昭和史76‐太平洋戦争は何故起きたのか(結論!)

資料を読み続けてきましたが、一応、手元に集めたもの全てに目を通しましたので、ここで一旦、昭和史については終えることにしますが、そこから私が得た知見を述べたいと思います。太平洋戦争は何故起きたのか、私なりに結論を得ることができました。

1、蒋介石との戦争に固執し過ぎた

日本軍、特に陸軍は蒋介石との戦争は絶対に完遂するとして、一歩も引く構えがありませんでした。しかし、情報・宣伝・調略戦の面では蒋介石が圧倒的に有利に展開していたということに
気づきつつもそこは無視してとにかく重慶を陥落させるということに固執し、空爆を続け、蒋介石のカウンターパートとして汪兆銘を引っ張り出し、新しい国民政府を建設し、蒋介石とは
対話すらできない状況まで持ち込んでいきます。情報・宣伝・調略の面では、蒋介石はソビエト連邦を含む欧米諸国を味方につけており、しかも欧米諸国はかなり熱心に蒋介石を援助していましたから、長期戦になればなるほど日本は疲弊し、国力を消耗させていくことになってしまいました。フランス領インドネシアへの進駐も援蒋ルートの一つを遮断することが目的の一つでしたが、それがきっかけでアメリカからの本格的な経済封鎖が始まってしまいます。アメリカから日本に突き付けた要求を簡単にまとめると、「蒋介石から手を引け」に尽きるわけで、蒋介石から手を引いたところで、日本に不利益はぶっちゃけ何もありませんから、蒋介石から手を引けばよかったのです。それで全て収まったのです。更に言えば、日本帝国は満州国と汪兆銘政権という衛星国を作りますが、味方を変えれば中国の国内の分裂に日本が乗っかったとも言え、蒋介石・張学良・汪兆銘・毛沢東の合従連衡に振り回されていた感がないわけでもな
く、汪兆銘と満州国に突っ込んだ国富は莫大なものにのぼった筈ですから、アメリカと戦争する前に疲弊していたにも関わらず、それでもただひたすら陸軍が「打倒蒋介石」に固執し続けた
ことが、アメリカに譲歩を示すことすらできずに、蒋介石との戦争を止めるくらいなら、そんな邪魔をするアメリカとも戦争するという合理性の欠いた決心をすることになってしまったと言っていいのではないかと思います。

2、ドイツを過度に信頼してしまった

日本が蒋介石との戦争で既に相当に疲弊していたことは述べましたが、それでもアメリカ・イギリスと戦争したのはなぜかと言えば、アドルフヒトラーのドイツと同盟を結んだことで、「自分たちは絶対に勝てる」と自己暗示をかけてしまったことにも原因があるように思います。日本だけでは勝てない、とてもアメリカやイギリスのような巨大な国と戦争することなんてできないということは分かっている。だが、自分たちにはドイツがついている。ドイツが勝つ可能性は100%なので、ドイツにさえついていけば大丈夫という他力本願になっていたことが資料を読み込むうちに分かってきました。確かにドイツは技術に優れ、装備に優れ、アドルフヒトラーという狂気故の常識破りの先方で緒戦に勝利し、圧倒的には見えたことでしょう。しかし、第一次世界大戦の敗戦国であり、植民地もほとんど持たなかったドイツには長期戦に耐えるだけの資本力がありませんでした。更にヨーロッパで二正面戦争に突入し、アメリカがソビエト連邦に大がかりな援助を約束してもいますから、英米はドイツはそろそろ敗けて来るということを予想していたとも言われます。日本帝国だけが、ドイツの脆弱性に気づかなかったというわけです。ドイツは絶対に勝つ神話を広めたのは松岡洋右と大島駐ベルリン大使の責任は重いのではないかと思えます。

3、国策を変更する勇気がなかった

昭和16年7月2日の御前会議で、南進しつつ北進するという玉虫色的な国策が正式に決定されます。フランス領インドシナへの進駐もその国策に則ったものですし、構想としてはアジア太平洋エリア丸ごと日本の経済圏に組み込むつもりでしたから、その後も南進を止めることはできなかったわけで、南進を続ければそのエリアに植民地を持つイギリス・アメリカとは必ず衝突します。アメリカとの戦争を近衛文麿が避けたかったのは多分、事実ですし、東条英機も昭和天皇からアメリカとは戦争するなという内意を受けていたのにも関わらず、国策に引っ張られ、国策を決めたじゃないかとの軍の内部からも突き上げられて戦争を続けてしまったわけです。

以上の3つが主たる原因と思いますが、どれもみな、日本人が日本人の意思としての選択であったと私には思えます。蒋介石との戦争に必然性はありませんから、いつでも辞めてよかったのです。ドイツを信用するのも当時の政治の中央にいた人物たちの目が誤っていたからです。国策だって自分たちで決めることですから、自分たちで変更すれば良かったのです。そう思うと、ほんとうにダメダメな選択をし続けた日本帝国にはため息をつくしかありません。私は日本人ですから、日本が戦争に敗けたことは残念なことだと思います。しかし、こりゃ、敗けるわなあとしみじみと思うのです。



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昭和史75‐「帝国遂に立てり」orz

手元の資料の昭和17年1月1日付の号では、表紙にでかでかと『帝国遂に立てり』と大きな字が書かれています。やっちまったのです。アメリカと戦争するという一番やってはいけない悪手をとうとう選んでしまった、悪い意味での記念号なのです。

それより少し前の資料では近衛文麿首相の退陣と東条英機首相への大命降下について書かれており、そこでは近衛内閣は閣内不一致で総辞職になったが、国策そのものに関する不一致ではなく、国策遂行手段に関する不一致で総辞職になったと説明されていました。現代を生きる我々は知っています。近衛は大幅に譲歩することでアメリカとの戦争を避けたかった、一方で東条は昭和16年7月2日の御前会議で行われた国策決定をひっくり返すことを拒絶し、アメリカとの戦争も辞さないという彼の態度が内閣不一致に至ったことを。

東条英機は首相就任後に木戸内大臣を通じて昭和天皇から「戦争より外交を優先するように」との内意を受けていましたが、それでもやっぱり戦争することに決定し、その日の夜は自宅で号泣したと言われています。号泣したいのはこちらの方です。政治家たちが何とか戦争を避けたいと思っていたのに対し、陸軍は蒋介石との戦争を止めるくらいならアメリカとも戦争するという主戦派で、アメリカと戦争するとなれば実際に動くのは海軍なわけですが、連合艦隊は準備万端整えており、更に予算がつくのなら半年一年はやってみせると言うものですから、政治家たちも迷い出し、おそらくは戦争になったら儲かる考える財界人も居て、なんのこっちゃらわからんうちに「アメリカと戦争する以外に道はない」という結論に至ってしまいます。船頭多くして船山に上るとはこのことを言うのかも知れません。

私の推測も交えて言えば、当時日本帝国は既に火の車です。蒋介石と戦争するための戦費、満州国の維持費、汪兆銘政権の維持費、更に海軍力の増強に航空戦力の強化と金がザルに水を灌ぐようになくなっていったはずです。それでも世界で一番資本力のある国と戦争しようと言うのですから、正気の沙汰とは残念ながら思えません。

当該の号では「アメリカが癌なのだ」と主張し、癌は切開して切り取らなくてはならないとしていますし、日本軍の強力さも主張しています。短期戦でなら勝てるという見込みは確かに正しかったし、実際に短期的には大勝利なわけですが、後はじりじりと押されてやがて圧倒され、滅亡に至ります。そしてその禍根は種々の面で今に至るまで続いています。あー、やってらんねえと資料を自分で読みながらも、読む気がしなくなってきます。まあ、もう少し、頑張って読み続けたいと思います。

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昭和15年11月30日、日満華共同宣言というものが出されます。同日、南京で日華基本条約も結ばれています。ここで言う「華」とは、汪兆銘政権のことを指します。当該の共同宣言では、日本と満州国、汪兆銘の中華民国の相互承認及び日満華経済ブロックの確立、更に防共をうたっているわけですが、私の手元にあるとある情報機関の昭和16年1月1日号(新年号)では、当該情報機関がその後の展開をどう考えていたかがよく分かる(つまり、日本帝国の考えていた方向性がよく分かる)記事がありましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。

当該の記事では日満華は「共同の理想」があるとし、その共同の理想とは「アジア人によるアジアの解放」であり、「大東亜広域共栄圏」の確立としています。「大東亜共栄圏」ではなく、「大東亜広域共栄圏」としているあたり、いわゆる大東亜共栄圏構想がまだはっきりとは定まっていない、手探りの段階だったことを示すのではないかとも思えてきます。

続いて、当該の記事では日本と蒋介石政権との戦争は単にその二つの勢力の戦いではなく、蒋介石を支援する英米を中心とした列強との闘いであるとも強調されています。即ち、遅くとも昭和16年初頭の段階で日本帝国は世界を敵にして戦う決意を固めつつあったということが見えてきます。言うまでもないことですが、世界を敵にして戦って勝てるわけがありませんから、その後、日本帝国が滅亡の過程を辿って行ったのは当然の帰結と言うことができるかも知れません。当該記事ではフィリピンに於いてアメリカの航空勢力が拡充されている点に警戒感を示し、オランダ領インドネシアでは排日運動が盛んになって、嫌がらせされていることへの嫌悪感も書かれており、やはり世界を相手に戦争をする気がまんまんであったということが分かります。

もちろん、このように強気の姿勢で事態に臨むことができたのは日本にはドイツのアドルフヒトラーがついているということが自信の根拠となっていたわけなのですが、さすがにアドルフヒトラーと組むという悪手を選んでしまったことに、21世紀の現代を生きる日本人としてはがっくりするしかありません。ドイツの技術力は見事なものだったらしいのですが、資本力の底力みたいなものの点では英米に対しては各段に劣っており、長期戦になれば資本力がものを言うわけですから、アメリカ、イギリスサイドではさほど悲観的ではなかったようです。イギリスでは既にチェンバレンが退き、チャーチルが首相の座に就いていましたが、チャーチルはアメリカの参戦を心待ちにしており、ルーズベルトは日本に先に一発撃たせることで国内のモンロー主義を一掃し、英米世界秩序みたいなものを維持しようと考えていたという話は随所にありますから、日本がアドルフヒトラーをどんなに頼りに思っていても、アドルフヒトラーは実はそこまで強くなかったという現実に気づいていなかったというのが日本帝国の悲劇なのかも知れません。ドイツと同盟していなければ日本の政治家や軍人がここまで強気になることはなかったでしょうから、かえすがえすもがっくし、残念、何をやっているのだか…と辛い心境にならざるを得ません。私の手元にある資料は昭和17年までありますので、もう少しの間、資料の読み込みを続けたいと思っていますが、どうしても暗い心境になってしまいます。

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昭和史61‐蒋介石と汪兆銘と張学良と毛沢東

昭和15年5月11日付のとある情報機関の発行した機関紙によると、同年4月26日に南京に於て国民政府遷都慶祝大会が挙行されたという内容の記事が掲載されていましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。「遷都」というのがポイントです。ここで言う国民政府とは蒋介石政権のことではなく、汪兆銘政権のことを指しています。つまり、汪兆銘政権が正式な中国の「国民政府」であり、重慶にいる蒋介石の国民政府はニセモノで、本物の国民政府を南京に「遷都」させて誕生させたというわけです。ですので、当時の段階では国民政府が2つあったということになってしまいます。国旗も酷似しており、どっちがどっちでどうなのかと言うわけのわからない混乱状況に陥ってしまった感があるのですが、「和平反共及び日華親善」という標語も見られ、日本帝国が汪兆銘政権の既成事実化を狙っていたことが分かります。当該記事をざっと読むと要するに蒋介石が共産党と手を組んだのがいけないということらしく、蒋介石が容共を続ける限り戦争は継続されるということらしいです。で、本当は日本人と中国人は大の仲良し、悪いのは蒋介石という構図になっているわけですが、不思議なことに毛沢東の名前をこれまで一度も見たことがありません。張学良の名前も全然出てきません。ひたすら蒋介石、蒋介石です。この辺り、裏があるとすればどんな裏があるのか、情報不足で推測するのもちょっと難しいのですが、打倒蒋介石に慣性の法則が働いて加速しているようにも思えます。このように日中戦争は「反共」を大義に継続されていったわけですが、一方で松岡洋右がスターリンと接近して日ソ不可侵条約を結び、太平洋戦争の最後の方になると、ソビエト連邦を唯一の友好国と頼みにするようになるのですから、やはり何かが誤っていた、どこかに齟齬が生じていたと感じないわけにはいきません。やっぱりゾルゲと尾崎穂積に誘導されていたということなのでしょうか。

国共合作も謎が多く、張学良がその真相については最期まで明かさなかったため、今に至るまで実際のところははっきりとはしていません。蒋介石が西安事件で監禁された時に脅迫されて共産党と協力することにしたということまでは分かります。しかしその後、自由の身になった蒋介石が太平洋戦争が終わるまでその約束を守り続けたことや、張学良が軟禁され続けたことも疑問です。普通に考えれば蒋介石が自由を回復すれば張学良を殺して既定路線通りに毛沢東と戦争を続けていたはずですが、そういう風にはなりませんでした。張学良の口述という中国語の本をパラパラっと読んだことがありますが、張学良は蒋介石を信頼していたらしく台湾に移転してからも親交が続いたと言っています。一体、裏に何があってどうなっていたのでしょうか。考え込んでいくうちに、蒋介石と汪兆銘の仲間割れ、張学良と毛沢東も加わった集合離散、合従連衡に日本帝国が振り回されていたようにすら思えてきます。

当該の号には上に挙げた記事の他に援蒋ルートについても説明されており、一般に援蒋ルートと言えば東南アジア、たとえばフランス領インドシナ、或いは英領ビルマからの重慶へのルートが知られていますが、ソビエト連邦から新疆方面を通って重慶への援助ルートがあると記載されています。ソビエト連邦からも援助がもらえたから蒋介石は西安事件後も国共合作を続けたという安易な判断でいいのかどうか、結論しかねるところですが、考えれば考えるほど、中国の近現代史は奥が深いというか、裏が深いというか、質実剛健とか武士に二言がないのが大和魂とかみたいにわりと真っ直ぐなことが好きな日本人にはとても太刀打ちできないよう事柄のように思えてしまい、その意味でも日中戦争は早々に決着させておくべきだったと思えてなりません。


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昭和史59‐汪兆銘政権と青天白日旗

蒋介石と対立し、袂を分かった汪兆銘が日本軍と結び南京臨時政府を設立しますが、当初は五族協和を表す五色旗を使用していました。昭和15年に入り「臨時」政府は、は正式名称を名乗ることとし、「国民政府」を名乗るようになります。お気づきと思いますが、蒋介石の国民政府と汪兆銘の国民政府、二つの国民政府が両立状態が生まれてしまったわけです。日本帝国としては近衛文麿が「国民政府を相手とせず」と声明して以降、蒋介石政権は正式な中国政府ではないとの立場を貫き通す所存ですから、以降、国民政府と言えば、汪兆銘政権を指すことにしたわけです。

で、問題となるのが青天白日旗です。国民政府と言えば青天白日旗がセットみたいなところがあって、汪兆銘政権でも青天白日旗を自国(自政権と呼ぶべき?)の国旗として使用しようということになったのですが、それでは見分けがつきません。それで見分けがつくようにと、汪兆銘サイドでは青天白日旗の上に三角の黄色い布をつけ足して、そこにスローガンを入れ込むというスタイルをとったようですが、将来的には青天白日旗のオリジナルを使いたいと言う意向が汪兆銘には強かったようです。ここは蒋介石と汪兆銘、どちらにとっても意地のかかった問題だったのかも知れません。

どっちがどっち?という点では当時の発行物で、日本は二ホンかニッポンかについて書かれているのもちょっと面白かったので紹介したいと思います。例えば日本書紀のように、当時は聖典のように扱われていた書物は二ホンと読みます。一方で、大日本帝国憲法の場合はニッポンと読むわけです。他にも用例はいろいろあるとは思いますが、これはどちらが正しいとはなかなか断じ難いところで、私個人的としては二ホンと読む方が好きですが、ニッポンと読む方が勢いがあって力強くていいと思う人もいるようですし、経験的に聴いた限りでは欧米の人はnihonよりもnipponの方が発音はしやすいようです。当時の日本帝国としては「ニッポン」を正式名称として広めたいという意欲が強く映画で日本はjapanですが、そこをnipponという表記で普及させたいとしています。一般的に日本帝国と言えば英語ではthe empire of japanになるでしょうけれど、恐らく日本帝国サイドとしてはthe great empire of nipponにしたかった(great britain=大英帝国みたいな感じでしょうかね)ということなのでしょう。そのような英語表記が広まったというのは私は読んだことがありませんし、普及する前に日本帝国が滅亡するので、それが普及することは永遠になくなったわけです。

まあ、個人的には「にほん」という響きの方が好きなことは好きですなんですがねえ…

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