目取真俊『神うなぎ』の沖縄戦に関する相克するロジック

目取真俊氏の『神うなぎ』という小説が三田文学に掲載されているのを読んだ。沖縄戦を主題にし、戦火の中、沖縄住民の生活を守ろうとした人物と日本軍との相克が描かれている。沖縄出身の主人公の父親は沖縄戦の最中、アメリカ軍の投降の呼びかけに対して、仲間の住民たちを説得して集団で投降する。主人公の父親はハワイに働きに行っていたことがあるため、アメリカの国柄をそれなりに知っており、本土から沖縄へやってきた日本軍将校からは「アメリカ軍に捕まると男は殺され女は犯される」と教えられてはいたものの、アメリカ軍はそのようなことはしないと判断し、投降することに決めたのである。

アメリカ軍に投降した後、住民は一時的にこれからどうなるのだろうと不安を感じるが、意外なことに「家に帰れ」と言われるので、あっけにとられた風に人々は帰宅し以前と同じ生活を営もうとする。しかし、昼間はアメリカ軍がいるので普通に暮らせるのだが、夜になると日本軍がやってくる。戦局的に不利な日本軍将兵は森の中に隠れており、夜になると食料を求めて住民の家屋へやってくるのだ。沖縄県民を守るために派遣されてきたはずの日本軍が、逆に沖縄県民に食料を事実上略奪するという矛盾とアイロニーが描かれている。

主人公の父親は住民の生活を守るためにアメリカ軍に協力し、アメリカ軍に対する住民側の窓口のような役割を果たすのだが、日本軍将校の目からは利敵行為に映り、ある時、日本軍に捉えられて殺害されてしまう。主人公はその後成長し、季節労働者として東京に働きに行くのだが、たまたま行った居酒屋で父を殺害したと思しき元日本軍将校を見かける。剣術の腕前があり、剣道を教えているというその老人は元日本軍将校らしく精悍な雰囲気を持ち、客や店の人とのやりとりの様子から信頼されていることも窺い知ることができる。主人公は父の死についてその老人に問い質したいと考え、「今さら…」とも思うのだが、やはり抑えきれずある夜、老人の帰宅の時を狙い、声をかける。驚いたことに老人は自分が殺害した主人公の父親のことを明確に記憶しており「君のお父さんは敵のスパイだったんだよ」と言い切る。スパイを野放しにすることは部下の生死にかかわる、従ってスパイを殺したことは適切な判断であったと的確なロジックで主人公を圧倒する。

もちろん主人公にもロジックはある。まず第一に自分の父親が殺害されているのである。問い質す権利があるのは当然だ。それに日本軍が沖縄県民を守ることができなかったから、住民はアメリカ軍に投降したのである。スパイの処断など、戦争に敗けた軍人の言い訳に過ぎない。沖縄県民は多いに苦しんだし、その主たる理由は日本軍が無力であった上に沖縄県民を道連れにしようとしたからだ。私は沖縄の人からいろいろと話を聞くことに努力をした時期があったが、沖縄県の人の心情は沖縄戦に対して深い複雑な感情を持っていることはよく分かった。また、この作品で示されるロジックも明快だ。日本軍が住民を守れないのであれば、住民は自らを守るためにアメリカ軍に投降する以外の選択肢はあり得ない。軍が国民を守るためにあるとすれば、その職責を全うできない軍人はそれを恥じなければならない。

私が感じたのは主人公の父親を殺害した元日本軍将校のロジックと、日本軍将校に父が殺害された主人公のロジックがどちらも完璧だということにこの問題の複雑さが潜んでいるということであり、目取真俊氏はそこを読者に問いかけたのではないかということだった。主人公の父がアメリカ軍に協力する姿は日本軍から見ればまごうことなき利敵行為であり、それは戦時下であれば死に値するとして矛盾はない。将校が部下に対して責任を負うことは正しいことで、部下の命を守るために利敵行為を行うスパイを殺すことは、ロジックとして一貫している。一方で、住民を守るためにアメリカ軍に協力することは、これもまた全く正しい行為だと言える。日本軍が守れないのなら、そうするしかないではないか。住民の命と生活を守るためにはそうするしかないではないか。一貫していて矛盾がない。

太平洋戦争についての議論を考えるとき、我々が袋小路に入り込んでしまうのは、それぞれがそれぞれの立場で一貫して完成したロジックを持っているからではないかと私には思えるときがある。しかも戦後70年以上を経て、それぞれのロジックには磨きがかけられ隙のないものに進化している。互いに相手の立論を崩そうとあの手この手を繰り出すが、双方の立論があまりに立派にできあがってしまっているために互いに崩し切れず、議論は平行線を辿るのだ。

立論がいかに立派なものであろうと、戦争は人が死ぬ。悲劇がある。戦禍で犠牲になった人にとってロジックは関係ない。どれほど素晴らしい立論を示されても、現実に苦しんだ人にとってそれは関係がない。戦争は言うまでもないがしない方がいいに決まっている。

さて、太平洋戦争を直接経験した人は少ない。ましてや戦争中に将校なり政治家なり当事者の立場だった人はほとんど生きていない。この『神うなぎ』という小説でも、戦争が終わってから40年後ぐらいに老人と主人公が対決するような設定になっている。もう少し前までは戦争は現代人の物語だったが、今はもうそういうわけにもいかないくらい戦争は遠い記憶になろうとしている。ただ、目取真俊氏がそれでも今、この時代に『神うなぎ』を書いたのには、沖縄にとって戦争は風化させるわけにはいかない現代人の問題だということを問いかけたかったのではないだろうか。


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昭和史58‐創氏改名

日中戦争期の資料を読み続け、とうとう創氏改名のところまでたどり着くことができました。私の手元にある資料の昭和15年2月11日付の資料では、皇紀2600年行事についてや、皇紀2600年記念ポスター展覧会のことなど、華々しく「どうだ。皇紀2600年だぞ」という文字が躍っていますが、同時にちょっと厳かな感じで『本島人の内地式姓名変更に就いて』という記事が掲載されています。ここで言う本島人とは台湾人のことです。当該記事によると、姓名変更は明治38年から定められていたものの、昭和15年に至ってようやく実施するに至ったとのことです。

ですが、誰でも創氏改名できるというわけではなく、一定の条件がクリアされていなければならないとされています。それは1、国語常用の家庭(日本語を日常的に使用している家庭)2、日本精神を充分に有し、熱意ある人物という条件設定がされています。なんとなく不明確な、アバウトな基準であることのようにも思えますが、台湾人の人から創氏改名は地元の名士に限られていたという話を聴いたことがありますので、ある程度、エリートでなければなかったのかも知れません。昭和15年初期の段階で日本語教育の台湾での普及率は50%程度だったらしく、それまで台湾総督府が必ずしも熱心に日本語教育を進めていたようにも見受けられません。蒋介石との戦争が始まって、慌てて植民地の人々の日本人化(皇民化)に取り掛かったといったところではないかと言う気がします。日本語を常用している家庭というのは即ち学校教育を受けられる生活環境に居た人たちと言い換えることもできるでしょうから、やはり地元の名士、或いはエリートに限られざるを得ないのかも知れません。条件2の日本精神を充分に有しているかどうかは審査する側の主観に委ねられると思えますが、ここは想像になるものの、行政サイドである程度候補を絞り、「日本精神を充分に有している」ということにして審査を通したといったところではないかと思います。

さて、創氏改名は今に至るまで悪名高い制度で、一般的なイメージとしては日本帝国が強引に嫌がる植民地の人々を日本人化させたという文脈で語られることが多いように思えますが、そのイメージは半分正しく、半分間違っていると言うのが本当のところではないかと思います。上に述べたように、名士、エリートだけが創氏改名できるとすれば、日本式の姓名を名乗ることが「許可」されることは、自分が名士・エリートであるということの証明であり、当時は日本帝国滅亡とか誰も考えていませんから今後のことを考えれば日本風の姓名が使えることはいろいろ有利という意識もあったのではないかと思えます。一方で、行政の側から「あなた、創氏改名しませんか?」と、いわばスカウトされて、もし断ると有形無形の嫌がらせがあったという話も聴いたことがありますから、お上の意向には逆らえないという感じの圧力や目に見えない強制性はあったと言うこともできなくはないと思えます。

そうは言ってもここに来ての創氏改名は、それまで軍夫の志願者を募集したり、徴用令で労働させたりと言った次元を超えて、正真正銘の日本人だという自意識をもたせることは徴兵にも応じさせようという布石にようにも思えます。実際に全面的徴兵が行われるのは昭和20年に入ってからのことで、既にフィリピンも陥落しており、そもそも兵隊をどこかへ送る船を出したら即撃沈されるという滅亡必至の状況下で行われましたから、海外侵略のための徴兵ではなくて良く言えば台湾防衛のため、悪く言えば台湾を焦土にして本土決戦までの時間稼ぎのためと理解することができると思います。太平洋戦争で台湾が焦土になることはありませんでしたが、その理由が蒋介石の意向に拠るものなのかどうか私は知りません。アメリカ軍はそもそもフィリピンも素通りしてもいいのではないかと考えていたくらいですから、疲れるだけの台湾上陸には関心がなかったのかも知れません。それに対して沖縄については米軍は本気で攻略にかかっていましたから、明暗を分けたとも思え、運命という言葉が頭をよぎります。沖縄で戦争に関する資料をいろいろ読んだことがありますが、それは壮絶なものでブログのような場所で簡単に語れるものとも思えませんが、沖縄には「特別の高配」あってしかるべしと個人的には思います。

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首里城の周囲を歩いた話

琉球王朝の首府であった首里城は、太平洋戦争でアメリカ軍の激しい攻撃により全焼してしまったということなのですが、現在は再建され、美しくかつ堅固な威容を私たちに見せてくれます。

以前訪問した時は首里城の中に入りましたが、今回は外壁の周囲をぐるっと回る、そのエリアをてくてく歩くというのをやってみました。座間味に行った時もそうですが、てくてく歩くのが私はかなり好きなのです。

お城の外壁は相当に堅固なものに見えますから、マスケット銃の軍隊に囲まれた程度では陥落するとは考えにくく、エンフィールド銃の軍隊で囲まれたとしても全然OKに見えます。即ち初期近代の軍隊の装備ではとても陥落させられない、巨大な要塞だと私には思えます。また、立地条件もよく沖縄の東側、西側の両方の海まで視界が届き、那覇市内を一望できる高台にあるお城ですので、敵の来襲があればすぐに分かりますし、繰り返しになりますが敵が上陸しても堅固な要塞で跳ね返すことができるように見えます。来襲してくる敵にとってはアウェーで常に補給の問題がありますから、しばらく城に立てこもっていれば敵は自壊し自ずと勝利できるように思えてなりません。

そのため、ペリーのような少人数のアメリカ軍が首里城に入城し、事実上占領したということは私には簡単には信じられませんし、薩摩藩による侵攻についても同じ理由で首を傾げてしまいます。そうは言ってもそのような歴史的な事実はあったわけですから、それには違う要素も含めて考える必要があるのかも知れません。

首里城の周辺を歩くと、古い石畳や泡盛の蔵元である瑞泉の看板などを見ることができ、かつての城下町の雰囲気を感じることができます。大変に立派なお城ですので、沖縄に行けば是非訪れるべきと思います。

古い城下町の雰囲気を伝える石畳
このエリアもドラマチックでぐっときます
泡盛の蔵元、瑞泉の看板。お店の前にて。



那覇のぱいかじで「いーどぅし」のライブを観た話

沖縄に行けば、やはり三線ライブにも行ってみたいものです。食事しながら三線ライブを観るというのはいかにも「観光客です!」という感じで、まあ、ちょっと素人くさいというか、沖縄ビギナーみたいでちょっと恥ずかしい面もありますが、やっぱりそれでも沖縄に行ったら三線ライブに行きたくなってしまいます。三線ライブで有名なお店としては国際通りの「ぱいかじ」や沖縄音楽食堂ライラなどがありますが、今回はぱいかじで「いーどぅし」のライブを観ました。

まず、ボーカルのかーなーさんがとにかく歌が上手いです。いい声です。なみなみさんがギターを担当していますが、沖縄三線ライブでギターも組み合わせるというのは珍しいと思いますから、そういう意味でも希少という貴重というか、定番の沖縄民謡もやってくれますし、ちょっと変化球で『海の声』とかそういうのもやってくれますから、ギターがある分幅広くいろいろやれるということではなかろうかと素人なりに考えてみたりしています。

三線ライブをしている「いーどぅし」。もし関係者の方から「肖像権の問題がある」と指摘されれば削除します。

三線ライブのお店は「ライブチャージは無料」という場合が多いですが、お料理の単価は結構高いです。とはいえ、ライブをするための費用はお店が負担しているわけですから、それがお料理の単価に反映されるのはやむを得ないことではないかとも思います。安く飲みたいのであれば、牧志で千ベロ(千円で三杯、おつまみ一皿が定型スタイルのようです)もありますし、国際通りには海援隊もありますから、そこはそれぞれの判断で、初日は千ベロ、翌日は三線ライブとかに使い分けるのがいいのではないかと思います。

今回は三線ライブで個人的には充足感を得られましたので、感謝したいです。




フェリー座間味で座間味島に行った話

那覇市の泊港(通称、とまりん)からは毎日朝10時に座間味島へ行く定期便が出発します。阿嘉を経由して12時ちょうどに座間味島に着き、午後3時に帰りの便が出発しますから、那覇と日帰りができ、大変に便利です。大人一人往復で4000円ちょっとですので、ちょっと高いようにも思えますが、せっかく沖縄に来たのだから、やっぱり離島にも行ってみたいという人にはちょうどよいのではないかと思います。

マリンスポーツを目的にする人もいますし、時間の節約をしたい人は高速船のクイーン座間味を利用したいという人もいますが、私の場合はぼんやりと海を眺めることが目的ですので、フェリー座間味のちょっとくったりとした感じで船に乗ることの方が自分のニーズにも合っています。

座間味島に上陸して、まずは沖縄そばのお店で腹ごしらえです。ちょうどお昼ですからどうしてもお腹が空いてしまいます。

座間味で食べた沖縄そば。お店の人が親切にしてくれました。

その後は午後3時までてくてく散策です。レンタル自転車のお店もありますが、個人的にはてくてく歩きたいので自転車は借りませんでした。

見知らぬ土地の見知らぬ路地は魅力的に見えるものですが、ここでもこの写真のような路地に遭遇。個人的にはこの路地の雰囲気にはぐっときてしまいます。

知らない土地の路地はドラマチックに見える。

「太平洋戦争沖縄戦上陸第一歩之地」という碑文もありました。当時、アメリカ軍は沖縄本島東側からの上陸を企図し、その前哨戦として座間味に上陸したのですが、多くの人たちが集団で自決したとされています。強制性については議論が分かれており、私は強制性があったとする意見と、米軍に子女を襲わせたくないという考えから自発的に行われたとする意見の両方に接したことがあり、何が真実であったかは判断が難しい部分があるように思えます。そうとは言え、実際に多くの人が亡くなったことは重い事実として存在するわけですから、哀悼の心境を持たなくてはいけないと思った次第です。

太平洋戦争沖縄戦上陸第一歩之地と記された碑

帰りの船では那覇の街がだんだん近づいてくる様子がとてもドラマチックです。考えてみればこの海域には特攻隊の飛行機が沢山沈んでいるはずです。そういう重みのある土地なのだということをよくよく自覚し、敬意を保ちつつ、沖縄本島へ帰還したのでした。

フェリー座間味から見える那覇市街

そうは言っても夜は居酒屋さんでオリオンビールを楽しませていただいたわけですが…。

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那覇の居酒屋さん海援隊に行った話

沖縄に行くと、必ず足を運ぶのが、安くておいしい居酒屋さんの「海援隊」です。オリオンビールが100円で、何杯飲んでもずっと100円です。お店には貼り紙がされてあり「オリオンビール100円を維持するために、多くの肴をご注文ください」というようなことが書かれています。

上の写真は馬刺しですが、馬刺しとその日のお刺身、オリオンビール二杯飲んで2000円程度という破格の安さです。しかもおいしい。食べれば、あ、新鮮なお魚だなとすぐに分かる大変に素晴らしいお店です。

一人で行くとカウンターに通されます。カウンターの向こう側にはこの道何十年と思しきダンディなおじさまが包丁を振るっています。常連さんが多いらしく、常連さんとはにこやかに話しますが、その時以外はなかなかの強面です。

以前行った時には私を挟んだ両隣のお客さんが会話を始め、どちらもご老人だったのですが「戦争が終わった時はどこにいましたか?」「ああ、私は〇〇地区で終戦を迎えましたよ」などというディープな、或いは貴重な話を聞くことも運が良ければ可能です。沖縄は観光地ですから、ついつい「遊び」に出かけてしまうのですが、沖縄に行けば私のような性格ですとやっぱり沖縄の土地や歴史について学びたいとついつい思ってしまいます。

以前には対馬丸記念館やひめゆりの塔を参観させていただいたことがあり、「沖縄のみなさん、すみません。お疲れ様でした」という言葉が頭の中に浮かんできます。本来、辺野古も見学に行くべきなのですが、私はレンタカーを借りたりしないですし、バスを乗り継いでどう行けばもよく分からないので今に至るまで辺野古には行っていません。

その点、ちょっと私も努力不足ではあるのですが、海援隊は観光客よりも地元の人をメインに営業している感じのお店ですので、地元の人が本音ベースでどんな会話をしているのかを知り、学びを得るのに適しているのではないかと思います。そのうえ安くておいしいのですから、言うことはありません。

オリオンビールとお通し。お通しもおいしかったです。ありがとうございました。




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那覇のぱいかじで「いーどぅし」のライブを観た話

報道の自由と取材の自由

「報道の自由」が果たしてどこまでゆるされるのか、虚報や誤報は別としてその内容が真実だとしても、なんでもかんでも報道していいのかというのは結構議論のあるところというか、それぞれ人がそれぞれに意見があるのだろうと思います。なんといってもマスメディアには権力を監視するという大切な役割がありますから、そこに制限がかけられることは望ましいことではありません。原則として、無制限であるべきで尾はないかと私個人は思います。報道は取材しないとできませんから、「取材する自由」についても同様に広く求められるべきと思います。尤も、それは飽くまでも権力の監視に限ったことだと思いますので、それ以外のことではある種の節度が求められるかも知れません。

報道の自由に関する議論としてよく話題にされるのが、いわゆる西山事件と呼ばれるものです。毎日新聞の西山記者が外務省の女性事務職員と男女の仲になり、その関係性を利用して沖縄返還に関する秘密の電文を入手し、それを社会党の議員に渡して国会で暴露されるという展開のもので、刑事事件にまで発展しています。

私個人の意見ですが、報道の自由という観点から論じるのなら、新聞記者には外務省の秘密文書を世に問うという権利は当然に認められなくてはならないものだと思います。しかしながら、この事件で世間の耳目を集めたのは、記者が事務職員の女性と男女の仲になるという手段で情報を手に入れたということです。この点に関しては感情的な面でいやーな気分にどうしてもなってしまいますし、当時も激しく批判されたようです。男女の情を利用して秘密情報をと手に入れるというのはほとんどスパイ映画みたいな話になってしまうのですが、情報を手に入れるためにそのような人間的感情を弄ぶというのは、やはり許容の範囲外なのではないかという気がしないわけでもありません。

そういう意味では、取材の自由や取材源の秘匿については新聞記者は広くその権利を認められてしかるべきとは思えるのの、そういう権利があるからこそ、ネタのためには何をやってもいいのかどうかについては節度のようなものが求められるのではないかと思えます。

また、西山記者の事件で問題にされたのは、自分の勤務する新聞紙上で公開するとすれば、ジャーナリズムと権力との闘いとも言えますので、新聞がんばれ!と応援したくなるかも知れないのですが、当該記者はそういう手段を採らず、野党の議員にネタを流して国会で暴露させています。そういう風になるともはやジャーナリズムですらなく、権力の監視とは別の話になってしまいますので、裁判所もわりと厳し目な判断をしたのではないだろうかという気がします。

西山記者はその後毎日新聞社を退社しましたが、21世紀に入り、アメリカで日米間の秘密文書が公開され、確かに密約があったことが確認されたとも言えますが、西山さんがテレビに出演して「俺の取材した内容は正しかったじゃないか」的な感じのことをお話ししていらっしゃいましたが、テレビを見ている人の中には「いや…問題はそこにあるのではなくて…」と絶句した人が多かったのではないでしょうか。

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台湾近現代史14 牡丹社事件

1871年、宮古島の70名近い島民が首里への年貢を納めた帰りに遭難し、台湾に漂着しますが、原住民のパイワン族によってその大半が殺害されるという事件が起きます。強いて殺さなければならないというを見つけることが難しいため、原住民の独特の死生観にその理由を求めようとする論者の方もいらっしゃるようです。個人的には原住民の視点からすると、福建省移民、広東省移民、客家人などの漢民族が続々と台湾に移住している時代であったほか、オランダ東インド会社が拠点を作り原住民を奴隷労働に駆り立てるなどの出来事の記憶も残っていたため、外から来る人間はなるべく殺して台湾の土地に根付かせないというある種の方針のようなものがあったのではないかと推察します。

一般に原住民は客家人との関係は悪くなかったとも言われており、客家人を通じて外の世界の情報や通貨や銃器を手に入れていたとも言われているため、漂流者を身代金狙いで監禁する例も少なくなかったことを合わせて考えると、死生観だけで説明がつかないように思え、彼らなりの駆け引きが働き、殺す人間と身代金と交換する人間の区別もつけていたのではないか(人質が多すぎると食わせるのが大変なので、大体殺して少数を身代金と交換する)と想像することも不可能ではないように思えます。

明治新政府は清朝から冊封を受けつつ薩摩藩の支配も受けるという両属状態だった沖縄を日本のテリトリーとして確定したいという狙いがあり、宮古島の島民が台湾で大勢殺害されたこの事件を日本人が殺された事件として外交問題化させようとします。外務卿の副島種臣が清に渡り、交渉しますが、清サイドとしては「台湾の原住民は自分たちの管轄外」という態度に出ます。副島が「ならば日本人が台湾に渡って征伐しても文句はないですね」と畳みかけると清の側からは「好きにしてください」という返答だったため、外交上の問題を処理した上での台湾出兵へとつながっていきます。副島の畳みかけには「沖縄は日本のテリトリー」という前提をくっつけているものであり、勝手にくっつけて何をするのかと反論することもできますが、清の官僚としては台湾や沖縄の事情はよく分からないので関わり合いになりたくなかったというのが本音だったのかも知れません。

このような経過を経て台湾出兵が決まりますが、征韓論にも反対していた木戸孝允が台湾出兵に反対して辞任、新政府は空中分解の危機を迎え、大久保利通は一旦台湾出兵を見送らせることにします。しかしながら、現場の兵士たちの士気は高く、やる気まんまんで、台湾征討軍は出発し、台湾に上陸します。ローバー号事件で対応したルジャンドルが台湾出兵に同行する予定で、ルジャンドル本人も原住民との交渉には自負するものがあったのかも知れないのですが、台湾出兵延期の報に触れて自身の出発を見合わせ、改めて軍が出発した後は迎えに来た大久保と一緒に東京へ向かっています。

台湾出兵では日本側の戦死者は必ずしも多くはありませんでしたが、マラリアなどの熱帯性の感染症に罹患する兵士が続々と倒れるというありさまになります。これは日清戦争後の台湾平定戦でも同じことが起きており、兵士の病死の原因が栄養失調かそれとも感染症によるものかで議論されることにもなります。結論としては感染症によるもので、それを教訓に日露戦争では感染症予防のために兵士たちに「大地に積もった雪を食べるな」との訓練がなされてもいますが、酷寒の大地にマラリアや赤痢の細菌がうようよいるかといえばかなり怪しく、初期日本軍の兵士の健康に対する認識の脆弱さもうかがわれます。

日本の台湾出兵は清朝サイドに「まさか本気でやるとは思わなかった」という狼狽の態度を採らせ、駐清イギリス公使パークスも清朝の味方につき、この件について大久保利通が北京に渡って李鴻章と交渉することになります。李鴻章側から見舞金を支払うと申し出があり、日本軍の撤退の時期なども決められますが、李鴻章としては勢いで台湾を日本にとられてしまうよりは、見舞金を払うことで結果的に台湾は清朝の領土であるということをはっきりさせられることの方を優先したのものと思えます。

一連の事件は以上のような経過を辿りましたが、日本では宮古島島民遭難事件と台湾出兵を別の事件として語られることが多い一方、中華圏では一つにまとめて牡丹社事件(牡丹社とは、パイワン族の集落という意味)で語られることが多く、関連性とはつながっているということも考慮して、今回は一つにまとめ、牡丹社事件として述べてみました。

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佐藤栄作内閣‐沖縄返還と非核三原則と黒い霧

池田勇人首相は病床に倒れた後、後継首相としてはそれまでいろいろと尽くしてくれた河野一郎を望んでいたようなのですが、自民党の重鎮たちが「エスタブリッシュメントでなければだめだ」という意見を強く持っており、妥協して総裁選挙で次点だった佐藤栄作が指名され、佐藤栄作内閣が登場します。想像ですが池田勇人首相の心中には「佐藤にだけはやらせたくない」という男同士の感情的なぶつかり合いがあったのではないかという気がしてしまいます。

その佐藤栄作ですが、政権は七年半余りの長期に及び、かくたる積極的な政治姿勢はなかったとも言われますが、期間が長かっただけに沖縄返還、非核三原則、日韓基本条約とやった仕事はいろいろあります。

また、政界では金脈に関わる不祥事が続き、黒い霧事件とも呼ばれましたが、経済がほうっておいても良くなっていくような時代でしたので、衆議院の総選挙でも自民党は安定多数を確保し、佐藤政権は命脈を保ちます。戦前、斎藤実内閣が帝人事件の疑惑だけで総辞職に追い込まれたのはえらい違いです。戦前の内閣が天皇や元老、枢密院の下僕でなくてはならなかったのに対して、戦後の内閣が強靭なものに変化したのだということが分かります。

佐藤栄作内閣の時代、最も記憶されるべきは沖縄返還ではないかと個人的には思います。当時の沖縄には行政主席をトップとする琉球政府があり、立法院もあり、それをアメリカが関節支配するという状況でしたが、アメリカ軍の素行はすこぶる悪いものだったらしく、コザ暴動など沖縄の人の反基地感情はかなり高まっていたようです。

当時まだベトナム戦争をやる気まんまんだったアメリカに対し、基地機能だけは温存するという条件で「本土並み」の返還は実現したことは私個人としては良かったと思っていますが、基地が完全に撤廃されなかったことは現代にいたるまでしこりを残しており、簡単には結論できないほか、密約の存在を取材で掴みながら社会党に情報を横流しして国会で質問させる西山事件のような副作用も起こしています。

西山事件に関しては、私には西山記者個人に結構問題があるような気もしますが、そういうすったもんだも含んでいわゆる「沖縄問題」とも言えるのかも知れません。

沖縄返還の時には佐藤は前人未踏の四選を果たしていましたが、沖縄返還花道論が強まり、かの田中角栄が佐藤派の議員の大半を引き連れて田中派を旗揚げし、三角大福中の中で首相の座に一番のりを果たします。

薩摩による琉球侵攻

薩摩藩が琉球に使節を何度か送っています。1602年に仙台藩の領域に琉球船が漂着し、帰還が許されましたが、その感謝の使節を送るようにと徳川が薩摩藩経由で要求するものの、当時の折衝担当者の謝名利山はことごとく無視したことで、日本側に「琉球征伐」の口実を与えることになり、徳川家康の承認のもと、薩摩藩は兵を南下させていきます。

1609年、樺山久高を司令官とする薩摩軍は同月に奄美大島に上陸しこれを制圧。次いで徳之島、沖永良部島、その他奄美群島を順番に制圧し4月中に沖縄本島北部の今帰仁に上陸します。琉球王朝からは長年日本で仏門を学んだ僧侶の菊隠が和平交渉の使者として送られてきますが、この段階では薩摩軍は講和にのるつもり一切なかったように見受けられます。薩摩軍は那覇港が封鎖されていることを知り、陸路首里城に接近し、再び講和が話し合われ、事実上の琉球王朝の降伏という形で事態は収拾されます。

以降、薩摩藩が琉球王朝を支配し、その後、尚王家は王の代替わりの時に江戸へ謝恩使を送り、将軍の代替わりの時には慶賀使を送ることになり、事実上の朝貢とも受け取れる状態になるのですが、琉球王朝は清王朝への朝貢を続けたため、日清両属状態となり、国際法的には下関条約で日本への帰属が確認されるまでは曖昧な状態が続いたとも言えます。また、太平洋戦争が終わった後は、原則として日本が武力で手に入れた領土は放棄することがサンフランシスコ平和条約で確認されていますので、果たして沖縄は真実にはどちらに帰属するのかというのは現今にあっても曖昧と言えば曖昧なままとも言えなくもありません。

それ以上のことは個々人の信条や感情の問題になりますで、「こうでなくてはならない」という議論をすることはできないと思いますが、私個人としては琉球は主権国家としての資格を有していたと思いますので、そういう観点から議論がなされるのがいいように思います。元々琉球という王国があって、そのうえで現在、沖縄の人が日本に帰属としたいと思うか思わないか、または独立したいと思うか思わないかという議論がなされるのがいいのではないかと思えます。

私は沖縄が好きで、命の洗濯をするには沖縄の海を見るのが一番なのですが、私は日本人なので沖縄の人が日本に帰属することを選んでくれるといいなあという希望があります。個人的な希望です。

琉球王朝は幕末にもペリーの上陸があり、事実上の占領に近い目に遭わされていますので、位置的にたいへん気の毒なことだとも思います。日本の近代のキリスト教布教史はペリーと一緒にやってきた聖公会の宣教師から始まると考える人もいますので、そういう点から見ると、幕末日本よりも先に西洋のパワーの洗礼を受けた土地ということができるかも知れません。

ここ何年も年に一度は沖縄に行っています。パスポートなしであんなにいいところに行けるというのは実にありがたいです。沖縄には感謝しています。

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