しをする学生にそっくりでだ。

明智光秀の憂鬱そうな表情。肖像画はその人の内面を語ることがしばしある。

私は自分探しをする学生を否定しない。大学の教師になるようなタイプは大抵自分探しに時間を浪費するからだ。大学院に行く時点で他の同年代とは違う人生を歩むことになるし、更に留学とかさせてもらったりとかするので他の同世代とは人生に対する姿勢や考え方が広がる一方だ。なので、そういう学生の気持ちは私はよく分かるつもりでいる。

それはそうとして、明智光秀の肖像画を見ていると、ああ、この表情がこの人物の人生を語っているのだなあという心境になった。写真のない時代、絵師は人物の特徴を懸命に肖像画に書き込もうとする。信長、秀吉、家康の肖像画はそれぞれの絵師がその人物の特徴を懸命にとらえて描いたものだと説明すれば分かってもらえると思う。家康と慶喜は目がなんとなく似ていると私は思うのだが、家康の絵師がその特徴をしっかりと捉えていたからだと言えるだろう。

光秀はいつ生まれたのかもあまりはっきりしないし、土岐源氏ということになっているがどんな風に育ったかもよく分からない。ある時から朝倉義景の家臣になり、ある時から足利義昭の家臣になり、ある時から信長の家臣になるという渡り歩き方をしている。深い教養で京の公家たちとも親交があったとされるが、その割に雑な人生を送っているとも言える。想像だが戦国武将は仁義がなければまかり通らない。仁義のないものは後ろから刺されて終わるはずである。光秀の渡り歩き方には仁義がない。義昭の家臣と言っても足利幕府に累代で仕えてきたとかそういうのではない。現代風に言うと大学院から東京大学なのだが、東大ブランドを使うみたいな目で見られていたに相違ないのである。そして彼の憂鬱そうな表情からは、そうでもしなければ人生を這い上がることができなかったのだという彼だけの心の中の真実も見えて来るような気がしてならない。

そう思うと、信長を殺そうという大胆な発想を持つ人間が当時いたとすれば、光秀くらいなのではないか、従って黒幕などというものは存在せず、光秀単独犯行説が実は最も正しいのではないかと最近思うようになった。このブログは私が思ったことを書くのが趣旨なので了解してもらいたい。

秀吉は臨機応変に動くことができるが、自分から大きく物事を構想して操るタイプとは言えない。深い企てを考えるタイプであるとすれば朝鮮出兵のような誇大妄想的行動は採らない。信長が死んだからいけるんじゃねと踏んだのであり、信長を殺すというようなリスクをとるタイプではない。

家康も信長を殺したかったかも知れないが、リスクをとるタイプではない。朝廷も言うまでもないがリスクはとらないし、信長が朝廷を廃止しようとしていたから背後には朝廷が動いたというのは証明できない前提を幾つも積み重ねた結果生まれてくるものなので遊びで考えるのはいいが本気で受け止めることはできない。義昭黒幕説もあるが、義昭には影響力はなかった。

光秀を現代風に表現すれば新卒であまりぱっとしない企業の総合職に滑り込み、転職を重ねて、途中は公務員をやった時期もあって、気づくとグーグルとかアップルとかアマゾンとかソフトバンクみたいな新時代の企業の役員にまで出世したような感じになるはずで、わざわざボスを倒してまで実現しなければならないことなどあるはずがない。だが、自分探しを続けていた(たとえば私もその一人であって、ここではある程度の自嘲を込めているので了解してほしい)タイプは、大胆なことをやってみたくなるのである。光秀が大胆なことをすれば自分が抱えている小さな悩みを解決できるかも知れないというリスキーな思考方法を選ぶタイプだったとすれば、それで充分に、いろいろなことの説明がつくのではないだろうか。



徳川家康と豊臣秀吉

豊臣秀吉にとって、その晩年に最も重くのしかかったのは徳川家康という存在ではなかったかと思います。織田信長が生きていた間、秀吉は信長の家臣で、家康は信長の同盟者ですから、家康の方が格上ではありましたが、同時に信長に認めてもらうための競争者であり、信長の死後、秀吉は清須会議を経て政権を確実なものにしていきますが、その過程で彼に立ちはだかったのが他ならぬ徳川家康でした。

徳川家康は織田信雄と連合し、秀吉を政権の簒奪者であると非難し、北条氏や毛利氏への協力も仰いで秀吉包囲を固めていきます。清須会議の際に秀吉に抱き込まれた池田恒興が秀吉の側につき、戦いは8か月に及ぶ長期戦で、膠着状態が続きますが、長久手の戦いで池田恒興が戦死し、秀吉は窮地に立たされます。劣勢を挽回するため、秀吉は家康との衝突を諦めて家康が担ぐ織田信雄の伊勢を攻め上げ、信雄は単独講和に踏み切り、家康は梯子を外された形になってしまいます。秀吉の戦略勝ちと言えます。

その後、家康と秀吉の間で和解が行われ、家康が秀吉に臣従するという形式でことが収まりました。しかし、戦闘そのものでは家康が勝っていたという事実は誰もが知っていることですし、じゃあもう一回やるかという時におそらくは勝つ自信がなかったのでしょう。家康に何らかの処分が下されるということはありませんでした。秀吉としては恐るべき家康が譲歩してくれたというだけで満足するべきだと考えたのかも知れません。

その後秀吉は小田原攻めで北条氏を滅ぼし、家康を三河から江戸へ国替えをさせます。京都から少しでも遠い所に家康を追放するという狙いがあったことは間違いのない事と思います。秀吉は家康の江戸建設に落ち度があれば難癖をつけて家康征伐ということも狙っていたという話もありますが、もし難癖をつけるのであれば、なんでもいいので理由を見つけて言いがかりをつけて戦端を開いていたでしょうから、秀吉は小牧長久手の戦い以降は家康には勝てないと観念していたのではないかと私は思います。

小田原攻めの前に近衛前久の猶子となって関白職を得て「天下人」になった秀吉は、上昇志向の性格を変えることができず、外へ関心を向け、明征服、その通り道としての朝鮮出兵という完全に無意味なことにエネルギーを費やします。もし私が秀吉のアドバイザーだったら、朝鮮出兵にかける多大な情熱とリソースを家康潰しに使うべきだと提言したと思いますが、秀吉がそうしなかったということは、やはり、家康のことが怖かったのでしょう。家康もそれが分かっていたので、後はじっと秀吉が死ぬのを待つという戦略をとったわけです。秀吉毒殺説があり、秀吉の朝鮮侵攻で迷惑していた李朝が秀吉暗殺を仕掛けたみたいな話を聞いたことがありますが、家康が秀吉を毒殺していても全然おかしくなく、家康は後に李朝との関係改善に努力しますが、両者が協力して秀吉を狙ったということがあったとしても不思議ではありません。完全に想像ですが。

秀吉が亡くなった後、秀吉の危惧した通りに歴史は推移し、やがて長い泰平の江戸時代に入ります。政権交代や下剋上などのダイナミズムを奪い、外国からの影響も排除することで安定指向の時代が作られていくわけですが、幕末になって日本は西洋を事実上無視していたことのつけを払わなくてはいけなくなります。安定した江戸時代が良かったのか悪かったのか、やはり何事も禍福は糾える縄の如しということかも知れません。

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豊臣秀吉は晩年、織田信長に寝所から引きずり出されて叱責される夢を何度となく見たといいます。想像するしかありませんが、病気が重くなり自分が近い将来亡くなることへの直観、自分の死後、徳川家康に秀頼が押しつぶされるのではないかという不安、秀次とその一族郎党を殺したことへの良心の呵責などが織田信長という巨大な存在に集約されて秀吉の夢の中に出て来たのではないかという気がします。

また、織田信長暗殺秀吉黒幕説に立てば、信長を殺したのも秀吉ですから、そのことも重く彼の心にのしかかったかも知れません。明智光秀の信長殺害に関する毛利に宛てた手紙が偶然にも秀吉の陣営に届くというのも話がうますぎて、あんまり信用できません。また、近衛前久の猶子になって公卿の家柄になり関白職を手に入れるという流れを見れば、近衛前久と秀吉が密某して信長を殺したとする説も必ずしもとんでも説とも言えない気がしてきます。

信長暗殺秀吉黒幕説が仮に都市伝説のようなものだとしても、本能寺の変の後の秀吉の動きは織田政権の簒奪そのものと言ってよく、このことの事実関係に議論があるわけでもありませんし、主家がその当主が殺されて困っている時に漁夫の利を狙っていくというのは、人間的に全然信用できないということの証左でもあり、そりゃ信長に叱責される夢を見るのも無理のないことのように思えます。

『太閤記』みたいなのを読むと、秀吉が信長の草履を温めていたなどのよくできた主従関係のエピソードが描かれていて、できすぎな感が強いわけですが、太田牛一の『信長公記』では少年時代の信長は結構な悪ガキで行儀も悪く、不良仲間と肩を組んで連れ立って練り歩いていたそうですから、ヤンキーカーストの頂点に立つ信長の目からすれば、秀吉は自分の分をよくわきまえて従順なパシリだったという風な感じで
したでしょうから、使いやすかったのかも知れません。

ヤンキーカーストの世界では強い者と弱い者がはっきりと区別され、席次のようなものも明確になっており、そういうのに馴染めない人物は村八分みたいにされてしまいますので、ローンウルフを選ぶしかなく、芸術家になったり(成功するとは限らない)、坊さんになったりしたのだと思いますが、カーストの内側にいる場合は、力さえあれば逆転したい、下剋上したい、席次を上げたいと思うのが常とも言えるでしょうから、秀吉の場合は正しくその夢を実現したのだと言えますし、且つ、それによって得られる現世的な楽しみを存分に享受したとも言え、おめでとうというくらいのことを言ってあげてもいいですが、清須会議や秀次事件を見ると、「姑息」「ずるがしこい」という言葉どうしても私の頭に浮かび、利休切腹のことを考えると「小さい男」という言葉が浮かび、朝鮮出兵や天皇の北京行幸計画などについては無謀、アホ、現実認識の歪みなどを感じてしまいます。

秀吉のことをただあしざまに述べてしまっているだけになってしまった感がありますので、少しは褒めることも述べようと思いますが、彼の子飼いの家臣たちの忠誠心は非常に高いもので、そこは人の心を掴むのに長けており、この人のためなら死んでもいいという武将が何人もいたという事実は称賛されるに価することではないかと思います。石田三成と加藤清正は互いに憎み合う関係で、殺し合いにまで発展しますが、豊臣氏への忠誠という立場では同じで、関ケ原の戦いの後も豊臣秀頼がかくも大切にされて敬意を集めたのも彼らの忠誠心の高さ故という気がします。秀吉の弱点は一代で天下を獲ったために譜代の家臣がいなかったことだという指摘を読んだことがありますが、たとえば幕末では徳川の譜代大名や旗本たちは結構役立たずで、長年仕えた家臣が頼りになるとは必ずしも言えないという気もします。

やがて全部家康がもらい受けることになりますので、いろいろあってホトトギスですね。

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高山右近の無私

大阪で生まれた高山右近は、その人生で無私を貫いた人物として知られており、私も高山右近のことはどうしても敬意を込めて語りたいという感情を持っています。

高山右近が好印象の理由として挙げられるのは、裏切りや謀反が当たり前の時代にあって、そういった渦中に巻き込まれる中、必ず筋を通すというか、裏切りや謀反をした方にはつかなかったというある種の原則を持っていて、それを曲げなかったというものがあるかも知れません。

もっとも、荒木村重には助けてもらった恩があり、荒木村重が織田信長に対して謀反を起こしたときは悩んだ末に筋を通して織田信長に降伏しますが、これは相当に悩んだ末であったことのようです。両方に義理立てできないという時に、筋を曲げている方から離れるという決断ができたのは、自分の中にそういう原則を持っていたからかも知れません。

彼を語る上でカトリックを外すことはできません。いわゆる欲望を満たすという誘惑に揺らがなかったバックボーンとしてカトリックが彼を支えていたであろうことは間違いないように思います。イエズス会は世界各地で随分あこぎなこともしていますので、カトリックが突出して素晴らしいとかそういうことを言うつもりはないですが、高山右近の場合はカトリックを通じて筋を通す自己教育を怠らなかったのだろうと推量します。

豊臣秀吉が伴天連追放令を出したことで、カトリックの洗礼を受けていた高山右近は進退に窮しますが、ここは小西行長の援助を受けてしばらく瀬戸内海に身を隠し、後に前田利家に招かれて、信仰だけに生きる生活を送るようになります。瀬戸内海では領地を捨てての潜伏生活で心理的にも体力的にも厳しかったのではないかと想像しますが、それでも小西行長の援助で生きながらえることができ、更には前田利家が引き受けてくれてもいますから「神は決してお見捨てにならない」という信念をますます強くしたに違いありません。

人生の終盤では、徳川家康がカトリックの禁令を出し、信仰を捨てるか日本を出るかの選択を迫られた時は、信仰を守って日本を出ることを選択し、宣教師たちとともにルソン島のマニラに渡ります。マニラでは熱烈な歓迎を受けたとされていますが、ほどなく病を得て亡くなりました。

この選択は難しいところで、人生の最期くらいゆっくりとした気持ちで穏やかな生活を送りたいと願うのが人情ではないかとも思いますが、彼の場合、信仰を貫くことへの満足感の方がより重要でしたでしょうから、老齢になって知らない土地へ行ったことは確かに苦労でしたでしょうけれども、多少寿命が短くなっても信仰を優先することの方がより彼個人にとっては良かったのではないかと思います。あと、想像ですが、当時の日本のキリシタンの人々のほとんどは南蛮経由でやってくるヨーロッパ人に会うことはあっても、南蛮がどんなところか見ることはできません。ですので、高山右近としてはこれを好機として南蛮がどんなところか見てみたいと思ったのではないかなあとも思います。自分の内面を最後まで守り抜き、知らない土地を見ることもできて、それなりに波乱万丈で、なかなかいい人生ではありませんか。

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豊臣秀吉と豊臣秀次

豊臣秀吉は、人の心を掴むのがうまい、いわゆる人たらしとしてよく知られた人ですが、その心の中は真逆でひたすら冷たい人物だったのではないかと私は想像しています。身分の上下を越えておべっかを言い続ける一方で、利用価値がなくなればさっと切り捨ててしまうタイプだったのだろうという気がします。子どものころに読んだ子供向けの『太閤記』などではその人柄の良さが強調されており、あれを読むと、おー、秀吉ってすごい人だなあと思ってしまいますが、大人になっていろいろ読んだり知識を得たりする中で、どうも秀吉という人物は子どものころに教わったのとは真逆の人物だったようだなあという風に感じられるようになっていきます。そういう私の内面的な過程を経て、私は豊臣秀吉はやっぱり好きになれないなあというある種の結論に至っています。

そのような好きになれない秀吉の一面をよく伝えているのが、豊臣秀次に関するエピソードです。天下人になって向かうところ敵なしの秀吉は多くの姫様を側室にして嫡子の誕生を目指しますが、最初に生まれた鶴松は早世してしまいます。秀吉は自分の子どもへの相続を諦めて、姉の息子である豊臣秀次を後継者に指名して関白の職を譲り、豊臣氏という新しい姓の氏の長者とします。

ところが人生とは不思議なもので、それからしばらくして淀殿が懐妊し、豊臣秀頼が誕生します。その後の秀吉の動きなのですが、秀次を謀反人と決めつけて高野山に幽閉し、秀次に切腹を命じます。更に、秀次一族郎党みな京都で斬首という酷い仕打ちをしています。1595年の出来事ですので、秀吉が利休を切腹させた後のことなのですが、推量するしかないものの、千利休を切腹させたことで秀吉の中の何かが壊れてしまい、自分の心の中にある何かが止まらなくなり、絶対的な権力者なのでそれを止めるものもなく、誰もが心の中に持つ「鬼」の部分が暴走したのかも知れません。

秀次は浅井朝倉攻めの時には秀吉の調略のために人質として差し出されたことがあったほか、本能寺の変の後ではこれも秀吉の政略の道具として三好氏に養子として出されたこともあり、秀吉は秀次を政治的な道具として大変重宝して使っていたわけですが、秀頼が生まれたからというごくごく私的な理由で邪魔になったから殺す、しかも一族郎党全員の命を奪うというのはどうしても人間的に受け入れることができません。

秀吉の姉は大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後も、徳川家の人物と交流したりしていますが、秀次の件を経験してしまった以上、大阪城の淀殿や秀頼に対しては冷淡な気持ちが生まれてしまったでしょうから、豊臣家滅亡後もそのことで徳川家を憎むという心境にはあまりなかったのではないかという気がします。因果応報という言葉が心中を去来したかも知れません。

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石田三成と加藤清正

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豊臣秀吉の死後、豊臣家の家臣は石田三成、小西行長の文治行政官派閥と、加藤清正、福島正則などの武闘派に分裂します。一般に、関ケ原の戦いは豊臣氏に忠誠を誓う石田三成が、ポスト豊臣を狙う徳川家康に挑戦したものだと言われていますが、よく少しよく見てみると、石田三成派が加藤清正派の一掃を狙い、失敗したという側面があるようにも思えます。

豊臣秀吉は朝鮮半島を通って明に攻め込み、当時の世界観で言えばほぼ世界征服に等しい野望を抱きます。それは無駄で無意味な野望ですので、それを評価する人はいないと思いますが、秀吉に引き上げてもらった武将たちは真っすぐな気持ちで戦争に臨み、朝鮮半島に上陸して北上していきます。

この時の戦争のことで、おそらくは当初から肌の合わなかったであろう文治派と武闘派の決裂が決定的になります。加藤清正は秀吉への忠誠心の一心で、鴨緑江を越えて満州族と戦闘するところまで行きますが、堺の商人の息子で、秀吉に取り立てられて武将になった小西行長は平壌から先へは進もうとせず、和平工作することによって戦後の貿易利権を得ようと画策します。また、第二次朝鮮出兵では、加藤清正の動きを朝鮮王朝側に伝えて、加藤清正の戦死を狙う動きを見せており、そのような動きは加藤清正のような当事者であればじっとよく観察していれば分かってきますから、両者が分裂するのは当然と言えば当然のことのように思います。命がけの戦いをしている時に裏切者が出れば、それを赦すというのはなかなかできることではありません。

石田三成も朝鮮半島に上陸しますが、後方の占領地には行くものの、前線へは行きません。仕事の割り当てが違いますから、文官が前線に行く必要はないと言えばそれまでですが、北へ北へと戦って進んだ加藤清正のような立場からすれば、「石田三成は安全なところで口だけ達者だ」と怒りを感じたとしても、それは人情としてそうなるだろうとも思えます。蔚山城の戦いで「一部の日本兵がサボタージュをしていた」という報告が豊臣秀吉の耳に入り、秀吉はサボタージュしたとされる武将たちを叱責しますが、この時の告げ口した側とされた側で秀吉家臣たちは決定的に分裂したとも言われています。

このことの恨みが秀吉の死後に起きた石田三成暗殺未遂事件につながり、反石田派の豊臣家臣たちが関ケ原の戦いでは家康につくという展開になります。このような展開が起きたことの背景には、関ケ原の戦いが当時は豊臣vs徳川の戦いだと考えられていなかったことの証の一つとも言え、石田三成側は自分たちは豊臣秀頼を戴く正規軍のつもりだったかも知れませんが、徳川家康側としては、石田三成が私闘を開始したという議論が可能な構図だったとも言えます。

もし、石田三成の心中を想像するならば、徳川家康は豊臣氏にとって危険な存在なので何とか理由をつけて潰したいが、同時に加藤清正などの同じ豊臣氏内部の政敵をまとめて一掃したい、むしろ人間的な感情としては家康よりも加藤清正や福島正則との決着をつけたい、または自分に対する暗殺未遂事件へのリベンジがしたいということが大きな動機になっていたのではないかとも思えます。同じ職場にそういう相手がいたとしたら、現代でも心理的な負担は大きいに違いありませんから、関ケ原の戦いの準備をしている時、石田三成の脳裏に浮かぶ顔は家康よりも加藤清正だったかも知れません。

関ケ原の戦いの時、反石田三成派の福島正則は東軍の先頭で戦い、加藤清正は九州から動きませんでした。福島正則は徳川家康の味方になるに辺り、豊臣秀頼に害をなさないということを徳川家康に確認を取ろうとしています。仮に豊臣秀頼が石田三成に請われて関ケ原の戦場に登場していれば、どっちが正規軍かがあまりに明らかで徳川家康は負けていたかも知れないとも言われますが、豊臣家家臣が二派に別れて戦っていた以上、秀頼カードがもし切られていれば、有効に機能した可能性は十分にあると思います。そうはなりませんでしたが。

関ケ原の戦いが1600年で、徳川家康が征夷大将軍に任命されるのが1603年ですので、家康は朝廷への工作に3年もかかっていることになり、朝廷としても、また世間的にも関ケ原の戦いを歴史にどう位置付けるについて迷っていたということが感じられます。関ケ原の戦いで徳川家康が勝ってはいるものの、豊臣氏不介入のところで行われた私闘である限り、豊臣氏の権威が揺らぐものではないはずで、この辺りの筋論をどう乗り切るか、家康は苦労したに違いありません。

話が家康に逸れてしまいましたが、石田三成は関ケ原の戦いの後、行方をくらますものの見つかって斬首されます。小西行長も同様の運命を辿ります。加藤清正は豊臣氏への忠誠は変わりませんので、家康と秀頼の会見の際には秀頼を守る目的で二条城へ行き、秀頼に贈られた饅頭に毒が入ってはいけないと、自分が食べて二か月後に病死しています。遅効性の毒が入っていたのではないかと言われる所以になっています。

以上のようなことを考えると、豊臣家臣の分裂が徳川家康に好機を伺う余地を与えたとも言え、チームワークや団結の乱れがいかに深刻な問題かということが分かります。

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