非朱子学の面々(市井の思想)

江戸時代、平和且つ安定的に経済発展を遂げた時代であったため、武士階級だけでなく市井の人々の間からも思想家が登場してきます。

有名な人物としては、石田梅岩という人物を挙げることができると思います。農村の出身者ですが、長く商家に奉公した経験があるため、農民の生活と商人の生活の両方を知っていた人と捉えていいのではないかと思います。彼は『都鄙問答』で、商人が利益を追求することは、武士が碌をもらうのと同じであるから、商人を「金のため」だけに生きているという観点から軽蔑することは妥当ではないとする論陣を張りました。

梅岩が晩年に開いた私塾では性別も問わず、授業料を受け取らず、紹介状もいらないという姿勢で臨んでいたということですから、身分の格差のようなものに対しては激しい反発心を持っていたのではないかと想像できます。もっとも、自分の身分に満足する、即ち足るを知るというような意味のことも説いていたとのことですので、身分制度そのものを否定していたわけでもないようです。或いは、身分制度を否定するといろいろ厄介なことになったでしょうから、自分の身を護る必要性もあったのかも知れません。

東北地方で生きた安藤昌益という人物は、戦後になったカナダ人外交官ノーマンに評価されてその名が知られた人で、武士や神社仏閣の人々のことを、農村から搾取する階級だとして厳しく批判しています。なんとなくフランス革命のアンシャンレジームを想起させられます。一時、農民一揆をある種のプロレタリア革命のようなものとして位置づけようとした学問研究がよく見られましたが(最近は「学会」に関心がなくなってしまったので、今どんな議論がされているかはちょっと分からない部分もあるのですが…)、そういう研究がしたい人には、安藤昌益の研究をするのが適切ではないかとも思えます。

それから、今風に言えばインフラ投資を充分に行うことで人々の生活を向上させたという意味で、二宮尊徳を忘れるわけにはいきません。田畑の開墾をやりまくって表彰されるに至るわけですが、生産性の向上が経済発展に不可欠だと考えるとすれば、二宮尊徳は鑑みたいな人と持ち上げても差し支えないかも知れません。もっとも、全国の小学校に二宮尊徳の像が建てられたことに対してはなんとなく懐疑的な気持ちにもなってしまいます。二宮尊徳の思想をつきつめれば、銅像を建てる金と時間があるのなら、それを生産性の向上に充てなさいということになるのではなかろうかとも思えるからです。

いずれにせよ、江戸時代にはいろいろな人があり、いろんな出来事もあり、それでいて近代史ほどセンシティブではないので、楽な気分で読んだり語ったりできる話題ですから、いろいろちょうどいいような感じがして、いいものだなあと思います。

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反朱子学の面々2(国学)

江戸幕府の公式統治理論である朱子学には、山鹿素行のような反朱子学派が登場して反抗した他、朱子学が中国から輸入された儒教を基礎にしていることを理由に、日本固有の思想体系を見つけ出そうとする思想運動も起きています。国学と呼ばれる学問体系を追及した人々です。

その祖は真言宗の僧をしていた契沖とされており、契沖は日本の古典を研究することを提唱しましたが、私の個人的なうっすらとした記憶を辿れば、確かある種の国語学もやっていた人だったように思います。仏僧だった方ですが、仏教は外国から入ってきた教えなので、NGみたいなことを唱えていたようです。

契沖の影響を受けた人に僧侶ならぬ神主さんの稲田春満、その弟子に賀茂真淵が系譜に連なり、やがて本居宣長へとつながっていきます。

賀茂真淵は熱心に『万葉集』を研究し、その世界は日本男児の逞しさに満ちているとして、これを「ますらをぶり」と呼び、古今和歌集は外国の影響を受けてなよっとしておりけしからんとして、これを「たをやめぶり」と呼びました。

なんとなく、戦争中の日本男児は大和魂で生きて虜囚の辱めを受けずだ!という思想につながりかねない気もします。現代では万葉集を読む人はその情熱的な恋に心を動かされるとか、いわゆる古代ロマン、歴史ロマンみたいな視点から読むのだと思うのですが、賀茂真淵はもうちょっと違った視点を持っていたのかも知れません。

本居宣長は熱心に『古事記』を研究します。彼によると、古事記の神々の物語は情熱に満ちており、人間的かつ率直であり、誠の心が描かれていると考えました。江戸幕府がありがたがっている儒教や朱子学は理論体系化されてはいるものの、理屈によって装飾されており、人の心を正しく反映していないと考えたようです。

賀茂真淵や本居宣長の国学研究の是非はともかく、自然で真っすぐな人の心を重視する姿勢には一理あるというか、耳を傾けるべき部分もあるのではないかとも思えます。

最後に平田篤胤ですが、私のうっすらとした記憶を辿ると、臨死体験の研究みたいなことをしていた人で、超自然的なもの、オカルト風のものにも関心が強かった人ではなかったかと思います。天皇の絶対的な神聖さを説き、人が死んだら大国主命のいる冥界に行くのだという思想には天皇を中心とした形而上学の構築を目指していたようにも思え、それはそれでおもしろいかも知れません。個人的には臨死体験の研究の方に関心が向いてしまいます。

江戸時代、正式な朱子学理論に対抗して、反主流の人、忘れられた人の思想も勃興してきたところはなかなか興味深いことのように思えます。

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反朱子学の面々

江戸時代の公式統治理論であった朱子学に対しての反論も存在しました。江戸時代は平和な上に知識水準もかなり上がっていたようなので、日本版百家争鳴みたいな感じになってきていたと言えるかも知れません。

その最もよく取り上げられる例は山鹿素行ではないかとも思えます。山鹿素行は『正教要録』で朱子学はきれいごとで表面で固めていて、人間性を無視していると批判しました。これがもとで江戸幕府は山鹿素行の追放を決意し、山鹿素行は赤穂藩に流されます。赤穂藩では浅野長矩に影響を与えた可能性も指摘されており、浅野長矩が江戸城松の廊下で吉良上野介に「遺恨がある」として殺意を持って斬りかかったこと、乱心を敢然否定し、正常な判断で殺意を持って犯行に及んだと主張したことの背景には、山鹿素行的人間主義の影響があったのかも知れません。また、浅野長矩については、女性を求めること「切なり」と評価している文献も残っているようですが、そのような欲望や感情に素直な行動に、山鹿素行の影響があったとすれば、それなりに辻褄が合うのではないかという気もしなくはありません。

山鹿素行の他、伊藤仁斎も著名な反朱子学の人として取り上げることができるかも知れません。伊藤仁斎は人を律することに熱心な朱子学には人間愛が欠けているとし、伊藤仁斎風の言い方をすれば「仁愛」が人間にとって最も大切なものだと考えました。それは人の過ちを赦し、他者を受け入れる寛容な愛であり、なんとなくキリスト教の教えのようにも思えますが、「仁愛」の発想は或いは墨家から啓示を得たのかも知れません。

最後に経世済民を唱えた荻生徂徠にも触れておきたいと思います。経世済民は経済の語源になったとも言えるものですが、荻生徂徠はリアリズム、実際的な政策論を考えたという言い方をしてもいいかも知れません。基本的には前例主義ですから、ことなかれ主義みたいに思えなくもありませんが、赤穂浪士に切腹を命じることを主張したことは現実的な治安維持をより重視したというあたり、やはりリアリストということだったのかも知れません。

江戸時代は思想家がぞくぞく登場していますので、そういう方面から理解を深めていくというのもなかなか面白いものではないかなあという気がします。

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朱子学

江戸時代、朱子学が江戸幕府の統治理論として用いられました。徳川家康が藤和惺窩を朱子学のアドバイザーとして招聘しようとしましたが、惺窩は自分の弟子の林羅山を推薦しています。林羅山は方広寺事件で豊臣秀頼が奉納した釣鐘に「国家安康 君臣豊楽」の文字を発見した人で、徳川家康にとっては使い勝手のいい学者さんだった、即ち御用学者だったと言っていいのかも知れません。その後、林家は代々林大学頭として徳川家に仕えることになります。

著名な朱子学者としては他に、新井白石を見逃すことができません。イタリア人宣教師のシドッチを尋問して『西洋紀聞』を書いた他、徳川家宣の側用人として、現実政治にもいろいろと関わりがあったようです。半分は学者で、半分は政策家だったのかも知れません。

ちょっと異色を放つのが雨森芳洲ではないかと思います。近江出身で、木下順庵に弟子入りし、その後、対馬藩に出仕しますが、対馬藩の碌を受けながら、長崎で中国語の勉強をしたり、朝鮮半島に渡って韓国語の勉強をしたりとなかなかの国際派です。朝鮮通信使が江戸へ向かう際に何度か同行したこともあるようですが、隠居後は対馬で過ごし、対馬を終の棲家にしたようです。

あともう一人、朱子学学んだ著名人として、貝原益軒を挙げてもいいかも知れません。彼は幼少期に体が弱かったらしく、その経験からか本草学の方に関心が強く、飽くまでもそっちの方がメインで、朱子学はいろいろ勉強するうちのついでみたいな感じだったかも知れません。貝原益軒といえば『女大学』で、家庭内の女性の在り方みたいなことをいろいろと書いてあり、福沢諭吉が後にそのアンチテーゼみたいな感じで『新女大学』を書いて、新しい女性の活発な生き方を提唱するところまでつながっていきます。

ただ、実際には貝原益軒が『女大学』を書いたわけではないらしいので、そういう意味では歴史の登場人物としてはちょっと損な役回りを負わされているといえるかも知れません。

朱子学の大家木下順庵の弟子には室鳩巣というもいて、この人は後に赤穂浪士事件が起きた際、浪士たちの処遇を巡り、荻生徂徠と論争することになります。室鳩巣は朱子学の原理から考えて、「主君の仇討ち」は美徳であるため、浪士たちを擁護しますが、荻生徂徠が治安維持の観点から無罪放免というわけにはいかないと主張し、荻生徂徠の意見が通って46人が切腹するということで落着します。後に落語で、荻生徂徠が他人に豆腐をごちそうしてやったら「赤穂義士の腹を切らせた荻生徂徠先生が自腹を切った」というオチに使われることになります。

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台湾近現代史4 浜田弥兵衛事件

江戸時代初期、まだ鎖国政策が始まる前、日本の貿易商はアジアの各地に進出しており、台湾もその進出先の一つでした。オランダ人が台南にゼーランディア城を築いて拠点とし、寄稿する商人の取引に10パーセントの関税をかけるようになります。浜田弥兵衛という長崎から来た商人がこれを拒否。オランダサイドではピーテル・ノイツという人物を同地の行政長官に任命し、日本に渡り徳川家光への謁見を試みます。要するに関税10パーセントを請願し、徳川家光から許可を取れば、弥兵衛のような日本人商人はそれに従わざるを得ないと踏んだわけです。

それを知った浜田弥兵衛は原住民十数名を連れて帰国し、彼らとともに江戸へ行き、こちらも徳川家光への謁見を果たそうとします。台湾(当時は高山国という名称で認識されていた)の住民は既に将軍への服従の意思を示しているので、関税は免除されてしかるべきという論法を組み立てようとしたわけです。弥兵衛は非公式ながら謁見に成功し、お土産の品をいただいた上にノイツの謁見妨害にも成功します。

これによって浜田弥兵衛は意気揚々と再び台湾に渡りますが、妨害を受けたノイツが激怒して弥兵衛を武力解除して台湾への渡航禁止の挙に出ようとします。ところが弥兵衛がノイツの掴みかかって拘束し、オランダ人が弥兵衛を拘束するものの、ノイツが人質にとられているので手が出せないという事態に立ち至ります。

双方歩み寄り、双方が別々に人質を乗せた船で長崎へ行き、長崎でそれぞれに人質を解放することで合意に至ります。ところが実際に長崎についてみると、弥兵衛の側からすればホームですので強気に出てノイツを監禁するという展開を見せます。

その後、オランダ側から使節が訪れてノイツは解放されますが、弥兵衛の雇い主である末次平蔵は獄中で謎の死を遂げたとしており、オランダとのもめ事を嫌った老中が一計を案じたのではないかとの憶測もあります。

いずれにせよこのような複雑経過を辿って一件落着しますが、その後オランダ人は鄭成功によって台湾を追われることになりますので、そもそもの関税10パーセントというのもなんとなく虚しい話だったようにも思えなくもありません。

浜田弥兵衛は日本統治時代に入ると軽く功労者扱いになり、従五位の官位が贈られ、顕彰する碑も立てられましたが、国民党の時代になって碑文が変えられており、浜田弥兵衛の情報は全然残っていないようです。

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徳川慶喜と孝明天皇

徳川慶喜は京都の政界で活躍中、概ね、京都の朝廷関係者からは好意的に受け入れられており、その実感が慶喜の政権運営への自身を持たせたのではないかと推量します。政治に忙殺されていた時期は江戸に立ち寄ることもなく、ひたすら京都か大阪にいて幕閣を江戸から呼び寄せて仕事をしていたのも、近畿にいるとシンパが多くて狙い通りに物事が動くということが強い理由としてあったかも知れません。

特に孝明天皇が徳川慶喜びいきで、時の天皇が慶喜に厚い信頼を寄せている以上、他の公達もなかなか反対というわけにもいかず、親長州反幕府の公卿たちは自業自得の面もあったとはいえ都落ちさせられています。

江戸幕府にとって京都はある意味では敵地とも言えるはずですが、そのような土地で慶喜がかくも優位に振る舞うことができたことの理由としては、母親が有栖川家の正真正銘の皇族で、血筋的に文句がつかなかったというのが大きかったかも知れません。慶喜を関白に推す声が上がったのも、そういう母方の血筋が影響しているように思えます。また、水戸学が熱心な尊王思想で、慶喜はその教養を身につけていたでしょうから、そういうことも朝廷からは好意的に受け入れられていたように見受けられます。

慶喜は将軍就任後に宮様の側室を得ようと画策した時期があったようなのですが、もしかすると宮様との間に生まれたことも嫡流にしようという目論見もあったかも知れず、慶喜自身も自分の母親が宮様であるということの計り知れない利点をよく知っていたということの証左と言えるかも知れません。

慶喜がわりとあっさりと大政奉還で江戸幕府を解散してしまうのも、自分は朝廷派の人間であるという自覚があり、先方を焦らせて狙い通りの政治を進めると言う、時に大胆とも思える戦略で政治に臨んだのも、以上述べたことからくる大きな自信に裏打ちされいたのではないかとも思えます。

そのような経緯があったため、薩長クーデターで京都が占領され、慶喜が一旦大阪城へ退いた時、家臣たちが憤慨する一方で慶喜がじっと待ちの姿勢に入り、自分に泣きついてくるのを待つというのは過去の経験から導き出されたなかなかの上策であったとも言えるでしょう。ただ孝明天皇が亡くなり、明治天皇の抱き込み見込みは立っていなかったので、計算がうまく立たない時期に入ったと言えるかも知れません。

慶喜は家臣団の怒りを鎮めることができず、やむを得ない形で軍を大阪から京都へと進めさせます。兵隊の数で言えば徳川軍が圧倒的に有利、装備の点でもフランス式陸軍連隊を投入していますので、必ずしも徳川軍が劣っていたとも言えません。戦場に楠木正成以来の「錦の御旗」が登場し、そこで形成が決定的になったというのは私には何となく信じられないのですが、大阪城で戦況の報告を待っていた徳川慶喜がその報せを受けたときの心理的なショックは相当に大きかったものと想像できます。

朝廷の支持を得ているということを権力の基盤にしていた慶喜にとって錦の御旗に弾を打ち込むということは自己否定にならざるを得ず、これはもはや戦闘停止、ゲームオーバーと彼が考えたとしても全く無理はありません。 

兵隊を見棄てて自分だけ江戸へ軍艦で逃げ帰るという最後の最後でみっともない姿を見せるのことになったのは、慶喜本人がこの段階でゲームオーバーであるということを充分に理解していたからであり、江戸でフランス公使のロッシュからの協力を申し出られても断ってお寺に謹慎する道を選んだというのも、江戸には慶喜の権力基盤がないという現実をよく分かっていたということの証左のように思えます。この辺りを充分に見通したあたり、確かに聡明です。慶喜が政争で一か八かの賭けをしたことはなく、必ず状況を分析した上で勝てる戦略を立てて事に臨んでいましたので、江戸へやってくる官軍を迎え撃つというのは勝てるかどうかわからない、やってみなければわからない賭けになりましたので、そういうリスクは取らなかったのでしょう。慶喜の心中はそれまでに交流した朝廷の面々の顔が浮かび、今や朝敵指定された自分のことをどう言っているかというのが去来したことと想像します。

政治にも軍事にもずば抜けて明るかったであろう慶喜が維新後に沈黙を守り抜いたのは、ある意味では拗ねて見せていたというのもありそうな気がしますし、過去の面白い大政治をしていたことから考えれば、それよりも格下の政治ゲームに参加する気になれないというのもあったのではないかと思います。幸いにして彼は多趣味で、写真を撮ったり油絵を描いたりして長い晩年を送ります。結果としては潔い、いい晩年ではなかったかと思えます。
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アヘン戦争と日本

アヘン戦争で大国の清がイギリスに負けたというニュースは幕閣を驚愕させ、後の開国の心理的下準備がなされたと位置づけすることができるはずです。

しかしながら、アヘン戦争のニュースを聴くまで、日本人が西洋文明の進歩と世界の植民地化について全く知らなかったのかと言えば、そういうわけではありません。19世紀に入ってから、フェートン号事件、大津浜事件、宝島事件と、西洋人が日本に来て騒ぎになるということが頻発するようになっており、当時の日本人の視点からすれば「明らかに増えている」と受け取れたはずであり、技術力の高さについても認識されていたようです。

高野長英と渡辺崋山が命を落とすところまで追い詰められた蛮社の獄は1839年で、アヘン戦争が始まる前のことです。高野長英と渡辺崋山は西洋が著しい発展を遂げているので、鎖国はいずれ無理になるという主旨のことを秘密の会で話し合っていたのを責められたわけですが、西洋は既に扉のすぐ手前まで来ているということを知っている人は知っていて、その事実に目を向けたくない人はなんとか隠蔽し、現状維持を保ちたいという摩擦があったことを物語っています。

また、ロシアの南下についても認識はされていて、ロシアに漂着した大黒屋光太夫を日本に連れて来たラクスマン事件があったり、択捉島や樺太で日露両軍の衝突が起きたりしていたことを受け、事態の深刻さに気づいた間宮林蔵が黒竜江まで探検に出かけています。

そのような情勢下でアヘン戦争とその結果である南京条約の締結に驚愕した幕閣が、それまで堅持していた異国船打ち払いの方針を転換し、外国船に対する薪水給与令を出すに至ります。おそらくは西洋の大砲の技術の高さに注目が集まり、江川英龍、高島秋帆が西洋の大砲技術の研究・習得に尽力します。

このように見てみると、江戸幕府は海外の出来事や将来予想されるべき展開に対応する意思を持っていたことが分かり、ペリー来航で見るもの聞くもの全て初めて、宇宙人でも来訪したかのような大騒ぎというのはちょっと脚色が過ぎるように思えます。

19世紀初頭に明らかに強大化している西洋列強に対応すべく、まずは西洋の研究をするというのはまっとうな判断と言えるのですが、幕臣の鳥居耀蔵が西洋研究者の弾圧に非情に熱心だったため、江戸幕府の西洋研究そのものが大きく後退したように思えます。鳥居耀蔵のような人物がいなければ、戊辰戦争を経ずに江戸幕府を中心とした日本型近代化は大いにあり得、19世紀初頭から近代化に取り組んでいれば、西洋との技術的ギャップも冷静に埋めていける範囲ではなかったかとも思えますので、その後の日本の歴史ももうちょっと落ち着いたものになったのではないかなあという気もします。なんだか鳥居耀蔵批判になってしまいましたが、こういう人はどの時代にもどの地域にも居ますので、鳥居耀蔵一人を責めるのもちょっとかわいそうかも知れません。

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徳川慶喜と家慶と家定

ペリー艦隊が浦賀沖に現れた1853年、時の徳川将軍は第12代徳川家慶でした。家慶が将軍に就任したばかりのころは、先代将軍家斉が大御所として実質的な権力を握っておりあまりぱっとせず、次の将軍に予定されていた家定は極度な病弱でおそらく大変不安に思ったでしょうから、気の毒な将軍だなあという印象が強いです。

水戸家は本来絶対に将軍職に就けないとされていた水戸家の徳川慶喜を一橋家に養子として入れたのは、家慶の発案によるもので、慶喜の頭の良さは幼少期から評判で、できればそういう人物を次の将軍にしたいと家慶が考えていたと言われています。もし仮に慶喜が13代目の将軍に就任していたとしたら、後年、将軍後見職や禁裏御守衛総督の時に相当に熱心に政治に参加していたことを考えると、なかなか手腕を発揮していたかも知れず、日本は天皇家と徳川家の両方を君主にした立憲君主制の国なっていたかも知れません。

徳川慶喜は徳川将軍の中で唯一写真の残されている人物ですが、なかなかの美男子で、徳川家定が将軍をしていた時に、お女中たちが慶喜が通るとはしゃぐので、家定が非常に嫉妬したという話も読んだことがあります。大奥のお女中たちと飽くまでも臣下の立場である慶喜が顔を合わせる機会があったかどうかは多少怪しいですが、二百年続いた大奥ですので、その辺はいろいろとうまい仕掛けがあったとしても不思議ではありません。

家定の死後、江戸幕府内部では一橋慶喜擁立派と紀州の徳川慶富を擁立する南紀派とに分裂し、南紀派が勝利して大老井伊直弼の辣腕が発揮されるという展開になりますが、いわゆる安政の大獄で一橋派に対する粛清が行われ、徳川慶喜も謹慎が命じられます。この辺り、慶喜本人からしてみれば何もしていないのに罪人扱いをされたわけで、不必要に政治に介入しようとした父親に対して頭に来たか、それともこの手の茶番で右往左往し日常の仕事はほとんど劇場国家の江戸幕府に愛想が尽きたかしたか、その心境は想像になりますが、こんな幕府ならなくても日本は困るまいという考えが彼の内面に生まれて、大政奉還という奇策に出るのにためらいを感じなかったのではないかという気もします。

勝海舟の回想によれば徳川慶喜はなかなかの西洋好きだったらしく、その点で国学一筋だった父親の徳川斉昭とは合わなかったでしょうから、仮に13代将軍に慶喜が就任していたとしても、徳川斉昭が生きている間はいろいろうるさく口を出されて意外な迷走を見せた可能性も残ってはいますが…。

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徳川吉宗の出世事情

徳川吉宗は紀州徳川家二代目藩主徳川光貞の四男として生まれた人で、普通に考えると絶対に将軍になる順番はまわってきません。しかし、それでも将軍になれたのはどういう事情があったのかというのは気になるところです。

まず、吉宗は紀州家の中で出世していきます。そもそもが徳川光貞の隠し子みたいな扱いだったのですが、まず、光貞の長男が病没します。そういうことはよくあることです。しかし、光貞本人、次男、三男が同じ年につづけさまに病没します。この辺り、単なる自然現象なのかそれともいわゆる吉宗サイドの「陰謀」があったのかは分かりません。しかし、大変に興味深い展開であったと言えます。

仮に紀州藩主の座を目指して、次々となくなった兄弟たちのうち何人かを謀殺したとしても、通常であれば50万石のお殿様になれればそれで充分。その先までについては黒幕なり草の者なりがいたとしても構想していなかったのではないかと思います。

ところが、中央で番狂わせが生じます。五代将軍綱吉に男の子ができません。俄然、御三家に注目が集まるわけですが、それよりももっと注目されたのが甲府徳川家の徳川家宣です。徳川家光の孫にあたる人で、嫡流に最も近く、次の六代目の将軍は家宣で決まります。しかし、ここからが何かがおかしいという気がしないわけでもありません。徳川家宣は就任後僅か三年で病没してしまいます。

すわ七代目は御三家にまわってくるかと色めき立った人もいると思いますが、家宣の子が七代将軍家継として将軍職に就きます。四歳くらいの幼君です。ところが家継もわずか三年で病没します。

その間、尾張徳川家では藩主の徳川吉通が二十代の若さで病死。幼い若君の徳川五郎太が家督を継ぎますが、同じ年に病没します。五郎太のおじさんの徳川継友が新藩主になりますが、ここまでの流れを見る限り、徳川吉宗のライバルになり得る人が次々と病没していることが分かります。

果たしてこんなことが自然に起きるでしょうか。どこかの段階で吉宗のフィクサーなり黒幕なりブレーンなり草の者の長みたいな人なんかが「これはいけるかもしれない。いや、やってみせる」という決心をしたという説明があった方がむしろ自然なことのように思えなくもありません。

吉宗は徳川三卿を設置して自分の嫡流がなくなったとしても、尾張徳川家には絶対に将軍職に就かせないという工夫をしかけておきましたので、戊辰戦争の時に尾張藩が早々に官軍についたとしても不思議ではありません。それこそ毛利氏が江戸時代毎年「殿、今年こそ徳川を」「いや、今年はやめておこう」というやりとりが儀礼化したように、尾張徳川家でも吉宗系宗家を代々呪詛していたとしても不思議でないというか、その方が自然です。

徳川三卿はその後、どんどん増えた徳川氏と松平氏の養子中継所となり、吉宗の意図とは少々異なる位置づけになっていきますが、みんなにとって都合よく回していくという意味では意義ある存在として活用されます。徳川慶喜が絶対に将軍になれない水戸家から一橋家に養子に入って将軍になるという、いろんな意味でのメイクミラクルの下地になったとも言えます。

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荻生徂徠と赤穂浪士

浅野内匠頭が江戸城中で吉良上野介に斬りかかった事件は今更詳述することもないほど有名なことです。浅野内匠頭が「この前の恨み、覚えたか」と言って斬りかかったことから、何らかの遺恨があったと考えられています。その遺恨の内容については諸説あるものの、朝廷からの使者の接待役で吉良上野介が上司、浅野内匠頭が部下の関係だったことから、吉良上野介がけっこうパワハラ、モラハラをやりまくって、浅野内匠頭はかりにも五万石の殿様ですからぼっちゃん育ちでハラスメントが腹に据えかねたと見るのが妥当ではないかと私は思います。

その一年半後に大石内蔵助たち赤穂浪士のよる吉良邸襲撃事件があり、吉良上野介は討ち死に。足利将軍家の縁戚に当たる歴史ある吉良家は武士が不覚の死を遂げたことを咎められてお家断絶。息子は他家にお預けとなって翌年病死するという悲惨な末路を辿っています。浅野家の方は内匠頭の弟が石高は少ないとはいえ旗本として家名復活していますので、私はどちらかと言えば吉良さんに同情を禁じえません。

江戸幕府はこの事件をどう処理するかに苦慮します。江戸幕府はその倫理体系を朱子学に拠っており、主君と家臣の主従関係の絶対性と忠義の美徳を将軍家とその他諸侯との関係性にも当てはめて統治の根拠としています。大石内蔵助が浅野内匠頭の仇を討ったというのは、その倫理観に全く完璧に適っており、賞賛すべき行為とすら言えなくもありません。一方で、江戸市中で他人の家に夜襲をかけ、その家の主を打ち取るなどという行為は治安維持の観点から明らかに問題であり、もしこの件がお咎めなしということになれば、似たようなケースが各地で発生することを容認することにもなりかねず、そうすれば戦乱の世を招来しかねません。

珍しいことが大好きな江戸市民はおもしろがって赤穂浪士をもちあげて賞賛します。また林大学頭のような将軍家教養担当みたいな役職の人も赤穂浪士無罪論を唱えます。江戸幕府の論理体系を論考の根拠とすれば、赤穂浪士たちに比はなく、学者脳でいけばそういう結論に達するのも頷けます。

しかしその一方で、現実政治という観点からこの事件を処理する必要があり、繰り返しになりますが、他人の家に夜襲をかけることを容認することはできません。腹に据えかねることがあったら喧嘩で強い方が正しいことにするというのではもはや鎌倉時代以前まで戻ることになります。ついでに言うと、無警告に夜襲をかけていますので、仮に「やぁやぁ我こそは」と名乗りを上げて正々堂々一騎打ちを武士の理想とするのであれば、この件は戦いの倫理からも外れています。

荻生徂徠は林大学頭の弟子筋に当たりますが、赤穂浪士による襲撃は「私闘」であるとして容認できないとしつつも、切腹することによって彼らの名誉は守るというある種の折衷案を出します。政治的に見て八方丸く収まるいい考えです。荻生徂徠の発案が採用され、46人の赤穂浪士たちはそれぞれにお預けになった家で切腹します。世間の評判はますます高まり、浄瑠璃になり、歌舞伎になり、更には太平洋戦争の特攻隊のような作戦の思想面での支柱にもなっていきます。

浅野内匠頭切腹と浅野家お家おとり潰しに対して吉良家にはお咎めなしという不公平な江戸幕府の裁定に対して不満があるとすれば、江戸城に打ち入って将軍綱吉の首を討つのが筋ですが、戦力的に不可能なので、吉良家というソフトターゲットを狙ったわけで、私はあまり赤穂浪士には同情する心境にはなれません。ただ、世論を味方につけて何百年も正義の人で名が通るようになった大石内蔵助はうまくやりやがったなあと感心します。

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