第二次山県有朋内閣

第一次大隈重信内閣が内部崩壊同然の形で終了し、山県有朋が再び首相の座に就くことになります。困った時の伊藤博文は「ちょっとしばらく自由にやらせてほしい」感が強く、薩摩閥の首相は絶対こけるという経験則みたいなのがなんとなく積まれてきて、政党政治家に首相をさせると、おそらくは当時の感覚としては「やっぱり…(現代の感覚としては政党政治家が首相になるのは当然ですが)」という失望感があって、残っているのは山県か…という消去法的な感じだったのではという気がしなくもありません。

山県は薩長が日本のエスタブリッシュメントになって「愚民どもを導いてやる」という意識の強い人だったようですので、内閣は当然議会におもねらない超然内閣。思想的な運動や労働運動の集会に規制をかける治安警察法を通したり、一番やってはいけない軍部大臣現役武官制を導入したりと、日本帝国滅亡の種を懇切丁寧に蒔いた人と言えなくもないように思います。

しかし、そのような内閣では議会とうまくいくはずがありません。議会がごねれば予算が通らないという重い代償がついてきます。これはやはり内閣に協力する与党がどうしても必要だという認識が生まれ、まあ、ようやく理解したのかという感じですが、伊藤博文を総裁にした立憲政友会が星亨や金子堅太郎たちと一緒に立ち上げられるという展開になります。地主、資本家、三井財閥などがその支持層ということだったらしいので、戦後の自民党みたいなものだとも言えるように思います。

明治天皇はそんなの作って大丈夫なのかと不安に感じたようなのですが、そういう疑問を持つというのは、やはり薩長エスタブリッシュメントが日本をリードするのがあるべき姿だと信じていたという証左と言えるかも知れません。

トクヴィルが『アメリカの民主政治』という本で、責任の重い政治家が国民の人気取りに忙殺されることへの疑義を呈していましたが、おそらくは当時の政府の内側の人たちにも「国民の頭を下げて、おべんちゃらを言うことばかり考えている人間に政治ができるか」と思っていたのかも知れません。立憲政友会の発足には貴族院も反発していたようです。

とはいえ、投票によって選ばれた政治家が責任を負うというのが民主主義の基本理念ですので、そこは乗り越えなければならない壁であり、まあ、そこは何とか乗り越えて、やがて原敬のような人も登場してくることになります。

山県有朋は立憲政友会を作った伊藤博文に対して「政党政治、やれるものならやってみな」という感じで伊藤を四度目の首相に据える形で首相の座から降りることになります。

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