桜井晴也『くだけちるかも知れないと思った音』の美しさ

桜井晴也氏の『くだけちるかも知れない音』を三田文学で読んだ。とても美しい言葉の羅列に私は感動し、感嘆し、作者を称賛したいという願望が生まれ、今これを書いている。

この作品のいいところは美しいだけの作品でしかないところにあると私には思える。内容はないと言ってもいいかも知れないほど抽象的で曖昧で一文が故意にやたらと長く書かれている。もちろんそれでオーケーで、私はこういう作品に以前から出会いたいと思っていたし、過去にたまたま出会った時はむさぼるようにして繰り返し読んだ。多分、私は美しいだけの小説が好きで、落ちとか展開とか事件とかに興味がないのだ。

この作品が美しいと思えるのも単に作者のイリュージョンに釣られただけなのかも知れない。戦争、死体、処刑台、墓地、監獄などの不吉な文言と星、月、動物、農場、銀の婚約指輪、蝋燭などの詩的な美しい言葉が交互に羅列されているため、美しい言葉がやたらと美しく感じられ、不吉な文言も必要以上に不吉に感じられただけなのかも知れない。深く心を傷つけるという趣旨の言葉が何度か出てくるが、誰がいつどこで何故、どのように傷つけるかなどについては描かれない。しかし、だからこの作品は素敵なのだ。深く心を傷つけるという言葉そのものが読み手の心に突き刺さり、果たして私は過去にどれくらいの人の心を傷つけただろうか、そして私はどれほど傷つけられただろうかと反芻せざるを得なくなり、その先は個々の読み手に委ねられる。

小説の主人公の「わたし」は理由が分からないまま監獄に拘束され、農場で働かされ、看守に監視され、物語の終盤で刑の執行を宣告される。意味不明に刑の執行を言い渡されるというあたりはカフカの『城』に似ているが、『城』の主人公が周囲と激しい軋轢を起こし、最後に死を受け入れて行くのに対し、「わたし」は一切の軋轢を起こさない。しずしずと言われるがままに運命に従っていく。しかも農場主は親切で、看守は愛情深い紳士であるため読者は誰かを呪ったり憎んだりすることができない。読み手には登場する全ての人を愛する以外の手段が残されておらず、いい意味で作品に降伏するしかない。私は降伏した。なぜ「わたし」は起訴もされず裁判も受けていないにもかかわらず心優しい看守から翌日の執行を言い渡されなければならないのか、刑の執行を待つ者が強制労働させられることは妥当なのかという法理法論を考えることはあらゆる観点から意味がない。或いは誰かの心を深く傷つけたという罪が刑の執行の理由になるかも知れず、もしそうだとすればこの世を生きる我々は全て明白な罪びとだとも言えるのかも知れない。

戦争の描写は銃の撃ちあいについて描かれ、広大な農場は東ヨーロッパの平原を連想させる。私はまず第一次世界大戦をイメージしたが、途中から戦闘機が登場し、私は第二次世界大戦に頭を切り替えた。そして最後は継続的なミサイルの発射が描かれ、私はギリギリ第二次世界大戦のイメージに踏みとどまったが、作者はその辺りのイメージはそれぞれの読者の好きにしてくれと考えたのだと思う。

村上春樹氏の作風に似ていると言えば似ているかも知れない。ハルキ作品も美しい言葉の長い長い羅列でしかないと言えるし、ハルキストはそれが好きで読んでいるのだ。池澤夏樹氏の作品の雰囲気にも似ているかも知れない。私は今、頭に思い浮かぶ作家を深く考えずに述べているだけなので、多分、本当に似ているのだろう。

私はこの作品を一読して愛してしまったので、この後何度も再読するだろうし、多分自宅で朗読もするだろう。教材に使うかも知れないが、それはまだ決めていない。



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