第三次伊藤博文内閣

第二次松方正義内閣が衆議院を解散した日に辞任するというどたばた劇を兎にも角にも収集するために伊藤博文が三度目の組閣をします。とりあえずは選挙管理内閣としてスタートしたと言っていいかも知れません。

選挙結果では板垣退助の自由党が第一党となり、大隈重信の進歩党が僅か一議席の差で第二党となります。この時代になると官の政党は影も形もないありさまとなっており、議会で政府をつつきまくってきた大隈なり板垣なりの協力がないと政策が全然通らないという状況になっていきます。

伊藤博文は外交面では対ロシア融和策をうまくこなしており、日清戦争後の日露対立を避けることに一応は成功していますが、内政面ではなにしろ反政府の大隈と板垣の二大政党で三分の二を獲っている状態ですので増税もできなければ選挙制度改革もできず、伊藤は衆議院解散をうちます。自由党と進歩党が合併して憲政党結成して伊藤に対抗しようとしますが、嫌気がさしたであろう伊藤は辞任し、清・朝鮮半島への旅に出てしまいます。

政権の担い手がいなくなり、首相を推薦する元老会議で「大隈重信で行こうか」という話になり、第一次大隈重信内閣が誕生しますが、大隈と板垣の間で亀裂が生まれ、要するに「なぜ大隈重信が総理大臣で板垣退助が内大臣なのか」というポストの問題で感情的な溝が深まり、憲政党は分裂するというカオスった状態が生まれて行きます。

第一次大隈重信内閣は日本の憲政史上初の政党内閣と位置付けられており、それは確かに意義のあることのように思いますが、一方でゴネれば順番が回ってくるという悪い循環が生まれたようにも思えますし、それまで文句を言っていれば仕事していることになっていたのが責任のある立場になってブーメラン現象に見舞われるというお決まりのパターンもこの時から生じていたように思えます。

この時期、清では康有為や梁啓超などによる明治維新をモデルにした戊戌の変法運動とその瓦解という政変が起きており、最近の研究では国内政治を投げ出して外遊中だった伊藤博文が一枚噛んでいたらしいという説もあるようです。その説によると、康有為と伊藤博文が協議して英米日清の合邦を光緒帝に奏上したということらしく、それが本当なら清は戦わずして外国の植民地になってしまう恐れがあり、それを知った西太后が待ったをかけて愛国ゆえの血の粛清を行ったということになるらしいです。私にはそれを否定する根拠はありませんが、伊藤が独断で外国との合併を進めたというのはちょっと話ができすぎのような気がしなくもありません。


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第二次伊藤博文内閣



松方正義が立ち往生する形で辞任した後を受け、伊藤博文は陸奥宗光、大山巌、黒田清隆山県有朋ら重鎮を閣僚として集めたいわばドリームチーム内閣を目指します。

しかし、当時は議院内閣制ではないため、議会の方は反政府で勢いづいており、政権運営はそう簡単なものではなかったようです。陸奥宗光が列強との不平等条約の改正に尽力していましたが、議会の反政府政党からは全面的な平等条約以外は認められないとの突き上げがあり、じょじょに妥協していくならともかく、安政の五か国条約を一挙に完全平等にするというのはハードルが高すぎて不可能とも言えますので、議会で官側の政党が少数派であったこともあり、早々に行き詰まりを見せて伊藤博文は衆議院の解散に打って出ます。

反政府と見られた各会派は政府の圧力によって議席を伸ばすことができなかった一方で、伊藤との連携の可能性を含んでいた自由党は議席を120まで伸ばします。一方で政府系政党は議席を激減させますが、自由党と合わせれば過半数を抑えられるというところまで持っていきます。政府の圧力で議席が伸びたり伸びなかったりするあたり、相当に裏とか闇とかそういった深かったに違いなく、現代の我々の価値観から言えばおよそ公正とはほど遠い選挙が行われていたに違いないことを伺わせるものです。

野党各派は自由党の星亨攻撃に狙いを定め、旧中村藩主の相馬家のお家騒動で星亨が贈収賄に絡んだという疑いで責めあげられ、衆議院議長不信任案が可決し、伊藤博文は更にもう一度衆議院の解散の挙に出ます。与党が少数だと何も決まらないという見本みたいなことが繰り返されている感が強いです。

ところがこの選挙期間中に日清戦争が勃発し(選挙期間中を狙って伊藤が始めた)、広島で臨時に行われた帝国議会では各会派一致して日清戦争を支持します。

第二次伊藤内閣を語る上で日清戦争は欠かせませんが、陸戦では連戦連勝、開戦の方では軍艦の大きさの違いが日清双方では歴然としており清の北洋艦隊の圧倒的優位のはずでしたが、関門海峡で幕府軍と接近戦をした経験がものを言ったのか、黄海海戦でも接近戦と小回りの利く動きで北洋艦隊は威海衛に撤退します。日本海軍が威海衛を包囲していたところで陸軍が陸伝いに威海衛を制圧し、北洋艦隊は降伏。提督の汝昌が自決するという展開を見せます。

陸奥宗光と共に李鴻章と交渉した下関条約で日本の勝利が確定し、台湾の領有、遼東半島の租借、賠償金二億テールという交渉面でも完全勝利を収め、第二次伊藤博文内閣はそれまでバタバタと倒れていた黒田、山県、松方の政権と比べて長期の政権運営に成功します。

議会の協力がなければ政権運営はできないと悟った伊藤博文は黒田清隆以来の議会と政府は別であるとする超然主義を捨て、自由党の板垣退助と進歩党の大隈重信を閣内に取り込んで挙国一致状態を戦後も続けようとしますが、板垣退助と大隈重信が宿敵化して激しく対立し、伊藤はこりゃ無理だと判断して辞任へと至ります。

いろいろ裏が真っ黒であるにせよ、議会の存在感を政府が理解するようになったという点では日本の民主主義がそれだけ前進したと考えることもでき、そういう意味では憲政の常道への一歩を踏み出したという意義をこの内閣から見出すことも可能なように思います。

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第一次伊藤博文内閣

第一次松方正義内閣



第一次松方正義内閣は最初から最後までなかなかお気の毒な内閣だと言わざるを得ないように思えます。就任以来、伊藤山県の傀儡だと揶揄され、実際に多分大体その通りで、山県が嫌になって政権を投げ出した敗戦処理みたいなことに終始させられたように見えなくもありません。

しかも、ロシアの皇太子のニコライ二世が来日中に大津で巡査に襲撃されるという大津事件が起き、なんでこんな面倒なことになるのかと寿命が縮む思いをしたに違いありません。清隆内閣の時には西洋指向の強い森有礼が暗殺されるという事件が起きており、現代風に言えばグローバリズムvsナショナリズムと同様の葛藤が日本国内で起きていて、ひたひたと確実に浸透してくる「西洋」に対し、官が諸手を挙げて西洋化へひた走るのに対して、民の中ではついていけない、或いは侵されていると感じている人が多かったのかも知れません。

この時期は伊藤(長州)、黒田(薩摩)、山県(長州)で松方(薩摩)と薩長でピンポンみたいに総理大臣の座を回り持ちしている時代ですので、それへのルサンチマンもなかなかに強く、舵取りに苦労していたように思えます。更に輪をかけたのが海軍大臣の樺山資紀の衆議院に於ける演説で、要約すれば「薩長政府のおかげでお国が護られていると分かっているのかこの〇〇野郎(〇〇の中に何が入るかは人それぞれの想像力の発露に任されます)」的な本音で切れまくった演説を行い、これをきっかけに野党が優勢な国会が混乱。松方は衆議院の解散を決意します。憲政史上初の衆議院の解散です。

第二回衆議院総選挙では選挙期間中に官による民党への選挙妨害が激化し、死者が出る事態にまで発展します。松方内閣は山県内閣の閣僚を基本的に引き継いでいたものの、陸奥宗光が怒りの辞任。その他の閣僚も松方を支持しなくなってゆき、松方は裸同然の状態になります。第二回衆議院選挙の結果は官(与党)が124議席を獲得しており、過半数には達していないものの、第一回総選挙と比べればかなりの大躍進と言うこともできますが、松方内閣はすでに空中分解同然の状態となってしまっており、観念した松方は辞表を提出することになります。

最初から最後まで不測の事件も含んで実に気の毒で、あんまり揶揄するようなことを書くのもかわいそうに思えてきます。ただし、選挙妨害で死人が出るなどというのはもってのほかですので、辞任という形で事を収めるのもやむを得ないかとも思います。後年、第二次松方内閣が誕生しますが、この時も宿敵大隈重信との合従連衡でやいのやいのと騒がしい政権運営が行われます。

元々島津久光の側近で幕末の争乱をくぐり抜けてきた人だっただけに血気盛んで、なんだかんだと騒ぎを呼び寄せる体質だったのかも知れません。

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第一次山県有朋内閣



第一次山県有朋内閣について語る際に外すことのできない話題は第一回衆議院選挙のことではないかと思います。現代のような議院内閣制とは違い、政府の議会に対する影響力は低いもので、政府vs議会の構図になってしまった場合は憲法の規定上、衆議院には予算の審査権がありましたので、政府は立ち往生するということにもなりかねませんでした。

衆議院が予算を通さない場合は前年度の予算を踏襲するとも定められていたため、運営できなくなったり機能がストップしたりするわけではありませんでしたが、そのような場合は国策の変更がきかなかったりインフレに対応できなかったりしますので、硬直的な政権運営に陥りやすく、現代を生きる我々にとって議会における予算の審査は当然なされなければならないものですが、当時の明治政府関係者としては「議会というのはなんとやっかいなものか」と思ったに相違ありません。

たとえば新政府からあぶれてしまった人、または旧徳川で新しい時代からこぼれ落ちてしまった人から見れば、議会の開催は政治に復帰する絶好のチャンスであり、また、新聞にもそういう人が多かったので、第一回衆議院選挙では、政府に一泡吹かせてやりたい、薩長藩閥に一発食らわせてやりたいという人たちにわざわざ発言の機会を与えて予算の審議権まで握らせるわけですので、明治新政府がわりとそれまで仲間内でなんとかしていたことが外からの批判に耐えうるものにすることを迫られるようになったとも言え、まあ、そこが民主主義の肝でもありますので、ようやく日本が近代的な国家になれる第一歩がこの選挙だったかも知れません。

議会選挙には「温和派」と呼ばれる政府に協力的な勢力と「民党」と呼ばれる反政府ルサンチマン同盟の戦いで、新聞の煽りもあって「民党」が圧倒的な勝利を収めます。温和派が84議席獲ったのに対し、民党は171議席ですので、ダブルスコアに近い形で勝負がついたわけですが、予算の編成とその執行は政府の姿勢そのものですので、ここを握られた山県有朋は心中極めて苦々しいものがあったに相違ありません。この構図はアメリカの大統領の政党が議会で少数派になったようなものだと考えれば似ているかも知れません。陸奥宗光が民党(野党)の一部を抱き込むことにより予算を通しますが、山県は議会運営に自信が持てないとして辞表を提出。松方正義が次の首相を任ぜられることになります。

陸奥宗光はこの第一回衆議院選挙に和歌山の選挙区から出馬して当選しており、山県は陸奥を入閣させ、彼に議会工作をさせることで難局を乗り切ったわけですが、その後の内閣は次第に議員を抱き込むことで政策を通すというのを常道にするようになり、いわゆる腐敗が深刻化していくことになります。

もっとも、単純に一直線に腐敗していったわけではなく、途中で原敬首相の登場と藩閥政治の終焉という大正デモクラシーも間に挟み込みより複雑にかつ深淵に、そこに新聞の煽りが入るという図式が生まれていきます。その辺りはまた別の機会に述べたいと思います。



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黒田清隆内閣
三条実美暫定内閣

三条実美暫定内閣



三条実美は第十四代将軍家茂に勅使として会見し、攘夷を督促するなど、幕末から政治とかかわっていた人で、そういう意味では筋金入りの歴史の証人みたいな人です。8月18日の政変で京都から追放された七卿落ちの一人で、歴史とがっぷり四つに組んで生きた人とも言えるかも知れません。そのわりに実際的な仕事をした形跡はあまり見当たらず、明治維新後に便宜的に活用された太政官制度で太政大臣を務めますが、岩倉具視の傀儡みたいな人でしたので、その辺りは若干気の毒にも思えます。残っている肖像写真も風采の上がらない感じです。

黒田清隆内閣が不祥事などで総辞職したとき、閣僚はそのまま残り、黒田清隆の辞表だけが受理され、三条実美が総理大臣に任命されますが、総理大臣の座にあった二か月間、特に何かをしたというわけでもないようで、時代は山県有朋内閣へと移っていきます。

ただ、私が感心するのはこの人が常に歴史と隣り合わせで生きていたということで、そういう意味では稀有な人だったのではないかと思います。自分で何かをするということは事実上一切なかったにもかかわらず、将軍家茂に会い、七卿落ちを経験し、坂本龍馬や木戸孝允、西郷隆盛たちと意見交換をし、明治六年の政変も実際に自分の目で見て、その総仕上げが暫定総理です。何もせず、何も影響力を持たず、ただ言われるがままにあそこに座れと言われればそこに座り、こちらに座れと言われればそこに座るというただそれだけの人でしたが、見て来たものはその厚みが違います。何もしていないのに失脚したり、その逆もあったりと実に忙しいドラマチックな人生を送っています。

繰り返しになりますが、自分は何もしていないにもかかわらず、目の前にいる人たちが争ったり殺し合ったり密談したりしている様を、彼は映画を観るような心境で、映画がまだなかった時代ですが、それこそ絵巻物を見るような心境で見ていたのではないかという気がしてきます。間違いなく歴史にその名を遺すであろう維新創業の大物たちが自分の目の前で入れ代わり立ち代わりしていく様は、何とも言えない良くも悪くも壮絶な光景だったのではないかと思えます。

そうは言っても調整型の政治家であったらしく、新政府内部が揉めた際は調停に努めたというような話もありますので、意外と見えない底力のようなものを持っていた人なのかも知れません。温厚なお公家さんらしい性格の持ち主で、黒田清隆辞職という混乱期に「とりあえず三条実美」ということになったのも、それなりの声望があり人徳が認められていたという証かも知れません。なんといっても気づくと最長老クラスの政治経験を積んでいる人になっていたのも、明日をも知れぬ幕末維新でしっかり生き延びられるだけの「徳」のなせることかも知れません。



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黒田清隆内閣



伊藤博文が枢密院議長という「院政」というか「黒幕」的な立場に引っ込んだ後、薩摩閥の黒田清隆が内閣総理大臣の職を引き継ぎます。第一伊藤内閣で農商務大臣を務めていた黒田は、その職責を逓信大臣の榎本武揚に兼任させた他は、伊藤内閣と同じ閣僚で走っており、実質的にも伊藤の内閣というか、黒田清隆色というのはあまりなかったかも知れません。

黒田清隆は憲法制定や議会設置という伊藤博文のレガシーを現実のものにするという面倒くさい仕事をさせられる運命にあり、相当に苦労したように見受けられます。憲法公布の翌日には「超然主義」と呼ばれる演説をしていますが、これは今後、議会が設置されても内閣総理大臣は天皇に対して責任を負うだけなので、議会が何を言ってもそんなことには影響されないという宣言なわけですが、伊藤博文が作った明治憲法では衆議院に予算の審査権があるため、行政は議会ノーと言えば何もできなくなるわけですが、そういったことを無視した発言ですので、どこまで黒田清隆がその辺りを理解していたか、ちょっと首を傾げたくなる一面でもあります。

黒田清隆は酒癖が悪いことであまり評判が良くなく、酒に酔った勢いで妻を殺害したという噂すら立った人ですが、函館戦争で旧幕府軍が降伏する際に榎本武揚の助命嘆願を熱心にしたおかげで、榎本武揚との関係はよく、薩摩閥の人たちからは距離を置かれるようになった一方で、旧幕臣との関係は終生よかったようです。捨てる神あれば拾う神ありという言葉がふと頭をかすめます。

黒田内閣では列強との間で結ばれた不平等条約の改正に期待がかけられていましたが、私個人はこれは黒田に期待するのはちょっとかいそうだったのではないかと思えます。日清戦争と日露戦争によって日本は実力を証明することで列強は条約改正に乗ってくるようになりましたが、黒田清隆内閣の段階ではまだまだ新興国で、そもそも相手が交渉のテーブルについてくれない、または交渉のテーブルについてもっと不平等なことを要求してくるのが普通と言えます。

外国との不平等条約が改正できないということへの国民の不満というか当時新しい商業として勃興した新聞の煽りによって黒田内閣の文部大臣をしていた森有礼が暗殺されるという惨事も起きていますが、これはできもしないことを「やれ、やれ」という無理難題の煽りの結果ですので、気の毒という以外に言葉がありません。もっとも、森有礼はちょっと「西洋かぶれ」が過度な人で、日本人がみんな西洋人と結婚したら自分たちも白人の仲間入りできるみたいなかなりトンデモなことを唱えたこともある人で、「悪いのは森有礼だ」という人が出てくる人がいても多少は納得しますが、そういうのは言論でやるべきで、暗殺されなければならないほどの落ち度もなければ影響力もない人物のように思えます。

そのように黒田清隆の人生も、また黒田内閣も波乱に満ちたものでしたが、外国との交渉がうまくいかなかったり、酔っ払って井上薫の家に入り込んだりする不祥事もあり、辞任へと追い込まれていきます。んー、やはりお酒はほどほどに、でしょうか…。



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第一次伊藤博文内閣



1885年(明治18年)に伊藤博文が日本で最初の総理大臣に就任します。明治維新後、新政府は便宜的に太政官制を活用して行政の職制を維持していましたが、海外の事情が分かってくるにつれて、キャビネット制が欧米の一般的な仕組みであるということが分かり、それにならったものを作ろうとして研究した結果、生み出された新制度ということができるかも知れません。

最初の首相の座を射止めたのは伊藤博文でしたが、最初の首相には太政大臣経験者の方がいいのではないかという声もあり、太政大臣経験者の三条実朝とのレースも起きたようです。

とはいえ、三条実朝は岩倉具視の傀儡みたいな部分がなかったわけでもなく、新政府の実質的な運営は薩長閥によってなされていたことを考えれば、長州の大物である木戸孝允が亡くなり、その次席みたいな立場を保っていた伊藤博文が就任するというのも自然なことと言えば自然なことかも知れません。

高杉晋作が生きていれば、その気迫で高杉晋作に話が行った可能性もあったと思いますが、彼は早い段階で病没してしまっています。伊藤に対抗し得る人物として山県有朋がいましたが、西南戦争の時の指揮に対する評判は必ずしも芳しいものではなく、なんといっても功山寺決起の時に伊藤が先に来て山県が遅れをとっていますので、その順番で行けば、やはり伊藤博文が先だというのが派閥力学の穏当な落としどころと言えたかも知れません。

一方の薩摩藩閥の方は西郷の下野と西南戦争、翌年の大久保利通暗殺で、明治維新第一世代が力を失っていましたので、こういう点も伊藤博文には有利に働いたようにも思えます。

伊藤博文の仕事は日本をより「西洋みたいな国」にすることで、そのためにはどうも「憲法」なるものがないといけないらしいということが分かり、金子堅太郎などをブレーンに憲法草案に取り組みます。また議会設置も課題で、どうやら欧米では議会がないとまともな国として見てもらえないらしいということが分かり、そっちの方にも尽力します。自由民権運動が下から突き上げてきますが、これについては保安条例で抑え込み、お上にとって都合のいい議会設置ということを目指しますが、後の大正デモクラシーの開化やその後の政党政治の挫折などを考えると、制度というものは一度作ってしまうと第一世代の意図を離れて発展なり迷走することが分かるとも言えそうです。

内閣の顔ぶれは薩長で仲良く分け合い、公卿はゼロ。榎本武揚が旧幕臣でありながら逓信大臣に就任しているという点がちょっと意外なところです。当時の郵便や無線、電話などの通信は今で言えばITとかAIとか超最新の通信分野ですから、そういう当時の人にとってはあまり慣れていない制度のことは旧幕府時代に留学までしてあちらの事情をよく知っている榎本に知恵を出させようと考えたということかも知れません。榎本は海外移民にも積極的でしたが、こちらの方はあまりうまくいかなかったようです。

伊藤博文が枢密院議長に「転職」することで、首相の座は黒田清隆へと移っていくことになります。



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西南戦争の影響



西南戦争は普通に考えて成功する見込みのない戦いを西郷隆盛が挑んだとされており、私もその通りだと思います。反乱や革命はスピードが命です。正規軍に反撃する時間を与えずに世の中をあれよあれよと変えていかなくてはいけません。戊辰戦争を乗り切った西郷隆盛はそのことをよく知っていたはずですで。西郷軍はのんびりと動いています。西郷本人に勝つつもりがなかったと考えるしかありません。

西郷たちは決起した後にまっすぐに関門環境を目指し、なんとか船を調達して本州に渡り東京を目指すか、それともまずは熊本鎮台を目指すかのどちらかにするかという話になった時に、熊本鎮台をまず攻撃することを選びます。その理由としてはおそらく船を調達する見込みが立たないということが大きかったと思えますが、熊本鎮台のようなところを攻めたところで意味はなく、東京の新政府に準備する時間を与えるだけですので、西郷隆盛はもろもろ分かったうえでそっちを選んだと言えるかも知れません。価値を目指すつもりは最初からなくて、暴発してしまってどうにもならない立場になった薩摩士族たちと一緒に死んでやろうというある種の慈愛であり、新政府軍に実戦の経験を積ませ、勝たせることで時代の変化を日本人に示すという効果も考えていたかも知れません。戊辰戦争の時、徳川慶喜の首を獲ることで時代の変化を分かりやすい形で示そうとした西郷隆盛ですが、十年経って、慶喜の身代わりを務めたということも言えなくもなさそうです。

西郷軍は熊本鎮台のある熊本城を包囲しますが、守備をしていた谷干城がよく守り、意外と簡単には落ちません。そうこうしているうちに山形有朋の新政府軍が九州に上陸します。新政府軍には兵站があり、兵員も火器もどんどん補充できますが、西郷軍はそういうわけにはいきません。弾を使えばそれだけ弾が減るだけです。兵隊が死ねば、それだけ数が減るだけです。下関を目指す前に熊本鎮台を落とそうと選んだ時点で負けたも同然と言えます。もちろん西郷は分かってそうしていたはずです。

田原坂の激戦はつとに知られていますが、西郷軍はここで新政府軍をかなり困らせます。まず坂の上の方を獲っているので銃撃がしやすく、また新政府軍の兵隊は徴兵された素人ですので戦意に乏しく、いざ接近戦となると逃げてしまいます。当時は戦争の主力は銃撃に移っていましたが、銃はそもそも相手が遮蔽物の向こう側に隠れると威力を発揮しませんので、敵のせん滅を狙う場合は接近戦に持ち込むほかはなく、接近戦になった場合は銃を構えている間に相手が斬りかかってきますので、当時はまだ最後は斬り合わなくては勝負がつきません。斬り合いになると薩摩士族はやたらと強く、新政府軍の兵隊は逃げるというのが繰り返されたようです。

山形有朋としてはここで鮮やかな勝ちを収めて徴兵制度の効果を世に知らしめたいところですが、ここはとうとう音を上げて抜刀隊に頼ります。警察官を主力にした抜刀隊は元会津藩士の子弟が多く、仇討ち好機であると大いに士気が上がったといいます。前方から新政府軍が銃撃し、側面から抜刀隊が斬りこむという作戦で西郷軍は敗走せざるを得ず、さ迷うようにしながらやがて鹿児島まで帰り、包囲されて最期を迎えます。

この時のことが新政府軍にとって教訓になり、逃げない兵隊の養成に主眼が置かれるようになります。宣伝と養成は大きく効果を挙げ、日露戦争の時の旅順戦のように効果のあまり期待できない突撃戦が正式な採用に採り入れられたり、最終的には太平洋戦争で現場の兵隊に過大な負担を科すような事態に至ります。途中から軍がある種の虚栄によって自縄自縛していったのではないかと私は思います。

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明治天皇と徳川慶喜

明治天皇と徳川慶喜が会見したのは明治31年ですが、司馬遼太郎さんの『最後の将軍』では徳川慶喜は明治天皇との会見にはあまり乗り気ではなく、いろいろ理由をつけて拒もうとしましたが、当時確立されつつあった新政府のいろいろな慣習を無視して、慶喜は紋付き袴で会見するということで実現したとしています。

一方の明治天皇の方は周囲に「慶喜から天下を奪ったのだからな」と話したことがあるらしく、明治天皇も年上の徳川慶喜と会うということについては心理的なプレッシャーを感じていたことを伺わせます。江藤淳先生は「日清戦争の勝利の後で慶喜に会ったということは、それまで明治天皇が新国家の君主として自信を持つのに時間がかかったことを示している」というようなことを書いていて、なかなか穿った見方だと思いますが、やはり明治天皇がプレッシャーを感じていたということを述べていると言えます。

この会見が成立した背景には勝海舟の奔走があったと言われており、勝海舟は「(慶喜は)天皇に会ったことで得意になっている」と語っており、その言いたい放題ぶりと我田引水ぶりを遺憾なく発揮していると評することができるのではないかと思います。

徳川慶喜は明治維新後にわりと早い段階で朝敵指定を解かれていたものの、静岡県でひたすら趣味に生きる日々を送っていましたが、この会見によって徳川慶喜家の創設が許され、爵位も与えられ、慶喜も東京に居宅を移すことになります。名誉が完全に回復されたということもでき、晴れて天下の公道を歩けるようになったと言ったところでしょうか。公式な会見の後は明治天皇夫妻と炬燵に入り、皇后からお酌をされたということですから、通常では考えられないほどの特別な扱いを受けたことが分かります。

勝海舟は他の大名と交際すると格が落ちるので、そういうことはしないようにと助言されていて、慶喜はよく守り、旧幕閣とも交流は盛んではなかったようです。老中だった板倉勝清が静岡県で面会を申し込んだ時はそれを拒否しています。松平春嶽との親交だけは確かに続いたようで、慶喜が書いた西洋画が松平春嶽に贈られたこともあったようです。松平春嶽は一緒に幕政改革に取り組んだ仲で、京都で新政府が誕生した後も、慶喜切腹論が持ち上がった際には明確にそれについては反対していましたから、互いに深い友情を感じていたのかも知れません。

維新後、慶喜は政治に一切かかわろうとしませんでしたが、現役時代の八面六臂ぶりからは政治に対する情熱を充分に持っていたとも思えますので、旧幕閣とも会わず、趣味に生きていたその生活の様子に心中をいろいろと想像してしまいます。


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ファッションリーダーとしての明治天皇



明治維新を経て日本は西欧化の道をまっしぐらにひた走りますが、そのことについて明治天皇の存在を抜きにしては語れないのではないかと思います。明治天皇はまず髷を切り、次いで洋服を着て写真を撮り、すき焼き(というか牛鍋かな)を食べて「美味である」と言い、あんぱんも食べています。要するに今後の日本人のライフスタイルはかくあるべしということを示したわけで、ファッションリーダーを担っていたということも言えるのではないかと思います。

私は個人的には明治維新は薩長藩閥が政治をワタクシするために岩倉具視と一緒に天皇を担いだのだと理解しているのですが、イメージ戦略と実際政治の間にかなりのギャップがあり、創業者世代はギャップがあるということを分かったうえで上手に協力しあってギャップをうまく埋めていたのですが、その次の世代以降、そういう裏側を知らない世代が「統帥権がー」とか言い出していろいろ狂いが生じて来たのではないかと考えています。明治憲法下では権力が誰にも集中しないように、要するに独裁者が生まれないように工夫されていて、あれはあれでなかなか良く考えられたものであり、問題は運用にあったわけですが、やはり創業者世代は分かって上手に運用していたのが、後の世代で崩れてきたという印象です。

明治憲法では演出上、天皇は「神聖にして万世一系で陸海軍の統帥権を持つ日本の統治者」というロシアのツアーリかと見まごう如き堂々たる大皇帝ですが、実際の権能はほとんどないに等しく、重要なことは明治維新の功労者が決めていく、明治天皇が嫌がっても日露戦争とかやってしまうわけです。国民はそんな内情については知りませんので、伊藤博文が料亭で決めたことを「大御心」だと信じているという構図が生まれたとも言えますが、それぐらいの演出をしておかないと伊藤博文や山県有朋が元老政治をしていることの正統性を示すことが難しかったのだろうと思えるのです。

しかしながら近衛文麿、東条英機の世代になると創業者の上手な知恵が失われていますので、政治家が軍事に口を出すのは統帥権の干犯だという暴論がまかり通るようになります。戦争は政治の延長線上にあるというか、政治そのものと言ってもいいくらいのことですから、政治家が軍をコントロールできないというのはばかげた発想としか言えないのですが、「天皇という絶対的な存在だけが軍に命令できる。政治家ごときが軍に口を出してはいけない」というレトリックにみんなが縛られていくようになったように見受けられます。憲法はその条文を常識というかコモンセンスで判断しなくてはいけませんので、政治家が口を出せないというのはコモンセンスに反しており、非常識としか言いようがないのですが、創業者がその辺りを曖昧にしておいたことのツケが次の世代に回って来たとも言えるのではないかと思います。

最後にブログですので、タブーに触れるつもりで明治天皇すり替え説について、ちょっと意見を述べたいと思います。私は明治天皇のすり替えは無理だと思います。そんなことをしたら絶対にばれると思います。明治天皇を毛利氏が匿っていた南朝系の人物とすり替えたというのがまことしやかに語られることがあり、天皇家は幼少期に別の家に里子に出すので、朝廷の人は明治天皇の顔を知らなかったから可能だったということにされていますが、里子に出すのは幼少期のほんの数年だけで、里子に出す先も同じ公家社会の隣の隣みたいなところに出すわけですから顔は当然公家社会では知られています。西園寺公望が明治天皇の遊び相手をしていたこともあります。平安時代の源氏物語の延長みたいな社会ですぐに噂が広がるわけですから、親王のすり替えみたいなことがまかり通る余地はないと思いますので、すり替え説を私は信用していません。

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