ビューティフルマインドの逆転人生を考える

プリンストンの天才ナッシュ教授はいつのころからか統合失調症を発症し、ありもしないソビエト連邦のスパイ網の暗号コードを新聞や雑誌から読み解き始める。彼には親友もいるし国家機密級の仕事のための相棒もいる。しかし、親友も相棒も実は彼の脳が生み出した幻覚であり、彼は精神病院に強制的に入院させられることになる。

その後退院するが、毎日服用する薬の副作用で頭が充分に働かなくなり、天才的な数学者だったはずが、まったく仕事ができない日々を送るようになる。妻が仕事をし、家族の生活を支えるのだが、当然に重苦しい日々を送らざるを得なくなる。妻は時に彼の症状に付き合い切れなくなるからだ。

だが、やがて彼はかつてのライバルでプリンストンの教授になった友人に頭を下げ、社会適応のために図書館へ出入りする許可をもらうことができ、長い長い日々を図書館通いで過ごすのである。幻覚の親友と相棒はついてまわるが、彼は意を決して彼らを無視する。このまま人生を終えてもおかしくはないのだが、とある学生に質問をされ、それに答えるうちに私的なゼミのようなものを開くようになり、やがて教鞭を取るところまで社会的に回復し、最後の最後でなんと若いころに書いた論文の成果が認められノーベル賞を獲るというジェットコースターのような人生を描いた映画が『ビューティフルマインド』だ。

彼の人生を俯瞰すれば、全体として成功しているように見えるが、病気との格闘は絶望的な心境に彼を陥れたに違いなく、それ以前の経歴があまりに素晴らしすぎるからこそ、療養生活を送らざるを得ないことは堪えたに違いない。

果たして彼を救ったのはなんだったのだろうか。私は二度この映画を観たが、もし自分だったらと我が身を振り返らざるを得ない。妻が彼を見棄てなかったことは大きい。人生で最も辛い時の同伴者が彼の妻だった。そのようなパートナーがいる人は幸福だ。そして若いころ、すでに発症していたが、本人も周囲も気づいていないような時に仕上げておいた仕事が彼を社会的な復帰に大きな助けになった。

私は、私のようなコミュ障が彼と同じ境遇になった時に自分を支えてくれるパートナーを得られるかと自問したが自信はない。また、今仮にそういう境遇になった時にそれでも自分を助けてくれるだけの仕事の蓄積があるかと自問しても自信はない。

しかし、彼が彼自身を救うことができたのは、発症以前の栄光だけによるものではないことも繰り返しみると分かってくる。彼はまず、自分が病人であることを認めることにより、症状に苛まれなくなった。正確に言うと症状は続いたが、幻覚に自分の行動が影響されなくなる程度にまでコントロールできるようになった。自分が病人だと認めなければ、症状をコントロールすることもできない。彼は重篤な病人だったし、社会的な居場所を一時的には失ったが、病人だということを自覚した上で、友人に頭を下げ、じょじょに社会適応し、やがて社会復帰を果たしたという側面は否定しがたい。彼は不運な病によって人生の敗北者だと感じたかも知れないが、人生の敗北者だということを認めることにより一歩ずつ回復へと歩いて行ったのだと言える。

この作品から我々のような凡人が得られる教訓は、自分がもし何らかの理由で不愉快な立場に転落してしまった時、過去の栄光にすがろうとせず、自分の現状を素直に認め、真摯に取り組むことで、人生をやり直すことではないかという気がする。

私にも他人には言いにくい深い挫折の経験がある。そしてその挫折から今日に至るまで、苦しみ続けてきたが、一歩ずつ、社会的にも人間的にも回復を重ねて来た。そのため、ナッシュ教授の人生を完全な他人事と片付けることができない。私は挫折したばかりのころはそれを受け入れることができず、今も完全に受け入れることができているかは分からないが、少しずつ挫折を認め、挫折した自分という立ち位置を認め、そこから回復するためのプランを練り、そのプランの全てが実現したわけではないが、ある程度は実現したので再び自分の人生を歩いているという実感はある。挫折した時、挫折したことを認めることが人生をやり直す第一歩になると言えるのかも知れない。

もう一つ得られる教訓としては、人生一寸先は闇であり老若男女問わず、いつどこで何が自分の身に起きるかわからないが、それまでに積み重ねて来たものが身を助けるということが言える。ナッシュ教授は入院させられる前に学位も獲り、実績も残したことがその後の人生の回復に役立った。我々がナッシュ教授ほどの大成果を残すことは難しいかも知れないが、それでも、もしものことが起きたとき、それまでに積み重ねてきたものが自分を助けるのだとすれば、日々の行いや精進、真摯な取り組みが大切だということは言えるだろう。いつ何があるかわからないからこそ、何事にも真摯に取り組むべきだ。真摯に取り組んだことの全てにいい結果が出るとは限らないが、取り組まなければ結果は決して出ない。それに、案外、自分で気づいていないだけで、自分の取り組みはそれなりに報われているのかも知れない。



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シンドラーはなぜ号泣しなくてはならなかったか

スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』は、あまりに安易に人がナチスに殺害される場面が連続して続くため、観客はそれが実話に基づいているだけに驚愕せざるを得ない。人命があまりにも軽く扱われていたこと、一部の人間をただ、それその人がその人であるという理由だけで死に追い込まれたこと、人間に対する罪の重みに考えさせられるし、日本人の観客であれば自分の祖父母の世代はこの連中と手を組んでいたという目をそむけたくなるような事実にも向き合わなくてはならない。

そのよう深刻な映画作品の中で、救いになるのはシンドラーという男の存在である。軽妙な会話とウイットに富み、金持ちで、敗戦へまっしぐらという絶望的な時代状況の下で贅沢な暮らしを楽しみ、女性にもてる。羨ましいご身分であり、その気楽な感じに安心感をついつい持ってしまうのだが、そのように彼が軽快に人生を楽しんでいるにもかかわらず、1000人を超すユダヤ人を強制収容所から救い出し、死の恐怖から解放したという人間としての功績もまた賞賛に値するものである。しかも、強制収容所から救い出す理由が軍需工場の強制労働者が必要だと言う偽悪的なものであるために、シンドラーからは偽善の嫌らしさを感じることもない。様々な意味で完璧な主人公だ。

しかし、映画の最後のあたりでシンドラーは号泣することになる。シンドラーが号泣したことについては、「興覚め」という意見もあったし、私もそう思った。果たして何故に、スピルバーグはシンドラーに号泣させたのだろうか。ナチスのユダヤ人迫害を憎むスピルバーグの立場からすれば、明るく楽しくユダヤ人の命を救ったシンドラーを、そのまま明るく楽しい人生を軽妙に生きる男として最後まで描いてもさほど問題はないはずのように思えてならなかった。

しかし、スピルバーグはシンドラーに号泣させることにした。私はその理由について何年も考え続けてきたが、最近改めて見直して、シンドラーは号泣しなければならなかった、シンドラーの号泣は二つの意味で必然であると考えるようになった。以下にその理由を述べる。
まず、シンドラーにとって人を救うことは道楽だった。道楽であろうと何であろうと人を救うことは賞賛すべきことだし、別に道楽でやってもいいではないかとも思えるが、シンドラーはナチスのユダヤ人迫害に対して、一人の分別のある人間であれば、敢然と戦わなくてはならなかったはずである。道楽でやるということは無理してまでは救わなかったとも言える。人の生き死にを神でもない人間が道楽で、自分のできる範囲でリストアップするという行為の恐ろしさに彼は気づかなくてはならなかった。彼はユダヤ人を工場労働者として連れてこさせるために金品を用いたが、それは徹底したものではなかった。彼はしっかり自分が贅沢できるだけの資金は残しておいたし、楽しい人生を犠牲にしてまで人助けをするつもりはなかった。そしてそれは罪深い。人の命を救助する際、それは道楽ではなく自分の存在を危うくさせることがあったとしても、それでも覚悟を持って尚取り組むべき「正義の戦い」でなければならない。シンドラーはそれをしなかった。映画として完結するためには、シンドラーはその罪深さに気づく必要があったに違いない。シンドラーが身に着ける様々なぜいたく品をナチスの担当者に渡せば、もっと救えたのである。金品よりも遥かに大切なものをシンドラーは救うことができたはずである。そのことに、敗戦が決まってから、もはやそうしなくてもよくなってから彼は気づいた。言い方を変えるならば気づくのが遅すぎたのである。スピルバーグはシンドラーを評価しながらも、気づくのが遅かったということの罪を糾弾している。そのため、シンドラーは興味深い男ではあっても英雄にはなれないのである。
 だが、単に糾弾の対象にするためにシンドラーが号泣する場面を挿入したというわけでもないと私は思う。シンドラーの人間的成長も描かれなければならなかったのではないかと私には思える。シンドラーは道楽で人助けをして悦に入っていたが、人助けは道楽でするものではない、もっと真剣に覚悟を決めてやるべきものでなくてはならなかったということに敗戦を迎えてから気づいたシンドラーにできることは号泣することしかなかったのである。しかし、たとえそれがユダヤ人を助けるという意味では遅すぎたとしても、一人の人間の魂の向上という点から見れば遅すぎるということは決してあり得ない。この作品はファシズムが特定の人間を迫害することの犯罪性を糾弾するだけでなく、同時にシンドラーという一人の男の人間的成長という二つの目的を持って制作されたと考えることができる。

それ故、スピルバーグのシンドラーに対するまなざしは決して冷徹なものではない。たとえ道楽とはいえ、ユダヤ人の救済に努力した男としてそれなりに賞賛しているし、更に人間的な成長の瞬間を迎えたのだから、その点に於いてシンドラーを祝福しているとも言えるのである。人が、その人の行動や考え方を変化させる瞬間に立ち会う時、それはたとえ日常生活でもある種の感動を伴うことがある。ナチスドイツの犯罪性を糾弾しつつ、シンドラーという男の成長物語も描いたスピルバーグはやはり言うまでもないが天才なのである。



『ファイナル・イヤー』‐オバマ大統領の壮大なイメージビデオ

オバマ政権最後の一年をカメラが追いかけ続けた『ファイナル・イヤー』は、オバマ大統領が好きな人にとってはたまらないイメージビデオになっており、オバマ大統領が嫌いな人にとっては「かっこつけやがって」と別の意味で見ていられない作品と言えるかも知れません。

登場するのはオバマ氏とケリー氏、その他彼を支える周囲のスタッフたちなわけですが、マスメディアの見ていないところでカメラが回っているため、もうちょっと突っ込んだあたり、どのようにして彼らが意思決定をしているのか、どんな会話をしているのかというあたりを見ることができるのは興味深いです。ホワイトハウスの中がどうなっているのかも、僅かながら見て取ることも可能です。もちろん、見せられないところはカメラは回ってないでしょうから、歴史の評価を待たなくてはいけないとも思えます。

さて、とにかく彼らは走ります。走りながら意思疎通をしています。かっこいいの一言に尽きるいい場面が次々と出てきます。人が走る姿は見る人に感銘を与えます。なぜかは分かりませんが、人が走っている姿には何らかの感動的なものがあります。箱根駅伝をみんなが一生懸命見るのも、オリンピックのマラソンをみんなが一生懸命見るのも、なぜか分からないけど人が走るという姿に感動するからです。

で、この映画では大統領のスタッフたちが走るだけではありません。真剣な表情で議論を積み重ねる様子が撮影されています。世界の平和のために真剣な表情で議論を重ねる彼らの姿はもちろんとても絵になります。そしてなんと言ってもオバマ大統領の絵になることと言ったら文句ありません。高く評価されるスピーチ力、苦悩し、重大な決断を迫られる際の表情、どれも決まっています。

お決まり、お約束と言ってもいいですが、世界中を訪れて、人種、民族、宗教を越えてオバマ大統領が親しく話をする場面、特に子供たちとコミュニケーションする場面はこれでもかというくらいに登場します。子どもとコミュニケーションをする人はいい人と決まっているようなものですから、この映画のオバマ大統領いい人アピール大作戦は大いなる成功を収めていると言ってもいいでしょう。

シリアの深刻な問題についてはわりと突っ込んだところまでこの作品で論じていますが、一方で東アジアの難しい問題は基本的にほぼ無視。唯一、オバマ大統領が広島を訪問したところだけは丁寧に撮影されています。

そして最後の方では大統領選挙でトランプ氏が勝利する場面。民主党勝利を確信していたはずの大統領スタッフたちが文字通り言葉をなくしている様子が撮影されます。こればっかりはかっこよく撮影するわけにはいかず、同情的な雰囲気を漂わせるほかありません。

個人的にちょっと気づいたのはケリー氏がこれでもかというくらいに登場するわりにヒラリーさんが全然出てきません。この映画だけ見ると、ヒラリーっていう人、本当にいたっけ?と思ってしまうほどです。オバマとヒラリーは仲が悪いんだと主張する人の動画を見たことがありますが、意外と本当にそうだったのかも知れません。

いずれにせよ、オバマ大統領が去る前の一年を撮り続け、結果として身内で楽しむ壮大なファミリービデオみたいになっています。オバマ大統領が好きな人にとってはたまらないことでしょう。

『火垂るの墓』をもう一度みて気づく「無責任の体系」

高畑勲監督が他界されたことを機に、『火垂るの墓』についてよくよく考える日々が続き、もう二度と見たくないトラウマ映画だと思っていましたが、やっぱりもう一回見ないと何とも言えない…というのもあって、改めて見てみました。ネットで広がる清太クズ論は私の内面からは一掃され、それについては完全否定するしかないとの結論に達しました。

父も母も家もない状態で、清太は妹を守ることに全力を尽くしており、金にものを言わせようとした面はありますが、最後に頼れるのはお金と思えば清太が金を使うことは正しく、更に言えば盗みをするのも妹と生き抜くためにはやむを得ません。それこそ非常時です。空襲で家を焼かれなかった人の数倍、清太個人にとってはとても支えきれない大非常時と言えます。

西宮のおばさんが悪いのでしょうか?私は自信をもって西宮のおばさんが悪いと断言できますが、悪いのは西宮のおばさんだけではないというのがこの作品のミソではないかと思います。とはいえ、まずは西宮のおばさんを糾弾するところから始めたいと思います。確かにおばさんにとっては、清太と節子の兄妹は厄介者です。しかし、親を亡くして焼け出された兄妹に対し「疫病神」だのなんだのと言っていびり倒すのは間違っています。印象的なのは清太が決心して節子とともにこっそり西宮のおばさんの家を去ろうとした際におばさんと不意に遭遇してしまった時の様子です。おばさんは「気いつけて」「せっちゃん、さようなら」と言い、心配そうに二人の後ろ姿を見送ります。おばさんは大人なのです。出て行こうとする二人に対して「何をバカなことを考えているのか。二人で野宿でもするのか。いいから家にとどまってこれからのことをよく考えなさい」と説諭してしかるべきです。しかし、心配そうに見送るだけなのです。いびり倒した上に心配そうに見送るだけのおばさんに非があって当然です。おばさんの家には少なくとも三畳間が余っているわけですし、食料がないと言っても清太と節子の食料の配給もあったのです。二人は野宿者となり、配給すら受け取れない状態へと自滅していく様子がおばさんにはありありと見えたはずです。にもかかわらず、心配そうに見送るだけしかしない大人の責任とは問われなくてはいけません。

この作品では大人の「無責任」が随所で強調されています。たとえば清太が盗みを働いた農家の男は清太を殴り倒し、おさない妹がいることを知りながら「自分が受けた被害」だけに憤慨して警察に突き出します。西宮のおばさんは「助け合い」を清太に強調しましたが、おばさんも所属する大人の世界は我が事のみを考える世界だったわけです。警察官は清太に優しいですが、水を飲ませるだけで今後の二人を助けるきっかけを与えようとまでは考えません。警察官も無責任なのです。清太が母親の着物やお金と交換に食料をもらいに行っていた農家のおじさんも清太にお金がないと分かった瞬間に食料の提供を拒み「うちではそんなに余っていない」「お金や着物のことを言っているのではない」「おばさんに頭を下げろ」と米のおにぎりを食べながら諭しますが、はっきり言えば交換できる物のないやつに与える飯はねえというわけです。

節子が亡くなって荼毘にふすために必要な材料を買いに行ったとき、お店の人が呑気そうに「今日はええ天気やなあ」と言いますが、その表情が実に幸せそうであり、清太にとって重大事である節子の死に対する慎ましい態度というものを見せようとする気遣いすらありません。

高畑勲監督が『火垂るの墓』は反戦映画ではないと言っていましたが、今回改めて見てよく分かりました。これは戦争の悲惨さを描く作品なのではなく、丸山眞男が唱えた「無責任の体系」を描く作品だったのです。ですから、美しい日本とか、助け合いの日本とか、公共道徳に優れた日本とか言ってるけど、お前らみんな、清太と節子を見捨ててるじゃん。と監督は言いたかったのではないかと私には思えます。丸山の無責任の体系のその中心に天皇がいるという議論には私は賛成しかねます。天皇制があるから戦争中の日本人が無責任だったのだという議論そのものが無責任だと私には思えるからです。新聞が煽り、国民も多いに沸いて主体的に戦争に関与し、ある人は儲けも得て、戦争に敗けたら〇〇が悪いと言い立てて自分には責任がないと言い張ろうとする姿こそ無責任です。そしてそれは少なくとも『火垂るの墓』が制作されたその時に於いても同じなのだと高畑監督は主張したかった。だから最後に現代のきらびやかな神戸の夜景のシーンを入れたのではないかと私は思います。

余談というかついでになってしまいますが、統制経済を導入し食料を配給制にして、隣組に入っていないと配給すら受けられないとする、ちょっとでもコースから外れたら即死亡という体制翼賛的国民総動員社会を作ったのは近衛文麿です。国民総動員の名のもとに国民の自由意思を制限し、全てをお国に捧げざるを得ないように仕向けた結果、戦争も敗戦も自分には何の責任もないというロジックが生まれたとすれば、敢えて私は清太と節子が死んだのは、近衛文麿がせいだと言いたいです。

トラウマ映画の『火垂るの墓』ですが、今回は初見ではなく節子が死ぬことは最初から分かってみていましたし、いろいろな情報を得て感情面でも中和してみることができましたから、心理的ダメージは少なくて済みました。もう一回見たいかと問われれば、もう二度と見たくありません。



アニメ映画『GODZILLA-怪獣惑星』のやれることは全部やってる感

アニメ版の『GODZILLA-怪獣惑星』は、とにかくやれることは全部やってる感が強く、私はなかなか満足することができました。まず第一に「終末後」の世界という設定がなかなかいいように思えます。過去、ゴジラは何度となく日本列島に上陸して来ましたが、人間サイドが多大な知恵と努力を注ぎ込み、原則的にゴジラは撃退されてしまいます。赤坂憲雄先生が指摘していらしたようにゴジラは太平洋で戦死した日本兵のメタファーであるとすれば、日本人が繁栄を楽しみ俺たちのことを忘れるということは受け入れがたいと異議申し立てをするかのようにして上陸してきたとしても国土を完全に破壊し尽くすことなく、皇居を破壊することもなくギリギリのところでゴジラは撤退せざるを得なかったと言うことになります。ゴジラは終末的危機をもたらすことはあっても終末は必ず回避されていたわけです。

ところが今回の作品では、ゴジラをして地球の頂点に立たしめ、なぜかわからないが狙い撃ちされる地球人は大急ぎで地球を撤退。あてどない宇宙への放浪の旅に出ます。時代は既に終末後になっています。地球人を宗教的に支えている宇宙人が登場しますが、背の高い美しい金髪の人々で、オカルトの世界では金星人などの宇宙人はブロンドの美少女などの説がありますから、そういった都市伝説も入れ込みつつ、主人公の榊大尉はイケメンで、彼を慕う部下にはきちんと美少女が配されており、キャラ設定にもぬかりないといった感じです。IT技術があほみたいに進歩していて宙に画面が浮かび上がりAIのおかげでいかなる複雑な状況も瞬時に分析可能です。人々がとるものもとりあえず避難宇宙船にはスタートレックや2001年宇宙の旅、またはスペースコロニーを想起させるものがあり、再び意を決してゴジラと対決する人類の武器はモビルスーツならぬパワードスーツで、要するにイケメン、美少女、陰謀、勇気、未知のテクノロジーなどが詰め込めるだけ詰め込んであり、地球で人が頂点に立てないというのは猿の惑星みたいな感じもありますから、そういう要素も取り込んで、作り手がやりたいことは全部やっている、やれることは全てした感に溢れています。ゴジラ撃滅を企図して上陸した地球の地上はもはや得体の知れない植物と有毒がガスで満ちており、もはやナウシカといった様相すら呈しています。更に言うと一体しかいないはずの強敵ゴジラを倒したら、次にもっとでかいラスボス風ゴジラが登場するというのは、永遠にもっと強い敵が出てくるドラゴンボールみたいな感じになっていて、アニメファン、SFファンともに楽しめる内容になっていると思います。

さて、この三部作の続きが果たしてどうなるのか、ここまでいっぱいに広げた風呂敷をどうやってしまいこむのかに注目せざるを得ませんね。



『火垂るの墓』の清太の戦略ミス

世界に名だたるトラウマアニメ映画『火垂るの墓』についてここ数日、考え抜きました。高畑勲監督が他界されたのでいろいろ話題にもなりましたし、私も映画館で鑑賞して愕然として「なぜ自分はこのような絶望的な心境にならなければならないのか」というやり場のない苦しさを感じた一人ですから、いったい何が悪かったのか、どうすれば良かったのかということを考えざるを得なかったのです。以下、清太と節子はどうすれば生き延びることができたのかについて、結論をまず述べ、次いでその理由、続いて補足的な意見を述べたいと思います。

まず結論ですが、清太と節子は神戸の自分たちの家のあった焼け跡にバラック小屋を建てて寝起きしていれば助かったに違いない。です。

では理由を述べます。清太は西宮のおばさんのところに居候し、随分と嫌味を言われ現代の価値にして1000万を超える金銭を頼りに独立。田園と山の間みたいなところの「横穴」に棲みついて、最終的には兄妹共倒れの結末へと至ります。この過程が残酷すぎるのでトラウマ映画と呼ばれ、二度と見たくないと言う人続出で私も本当は二度と見たくありません。ネットでは清太が西宮で居候させてくれているおばさんに対する態度が悪く、お手伝いもせず、節子とごろごろしているだけのごくつぶしでしかないのに、プライドばかりが高くおばさんに頭を下げるくらいなら出て行ってやると大見栄を切って自滅へと突き進んだ清太の性格への批判が強いようです。また、高畑監督も社会との関係性を失ってはいけないというメッセージを込めているつもりで、現代の若者に共感してほしいという趣旨の発言をされていますが、ネットの意見も高畑監督のメッセージも清太にとっては酷でしかありません。

清太の家が空襲で焼けるのが昭和20年の6月で、清太が亡くなるのは9月です。僅か三カ月で考え方や生き方を改めなければ即死亡という無理ゲーをさせられた清太が気の毒に思えてなりません。清太の人生に対する敗因は私は決して西宮のおばさんに対して妥協しなかったからだとは思いません。高畑監督のメッセージは生きるためには嫌味を言われいびられる生活にも隠忍自重せよということで、現代の恵まれた若者はそういうことができていないというわけですから、要するに『火垂るの墓』は手の込んだ「近頃の若者は」という議論なのです。しかも高畑監督は若者に共感してほしいと述べていましたが、「近頃の若者は」論に共感する若者は皆無に等しいと私は思います。ところが戦争・空襲・敗戦という普通なら滅多に遭遇しない大災難という舞台設定を活用し、見るものが降参せざるを得ない作画の作りこみ、節子というイノセントな存在の徹底利用を行うことで、観たものはトラウマレベルのダメージを受けながらも「泣ける映画だ。凄い映画だ」とうなづかざるを得ないところまで追い込まれてしまいますので、実は高畑監督の「近頃の若い者は」という実はありがちな言い分に気づくことができないというか、節子の死を心理的に解消するのにエネルギーを使ってしまい、観客はそれ以上考えることに困難を感じるようになり、何をどう理解していいか分からなくなり、混乱するのです。

清太が自滅した最大の要因は自分と節子が戦死したエリート軍人の子女たちであるというメリットを活用しなかったことに求められると私はよくよく考えた末に結論するに至りました。ネットなどでは清太がエリート軍人の息子であったが故に無駄にプライドが高く、自滅したと語られていますし、高畑監督もその線で作ったように私は思います。しかし、逆なのです。エリート軍人というのは値打ちがあるので、しかも戦死しているのですからますます当時としては値打ちがあったに違いないのです。仮に以前住んでいた焼け跡にバラック小屋を建てて暮らしていたらどうなるでしょうか。血縁はなくとも地縁がありますから、「あそこの息子さんは海軍の偉い人の息子さんだ」ということをみんな知っています。そして、ここからが重要になるのですが、神戸市内の都市空間で生きていれば必ず誰かが「役所へ行って相談しなさい」とか「水交社を訪ねてみなさい」と助言してくれるはずです。或いはどこからかそういう情報が入ってきます。役所が戦死した軍人さんの子女を放っておくわけがありません。海軍の互助組織である水交社が無視するわけがありません。公的な支援を受けられる可能性は高く、海軍つながりでいけばお金持ちの支援者が現れる可能性も充分にあります。単に生意気中学生清太一人だけではないのです。幼い、誰が見ても何とかしないといけないと思わせる節子という存在がいます。兄妹セットで救おうとする社会のあらゆる要素を利用することができたに違いないのです。清太はエリート軍人の息子というプライドを維持しつつ成長し、将来は周囲の支援で大学に進学し順調な人生を得たかも知れません。当時の日本の状況から言えば、終戦直後から後はあれよあれよという間に経済発展していきますから、あのクリティカルポイントさえしのぎさえすればそれで良かったわけで、充分に可能性のあるシナリオです。

しかしながら、清太はまず西宮のおばさんという閉じた空間へ逃げ込み、次いで次に山と田園の間みたいなところにある横穴へと逃走するわけです。これではいけません。水交社を訪ねなさいと言ってくれる助言者に出会うことができません。兄と妹は資金力で生命を維持しようとしますが、農家のおじさんからは「お金の問題じゃない」と忠告されます。三宮のおばさんに頭を下げろというわけです。そんなことを要求する方が酷です。しかし残念なことに農家のおじさんにはその程度の知恵しかなかったのです。

神戸市内でバラックを建てるのは難しくなかったはずです。廃墟の焼け残りを利用して簡単なものを作ればよかったはずです。都市部なら炊き出しもあり、終戦後は米軍の救援物資もやってきます。清太が自滅したのは海軍エリート軍人の息子というプライドを捨てられなかったからではありません。自分は海軍エリート軍人の息子だというプライドを思い出させてくれる神戸の自宅跡を放棄したことにその要因があると私は思います。補足しますが、当時はお金を持っていても役に立たなかったという意見もネットにはありましたがそれも間違いです。国家が経済統制している裏側では闇マーケットが完全な市場原理で成立していました。物はあったのです。インフレはしたでしょうが、1000万を3カ月で使い切るということは考えにくいですし、新円切り替えはもうちょっと後のことです。新円切り替えと同時に貯金は紙くずになった可能性はありますが、そのぐらいの時期まで生き延びれば、繰り返しになりますが戦死者遺族への支援を受けられたと思料できます。清太クズ論がネットで見られますが、清太がクズだったのではなく、出会う大人に知恵がないのが悪かったと言えますし、なぜ知恵のある大人に出会えなかったのかと言えば、これには清太の戦略ミスがありますが、都市空間を避けた閉じた生活に入ってしまったからですね。



時代劇映画『十三人の刺客』の新しいverと古いver

江戸時代後期、前の将軍の息子にして現将軍の弟というやたらと血筋のいい明石藩の松平のお殿様があまりに性格が残虐すぎるために老中幕閣により暗殺が決定され、旗本を中心にした13人の暗殺部隊が動員、今風に言えばkeyresolve的に実行し、見事打ち取るという映画があります。史実とある程度重なる部分があり、ある程度違う部分があるらしいので、実際の歴史はちょっと忘れて物語に集中して考えたいと思います。個人的にはお殿様がおかしな人である場合、わざわざ暗殺部隊を送らなくても幕閣と大名の家臣が結託して殿ご乱心で座敷牢という流れでOkなのではないかとも思いますが、それでは映画になりませんから、まあ、大袈裟に切ったはったになるわけです。しかし、とてもおもしろいです。

2010年の新しいバージョンでは狂気の殿様の役は稲垣吾郎さんがやってます。自分で自分が狂ってるという自覚があって、「世の中が血で血を洗う戦乱になったらいいなあ」という願望を持つような、かなりいってしまっている人です。で、幕府から密命を帯びた13人の男たちが参勤交代の行列を待ち受け、策を用いて既定のルートを通れなくしてしまい、待ち伏せして袋小路に追い込み打ち取るわけですが、稲垣吾郎は最期に「こんなに楽しい日はなかった。礼を言う」と言って死んでいきます。悪い奴もそれなりに絵になるというパターンで仕上がっています。印象に残ったのは、お家のためと命がけでお殿様を守る明石藩士の顔がほとんど画面に映らないことです。旅装をして笠を被っていますから顔が見えにくいというのはあるでしょうけれど、ばたばた殺されていく端役の人たちの個性はあんまり見えないようにしたほうが演出的にいいという判断があったのかも知れません。

新しいバージョンの刺客たちの首領は役所広司さんがやってます。

もう一つ古い1965年のバージョンがあります。時代劇の巨匠、工藤栄一さんが監督しています。この映画では凶器のお殿様は自分の命は普通の人と同様に惜しいけれど、他人の命はそうではない、ただのわがままぼんぼんという感じになってます。で、おもしろいのは13人の暗殺部隊の首領と、明石藩の重役の頭脳戦みたいなところがかなりおもしろく描かれています。まあ、ちょっと忠臣蔵の頭脳戦の描き方に近いような気がしなくもありません。というか、多分、それなりにそういったことも意識していたのかも知れません。で、大勢の明石藩士が死にゆくわけですが、わりと顔がよく映っていて、襲われる側も殿を守るために必死という感じが伝わってきます。襲われる側の気持ちもよく理解できるというか、私はそっちに感情移入してしあい、ああ、気の毒だと思いながら見入ってしまったので、非常にエネルギーを使いましたが、観る側にエネルギーを使わせるのも映画の力量ですから、凄い映画だと私は素直に思いました。日本の時代劇映画は世界を席巻し、多くの才能に影響を与えていますが、時代劇を見れば見るほどそりゃそうだ、おもしろすぎると納得します。

古いバージョンは片岡千恵蔵が首領をやってます。



原田眞人監督『関ケ原』の2人の女性の愛

原田眞人監督の『関ケ原』、観てきました。原田監督は「男にとって女性とは何か」を考え抜き、それが作品の内容に反映されていると私には思えます。で、どういう視点になるかというと、男性は女性に愛されなければ生きていけない(ある意味では独立性のない)存在であると規定し、女性から愛されるとどうなるか、愛されなければどうなのか、ということを問いかけてきます。たとえば『自由恋愛』では圧倒的な経済力にものを言わせて2人の女性を手に入れたトヨエツが、最後、女性たちに見放され悲しく退場していくのと対照的に女性たちは女性たちだけで存分に輝く世界が描かれます。『クライマーズハイ』では、妻に愛されなかった新聞記者が、妻以外の女性に愛され、後輩女性記者とは恋愛感情抜き(潜在的には恋愛感情はあるが、顕在化しない状態)で仕事に向き合います。

『関ケ原』では、石田三成を愛する伊賀くノ一の初音と徳川家康を愛する、これもはやはり伊賀のくノ一の蛇白(だったと思う)の2人は同じ伊賀人でありつつ、敵と味方に分かれるという設定になっています。石田三成を美化するスタンスで描かれ、徳川家康のタヌキぶりを強調する感じで描かれていますが、純粋で真っ直ぐな石田三成は行方不明になった初音を思いつつ、戦いに敗れて刑場へと向かいますが、その途上で初音が現れ、あたかも関係者でもなんでもないふりをして軽く会釈をします。石田三成と初音はプラトニックな関係ですが、その分、清潔感があり、石田三成という人物のやはり純粋さを描き切ったように感じられます。生きているということを見せるために彼女は現れたわけですが、石田三成は彼女の無事を知り、安心して刑場へと送られていきます。『ラセーヌの星』というアニメでマリーアントワネットが2人の子供が脱出できたことを知り、安心して刑場へと向かったのと個人的にはダブります。

一方で、徳川家康は話し上手で女性を魅了することも得意です。関ケ原の合戦の最中に陣中に現れた刺客に対し、白蛇が命がけで家康を守ろうとしますが、家康は彼女と刺客をまとめて切り殺してしまいます。原田作品ファンとしては、たとえ時代物映画であったとしても「女性を殺す」というのは最低の行為ということはすぐに察することができますから、家康という人物の悲劇性が描かれているというか、家康が自分の命のためには自分を愛した女性をためらいなく殺してしまう悲しい人生をおくった男という位置づけになるのではないかと思います。

徳川家康は役所広司さんが演じていますが、悪い奴に徹した描かれ方で、多分、この映画のためだと思いますが、全力で太っており、ルックス的にも悪い奴感が全開になっており、監督の求めに応じて役作りをしたこの人は凄い人だとつくづく思えてきます。

原作を読んだことがなかったので、すぐに書店に行き、原作を買い、現在読んでいるところですが、原作と映画にはかなりの違いがありますし、原田監督としては原作を越えた原田色をしっかり出すということを意識したでしょうから、原作と映画の両方に触れてしっかり楽しむというのがお勧めと思います。

原田監督の作品は、分からない人には分からなくていいというスタンスで作られているため、予備知識がないとなんのことか分からない場面や台詞がたくさん出てきます。私も一部、ちょっとよく分からない部分がありましたが、それはみる側の勉強不足に起因していることになりますから、原作を読んだり、他にもいろいろ勉強してまた映画を観て、そういうことか、と納得するのもありかも知れません。



『戦場のメリークリスマス』と神と男(ヨノイ大尉はかわいいか?)

『戦場のメリークリスマス』はこれまでにDVDで何十回と観た映画です。リバイバル上映にも出かけたこともあります。今思えばかなり変わった映画ですが、音楽もいいし映像もきれいなので、ついつい何度も観てしまうのではないかと自分では思っています。この映画は突き詰めると異文化理解とか異文化交流くらいの軽いところがテーマなのではないかとふと思うのですが、正面切って作られるとここまで魅せられてしまうものなのかも知れません。

ヨノイ大尉とハラ軍曹は天皇は神で日本は神州だと信じています(映画の中にそういう台詞はありませんが、ヨノイ大尉の部屋の奥に『八紘一宇』の掛け軸がかかっていたりするのはそういう前提があるからでしょうし、そもそもそういう前提がないといろいろ成り立ちません)。悪霊の存在も信じているので、自決した部下が悪霊にならないようにハラ軍曹は経文を唱えますし、ヨノイ大尉が捕虜の私刑を決断した時も、悪霊になりませんようにと念仏らしきものを唱えます。経文とか念仏は仏教で、仏教は完璧な物理の論理に支えられているため悪霊が存在する余地はないのですが、日本は神仏習合なので悪霊を鎮めるために念仏を唱えます。欧米人向けに作られているので欧米人が不思議の国日本のふしぎっぷりを大サービスでみせているという印象もあります。観客の要望に応えるためかハラキリシーンもしっかりと入っていて、痒い所に手が届くとすら言っていいかもしれません。

一方で、自殺したオランダ人捕虜のために西洋人の捕虜たちが祈りを捧げ、歌を歌う場面も入れてあり、そこはとてもきれいな場面になっていて西洋人の観客なら敬虔な気持ちになれるに違いありません。

日本軍国主義を生き方で体現していたといえるハラ軍曹は最後に英語を話すようになり、物語の狂言回しの役割を負っているローレンスと英語で語り合います。ハラ軍曹が翌日の朝には戦争犯罪人として処刑されることになっており、日本人の目線で見れば戦争に負けるってのは嫌だねぇ、という感想を持つこともできますが、欧米人の観客の目線に立てば、迷信に捉われた日本兵が最後には文明を理解できるようになり、一番最後の台詞が「メリークリスマス、ミスターローレンス」ですから、キリスト教の神の恩寵をも受けながら旅立って行くという感動的な展開になっています。

日本人から見ればこれぞまさしく敗戦国民の姿なのですが、西洋人にとっては未開人が文明化されていく過程を描いていることになります。

こんな風に書くとまるで私がこの映画を批判しているみたいですが、飽きずに何十回も観ているということはやっぱりこの映画が無意識にめっちゃ好きなのに違いありません。もしかすると私は多少は東洋の神秘みたいなのを残しつつ西洋化した今の日本がかなり好きなので、この映画が根底に持つ価値観を受け入れやすいのかも知れません。いずれにせよ、上述のような日本と西洋の対比がなされている映画で、繰り返しますがぶっちゃけただの「国際交流」を深刻に描くとこういう風になるという感じだと思います。

戦場のメリークリスマスに登場する人物はほぼ100パーセントが男性です。女性はセリアズ少佐の少年時代の回想シーンで教会に来ている人の中に登場するだけです。男の世界の物語です。ヨノイ大尉とハラ軍曹とローレンスは敵と味方の違いを超えて深い友情で結ばれています。行動様式も価値観も違うためいちいちぶつかりますが、それでも俺はお前のことが好きだよという感じの関係は見ていてとても気分のいいものです。大学で人文科学をしていると会う人の8割は女性なので、男性との友情を育むことへの憧れが私の中にあり、男同士でお酒を飲むことは人生最高の喜びだとかなり本気で思っています。

ヨノイ大尉はローレンスには友情を感じますが、セリアズ少佐という捕虜には同性でありながらロマンチックな意味での愛を抱くようになります。今でこそLGBTの人たちを尊重するという価値観は世の中にかなり定着してきているように思えますが、当時はまだそういうわけではなく、当時としては思い切った内容になっているのだと思います。ヨノイ大尉は赦されざる片想いを持て余し、大声を出すわ捕虜を虐待して死人まで出すわと結構めちゃめちゃやります。そもそも部下が自決する羽目になるのもヨノイ大尉の無茶ぶりを諫めようとしたことが発端です。そんなことで自決させてしまって責任をちゃんと感じてくれよと言いたいくらいです。私は何度見ても、それは多分、私が未熟だったが故に、ヨノイ大尉の無茶ぶりが理解できず、捕虜収容所での所長の独裁的言動としか思えませんでした。しかし最近、ああ監督が表現したいのは「そんなヨノイ大尉ってかわいいよね」ということなのだなぁとようやく気づいたのです。私は個人的には全然かわいいとは思いませんし、かわいいから部下を自決に追い込んだり、捕虜から死人が出ても、ちょっとお茶目でおきゃんな感じだよねとも思いません。しかし、監督の意図がそこにあると気づいて、場面を回想すると、確かにヨノイ大尉がかわいいという目線で描かれていることがよく理解できます。えー、嘘だと思う人はもう一度ご覧あれ。