スピルバーグ監督『キャッチミーイフユーキャン』で思う、払うべきものはちゃんと払おう

スピルバーグ監督の映画は大体外さない。大体面白い。エンタテインメントと人間性へのメッセージが両方入っているので評価が極端に分かれることもないし、観れば必ず楽しめたと感じることができる。

で、『キャッチミーイフユーキャン』も面白かったのだが、私が考えたのは、デカプリオが演じている天才的な詐欺師とその父親の関係のことだった。映画の始まりの場面では、父親はロータリーのメンバーに選ばれて誇らしげにスピーチをする。「私はミルクをバターに変えた」と譬え、彼はミルクの中におぼれそうなほど絶望的な状態でもがき続け、その結果、よくかき混ぜられたミルクは固形のバターへと変化し、自分はおぼれずに立つことができたというわけだ。相当な苦労と努力をし、困難を克服した結果、彼はロータリーのメンバーという名誉を手に入れた。

しかし、妻は他の男のところへ行ってしまい、デカプリオの父親は失意に打ちのめされているにも関わらず税金を払わなくてはいけないことに頭に来て、税金を払うくらいなら逃げてやると決心し、逃げ続ける。デカプリオの父親は税務署から逃れるために職も居場所も転々とするが、実は税金さえ払ってしまえば人生をやり直すことができるかも知れないのに、彼は「税金だけは払ってやるものか」という執着心があるために人生をやり直す機会を自ら遠ざけているのだと私には感じられた。しかも税金は法律に従って払うべき市民としての義務であり、義務を果たすことが人生をやり直すための絶対的な条件なのだとこの映画では示唆されているように思える。

さて、デカプリオも喪失感は大きい。母親が別の男のもとへ去ったのである。そりゃ、喪失感は大きいだろう。しかも父親は税金逃れで逃走しているのだ。世の中に恨みや反発を感じる心情は理解できなくもない。で、たまたま彼はめちゃめちゃ頭が良かったので少しずつ詐欺の手法を覚え、偽の小切手を本物同様にゴート札みたいに量産し、口もうまけりゃ顔もいいので金も女も好きなだけ手に入れることに成功する。しかし彼の人生が真実に満たされるということはない。なぜなら彼が真実に求めていることは家庭的な愛情であり、そこが母親の出奔によって破壊されているので、どれだけ金を集めて女を集めても決定的な部分が癒えていかないし、それでもその虚しさから逃げるために彼はもっともっと派手に詐欺を続けていく。詐欺で得たお金はどれだけやってもあぶく銭であり、充実には近づかない。彼もまた、払うべきものを払わずに生きてやろうと決心した点では父親と共通していると言える。

ぐっと来るのは彼が捕まった後、偽造に精通した彼がFBIに協力することで市民生活を送ることを赦され、後には偽造防止の手法の知的財産を得てかなり高額な収入と自分の家庭を持つことができるようになったという結末である。彼はFBIに協力することを条件に懲役刑から逃れることができたが、少なくともFBIに協力するという代償を支払うことで詐欺を続ける必要がなくなり、逃げ回って虚しい贅沢をする代わりに家庭という彼が真実に求めていた愛情生活を得ることができたのだと言うことができるだろう。

これは私たちの人生にとっても教訓になる。税金に限らず、払うべきものを払ってこそ信用が得られる。そしてほしい物が手に入るように世界はできている。単に等価交換ということを言いたいのではなく、正当な努力と代償によって、自分の人生を得ることができるということをスピルバーグは言っているのではないかと私には思えた。

彼の父親がその後どうなったかについては映画では描かれていないので分からないが、多分、息子がいろいろなんとかしたのではないかと想像することはできる。父親も税金さえ払えば人生をきちんとやり直すことができるだろう。なぜそう言えるかというと、私自身が転職や病気などで人生を何度かやり直し、それでもこのような半端者が今、大学の非常勤でとにかく飯が食えるという程度にまではやってこれたので、人生は何度かはやり直しがきくものだし、実際に本気で取り組んでみれば実現可能なことはたくさんあるとしみじみと思うからだ(一度社会人になった者が大学院に戻って勉強し直して非常勤でもそういう方面の職に就けるのは奇跡的だし、非常勤だけでどうにか飯が食えるのはかなりの奇跡なのだ)。

映画『ゲッベルスと私』を観て愕然とした件

岩波ホールで『ゲッベルスと私』というドキュメンタリーを観た私は愕然とした。ゲッベルスの「元秘書」とされる女性は、敢えて言えば平凡な人だという印象を受けたので、そのことでは愕然とすることはなかった。ただ、映画の作り手は証言と交互して様々な史料映像を挿入しており、それらの映像の凄惨さに私は愕然としてしまったのだ。

特に私が恐怖を感じたのは、アメリカ軍によるナチスが作った収容所内のガス室の検証映像だった。ガス室の壁には人の手の跡やひっかいたような跡が無数に残されていた。それらはそこで殺された人たちが最後の瞬間にもがき苦しんだか、なんとか脱出生き延びようとしたか、或いはその両方が起きたことを、しかも繰り返し繰り返し起きたことを示していた。

私は以前、アウシュビッツの所長だったルドルフ・ヘス(ヒトラーの副総統でイギリスにパラシュート降下した人物とは別人)が書き残した手記を読んだことがある。ルドルフ・ヘスはもちろん戦後に処刑されたが、人の歴史で最もたくさん人を殺した男であり、今後も、少なくとも私が生きている間に同じことをする人は現れないだろうと思う、というか思いたいのだが、私がガス室について具体的に知っていることは限られていて、ルドルフ・ヘスの手記に拠れば、シャワーを浴びるという理由で閉じ込めた人々を彼は見下ろすことができる位置に立っており、人々は彼を見た瞬間、やはり騙されて殺されるのだと知り、憎悪と怨みの叫びを上げたということらしかった。彼は何度となくそこに立ち、怨みながら死んでいく人たちを見たことになる。私のガス室に関する知識はこの程度のものでしかなかった。

今回、この映画を観て、壁に残された無数の手の跡は、当時の状況をより具体的に私に教えてくれるものになった。恐ろし過ぎて愕然としてしまったのである。

一方で、ゲッベルスの元秘書とされる女性は、ナチス政権誕生から敗戦の少し前の時期に至るまで、それなりに生活をエンジョイしていたことを話している。恋人がいて、ゲッベルスの演説にしびれ、宣伝省の給料の良さに満足していた。そしてホロコーストが行われていたことを「知らなかった」と彼女は言い切り、「私に罪はない。ドイツ全国民に罪があると言うのなら別だけれど、自分たちが選んだ政権なのだから」と述べる。民主主義の手続きを踏んでナチス政権は誕生したため、有権者全員にそれなりの責任はあると言えるが、選んだ政権が悪いことをした場合の有権者の責任は限定的で観念的なものだ。日本の首相が失政をやらかした場合に、有権者の責任を問うのは限界があるのと同じだ。

だが、この映画では、彼女のそのような証言と交互に凄惨な映像が挿入されるため、「知らなかったで済むのか?」という疑問を抱くように構成されている。知らなかったから悪くないと言うには、事態はあまりに重大すぎるからだ。アメリカ軍がドイツ市民向けに作ったフィルムも挿入されており、そこでは「知っていたのに止めなかった責任」を問うていた。私個人の想像になるが、あれほど大規模に熱心に継続的に行われていたのだから、多かれ少なかれ、憚れるようなことが行われていたことには気づくのではないだろうかと思う。現代でも自分の属する組織がどういう状況なのかということは私のような下っ端でも何となくわかることもあるし、噂も流れてくる。そのため、彼女が「知らなかった」と言い切ったとしても簡単に信じることができない。尤も、彼女の証言を嘘だと言い切るだけの証拠を私が知っているわけでもなんでもないのだが。

以下は全て私の想像になるが、彼女は何十年もの間、何度となく記憶を整理し、反芻し、自分の受け入れやすい物語を作り上げたに違いないという気がする。人は誰でもそうするので、彼女もそうせざるを得なかったに違いない。彼女は戦争が終わってから5年間抑留されていたと述べていた。その5年間は屈辱的な経験、人に話せないような酷い目に遭わされたであろうことも想像はつく。そのため、戦争が終わる前の記憶がより美化され、それなりにエンジョイできたという物語が形成されたのではないだろうか。彼女の本音は、ホロコーストに直接かかわったわけでもないし、戦争の意思決定に加わったわけでもないのに、5年も抑留されて酷い目に遭わされた。充分に責任は取った。というところにあるのではないだろうか。これはとても難しい問題で、責任がどこまで及ぶのか線引きができる人はいないだろう。そのことについては、今後、私も反芻して考えることになると思う。この映画を観てしまったら、考えないわけにはいかない。

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縄田雄二『一八二七年の幻燈文学』と映画

縄田雄二氏の『一八二七年の幻燈文学‐申緯、ゲーテ、馬琴』という論文が三田文学に掲載されているのを読んで、とてもおもしろかったので、ここで紹介したい。当該の論文ではまず朝鮮半島の文人申緯が一八二七年に書いたとされる漢文の詩を取り上げ、走馬燈を見るような、燈光に関する言及があることを指摘し、続いてゲーテの『ファウスト』の第二部第三幕を独立させて『ヘレネ 古典的ロマン的幻燈劇』としてやはり一八二七年に出版された作品に目をつけている。論文では鴎外による日本語訳を使用し、「夜の生んだ醜い物を洞穴へ入れる」という表現があることに着目している。このような表現は舞台上でメフィストフェレスが幻影的にたち現れたり、或いはいずこへかと消え去ったりする際に光学機会を用いた影絵のようなものが舞台上の壁なりスクリーンなりに映し出されることが念頭にあるのではないかとの当たりをつけている。続いて同時代の馬琴の『南総里見八犬伝』が幻惑的、または幻術的な表現がなされているのも、実はゲーテのように光学機会を使った幻影装置を見たからではないかとの見立てがなされている。即ち19世紀前半に少なくとも世界の三人の表現者が光学機会を用いた幻燈装置を知っていた可能性を指摘している。

縄田氏は文化史家フリードリッヒ・キットラーに言及し

(キットラーは)ヨーロッパにおいて幻燈の地位をロマン派文学が襲い、幻燈が見せたような連続映像を文字により見せるようになったっ経緯を叙しているいる。キットラーは、映画が登場したときにヨーロッパと北アメリカにおいて観客がすみやかに動画の文法をのみこんだのは、こうした文学が先に行われていたからと推測し、他文化圏との違いを述べる。補正したい。東アジアも同様であった、と

としている(『三田文学』2018年夏季号194‐195ページ)。

とてもおもしろいと思った。馬琴が映画の原型になる幻燈装置を見たことがあったとすれば、それはとてもおもしろいことだし、ヨーロッパで可能であったことなら、日本でも充分に可能なことであったはずだということを思い出させてくれる。江戸時代の社会ががヨーロッパの事情に全く疎かったという解釈は古い物になっていて、長崎でのオランダ貿易を通じて世界中のものが日本に流入していたことはよく指摘されていることだ。江戸時代は総じて貿易赤字の傾向があったということだから、当時の人々は輸入品を生活の中に取り入れていろいろ楽しんでいたはずだ。馬琴と同時代人の葛飾北斎がヨーロッパから輸入された絵具を試しに使った形跡があることが指摘されているものを以前読んだことがあるし、娘のお栄の描いた夜の街の陰影がヨーロッパの絵画に似ているという指摘もある。というか、浮世絵の美術館に行って実物を見れば素人の私でも一発で分かる。ゴッホは日本の浮世絵に強く影響され激しい憧れを抱いたが、日本とヨーロッパは19世紀の前半、既に互いに影響し合う関係にあったのだと捉えれば、とてもおもしろい新しい歴史と世界のイメージが頭の中で結ばれてくるように感じられる。江戸にヨーロッパ最新の光学幻燈装置が持ち込まれ、それを馬琴が見たとして、または朝鮮の文化人が見たとして全く不思議でも不都合でもない。

武田鉄也が坂本龍馬の役をやっていた『Ronin』という映画の冒頭では、長崎で竜馬が初期的な映画を観て驚く場面がある。で、何かの解説でみたのだが、一般にリュミエール兄弟の作品が1895年に試写会をしたのが映画の始まりとされているので、1860年代が舞台の『Ronin』では、まだ映画は存在せず、竜馬が映画を観ることはあり得ないが、製作者の映画を愛する思いのようなものがそこには込められているのではないかと説明されていた。

しかし、幻燈装置が竜馬よりもっと早い時代、馬琴の時代に輸入されていて、それを観た人々が存在したとすれば、竜馬が幻燈装置という映画の萌芽に触れる機会があったことは充分に考えられる。『Ronin』という映画は図らずも充分にあり得た可能性に触れていたのだ。

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スコセッシ監督『タクシードライバー』の運命の分かれ道

マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』では、ニューヨークの若きタクシー運転手をロバート・デ・ニーロが演じている。デニーロは大統領選挙の候補者の事務所で働く女性をナンパし、デートに連れ出すことに成功するが、結局のところはフラれてしまい、自分がもてないことを世の中のせいにする、よくある若者のように銃を購入し、それを使用するチャンスを伺おうとする。そして一旦は彼をふった女性の勤務先の大統領選挙候補者の演説場所まで出かけるが、政治家のボディガードに目をつけられてしまい慌ててその場を逃走する。

このシークエンスと並行しつつ、デニーロと12歳の少女との出会いが進行していく。12歳の少女の役はジョディフォスターが演じていて、びっくりするくらいかわいいのだが、映画では家出した彼女は体を売ることで生計を立てており、彼女を買いたい場合は仲介人を通さなくてはならない。仲介人とそのボス、そして彼女の生活の場兼サービスの提供場であるホテルの経営者が絡んでおり、要するに彼女はそのような悪い奴らに食い物にされているという構図になる。

政治家の暗殺を諦めたデニーロはジョディフォスターを救出することに目標を変更し、仲介人とそのボス、そしてホテルの経営者を撃ち殺し、ジョディフォスターはめでたく実家へ帰ることになる。彼女の両親からはデニーロに感謝の手紙が届き、彼は3人も殺害しているにもかかわらず、少女を救出するという英雄的な動機による行動であることから免責され、以前と同様にタクシードライバーの職を続けるという流れになっている。

さて、ローティーンの少女を利用した管理売春はゆるされる行為ではない。まず管理売春がゆるされないし、ローティーンの少女にそれをやらせているということもゆるされない。当然、そんな奴らは罰せられなければならないと言えるだろう。だがここで、敢えて比較衡量してみたいのだが、果たしてローティーンの少女の管理売春を終わらせるという行為と3人の男に対する裁判なしのリンチ死刑はつり合いのとれるものだろうかということだ。感情的なことを言えば、家出娘を食い物にする3人の男たちが殺されても全く心は痛まない。よくやったデニーロということになるし、そういう前提で映画も作られている。しかし、ちょっと冷静になった場合、本当に3人も殺しておいて無罪放免でいいのかという疑問が私には残る。もちろん、映画に法理法論を持ち込んでも仕方がないので、飽くまでも考える材料としてではあるが。

あと疑問に残るのは、デニーロは闇の組織の人間を3人殺しているのだから、組織から報復を受けないのだろうかという疑問も私の内面では何度も浮上した。ニューヨークで以前の通りに生活していたら、殺されるのではないだろうか。

ついでに言うと、デニーロは3人殺した後にジョディフォスターの部屋で警察に発見されるのだが、破壊力の強いマグナムみたいなのを持ってローティーンの女の子の部屋にいる男であれば、問答無用で現場で警官に撃ち殺されるのではないだろうかという疑問も残るのである。

もちろん映画なので、そのような疑問を持つことにもしかするとあまり意味はないのかも知れない。だって映画なんだから。ではこの映画の一番の考えどころは何かと言えば、女性にフラれて世の中に恨みを持った男が銃を購入した後の、銃の使い道である。デニーロが最初に考えたことは政治家の暗殺だった。幸いなことにボディガードに目をつけられて現場を逃げ去るということで彼はそのような明白な犯罪を犯さずに済んだのである。もしボディガードがちょっと抜けているような場合であれば、彼はその犯行を成し遂げただろうし、その後は確実に逮捕されるかその場で撃ち殺されるかのどちらかになっていたはずである。繰り返しになるが彼は幸運にもその犯行に失敗し、次のターゲットとして選んだのがローティーンの少女を食い物にする悪いやつらで、デニーロは英雄になることができた。スコセッシ監督は禍福は糾える縄の如しというようなものを描きたかったのかも知れない。デニーロが犯罪者になるか英雄になるかは紙一重だったのである。突き詰めれば政治家のボディガードがたまたま優秀だったという一点にかかっていたとも言えるだろう。

ショーン・ペンの出ている『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』という映画と『タクシー・ドライバー』が私にはダブって見える。ショーン・ペンの場合、空港の職員が優秀ではなかったので銃を持ったまま飛行機に乗り込み、そこで犯行を犯した彼は撃ち殺されてしまう。デニーロがショーン・ペンみたいな末路を迎える可能性もあったわけで、私には『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』という映画は、『タクシー・ドライバー』のデニーロがもし途中で方向転換しなかったらどうなっていたかを描こうとしたのではないかという気がするのである。デニーロもショーン・ペンも人生が思うようにいかず世の中を恨んでいるという点で一致しているし、銃を手に入れて世の中に復讐してやろうと考えるところまでも一致している。しかし、ショーン・ペンの方は運悪く途中まで目論見通りに進んでしまったので撃ち殺され、デニーロは幸運にも最初から目論見通りにいかず、英雄になったというわけだ。教訓としては、人生にはいろいろなことがあるし、世の中を恨みたくなるようなこともあるかも知れないが、だからと言って他人を傷つけるようなことを考えたり、実行しようとするのはよした方がいいということになる。デニーロも運が悪ければどこかの段階で殺されていたかも知れないのだ。世のため人のため、真面目に誠実に生きていれば、きっといいことがあるはずだ。

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映画『イーダ』のおばさんの罪と罰

ポーランド語の映画『イーダ』は、修道院でつましく禁欲的な生活を送るイーダという若い女性が元検察官で裁判官の親戚のおばさんに呼び出され、修道院長の許可を得てイーダは世俗の世界を見て、考えようによっては人間的な成長をし、修道院の世界へと帰っていくという作品だ。

イーダが実はユダヤ人で、家族の大半がナチスのホロコーストによって失われたという事実と、イーダが酒とたばこと男を覚えてそれでも修道院への生活へと帰っていくというシークエンスに注目してしまう作品なため、おばさんのことが少し霞んでしまうが、そもそもイーダが酒とたばこと男を試してみるのもおばさんに影響されてのことなので、作品理解の上で絶対に外せないのがこのおばさんの存在だと言える。

おばさんは超絶エリートで検察官を経て裁判官にまで上り詰めるが、酒浸りでたばこはいつもふかしているし、男癖も悪い。なぜかくも社会的に成功した人物がそんなだらけた生活に堕ちてしまっているのかについては大きく二つの理由が存在する。一つはホロコーストの結果、息子が行方不明なことと、政治犯を二度死刑に追い込んだことが彼女を苛んでいる。

彼女はイーダを連れて息子の行方を確認する旅をするが、やがて詳細が明らかになり、息子の遺体が埋められた場所も確認し、生きているとも死んでいるとも知れなかった息子がやはり、予想されたこととは言え、死んでいたことがはっきりし、自ら死を選ぶ。もし、息子の死を確認したことからの絶望感により彼女は死を選んだのだと考えるのだとすれば、それは少しだが作品理解が充分だとはおそらく言えない。彼女は政治犯を二度、死に追い込んでいる。息子が生きていないことを確認した後、彼女はおそらく自分が死に追い込んだ政治犯と息子にどのような違いがあるかを考えたのではなかろうか。息子が死んだ理由はユダヤ人だからという意外にはない。言うまでもないことだが、ユダヤ人であることは罪ではないし、ホロコーストは正当化できない。だが、政治犯の場合も、果たしてそれが死に値する罪だっただろうかと言えば、考え方の問題に過ぎないので、死罪は比較衡量の観点から言っても重すぎるに決まっている。つまり、理不尽な死を与えられたという意味で彼女の息子と政治犯は共通しているのである。彼女は、息子に死を与えた者は決して赦されないと考えたに相違なく、その帰結として政治犯に死を与えた自分も赦されざる罪を犯したと認識し、自らを裁き、死を宣告し、また自らそれを執行したのである。彼女は自分の息子を死に追い込んだものを非難する権利を担保するために、自分が政治犯を死に追い込んだ罪を引き受けたのだとも言える。そう思うと、この作品はイーダが主人公ではあるが、むしろおばさんの心境をどれだけ想像できるかによって理解が違ってくる作品なのだと言うことができるだろう。

おばさんが自ら命を絶った後、イーダはおばさんの来ていた服を着て、酒とたばこと男を試してみる。ホロコーストの結果、家族を失ったという点ではイーダもおばさんも間違いなく被害者なのだが、おばさんがずっとそうしていたように、酒とたばこと男でその心の苦しみから逃れ得るものなのかどうか、実験してみたと捉えるのが正しいのではないかと思える。そして彼女は酒とたばこと男のような享楽的な手段では解決できないと結論し、修道院の生活へ戻る方を選んだと説明できるのではないかと私には思えた。

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チリ映画『盲目のキリスト』で人と信仰の関係を考える

南米の荒野の若い男は、人の内面に神が宿っていると説いて歩く。教会の権威を否定し、個人のレベルで信仰を維持できるという発想法はルターの宗教改革に似ているが、いわゆる神秘主義的なもので、南米のようにカトリックの勢力が強い地域ではおそらくそれなりに挑戦的な説法と言えるはずだ。

映画で撮影された南米の荒野に暮らす人々は貧しい。とことん貧しい。贅沢はもちろん存在しないが、美しいものも存在しないし、知恵とか教養とかそういったものとも無縁な生活を送っているようにも見える。この映画に『母をたずねて三千里』のようなエスパニョールなメルヘンはない。だが、愛は存在する。神が内面に宿っていると主張する男の話に耳を傾け、人々は彼をイエスのように信仰し、奇跡を見せてほしいと頼む。だが彼には親切心で人を助けることができるだけで、奇跡を起こすことはできない。ただけが人や病人、そして美しくない女性に寄り添うことだけをコツコツとやり続ける。物理的な奇跡は決して起きないが、寄り添われたことにより人の心には救済がもたされるし、それには彼が愛を分け与えた以外の理由は存在しない。ただ、観衆は南米の荒野をイスラエルやヨルダンの荒野に重ね合わせ、実際のイエス・キリストも本当はこのような青年だったのではないかという想像を膨らませることはできる。

何かに似ていると思い記憶を辿ってみたところ、遠藤周作先生の『イエスの生涯』のイエス像にそっくりだ。『イエスの生涯』(『死海のほとり』でもオッケー)のイエスも、弱い人、貧しい人、病める人に寄り添い、ともに涙を流すことができるだけで、つまり愛を分け与えることができるだけで、奇跡を起こすことはできない。時に民衆は奇跡を起こすことのできないただの社会不適合者に怒りを覚え、石以って追い出そうとすることもある。

或いはクリストファー・マーレイ監督は『死海のほとり』から想を得てこの映画を作ったのではないかとすら思えてくるほどに両者はよく似ている。

『福音書』に描かれるイエスは十字架にかけられることによって使命を全うし、人類の罪を贖うが、この時イエスが奇跡を起こして助かることができなかったのと同じように、この映画の主人公の青年も、奇跡を起こそうと試み挫折感を味わい、そして彼なりに復活する。聖書のイエスは3日後に生き返るが、映画の主人公は父と再会し、神がかりではない普通の人間としてその後の人生を生きることを決意するという流れになっている。

彼は裸足で荒野を歩いていたが、終盤で靴を履くことにより普通の人間として生きることを選んだことが明白に示されていると言えるだろう。
この映画では貧しい人、すさんでいる人が信仰を求め、救いを求める姿が描かれるが、信仰とは即ち普通の人間として生き、壮大な理想のためにではなく身近な人々を愛することで見出すことができるというメッセージがあるように思える。

人文科学を突き詰めると、人とは何かを考えることに向き合わざるを得ないが、私は『ファニア歌いなさい』と合わせて観ることで、より深くそれについて考えることができるのではないかと思えた。『ファニア歌いなさい』では、近代ヨーロッパの文明世界で生きる人が、どのようにして精神が破壊されていくかを描こうとしている。一方で『盲目のキリスト』ではそのような文明や叡智から見放されたように見える、或いは文明の周縁に追いやられたように見える人の精神が如何にして再生されるかを描こうとしている。

神がかりの青年が奇跡を起こせず挫折した時、彼にイエスの物語を説く人物が現れるのだが、そのイエスは我々がよく知っている、繰り返し語られたベツレヘムのイエスではなく、映像に映し出されるのはアメリカ原住民の人々の衣装をまとった人々とイエスの姿だ。伝統的なイエス像にとらわれず、人それぞれ自由に救世主のイメージを抱くことができるという制作者の意図を感じられるが、もしかすると救世主はやはり人の心に自由に宿るもので、魂の救済は自分次第なのかも知れない。

プライベートライアンと捕虜の問題

スピルバーグの『プライベートライアン』という映画では、主要な話題の一つとして捕虜をいかに処遇するかという問題が描かれている。

何度か観れば気づく(一回観ただけで気づく人もいるかもしれない)のだが、降伏の意思を示したドイツ兵、または戦闘意欲を失ったと見られるドイツ兵に対し、躊躇なく銃弾が浴びせられ、殺される場面が複数回映画の中で登場する。それは画面の端の方で起きていたり、短い時間しか割かれていないため、見落としがちなことだと思うのだが、作り手は当然、意識して気づく人には気づくようにそれを入れ込んでいると私は思っている。

単にそのようにさりげなく入れこまれているだけではなく、ライアン二等兵を探しに行く小部隊が敵と遭遇し、銃撃戦の末に一人のドイツ兵を捕虜にする場面がある。部隊員たちは戦闘直後で戦友を失ったこともあり気が立っていて、ドイツ兵に対する強い殺意を持っており、自分の墓穴を掘らせるということまでしている。自分のための墓穴を掘らせるのは、捕虜に対する侮辱行為とも言えるので、この段階で既に国際法違反の疑いは濃厚なのだが、墓穴を掘らせるということは、その後の処刑を暗示するのに充分であり、それもまた国際法違反になるはずだが、もし本当に命を奪えば疑いなく国際法違反である。しかし、小部隊と捕虜一人なのだから、密かに始末したとしてもバレる可能性は低い。先に述べたように感情的には激しい憎悪を抱いているのだから、展開としてはこのまま殺すのだろうか?という疑問を持ちつつ観客はことの推移を見守ることになるのだが、通訳として参加していた兵士が隊長のトムハンクスに国際法の順守を強く主張し、トムハンクスもそれも確かに言えているという感じで処遇に悩む姿が描かれる。現実的な問題としても数名の小部隊なのだから捕虜を管理する能力を備えているわけではなく、前進しなければならない任務も負っているため、捕虜の後送も現実的ではないし、捕虜が自分で歩いて連合軍の後方の基地へ向かい投降することは考えにくい。戦友が殺されたことへの憎悪がある一方で、捕虜は命乞いをしており、命乞いをする捕虜の命を奪うことは、人間的感情の面からも受け入れがたい。という悩ましい状況に陥るのである。

結果、トムハンクスは捕虜の解放を決心し、目隠しをしてこのまま1000歩まっすぐ歩いてここから立ち去れという指示を出し、命からがら助かった捕虜は言われた通りにして姿を消す。だが、当該のドイツ兵は改めてドイツ軍に復帰し、トムハンクスの部隊と交戦する。このドイツ兵は頑強な兵士として描かれており、なかなかに強く、トムハンクスの部下も倒すし、銃撃でトムハンクスをも倒す。国際法の順守を訴えた通訳兵とも遭遇するのだが、ドイツ兵にとっては命の恩人でもあるので、通訳兵のことは見逃し、彼は戦闘を続行する。戦況的にはドイツ軍優位で進むように見えるのだが、終盤になって連合軍の航空戦力が応援に駆け付け、ドイツ兵は抗戦不可能を悟り、降伏する。通訳兵はそもそも戦闘に参加するだけの勇気がなく、隠れていたのだが、この時になってドイツ兵の前に銃を向けて登場する。ドイツ兵は命を助けてもらった恩義があるので、親愛の情を見せようとするのだが、彼がトムハンクスを倒すところを物陰から見ていた通訳兵は、そのドイツ兵を撃ち殺す。既に投降の意思を見せている以上、明白な国際法違反であり、戦争犯罪だ。

だが、映画の全体の構成から言えば、命を助けたドイツ兵が隊長のトムハンクスを倒したのだから、「弱虫」の通訳兵が勇気を振り絞ってついに自分の意思で立ち上がり、隊長の仇をとったことがある種のクライマックスとして描かれている。

このような映画の構成から我々は何を読み取ることができるだろうか。複数回登場する、無抵抗のドイツ兵の殺害場面には一切の情けは感じられない。そしてそれを批判する論調も映画からは感じ取れない。また、命乞いをするドイツ兵が結果としてトムハンクスを倒したという事実は、情けをかけた相手に仇で返されたとも言え、通訳兵が飛び出して来てそのドイツ兵を倒すことが英雄的な場面として描かれているということを考えれば、私には結論は一つしかないもののように思える。即ち、ドイツ兵と言えば国際法的にも認められた正規の兵士とも言えるが、ナチスまたはその協力者である。そして、ナチスに情けは一切無用という問答無用の信念をスピルバーグが持っているということではないかということだ。ドイツ兵に国際法は無用ということだ。

スピルバーグはユダヤ人で、幼少年期には収容所から生還した人から腕に刻まれた囚人番号の入れ墨を見せられるなどの経験をして育ったと読んだことがある。そのため、ナチスを批判的に描くことには積極的であり、決して情けをかけようとはしない。たとえばインディジョーンズでドイツ兵はわりとよく登場するが、彼らが人間的な要素を持っているという描写は絶対にないし、インディジョーンズ本人も彼らは殺してもいいという確信を持っていると言ってもいいように思える。『シンドラーのリスト』では、ナチス党員でありながらユダヤ人の命を救ったシンドラーを顕彰している面はあると言えるが、道楽で人助けをしたことへの後悔を号泣するという形で表現しており、たとえシンドラーであっても完全に免罪されるとは言い難いという思いがスピルバーグの内面にはあるのではないだろうかと私には思える。

もちろん、私もナチスドイツには賛成しないし、ホロコーストは当然に批判されなくてはならないし、それは徹底批判されて当然であるとも思う。なので、スピルバーグの作品作りに異論はない。先日『ターミナル』を観て、私は爆笑し、感動した。スピルバーグは天才だと思った。『ターミナル』もまた、主人公は亡国の民である。スピルバーグの作品を掘り下げて考えれば、常にそこに辿り着いていくのかも知れない。日本はナチスと同盟していたことがあったが、『太陽の帝国』では日本人を人間的に描いてくれているので、そういったことには感謝したい。

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シンドラーとファニア

シンドラーとファニア

ナチスによるホロコーストに関する映画はたくさんある。ただ、今後の世界に語り継がれ、観続けられる映画をその中から選ぶとすれば『シンドラーのリスト』と『ファニア歌いなさい』ではないかと思える。二つの映画はともにホロコーストを糾弾することを目的とした映画だが、作り方は全く違っている。『シンドラーのリスト』では恐ろしい場面は多く登場するが、『ファニア歌いなさい』ではそのような場面はそう多くはない。しかし、映画を観た後により強い恐怖が頭の中に残るのは、『ファニア歌いなさい』ではないかという気がする。

『シンドラーのリスト』は分かりやすい。スピルバーグはナチスに対して容赦がない。一切の敬意を払う必要がないと彼はきっと考えているはずだし、『プライベートライアン』では降伏の意思を示したドイツ兵が殺害される場面が複数回あるが、スピルバーグが意図的に入れていることは間違いないと確信できるし、それが国際法違反だとしても、だからどうした?という彼の意思を感じる。ナチスは国際法によって守られる必要すらないと確信しているのではないかと私は思う。そのため、インディジョーンズも含んで、スピルバーグの描くナチスは単純であり、分かりやすく、簡単に言うと敢えて幼稚に描いている。いい年をした大人であっても人間的成熟ができておらず、総じて愚か者である。だからなのか、『シンドラーのリスト』には文脈がある。ナチスの人間に聡明さや成熟、人間的な愛情、そういったものは一切ない。ナチス党員もシンドラーも幼稚な人間である。ただ、シンドラーに限ってはホロコーストからユダヤ人を救ったという功績があることは認めるので、ある程度免罪する。ただし、映画の最後で号泣しなければならない。ざっくりとにはなってしまったが『シンドラーのリスト』には、そういう文脈があるので、観客はこの映画が何を言いたいのか理解することができる。

一方の『ファニア歌いなさい』にはそういう文脈がない。あらゆるステレオタイプが破壊されているので、観客は誰に感情移入していいのかも分からなくなっていく。強制収容所に入れられている人間の中にも碌でもないのがいて、小さな利益のために平気で人を裏切る。しかし、そのような心理が働いてしまうことが観ている側にとっても全く理解できないわけではない。強制収容所に入れられていた人たちは被害者であることに違いはないが、被害者の中でも加害者になる側を選ぶ人間が出てくる。この段階で、すでに二時間余りの長さの映画としては難解になってくる。描かれるドイツ人の姿もこの映画をより難解にしている。女性ナチス将校は、囚人から幼い子供を奪い、その子を慈しみ、愛し、育てようとする。この段階で既に難解である。ナチスの医者も登場するが、真面目であり、教養人であり、そして普通のおじさんである。アイヒマンを連想しなくもないが、ドイツという豊かな音楽と哲学を育んだ教養深い人々の住む国で、ナチスが台頭したという事実が如何に難解なことなのかをこの映画は敢えて描こうとしたのではないかとも思える。従って、台詞のやりとりにはそれぞれ意味はあるに違いないのだが、総じてバラバラであり、まとまっておらず、登場人物たちはただ、頭に浮かんだことをそのまま口に出しているだけで、正しいまとまりのある意味を持った言葉のように受け取ることができない。観続けるに従い、意地の悪いクロスワードパズルの答え合わせをしているような心境になってくる。若い女性たちが栄養視聴で痩せ細り、頭を剃られ、楽器の練習をしたり、お葬式をしたりする姿は異様であり、これが実話に基づいているということを思い出し、改めて恐怖が深まる。収容所に入れられている人たちに人間性と狂気の両方があるのと同様、入れる側のドイツ人にも人間性と狂気の両方がある。しかもそれは相互に描かれるのではなく、同時に描かれる。一緒くたになっていて、作品は観客に苦しむことを要求している。私も苦しみながらこの映画を観た。私は日本人なので、自分の祖父母の世代がアドルフヒトラーと同盟していたことを残念に思う。その残念さが加わることで、私の混乱は深まったし、映画が終わった時、私は自分が愕然としていることに気づいた。

『シンドラーのリスト』を観れば涙が出る。『ファニア歌いなさい』は愕然とする。もし、いい映画の条件の一つが、観客に考えこませることだとすれば、『ファニア歌いなさい』の方がいい映画なのかも知れない。もちろん、二つの映画作品に優劣をつけることは好ましいことではないのは当然なのだが、私の文章力ではこのようにでもしなくては自分が受けたショックを整理できないのだ。

私は最近、何度か繰り返し『この世界の片隅に』を観て、その都度愕然とした。なぜ愕然とするのか自分でもよく分からなかったのだが、繰り返し観ることで、多少は整理ができてきた気がするので、機会を見つけて書いてみたい。

ビューティフルマインドの逆転人生を考える

プリンストンの天才ナッシュ教授はいつのころからか統合失調症を発症し、ありもしないソビエト連邦のスパイ網の暗号コードを新聞や雑誌から読み解き始める。彼には親友もいるし国家機密級の仕事のための相棒もいる。しかし、親友も相棒も実は彼の脳が生み出した幻覚であり、彼は精神病院に強制的に入院させられることになる。

その後退院するが、毎日服用する薬の副作用で頭が充分に働かなくなり、天才的な数学者だったはずが、まったく仕事ができない日々を送るようになる。妻が仕事をし、家族の生活を支えるのだが、当然に重苦しい日々を送らざるを得なくなる。妻は時に彼の症状に付き合い切れなくなるからだ。

だが、やがて彼はかつてのライバルでプリンストンの教授になった友人に頭を下げ、社会適応のために図書館へ出入りする許可をもらうことができ、長い長い日々を図書館通いで過ごすのである。幻覚の親友と相棒はついてまわるが、彼は意を決して彼らを無視する。このまま人生を終えてもおかしくはないのだが、とある学生に質問をされ、それに答えるうちに私的なゼミのようなものを開くようになり、やがて教鞭を取るところまで社会的に回復し、最後の最後でなんと若いころに書いた論文の成果が認められノーベル賞を獲るというジェットコースターのような人生を描いた映画が『ビューティフルマインド』だ。

彼の人生を俯瞰すれば、全体として成功しているように見えるが、病気との格闘は絶望的な心境に彼を陥れたに違いなく、それ以前の経歴があまりに素晴らしすぎるからこそ、療養生活を送らざるを得ないことは堪えたに違いない。

果たして彼を救ったのはなんだったのだろうか。私は二度この映画を観たが、もし自分だったらと我が身を振り返らざるを得ない。妻が彼を見棄てなかったことは大きい。人生で最も辛い時の同伴者が彼の妻だった。そのようなパートナーがいる人は幸福だ。そして若いころ、すでに発症していたが、本人も周囲も気づいていないような時に仕上げておいた仕事が彼を社会的な復帰に大きな助けになった。

私は、私のようなコミュ障が彼と同じ境遇になった時に自分を支えてくれるパートナーを得られるかと自問したが自信はない。また、今仮にそういう境遇になった時にそれでも自分を助けてくれるだけの仕事の蓄積があるかと自問しても自信はない。

しかし、彼が彼自身を救うことができたのは、発症以前の栄光だけによるものではないことも繰り返しみると分かってくる。彼はまず、自分が病人であることを認めることにより、症状に苛まれなくなった。正確に言うと症状は続いたが、幻覚に自分の行動が影響されなくなる程度にまでコントロールできるようになった。自分が病人だと認めなければ、症状をコントロールすることもできない。彼は重篤な病人だったし、社会的な居場所を一時的には失ったが、病人だということを自覚した上で、友人に頭を下げ、じょじょに社会適応し、やがて社会復帰を果たしたという側面は否定しがたい。彼は不運な病によって人生の敗北者だと感じたかも知れないが、人生の敗北者だということを認めることにより一歩ずつ回復へと歩いて行ったのだと言える。

この作品から我々のような凡人が得られる教訓は、自分がもし何らかの理由で不愉快な立場に転落してしまった時、過去の栄光にすがろうとせず、自分の現状を素直に認め、真摯に取り組むことで、人生をやり直すことではないかという気がする。

私にも他人には言いにくい深い挫折の経験がある。そしてその挫折から今日に至るまで、苦しみ続けてきたが、一歩ずつ、社会的にも人間的にも回復を重ねて来た。そのため、ナッシュ教授の人生を完全な他人事と片付けることができない。私は挫折したばかりのころはそれを受け入れることができず、今も完全に受け入れることができているかは分からないが、少しずつ挫折を認め、挫折した自分という立ち位置を認め、そこから回復するためのプランを練り、そのプランの全てが実現したわけではないが、ある程度は実現したので再び自分の人生を歩いているという実感はある。挫折した時、挫折したことを認めることが人生をやり直す第一歩になると言えるのかも知れない。

もう一つ得られる教訓としては、人生一寸先は闇であり老若男女問わず、いつどこで何が自分の身に起きるかわからないが、それまでに積み重ねて来たものが身を助けるということが言える。ナッシュ教授は入院させられる前に学位も獲り、実績も残したことがその後の人生の回復に役立った。我々がナッシュ教授ほどの大成果を残すことは難しいかも知れないが、それでも、もしものことが起きたとき、それまでに積み重ねてきたものが自分を助けるのだとすれば、日々の行いや精進、真摯な取り組みが大切だということは言えるだろう。いつ何があるかわからないからこそ、何事にも真摯に取り組むべきだ。真摯に取り組んだことの全てにいい結果が出るとは限らないが、取り組まなければ結果は決して出ない。それに、案外、自分で気づいていないだけで、自分の取り組みはそれなりに報われているのかも知れない。

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シンドラーはなぜ号泣しなくてはならなかったか

スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』は、あまりに安易に人がナチスに殺害される場面が連続して続くため、観客はそれが実話に基づいているだけに驚愕せざるを得ない。人命があまりにも軽く扱われていたこと、一部の人間をただ、それその人がその人であるという理由だけで死に追い込まれたこと、人間に対する罪の重みに考えさせられるし、日本人の観客であれば自分の祖父母の世代はこの連中と手を組んでいたという目をそむけたくなるような事実にも向き合わなくてはならない。

そのよう深刻な映画作品の中で、救いになるのはシンドラーという男の存在である。軽妙な会話とウイットに富み、金持ちで、敗戦へまっしぐらという絶望的な時代状況の下で贅沢な暮らしを楽しみ、女性にもてる。羨ましいご身分であり、その気楽な感じに安心感をついつい持ってしまうのだが、そのように彼が軽快に人生を楽しんでいるにもかかわらず、1000人を超すユダヤ人を強制収容所から救い出し、死の恐怖から解放したという人間としての功績もまた賞賛に値するものである。しかも、強制収容所から救い出す理由が軍需工場の強制労働者が必要だと言う偽悪的なものであるために、シンドラーからは偽善の嫌らしさを感じることもない。様々な意味で完璧な主人公だ。

しかし、映画の最後のあたりでシンドラーは号泣することになる。シンドラーが号泣したことについては、「興覚め」という意見もあったし、私もそう思った。果たして何故に、スピルバーグはシンドラーに号泣させたのだろうか。ナチスのユダヤ人迫害を憎むスピルバーグの立場からすれば、明るく楽しくユダヤ人の命を救ったシンドラーを、そのまま明るく楽しい人生を軽妙に生きる男として最後まで描いてもさほど問題はないはずのように思えてならなかった。

しかし、スピルバーグはシンドラーに号泣させることにした。私はその理由について何年も考え続けてきたが、最近改めて見直して、シンドラーは号泣しなければならなかった、シンドラーの号泣は二つの意味で必然であると考えるようになった。以下にその理由を述べる。
まず、シンドラーにとって人を救うことは道楽だった。道楽であろうと何であろうと人を救うことは賞賛すべきことだし、別に道楽でやってもいいではないかとも思えるが、シンドラーはナチスのユダヤ人迫害に対して、一人の分別のある人間であれば、敢然と戦わなくてはならなかったはずである。道楽でやるということは無理してまでは救わなかったとも言える。人の生き死にを神でもない人間が道楽で、自分のできる範囲でリストアップするという行為の恐ろしさに彼は気づかなくてはならなかった。彼はユダヤ人を工場労働者として連れてこさせるために金品を用いたが、それは徹底したものではなかった。彼はしっかり自分が贅沢できるだけの資金は残しておいたし、楽しい人生を犠牲にしてまで人助けをするつもりはなかった。そしてそれは罪深い。人の命を救助する際、それは道楽ではなく自分の存在を危うくさせることがあったとしても、それでも覚悟を持って尚取り組むべき「正義の戦い」でなければならない。シンドラーはそれをしなかった。映画として完結するためには、シンドラーはその罪深さに気づく必要があったに違いない。シンドラーが身に着ける様々なぜいたく品をナチスの担当者に渡せば、もっと救えたのである。金品よりも遥かに大切なものをシンドラーは救うことができたはずである。そのことに、敗戦が決まってから、もはやそうしなくてもよくなってから彼は気づいた。言い方を変えるならば気づくのが遅すぎたのである。スピルバーグはシンドラーを評価しながらも、気づくのが遅かったということの罪を糾弾している。そのため、シンドラーは興味深い男ではあっても英雄にはなれないのである。
 だが、単に糾弾の対象にするためにシンドラーが号泣する場面を挿入したというわけでもないと私は思う。シンドラーの人間的成長も描かれなければならなかったのではないかと私には思える。シンドラーは道楽で人助けをして悦に入っていたが、人助けは道楽でするものではない、もっと真剣に覚悟を決めてやるべきものでなくてはならなかったということに敗戦を迎えてから気づいたシンドラーにできることは号泣することしかなかったのである。しかし、たとえそれがユダヤ人を助けるという意味では遅すぎたとしても、一人の人間の魂の向上という点から見れば遅すぎるということは決してあり得ない。この作品はファシズムが特定の人間を迫害することの犯罪性を糾弾するだけでなく、同時にシンドラーという一人の男の人間的成長という二つの目的を持って制作されたと考えることができる。

それ故、スピルバーグのシンドラーに対するまなざしは決して冷徹なものではない。たとえ道楽とはいえ、ユダヤ人の救済に努力した男としてそれなりに賞賛しているし、更に人間的な成長の瞬間を迎えたのだから、その点に於いてシンドラーを祝福しているとも言えるのである。人が、その人の行動や考え方を変化させる瞬間に立ち会う時、それはたとえ日常生活でもある種の感動を伴うことがある。ナチスドイツの犯罪性を糾弾しつつ、シンドラーという男の成長物語も描いたスピルバーグはやはり言うまでもないが天才なのである。