リットン報告書は受け入れてもよかった

1931年に発生した満州事変が石原莞爾と関東軍による画策で行われたということについては、もはや議論の余地はないように思います。思想信条がいわゆる右の人であろうと左の人であろうと、そこは一致するのではないでしょうか。で、この事件は蒋介石の中華民国政府が国際連盟に訴え出て、国際公論の場でなんとかしてもらおうと考えます。軍事力では日本に対抗し難いので、国際世論に助けてもらおうというわけです。この辺り、私は蒋介石はなかなか考えたというか、戦略的思考のできる人だと思います。

さて、日本は満州事変によって誕生した満州国がウッドローウイルソンの提唱した民族自決の趣旨にそったもので、満州地域の住民が自発的に望んで独立したのだと主張したわけですが、蒋介石も第一次世界大戦以降の世界的な平和志向の流れに沿う形で、満州が中国の主権の及ぶ範囲であり、まあ、力による変更は認めないと真っ向から対立します。

で、イギリス人のリットン卿を団長とするいわゆるリットン調査団が日本、満州、北京と歩いてその報告書を提出します。リットン報告書です。一般的なイメージでは、リットン報告書は日本の主張を厳しく批判し、日本を糾弾するものだったかのように受け止められていると思うのですが、内容は全然そんなことはありません。リットン卿は北京で書いたとする報告書の中で、満州国は関東軍の実力行使の結果生まれたもので、現地住民の意思なんか全然反映されてないし、民族自決とは関係ないと壟断していますけれど、一方でその解決策としては中国の主権の及ぶ範囲であると認めつつ、現実的には当該地域の自治と日本の利権を認め、日本を中心とした国際管理を提案しています。即ち、中国には名を与え、日本には実を与えるというなかなかに現実主義的なプラグマティックで実現可能、双方の言い分をそれなりに取り入れた内容になっているように思えます。

しかしながら、日本の代表の松岡洋右はリットン報告書を受け入れるようにとする国際連盟の勧告に強く反発して国際連盟脱退するという悪手を選んでしまいます。この辺りに関するものはどの書物を読んでも非常にがっかりする場面で、読めば読むほどがっくししてしまうのですが、仮にプラグマティックに考えるのであれば、中国には名目上の主権はあるものの、満州に日本主導下の自治政権が立ち上がるわけですからその実をとり、スペードのエースともいえる溥儀を抱えているわけですから、溥儀に満州族の独立の必要性を訴えさせ、少しずつ満州国の既成事実化を図るという選択肢はあったはずです。リットン報告書は日本にとって全然損な話ではなく、受け入れ可能なものでした。にもかかわらず、日本側の主張を全て認めないのであれば脱退するという、残念ながらかなり一方的な外交が行われたことは、慚愧に耐えないとすら思えてしまいます。しかも、イギリス側からは国際連盟とは別のテーブルでみんなで仲良く満州で列強がおいしいおもいができるようにしませんか?という提案すらなされているのに、それをも拒絶しています。なんじゃこりゃ!と言いたくなってしまいます。イギリスの提案にのっかれば、リットン報告書を最低条件にして更に上乗せした条件で交渉できたでしょうから、こんなにいい話は本当はないはずです。それを断るというのは「世間知らず」というものです。

一応ことわっておきますが、日本がどうすれば満州を手に入れることができたかを考えたいわけではありません。「満州は日本の生命線」という当時の言説そのものがプロパガンダみたいなものですし、そもそもアメリカを仮想敵としたから後顧の憂いを断つために満州を手に入れたいという願望が湧いてきたわけですけれど、アメリカを仮想敵にする必要はありませんでしたから、満州は最初から日本人にとって必要のない土地なのだと私は思います。あくまでも当時の政治の責任者たちがどうしても満州に影響力を持ちたいというのなら、違った戦略的思考を持つべきだったのでは?ということです。

近年の研究では内田康哉が松岡に対して「脱退せよ」との訓令を出し、松岡が「外交は腹八分目でなくてはならない」と返信したという発見があったみたいなのですが、この時の内田の発想法は国際連盟から脱退すれば、国際連盟の勧告に従う必要はないという場当たり的で大局観のないもので、このやり取りを見る限り、松岡の方が真人間に見えてきます。松岡は国際連盟の脱退を失敗だったと考えていたようですが、帰国すると国民からは拍手喝采で、日本が大きく道を誤った大きな要因として新聞による世論の誘導は無視できないだろうと思えます。その後、松岡はおそらくは相当に悩みぬいて国際連盟を軸とする世界秩序に対抗するために日独伊枢軸であったり日ソ中立条約であったりというものを構想していきます。近衛文麿内閣の東亜新秩序更にその後の大東亜共栄圏構想というのも、国際連盟による世界秩序に対抗する軸としてどんどん関係者の頭の中で膨らんでいったものなのだろうと思います。結果として日本は敗戦し、今も敗戦国民の地位にいるわけで、本当に後世の日本人の一人としては、なにやってんだよ…としょんぼり突っ込みたくなってしまうのです。


昭和史76‐太平洋戦争は何故起きたのか(結論!)

資料を読み続けてきましたが、一応、手元に集めたもの全てに目を通しましたので、ここで一旦、昭和史については終えることにしますが、そこから私が得た知見を述べたいと思います。太平洋戦争は何故起きたのか、私なりに結論を得ることができました。

1、蒋介石との戦争に固執し過ぎた

日本軍、特に陸軍は蒋介石との戦争は絶対に完遂するとして、一歩も引く構えがありませんでした。しかし、情報・宣伝・調略戦の面では蒋介石が圧倒的に有利に展開していたということに
気づきつつもそこは無視してとにかく重慶を陥落させるということに固執し、空爆を続け、蒋介石のカウンターパートとして汪兆銘を引っ張り出し、新しい国民政府を建設し、蒋介石とは
対話すらできない状況まで持ち込んでいきます。情報・宣伝・調略の面では、蒋介石はソビエト連邦を含む欧米諸国を味方につけており、しかも欧米諸国はかなり熱心に蒋介石を援助していましたから、長期戦になればなるほど日本は疲弊し、国力を消耗させていくことになってしまいました。フランス領インドネシアへの進駐も援蒋ルートの一つを遮断することが目的の一つでしたが、それがきっかけでアメリカからの本格的な経済封鎖が始まってしまいます。アメリカから日本に突き付けた要求を簡単にまとめると、「蒋介石から手を引け」に尽きるわけで、蒋介石から手を引いたところで、日本に不利益はぶっちゃけ何もありませんから、蒋介石から手を引けばよかったのです。それで全て収まったのです。更に言えば、日本帝国は満州国と汪兆銘政権という衛星国を作りますが、味方を変えれば中国の国内の分裂に日本が乗っかったとも言え、蒋介石・張学良・汪兆銘・毛沢東の合従連衡に振り回されていた感がないわけでもな
く、汪兆銘と満州国に突っ込んだ国富は莫大なものにのぼった筈ですから、アメリカと戦争する前に疲弊していたにも関わらず、それでもただひたすら陸軍が「打倒蒋介石」に固執し続けた
ことが、アメリカに譲歩を示すことすらできずに、蒋介石との戦争を止めるくらいなら、そんな邪魔をするアメリカとも戦争するという合理性の欠いた決心をすることになってしまったと言っていいのではないかと思います。

2、ドイツを過度に信頼してしまった

日本が蒋介石との戦争で既に相当に疲弊していたことは述べましたが、それでもアメリカ・イギリスと戦争したのはなぜかと言えば、アドルフヒトラーのドイツと同盟を結んだことで、「自分たちは絶対に勝てる」と自己暗示をかけてしまったことにも原因があるように思います。日本だけでは勝てない、とてもアメリカやイギリスのような巨大な国と戦争することなんてできないということは分かっている。だが、自分たちにはドイツがついている。ドイツが勝つ可能性は100%なので、ドイツにさえついていけば大丈夫という他力本願になっていたことが資料を読み込むうちに分かってきました。確かにドイツは技術に優れ、装備に優れ、アドルフヒトラーという狂気故の常識破りの先方で緒戦に勝利し、圧倒的には見えたことでしょう。しかし、第一次世界大戦の敗戦国であり、植民地もほとんど持たなかったドイツには長期戦に耐えるだけの資本力がありませんでした。更にヨーロッパで二正面戦争に突入し、アメリカがソビエト連邦に大がかりな援助を約束してもいますから、英米はドイツはそろそろ敗けて来るということを予想していたとも言われます。日本帝国だけが、ドイツの脆弱性に気づかなかったというわけです。ドイツは絶対に勝つ神話を広めたのは松岡洋右と大島駐ベルリン大使の責任は重いのではないかと思えます。

3、国策を変更する勇気がなかった

昭和16年7月2日の御前会議で、南進しつつ北進するという玉虫色的な国策が正式に決定されます。フランス領インドシナへの進駐もその国策に則ったものですし、構想としてはアジア太平洋エリア丸ごと日本の経済圏に組み込むつもりでしたから、その後も南進を止めることはできなかったわけで、南進を続ければそのエリアに植民地を持つイギリス・アメリカとは必ず衝突します。アメリカとの戦争を近衛文麿が避けたかったのは多分、事実ですし、東条英機も昭和天皇からアメリカとは戦争するなという内意を受けていたのにも関わらず、国策に引っ張られ、国策を決めたじゃないかとの軍の内部からも突き上げられて戦争を続けてしまったわけです。

以上の3つが主たる原因と思いますが、どれもみな、日本人が日本人の意思としての選択であったと私には思えます。蒋介石との戦争に必然性はありませんから、いつでも辞めてよかったのです。ドイツを信用するのも当時の政治の中央にいた人物たちの目が誤っていたからです。国策だって自分たちで決めることですから、自分たちで変更すれば良かったのです。そう思うと、ほんとうにダメダメな選択をし続けた日本帝国にはため息をつくしかありません。私は日本人ですから、日本が戦争に敗けたことは残念なことだと思います。しかし、こりゃ、敗けるわなあとしみじみと思うのです。

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昭和史75‐「帝国遂に立てり」orz

手元の資料の昭和17年1月1日付の号では、表紙にでかでかと『帝国遂に立てり』と大きな字が書かれています。やっちまったのです。アメリカと戦争するという一番やってはいけない悪手をとうとう選んでしまった、悪い意味での記念号なのです。

それより少し前の資料では近衛文麿首相の退陣と東条英機首相への大命降下について書かれており、そこでは近衛内閣は閣内不一致で総辞職になったが、国策そのものに関する不一致ではなく、国策遂行手段に関する不一致で総辞職になったと説明されていました。現代を生きる我々は知っています。近衛は大幅に譲歩することでアメリカとの戦争を避けたかった、一方で東条は昭和16年7月2日の御前会議で行われた国策決定をひっくり返すことを拒絶し、アメリカとの戦争も辞さないという彼の態度が内閣不一致に至ったことを。

東条英機は首相就任後に木戸内大臣を通じて昭和天皇から「戦争より外交を優先するように」との内意を受けていましたが、それでもやっぱり戦争することに決定し、その日の夜は自宅で号泣したと言われています。号泣したいのはこちらの方です。政治家たちが何とか戦争を避けたいと思っていたのに対し、陸軍は蒋介石との戦争を止めるくらいならアメリカとも戦争するという主戦派で、アメリカと戦争するとなれば実際に動くのは海軍なわけですが、連合艦隊は準備万端整えており、更に予算がつくのなら半年一年はやってみせると言うものですから、政治家たちも迷い出し、おそらくは戦争になったら儲かる考える財界人も居て、なんのこっちゃらわからんうちに「アメリカと戦争する以外に道はない」という結論に至ってしまいます。船頭多くして船山に上るとはこのことを言うのかも知れません。

私の推測も交えて言えば、当時日本帝国は既に火の車です。蒋介石と戦争するための戦費、満州国の維持費、汪兆銘政権の維持費、更に海軍力の増強に航空戦力の強化と金がザルに水を灌ぐようになくなっていったはずです。それでも世界で一番資本力のある国と戦争しようと言うのですから、正気の沙汰とは残念ながら思えません。

当該の号では「アメリカが癌なのだ」と主張し、癌は切開して切り取らなくてはならないとしていますし、日本軍の強力さも主張しています。短期戦でなら勝てるという見込みは確かに正しかったし、実際に短期的には大勝利なわけですが、後はじりじりと押されてやがて圧倒され、滅亡に至ります。そしてその禍根は種々の面で今に至るまで続いています。あー、やってらんねえと資料を自分で読みながらも、読む気がしなくなってきます。まあ、もう少し、頑張って読み続けたいと思います。

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昭和史74‐ABCD「S」包囲網

太平洋戦争が始まる直前のころ、日本に対して行われた経済封鎖を一般にABCD包囲網と言います。Aがアメリカ、Bがイギリス(ブリテン)、Cが蒋介石(チャイナ)、Dがオランダ(ダッチ)というわけですが、私の手元にある昭和16年10月15日付の資料では、「ABCDS包囲網」と表現されています。新たにSが加わっているわけですが、このSはスターリンのことを意味しています。

当該記事では、

ABCDS同盟とは、英国、米国、蒋介石政権、蘭印(オランダ領インドネシア)、ソビエトなどが互に政治、軍事、経済あらゆる面に於て深いつながりを保ち、日本の南方発展をおさへつけて、戦争を長びかせることによって、ABCDS同盟の勝利に導かうとする策動

と説明されており、状況認識としては完全に正しいと言えます。戦争が長引けば物量に於いて劣る枢軸国に不利になることは明らかで、この段階では既に枢軸国側の限界が様々な点で露呈されて始めていた時期であったとも言えますから、「戦争を長びかせる」ことによって勝利を得ようとする策動という見方は的確であるとすら言えます。昭和16年10月の段階であれば、アドルフヒトラーの予定では既にモスクワは陥落していたはずであり、そろそろ冬将軍の不安が湧き始めていたはずです。日本についてはこれまでも辿ってきましたが既に物資不足に喘いでおり、生活用品の鉄の供出までさせなければならない状態で、限界が見え始めていたと言えます。

当該記事ではABCDSなる包囲網への警戒せよと呼びかけているわけですが、このようにインテリジェンスの現場が的確な現状把握をしているにもかかわらず、中央の意思決定機関ではごねごねごちゃごちゃと優柔不断を続けており、ドイツがソビエト連邦に侵攻した段階で、国際信義を裏切ったドイツを切るか、利益優先でソ連と戦争するかの二択になってしかるべきで、譲歩してでも蒋介石と手打ちに持ち込むのが理想なわけですが、そういったことは一切できずに、あろうことかアメリカと戦争しようかという話になっていくわけですから、どうしてこのように大局を見誤ってしまったのかといつもながらがっくししてしまいます。日本は蒋介石打倒、大東亜共栄圏建設、更に南進という複数の国家目標によって自縄自縛に陥って矛盾が生じたらどうしていいかわからない、見通しと違うことが起きても変化に対応できないという意思決定機関は思考停止に陥っており、ドイツがなんとかしてくれるだろうという幻想にしがみつき、軍がとことんやり抜くと言い張るのでそこに対しては身内意識で譲歩して、惨めな滅亡へと向かっていきます。

私の読んでいる資料も残り少なくなってきましたから、昭和史シリーズも近く一旦終了する予定ですが、読めば読むほど暗澹たる心境になっていきます。早く読み終えたい…

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昭和史72‐昭和16年7月2日の御前会議‐日本帝国終了のお知らせorz

昭和16年7月2日、近衛内閣が御前会議で「情勢ノ推移二伴フ帝国国策要綱」を採決します。閣議決定ではなく、御前会議ですから当時の感覚としては変更不能な絶対神聖な決定だと考えられたに違いありません。

私の手元にある資料では「御前会議にて重要国策を決定 内容は公表せず不言実行」と書かれてあります。当時の一般の人はどんな国策が決められたのかはさっぱり分からなかったというわけです。もちろん、現代人の我々はその内容を知る事が出来ます。1、大東亜共栄圏の確立を目指す 2、南進するが状況次第で北進もする 3、そのためには万難を排して努力する、というのが当該の御前会議で決められた国策だったわけです。

「大東亜共栄圏」については、当時はブロック経済圏を持たなくては生き延びることができないと信じ込んでいる人が多かったですから、まあ、理解できないわけではありません。大東亜共栄圏という美名を使って日本円経済ブロックを作ると言うのは、当時、覇権国のプレイヤーを自認していた日本帝国としては悲願だったということは、分かります。しかし、2番目の南進と北進両方やるというのは、玉虫色、ご都合主義、政府内の南進論者と北進論者の両方を満足させるための無難に見えて実は滅亡必至の国策だったと言わざるを得ません。日本帝国はもともとは南進を志向し、広田弘毅内閣以降、それは国策として進められ、日本帝国が南へ拡大しようとしていることは周知の事実であったとも言えますが、一方でソビエト連邦と共産主義に対して警戒感を持つグループでは北に備えるべしとの声が根強く、松岡洋右がソビエト連邦と中立条約を結んだことは平和的且つ低コストで北の脅威を払拭できた「はず」だったにもかかわらず、ドイツが不可侵条約を破ってソビエト連邦に侵攻したことで、「あわよくば」的な発想が持ち上がり、ドイツ側からは日本のソ連侵攻について矢の催促が来ていたことで、まあ、迷いが生じてしまったと言えるのではないかとも思えます。そもそも西で蒋介石と戦争を継続中で既に軍費が嵩んで日本帝国は青色吐息になり始めていたわけですが、更に東のアメリカと睨み合う中、南にも攻めていく、北にも攻めていくというのは、無理難題というものです。日本帝国は誰にも強要されたわけではなく自分たちで無理難題に挑戦することを選択してしまったと結論せざるを得ません。

仮に、ドイツと一緒に戦争に勝って日独新世界秩序みたいなものを作り上げることを優先するとするならば、断然、北進が正しく、ソビエト連邦は二正面戦争になりますから、日独勝利でもしかたら英米も弱気になって妥協するということはあり得なくもなかったかも知れません。この国策を受けて関東軍は満州で関東軍特別演習を行い、北進の機会を伺いますが、世界に「私たちは野心があります」とわざわざ宣言するような行為をしておきながら、日ソ中立条約もありますし、ノモンハンのトラウマもあって一線を越えることはありませんでした。資本力でドイツが劣っていることは一般知識だったとすら言えますから、長期戦でソビエト連邦に絶対に勝てるかと問われれば、普通なら絶対に勝てるとは思えないはずですが、ヒトラー信仰の空気が支配的になっており、日本が加担しなくてもドイツが努力でソビエト連邦を滅ぼしてくれるだろうというあまりに甘い観測で、状況を見誤ってしまったとも思えます。

一方で、南進は以前から国策だったこともあり、南部フランス領インドシナへの進駐をアメリカからの警告を受けていたにもかかわらず遂行し、結果としては経済封鎖を受けて、やむを得ず真珠湾攻撃へと至ります。すなわち、北進優先だったら戦争には勝てたかも知れないのに、南進の方を積極的に進めて日本帝国は滅亡への道をまっしぐらに大急ぎで駆け抜けてしまったと言ってもいいのではないかと思います。しかも「3」で万難を排してそれを遂行すると昭和天皇の隣席で決めてしまったので、アメリカと戦争してでも南進を推し進めることになってしまったわけです。日本帝国終了のお知らせorzです。資料を読めば読むほどがっくしですが、まだしばらくは続けます。

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日中戦争が泥沼化していく中、植民地では志願兵制が導入されていきます。私の手元の資料では植民地の人の健康管理、体力増進をやたら強調していますので、将来的には徴兵制に対応できるように整えようとしていた意図があったようにも思えます。

朝鮮半島での志願兵制は少し早かったようですが、昭和17年には台湾でも志願兵制が施行されることになり、それに先駆けて皇民報公会なるものも組織されることになったと、手元にある資料の昭和16年7月1日付の号で述べています。

で、この皇民報公会が何をするのかというと、台湾全島民を組織化し、皇民化を徹底し、お国へのご奉公をいつでもやれる組織にするということらしく、これまで「総力戦」という言葉は何度も当該資料で出てきましたが、ここにきてそれを実際にやろうというわけです。とはいえ、既に経済警察が置かれて経済の仕組みは統制経済、近衛文麿が大政翼賛会を作って政治的にも政党政治が死に絶え、蒋介石との戦争に莫大な戦費を使っていますから、とっくの昔に総力戦は始まっているとも言えますし、もうちょっとつっこんだことを言うとすれば、全島民ということですから女性、子供、老人も組織化するとしても、一体、それが戦争にどういう役に立つのか私にはちょっとよく理解できませんし、そういうことをやろうとするというのは日本帝国に焦りがあったことの証明のようにも思えます。

台湾は南進論の拠点と位置づけられており、当時既に東南アジア進出(侵略?)は既定路線になっていたわけが、当時、それらの地域はほぼ全域が欧米の植民地だったので、欧米諸国と戦争するつもりが充分にあったということも分かります。当該の号では、アメリカ、イギリスの民主主義・自由主義の体制に対抗して民族生存の戦いが行われるという趣旨のことが書かれてありますから、やなりわりと早い段階でアメリカとの戦争は想定されていたと言えると思いますが、一方でよく知られているように、中央ではぎりぎりまで本当にアメリカと戦争するべきかどうかで悩みぬき、憔悴していたとすら言える印象がありますし、ぎりぎりのところで近衛文麿が思いとどまろうとして東条英機の反発に遭い、首相の座を投げ出すあたり、政治家は迷っていたけれど、官僚は準備万端整えつつあったと見てもいいのかも知れません。もちろん、官僚は目の前の仕事に力を尽くしたのだと思いますが、大局的な判断するべき閣僚たちが右往左往の状態に陥っていたと見るべきなのかも知れません。

ここは想像になりますが、中央の意思決定関係者たち(政局関係者たち)、軍、官僚、植民地官僚、外交官がそれぞれにある人はアメリカとの戦争は困ると言い、ある人は蒋介石打倒のためなら世界を相手に戦争すると言い、ある人は戦争以外の手段で東南アジアを自分たちのブロックを確立しようとし、全体としては大東亜共栄圏という国策がある以上、周囲との軋轢、摩擦、対立は避けられないとも思えるものの、その国策はやめてしまおうという勇気のある人はいなかった。それが結果としては滅亡への悲劇につながったのではないかという気がします。

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昭和15年11月30日、日満華共同宣言というものが出されます。同日、南京で日華基本条約も結ばれています。ここで言う「華」とは、汪兆銘政権のことを指します。当該の共同宣言では、日本と満州国、汪兆銘の中華民国の相互承認及び日満華経済ブロックの確立、更に防共をうたっているわけですが、私の手元にあるとある情報機関の昭和16年1月1日号(新年号)では、当該情報機関がその後の展開をどう考えていたかがよく分かる(つまり、日本帝国の考えていた方向性がよく分かる)記事がありましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。

当該の記事では日満華は「共同の理想」があるとし、その共同の理想とは「アジア人によるアジアの解放」であり、「大東亜広域共栄圏」の確立としています。「大東亜共栄圏」ではなく、「大東亜広域共栄圏」としているあたり、いわゆる大東亜共栄圏構想がまだはっきりとは定まっていない、手探りの段階だったことを示すのではないかとも思えてきます。

続いて、当該の記事では日本と蒋介石政権との戦争は単にその二つの勢力の戦いではなく、蒋介石を支援する英米を中心とした列強との闘いであるとも強調されています。即ち、遅くとも昭和16年初頭の段階で日本帝国は世界を敵にして戦う決意を固めつつあったということが見えてきます。言うまでもないことですが、世界を敵にして戦って勝てるわけがありませんから、その後、日本帝国が滅亡の過程を辿って行ったのは当然の帰結と言うことができるかも知れません。当該記事ではフィリピンに於いてアメリカの航空勢力が拡充されている点に警戒感を示し、オランダ領インドネシアでは排日運動が盛んになって、嫌がらせされていることへの嫌悪感も書かれており、やはり世界を相手に戦争をする気がまんまんであったということが分かります。

もちろん、このように強気の姿勢で事態に臨むことができたのは日本にはドイツのアドルフヒトラーがついているということが自信の根拠となっていたわけなのですが、さすがにアドルフヒトラーと組むという悪手を選んでしまったことに、21世紀の現代を生きる日本人としてはがっくりするしかありません。ドイツの技術力は見事なものだったらしいのですが、資本力の底力みたいなものの点では英米に対しては各段に劣っており、長期戦になれば資本力がものを言うわけですから、アメリカ、イギリスサイドではさほど悲観的ではなかったようです。イギリスでは既にチェンバレンが退き、チャーチルが首相の座に就いていましたが、チャーチルはアメリカの参戦を心待ちにしており、ルーズベルトは日本に先に一発撃たせることで国内のモンロー主義を一掃し、英米世界秩序みたいなものを維持しようと考えていたという話は随所にありますから、日本がアドルフヒトラーをどんなに頼りに思っていても、アドルフヒトラーは実はそこまで強くなかったという現実に気づいていなかったというのが日本帝国の悲劇なのかも知れません。ドイツと同盟していなければ日本の政治家や軍人がここまで強気になることはなかったでしょうから、かえすがえすもがっくし、残念、何をやっているのだか…と辛い心境にならざるを得ません。私の手元にある資料は昭和17年までありますので、もう少しの間、資料の読み込みを続けたいと思っていますが、どうしても暗い心境になってしまいます。

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とある情報機関の発行していた機関紙の昭和15年12月1日付の号では、ビルマの援蒋ルートを日本軍が爆撃したことに関する記事が掲載されていますので、ちょっと紹介してみたいと思います。当該の記事によると「イギリスをはじめアメリカやロシアは飛行機、自動車、弾丸、鉄砲を重慶に売り込んで蒋介石の後押し」をしていると述べられており、イギリス、アメリカ、ロシアの真の目的は日本と蒋介石政府の双方を弱らせて東洋の土地を奪うことだとしています。

で、メコン川の遥か上流のヒマラヤ山脈を伊豆の踊子の如く九十九折りになって重慶へと向かうトラックを足止めするために、ヒマラヤ奥地の橋を爆撃したという武勇談が述べられているわけですが、この段階でイギリス、アメリカをはっきりと「敵認定」していることが分かるほか、当該記事ではソビエト連邦も敵認定していることが感じ取れます。

爆撃した橋は「功果橋」と呼ぶらしく、その橋が果たして誰の所有なのか、イギリス領ビルマの範囲内なのか、それともチベットなのか或いはちょっと見当のつかない場所なのかは検索をかけてみてもわからなかったのですが、蒋介石政府にたどり着く前の地点を攻撃しているわけですから、既にイギリスとは戦闘行為が始まったと受け取ってもいいくらいの事態に昭和15年末頃の段階で発展していたということが分かります。

日中戦争が始まった当初、アメリカはモンロー主義で、芦田均の『第二次世界大戦外交史』ではイギリス、フランスオランダは当初日本と事を構えて東南アジアの植民地を失うことを恐れていたとも書かれてありましたから、そもそも欧米と事を構えることを日本帝国の当局者も想定していなかったのではないかと思います。早々に戦争を終わらせていれば、太平洋戦争になることはなかったかも知れません。ところが、延々といつまでも戦争が終わらず、近衛文麿はここぞとばかりにそもそもの持論である全体主義的統制経済をやり始め、軍需品が必要ですから民生品が品薄になり物資不足で資金も不足という深刻な事態に陥りつつある中で、愈々欧米諸国とも事を構える決心を堅めつつあるあたり、読んでいる現代人の私としては背筋が寒くなる思いです。

当該の情報機関は当初は台湾とその対岸の広東、南京あたりの情報収集及び戦果の宣伝みたいなことをしていたのですが、だんだん手を広げるようになり、フィリピンインドネシアインドシナと範囲が拡大して今回とうとうビルマまで手を出したという感じです。「東亜共栄圏」なる言葉が公然と使われ始め、日満支(汪兆銘政権)だけでなく、東南アジア全域を含む日本経済ブロックを作ろうとしていたわけですが、どうも当初からそのような想定をしていたわけではなく、どこかの時点で「行けるところまで行こう」という発想になったように思えます。行けるところまで行こうとすれば、必ず欧米の大国と戦争になるまで突き進むことになりますから、そういう決心をした段階で日本帝国滅亡フラグが立ったも同然とも思え、かえすがえす「馬鹿なことを…」と思はざるを得ません。広田内閣の五相会議で南進が採用され、近衛内閣の閣議で南進が改めて正式に国策として採用されたことから、官僚主義的に深く考えずに国策通りに進んだのかも知れません。一旦決まった政策について臨機応変できないあたり、今ももしかするとあまり変わらないのではないかという気もします。援蒋ルートを断ちたい陸軍と日本経済ブロックを作りたい政治家と、宮崎滔天や頭山満みたいな民間の大アジア主義がぐちゃっと混ざって肥大したという感もなくもありません。精工に練られた構想というわけではなく船頭多くして船山に登る式の場当たり的、ご都合主義的な拡大主義が見て取れます。

一重に蒋介石との戦争に勝つために遠いビルマまで爆撃に出かけ、英米と険悪になり対抗策としてドイツのアドルフヒトラーと結ぶという悪手を選び、滅亡への坂道を転げ落ちようとしている日本帝国の姿を追うのは心理的なダメージが強いですが、取り敢えず手元の資料は全部読む覚悟で読み進めています。

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とある情報機関が発行していた昭和15年11月15日付の号では、「あわてだしたアメリカ、日本の南進をねたむ」という記事が登場します。昭和12年ごろの分から一冊づつ読み続けて愈々来たなという感じです。当該記事によると、ドイツとイタリアがヨーロッパに新秩序を打ち立て、日本も東亜に新秩序を打ち立てようとしているにもかかわらず、アメリカがその新秩序を乱そうとしていてけしからん、みたいな内容になっています。日本の北部フランス領インドシナの進駐と日独伊三国同盟が結ばれた時期がほぼ重なっているのですが、それに対してアメリカは「いやがらせ」をすべく日本に屑鉄の輸出を禁止したとしてまず現状を述べています。続いて今後の予測としてアメリカは日本に石油を売らなくなるかも知れないとも書かれていますが、それはかえってアメリカが困ることになるとも述べています、アメリカで産出される大量の石油の一番の買い手は日本なのだから、日本の石油を売らなくなればアメリカの石油業者が困るだけでなく、東南アジアは枢軸国側が抑えているのだから、東南アジアの資源がアメリカに輸出されなくなり、アメリカは干上がるという議論の組み立てになっています。

その後の歴史の展開を知っている現代人としては、上のような見方は非常に甘いもので、日本帝国はこてんぱんにぼこぼこにやられて終了してしまうわけですが、それはあくまでも結果論ですから、当時の人間になってこの記事を考えた場合、半分正しいくらいの評価を与えてもいいのではないかと思います。というのは、実際に当時のアメリカは日本に輸出することで儲けていたわけで、時間が経てばアメリカの内部で日本に輸出させろ、でなければ商売あがったり困るじゃないかという声が出ることはある程度予想可能なことだからです。

とはいえ、第一に日本はナチスドイツと手を結んでしまいましたから、アメリカに於ける日本に対する「敵」認定は既に済んでおり、やるならやるぞと言わんばかりに太平洋艦隊は西海岸からハワイへと移動していきます。場合によってはグアム、フィリピンあたりまで主力艦隊が進出してもおかしくないかも知れないという事態へと展開していくわけですが、この段階でアメリカとしては、日本なんて資源のない国はちょっといじめてやれば膝を屈するに違いないという、あちらはあちらでちょっと甘い見通しがあったようにも思えます。

その後、連合艦隊が鮮やかに真珠湾奇襲を行い、ワシントンDCの日本大使館では寺崎英也氏の転勤パーティを前日に行って宣戦布告文の手交が予定より遅れてしまい、宣戦布告前の奇襲攻撃ということになってしまい、アメリカ人をして日本への復讐を誓わせることになってしまいます。ちょっと幻的ではあるもののアメリカが満州国を承認して、日本は蒋介石から手を引くという日米諒解案が実を結ぶ可能性もなかったわけではなく、これを松岡洋右が潰してしまうのですが、或いは真珠湾まで出かけていかなくても日本が一番ほしかったのはインドネシアのパレンバン油田ですから、直接パレンバン油田だけ狙えばよかっただけだったかも知れません。アメリカは元々モンロー主義で、世論は戦争に介入することには否定的だったわけですが、真珠湾攻撃という悪手で日本帝国は自分で生存の可能性を潰したと言えなくもないように思えます。

当該記事の重要な点は、この段階で日本でもアメリカを「敵」認定しますよというある種の宣言みたいなところだと思うのですが、当時はフランスを倒して「最強」に見えたナチスドイツと同盟を結び、ソビエト連邦ともうまくやって松岡洋右は自分の外交が成功していると確信していた時機でしょうから、アメリカに対しても強気でいられたのかも知れません。その後の歴史を知る現代人としては、今回紹介した記事に潜む危うさが目に付いてしまい、このようにして国が滅びていくのかと思うと目も当てられない、見ていられないという暗澹たる心境にならざるを得ません。

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昭和史61‐蒋介石と汪兆銘と張学良と毛沢東

昭和15年5月11日付のとある情報機関の発行した機関紙によると、同年4月26日に南京に於て国民政府遷都慶祝大会が挙行されたという内容の記事が掲載されていましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。「遷都」というのがポイントです。ここで言う国民政府とは蒋介石政権のことではなく、汪兆銘政権のことを指しています。つまり、汪兆銘政権が正式な中国の「国民政府」であり、重慶にいる蒋介石の国民政府はニセモノで、本物の国民政府を南京に「遷都」させて誕生させたというわけです。ですので、当時の段階では国民政府が2つあったということになってしまいます。国旗も酷似しており、どっちがどっちでどうなのかと言うわけのわからない混乱状況に陥ってしまった感があるのですが、「和平反共及び日華親善」という標語も見られ、日本帝国が汪兆銘政権の既成事実化を狙っていたことが分かります。当該記事をざっと読むと要するに蒋介石が共産党と手を組んだのがいけないということらしく、蒋介石が容共を続ける限り戦争は継続されるということらしいです。で、本当は日本人と中国人は大の仲良し、悪いのは蒋介石という構図になっているわけですが、不思議なことに毛沢東の名前をこれまで一度も見たことがありません。張学良の名前も全然出てきません。ひたすら蒋介石、蒋介石です。この辺り、裏があるとすればどんな裏があるのか、情報不足で推測するのもちょっと難しいのですが、打倒蒋介石に慣性の法則が働いて加速しているようにも思えます。このように日中戦争は「反共」を大義に継続されていったわけですが、一方で松岡洋右がスターリンと接近して日ソ不可侵条約を結び、太平洋戦争の最後の方になると、ソビエト連邦を唯一の友好国と頼みにするようになるのですから、やはり何かが誤っていた、どこかに齟齬が生じていたと感じないわけにはいきません。やっぱりゾルゲと尾崎穂積に誘導されていたということなのでしょうか。

国共合作も謎が多く、張学良がその真相については最期まで明かさなかったため、今に至るまで実際のところははっきりとはしていません。蒋介石が西安事件で監禁された時に脅迫されて共産党と協力することにしたということまでは分かります。しかしその後、自由の身になった蒋介石が太平洋戦争が終わるまでその約束を守り続けたことや、張学良が軟禁され続けたことも疑問です。普通に考えれば蒋介石が自由を回復すれば張学良を殺して既定路線通りに毛沢東と戦争を続けていたはずですが、そういう風にはなりませんでした。張学良の口述という中国語の本をパラパラっと読んだことがありますが、張学良は蒋介石を信頼していたらしく台湾に移転してからも親交が続いたと言っています。一体、裏に何があってどうなっていたのでしょうか。考え込んでいくうちに、蒋介石と汪兆銘の仲間割れ、張学良と毛沢東も加わった集合離散、合従連衡に日本帝国が振り回されていたようにすら思えてきます。

当該の号には上に挙げた記事の他に援蒋ルートについても説明されており、一般に援蒋ルートと言えば東南アジア、たとえばフランス領インドシナ、或いは英領ビルマからの重慶へのルートが知られていますが、ソビエト連邦から新疆方面を通って重慶への援助ルートがあると記載されています。ソビエト連邦からも援助がもらえたから蒋介石は西安事件後も国共合作を続けたという安易な判断でいいのかどうか、結論しかねるところですが、考えれば考えるほど、中国の近現代史は奥が深いというか、裏が深いというか、質実剛健とか武士に二言がないのが大和魂とかみたいにわりと真っ直ぐなことが好きな日本人にはとても太刀打ちできないよう事柄のように思えてしまい、その意味でも日中戦争は早々に決着させておくべきだったと思えてなりません。


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