谷崎潤一郎『飈風』のMの本懐

明治末ごろに三田文学に掲載されたこの『飈風』という作品は、発行禁止処分になり、現在読むことができるものも伏字の部分がそのままになっていて、復元されてはいない。ただ、個人的には伏字の部分は別に永遠に読めなくてもいいのではないかという気がする。

以下にその理由を述べる。日本官憲によるいわゆる検閲は政治的に問題があるものと、公序良俗を乱すと判断されるものが主としてその対象となった。政治的に問題があるものについて、たとえば不敬なことについて書かれてあるのであれば、それが発行禁止の処分を受けるというのは由々しきことである。必ず是正されなくてはならない。ただ、公序良俗を乱すものについては、多少ではあるがその限りとも言い難いと私は思っている。たとえば今でも映倫を通らなければならないように、ただ単に度が過ぎてエロいものの場合、発行禁止がさほど残念なこととは言い難しと思えるからだ。もちろん、〇〇はOKで〇〇はOKではないという線引きは実に難しく、言論の自由、表現の自由、思想の自由を至上のものとして重視する現代日本において、確かにエロいのは発禁でもいいんじゃね?という浅はかな考えは禁物かも知れないのだが、谷崎の『飈風』の場合、伏字の部分は、どうせ非常識にエロいことしか書いてないんだろうとしか思えず、だったら別にいいんじゃね?とついつい思ってしまうのである。

一応、検閲について確認しておくが、検閲には事前検閲と事後検閲があり、事前検閲の場合は問題の箇所を伏字にすれば販売させてもらえるが、事後検閲の場合は問題の箇所があれば回収されてしまい、永遠に人々の目に触れることはない。事前検閲なら伏字をした上で「発禁の書」という、なかなか悪くない売り文句も使えるので売り手にとってはいい商売のネタにもなり得るが、事後検閲はその書籍を完成させるためのあらゆる努力が無駄になるため、自然と忖度が生じ、表現物が出来上がる段階で権力のご機嫌を充分にとるような内容になっていかざるを得ないという側面を持つ。我々が一部伏字とは言え谷崎の『飈風』に触れることができるのは、事前検閲で問題の箇所のみ伏字にして世に出されたからである。ついでに言うと、伏字にされた著作物は読み手も「あ、伏字」だなと分かるので、検閲されたことに気づくことができるため、権力が介在していることを察知することができるが、事後検閲の場合は伏字のない著作物しか出回らないため、普通に生きていると検閲があることすら気づかない、何がどう検閲されているのか見当もつかないということにもなりかねない。検閲はその制度自体は非常に問題がある制度だが、事前検閲はより良心的であるということは言えるのではないかと思う。

さて、『飈風』では、主人公の真面目な絵描きが友達に誘われて遊郭へ行き、以後、遊郭遊びにはまってしまい、遊郭の女性に惚れ込み、夜毎通うようになった結果、精力の使い過ぎでじょじょに心身の衰弱が顕著になってきたために、しばらくはそのような場所に通うべきではないと主人公は決心し、東京にいるとどうしても通いたくなるため、半年の計画で東北地方を旅して絵を描くというのが物語の始まりである。その途中、彼は様々な女性に関する誘惑にかられるが、その度に、自分にとって女性とは遊郭で惚れたあの人だけなのであり、その人を裏切ることはできないと固く思い詰め、いかなる誘惑もはねのけて却って衰弱してしまい、半年後にほとんどぼろぼろになって久方ぶりに遊郭の惚れたあの人に会いに行くと言う流れになっている。で、最後は半年ぶりの快楽があまりにすばらしいので脳のどこかの神経がぷっつりと切れてしまい、主人公は帰らぬ人となってしまうということで終わる。

これをMと呼ばずして何と呼べばよいのか。彼は別に義理があるわけでもない女性のために我慢に我慢を重ねて、最後はその女性と半年ぶりにそういう関係になっている状態でありがたいことに文字通り昇天したのである。女王様に義理立てし、女王様のために死ぬのである。お前Mだろ意外の感想は持ちようのないほど、Mである。旅先でハンセン病患者の女性と出会い、意気投合しよっぽど押し倒そうかと思ったが思いとどまるという場面があるが、そこでも危うく女王様を裏切るところだったのに我慢した私は偉いと自らを誇りに思うだけであり、ハンセン病の深刻さ、患者への思いやり、人道、人間愛というものへの関心はかけらも感じられない。遠藤周作先生が御殿場のハンセン病患者施設に行った時の心の複雑な動きについて書かれていたことを私はふと思い出し、その違いに大いに驚いた。

遊郭の女王様のことを思い詰め、女王様に義理立てするために禁欲し、最後は女王様に抱かれて死を迎えるのはMの本懐であるに違いなく、繰り返しになるが、本当にこいつはMだ…そして自分がMだと告白する以外になんの関心もない役立たずな男で、こんなのが東京帝国大学に入ったのは果たして日本のために良かったのかという疑問すら湧いてくる。とはいえ、彼の文運はその後大きく飛躍し、書く力に凄みと深みが加わり『春琴抄』や『痴人の愛』、『細雪』のような尊敬するしかない名作をこの世に残すのだから、人というのは分からない。というよりあの谷崎潤一郎にも若気の至りの作品があったのかという感慨すら持ってしまった。

以上なわけで、伏字になっている部分は主として女王様とのプレイに関する部分であり、別に読めないからと言って何も困らないし、読めたとしても大した驚きや感動になるようなものが書かれてあるとは到底思えない。この作品の検閲を担当した内務官僚は「あ、あほか…」という感想を持ったのではなかろうか。

関連記事
谷崎潤一郎『小さな王国』から、お金について考える

高橋是清内閣

原敬首相が東京駅で暗殺されるという不測の事態を受けて、高橋是清が政友会の総裁を引き受け、首相の役職も引き継ぐことになります。高橋是清本人が首相を狙っていたと言うよりは、突然起きた混乱をなんとかするために、とりあえず誰かを首相にする必要があり、高橋是清が指名されて事態の収拾を図ったと見るのが適切かも知れません。閣僚を原敬の時のメンバーでそのまま始動しましたので新聞には「居抜き内閣」と揶揄されます。その後、人事で紛糾し、内閣は僅か半年で瓦解してしまいます。期間が短く、本人が準備していたわけでもなかったので、特別な功績らしいものも特にこれと言って見当たりません。

ただ、任期中にワシントン体制の確立があり、外務大臣の内田康哉の活躍が目立ちます。原→高橋の英米協調志向を保ったのはよかったのですが、同時に日英同盟を失いますので、長い目で見ると日本の運命のかじとりについて、ごく僅かな誤差が生じ時間をかけてそれが広がって行ったその第一歩と見ることも可能かも知れません。ただ、その責任を高橋是清に見出すのはちょっと酷かも知れません。原敬の時から内田康哉が進めていたことです。任期中には大隈重信山県有朋が亡くなっています。

高橋是清は首相としての期間は短かったものの、その後大蔵大臣としては手腕を発揮し、日銀の公債引き受けという現代と同じスタイルでリフレーションを起こし、世界恐慌からいち早く脱却するという離れ業を見せています。高橋是清本人が日露戦争の時に公債の引き受け手を募集して歩いた経験から、公債の扱い方をよく知っていたからこそできたのかも知れません。ちなみに日露戦争の時の借金を完済したのは1986年のことで、超長期間での借金はアリだという発想が彼の中にあったのではなかろうかとも思います。

高橋是清について述べる際、その魅力的なところは挫折や失敗を乗り越えて出世していることです。アメリカに留学するも奴隷として売られ、帰国後に官吏の道に就きますが途中で辞めて南米へ鉱山の採掘にでかけます。ところがその鉱山がニセモノだったということが分かり、帰国し、日銀に就職し、日露戦争の戦費を調達し、日銀総裁に就きます。ジェットコースターのような上がり下がりを経験している人ですが、傍から見ている分にはおもしろい人であったに違いありません。また、人生はなんとかなるという大切な教訓を実際の経験から得た人と言えるかも知れません。もう一歩踏み込んで言えば、一度失敗して帰って来た人にまたチャンスが与えられるという意味では、明治の日本は度量の大きい、なかなかおもしろい時代だったのかも知れません。成長期に人材が不足していたというのが高橋是清のような人物の登場の余地があり、低成長時代の現代と比較してもあまり意味はないかも知れないのですが、いずれにせよ、そういうおもしろい人です。

デフレの時には軍拡でインフレを起こし、インフレになると軍拡を辞めるという経済合理性という観点からは実にまっとうなことをした結果、226事件で狙われて最期を遂げてしまいます。その辺りから日本の運命は目に見えて変化していくことになります。
広告



広告

関連記事
寺内正毅内閣
第一次山本権兵衛内閣
第二次大隈重信内閣

第二次西園寺公望内閣

第二次西園寺公望内閣では、明治天皇の崩御と大正天皇の即位がありました。明治創業の天皇がいなくなったことは当時の人々の心理に様々なことが去来したのではないかと思えますし、新しい時代を予感した人も多かったかも知れません。

西園寺の政友会が衆議院の多数派で、彼が育てた原敬が貴族院にも新派を増やすことにより、わりと安定した政権になる予感もありましたが、結果的には短命な政権で終わってしまいます。

日本の内閣制度の初期では、最初は伊藤博文が政権を担当し、その後は困った時の伊藤博文という感じで何度となく彼が登場してきますが、伊藤時代がフェードアウトした後は桂太郎が行き詰まったら西園寺にバトンタッチして仕切り直しというパターンで政権が運営されていくようになります。

しかしながら、政党政治を理想とする伊藤博文とけん制し合う関係にあった山県有朋が、伊藤が暗殺された後はそれだけ存分に言いたいことが言える立場になっており、元老の権威で西園寺に軍備の増強、具体的には陸軍の二個師団の増強を要求します。高杉晋作の功山寺決起に先に着いた伊藤博文に対しては後から駆け付けた立場…的な遠慮がありましたが、もう遠慮しなくてはいけない相手はいなくなったというわけです。

西園寺は財政の観点から軍備の増強を拒否しますが、軍には憲法の規定上、天皇に直接上奏する権利があり、これを帷幄上奏権と言いますが、それを大義名分にして上原勇作陸軍大臣が辞任します。当時は内閣不一致は即総辞職ですので、第二次西園寺内閣も上原辞任を受けて総辞職という運命を辿りました。

第二次山県有朋内閣の時に導入された陸海軍大臣現役武官制が山県の期待通りの効果を発揮したとも言えますが、軍の意向が通らなければ、軍から大臣を出さないという形で内閣を崩壊させるという悪しき前例となってしまったわけです。

第二次西園寺公望政権が崩壊した後は、第三次桂太郎内閣へとバトンタッチされるのですが、政党政治を理想とする西園寺公望と、長州閥の利益を重視し陸軍の大ボスになっている桂太郎がある意味では気脈を通じ合い政権を禅譲し合う様子は如何にも奇妙です。

元老の力関係という言葉である程度の説明は可能とも思えますが、理念なき政権のたらい回しとも言え、第三次桂太郎内閣では尾崎行雄と犬養毅が脱藩閥政治を掲げて「護憲運動」なるものを展開し、それが大正政変へと向かうという流れが生まれることは十分に理解できます。大正デモクラシーの本番までもう少しです。

西園寺公望もその後は自ら首相になることはなく、悪い見方をすれば元老政治を続けて行くことになりますが、元老が自動的に議会の第一党の党首を首相に指名するという憲政の常道の道を開きつつ、政党政治家の腐敗に落胆するという悩ましい日々を送ることになり、やがて運命の近衛文麿首相指名へとつながっていきます。

スポンサーリンク

関連記事
第二次桂太郎内閣
第一次西園寺公望内閣
第四次伊藤博文内閣

第二次桂太郎内閣

第二次桂太郎内閣は3年あまり続きましたが、中身は結構濃い内閣だったと言えるかも知れません。まず明治天皇の詔書を引き出し、国家国民一致して維新創業の心を思い出せ的な発破をかけます。

日露戦争の結果、儲かった資本家もいたと思いますが地方の疲弊が激しくなっており、その辺りの不満がいろいろ出てきます。孝徳秋水の大逆事件も第二次桂太郎内閣の時に起きています。孝徳秋水が本気で明治天皇の暗殺を考えていたとはちょっと思えないのですが、天皇暗殺謀議がたとえ冗談半分とは言え半分くらいは本気で考えられていたとも言え、戦争に勝ったわりには世の中が殺伐としており、桂太郎はパワーでそういったものを押しつぶしていこうとしたように見えなくもありません。特に大逆事件では関係ないとしか思えない寺の坊さんや、金持ちの気まぐれ的に社会主義を気取って慈善活動をしていたお医者さんまで逮捕されて処刑されていますので、明らかにやりすぎで、当時の官憲の方を持つ気にはなれません。

足利尊氏と後醍醐天皇の時代は南朝と北朝のどっちが正統かという南北朝正閏問題が取り沙汰されるようになり、そんな当時から見ても500年も前のどっちでもいいようなことについて本気で議論がされるというあたり、頭でっかちなイデオロギーが歪な形で噴出しているように見えますが、これも世の中の矛盾を明治天皇の「みんな仲良く一致団結」詔書を引き出して、その威光を借りる形で物事を進めようとした結果の副作用と言えるかも知れません。更に日韓併合もこの内閣の時に押し切っていますので、本当にこの内閣が西園寺公望と気脈を通じていたのかと首を傾げざるを得ません。

第二次桂太郎内閣時代に伊藤博文がハルビンで暗殺されていますので、ある意味では重しがとれたとも言えますが、反対の見方をすれば、明治維新を実務的に引っ張った伊藤博文がいなくなったことへの不安も感じていたのではないかと思えます。

一方で小村寿太郎とタッグを組み不平等条約改正を成し遂げていますので、そこは評価して良いのではないかとも思います。条約改正に成功した裏には、日本が一人前の列強というか、帝国主義の国として認められたという面もあると言えますから、この辺り、切り離して考えるわけにはいきませんので、果たしてどう評価するかは難しいところにはなると思います。

大逆事件で揺れていた第二次桂太郎内閣は条約改正の仕事を終えると、西園寺公望と「情意統合」しているという理由で、つまり仲良しだからという理由で、西園寺公望に首相の座を譲り、第二次西園寺公望内閣が登場します。リクルート事件の「竹馬の友」をちらっと思い出さないでもありませんが、当時は桂太郎のような国権派と西園寺公望のような政党政治派が持ちつ持たれつでやっていたことが分かります。

西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通が維新第一世代とすれば、伊藤博文、山県有朋が維新第二世代と言え、桂と西園寺は維新第三世代と言ったところですが、大正デモクラシーというある種の結実の時代、原敬内閣登場の時代まではあともう少しと言ったところです。原敬内閣は民主主義の成熟や成功という意味でよく引き合いに出されますが、原敬は同時に政党政治の腐敗はどういうものかをよく示した人でもあり、国民の政党への熱が急速に冷め、西園寺も同じように冷めて軍部独裁の時代へと入って行くことになってしまいます。

スポンサーリンク

関連記事
第一次桂太郎内閣
第四次伊藤博文内閣
第二次山県有朋内閣

第一次西園寺公望内閣

西園寺公望という人物をもし、簡単にまとめて表現するならば「開明的なお公家さん」というのが適切かも知れません。戊辰戦争では実際に戦線に立ったという経験を持ち、若いころは軍人志望でしたが、後にフランス語を勉強し、パリにも10年ぐらい留学してお金も充分にもらった上での楽しい前半生を送ります。フランスで自由主義的な空気に触れたことで、社会主義的な傾向を持っていた人という印象も多少は受けますが、イギリス型立憲君主制を理想としていたと言われています。

帰国した後はぶらぶらしたり、新聞社の立ち上げに乗っかったりなどしていますが、やがて伊藤博文に見出され、おそらくはフランス語の翻訳・通訳が助かるというのも大きく働いたと思いますが、政治の世界に入って行きます。伊藤博文が立ち上げた立憲政友会の創設メンバーの一人であり、日露戦争中は長州閥の桂太郎内閣に協力しますが、日露戦争が終わった後にいわば見返りとして次の首相の座を得ます。政治家として原敬を育てますが、原敬はわりと性格が激しかったため、西園寺に詰め寄るということもあったらしく、途中から西園寺と原敬は険悪な雰囲気になったとも言われています。

第一次西園寺内閣は主たる仕事は日露戦争後のいわば新秩序の形成で、日露協約、日仏協約を結ぶことで幕末以来の不平等外交を実質的に終わらせたというのは注目に値すると言っていいかも知れません。既に保護国化していた大韓帝国に対しては韓国統監の権限強化を認めさせる第三次日韓協約を結んでおり、日本の帝国主義を一歩進めたという面もあったとすることも可能かも知れません。

当時は日露戦争の戦勝で日本の帝国主義が自信を持ち始めていた時期と重なるため、韓国を日本の植民地にするべきだという意見も出始めており、伊藤博文は保護国の状態で結構という立場で、西園寺公望としてはそのバランスをとるのに苦慮せざるを得なかったという面もあったことでしょう。

山県有朋が西園寺公望のリベラル志向を警戒して西園寺下ろしを始めたことに気づくと、西園寺はさっさと首相を辞めてしまいます。後ろ盾になってくれたであろう伊藤博文が韓国統監になって中央政治との距離があったことも陰に陽に影響していたかも知れません。

政権は再び桂太郎に移り、第二次桂太郎内閣が組織されますが、当面は西園寺と桂がキャッチボール風に政権をやりとりする桂園時代が続くことになります。

西園寺公望は政党政治の確立に積極的でしたが、昭和に入ると政党政治に絶望するようになっていき、自らの手で政党政治を終わらせていきます。


関連記事
第四次伊藤博文内閣
第二次山県有朋内閣
第一次大隈重信内閣

日露戦争をざっくりがっつりと語る

日清戦争によって日本は「やったー!朝鮮半島は日本の勢力下だ!」と一瞬湧きましたが、三国干渉で遼東半島の租借は諦めなくてはいけなくなります。李王朝の高宗と閔妃は清があまり頼りにならないということが分かると、親ロシアへと傾いていきます。朝鮮宮廷内で身の安全が確保できないと感じるとロシア公使館に避難してそこで政治を行ったりするようになります。

ロシア公使館から夫妻が戻ると、日本の兵隊やゴロツキみたいなのが集団になって朝鮮王宮に乱入し、閔妃を殺害するという常識ではとても考えられない事件が起きます。背後に在朝鮮公使の三浦梧楼がいたと言われています。当時は閔妃と大院君が本気の殺し合いをしていたので、日本軍を手引きしたのが大院君ではなかったかという説もあるようです。まず第一に日本の兵隊は閔妃の顔を知らないので女官に紛れると誰が閔妃なのか分かりません。閔妃の写真とされるものがあったという説もありますが、過去に閔妃の写真であったと言われていたものほは現在では別人のものだとも考えられるようになっており、大院君の手引きがなければ閔妃の殺害は難しかったのではないかということらしいです。いたましい事件であることは間違いありませんので、あんまり適当なことは言えませんが、いずれにせよ閔妃は亡くなってしまい、朝鮮の親ロシア派の勢力が大きく打撃を受けることになります。

ロシアは朝鮮半島各地に軍事拠点を作り始め、李鴻章を抱き込んで露清鉄道を建設し、大連まで引き込んでくるということになり、シベリア鉄道の複線化工事にも着手され、それらの鉄道網が完成すればヨーロッパからいくらでも兵隊と武器を運べるようになりますので、こうなっては日本は手出しができなくなるとの焦りが日本側に生じます。

小村寿太郎がイギリスと話をつけて日英同盟を結びます。これはどちらかの国がどこかの国と戦争になった場合は中立を守るという、「同盟」と呼ぶわりにはパンチ力に欠ける内容で、日本とロシアが戦争することを前提に、イギリスはロシアと戦争しなくてすむという免責事項みたいなものですが、日本とイギリスが同盟関係にあるということは有形無形に日露戦争で優位に働きます。

日本とロシアの交渉で、北緯39度を境に朝鮮半島を日本とロシアで分け合うという提案がされますが、ロシア側は難色を示します。ニコライ二世が皇太子時代に日本を訪問した際に巡査に殺されそうになったことで、日本嫌いが強かったという説もありますが、開戦ぎりぎり直前にニコライ二世から明治天皇に宛てて譲歩の意思を示す親書を送るはずが極東総督が握りつぶしたという話もあり、ちょっとはっきりしません。

戦争はまず日本側が旅順のロシア旅順艦隊に砲撃を浴びせるという形で始まります。児玉源太郎は朝鮮半島に上陸した後に北進して満州にいたクロパトキン軍を全滅させてヨーロッパから援軍が来る前に講和に持ち込むという構想を持っていたようですが、想定外の難題が持ち上がります。

日本の連合艦隊が旅順港を包囲していましたが、ヨーロッパからロシアバルチック艦隊が出撃し、半年くらいで日本まで攻めて来るということになり、連合艦隊は旅順艦隊とバルチック艦隊の挟み撃ちに遭う恐れが生じ、早期に旅順艦隊を叩きたいのだけれど旅順艦隊は旅順港に閉じこもって出て来ない、日清戦争の時に北洋艦隊の母港を陸戦で攻略したのを同じように旅順を攻略してほしいと言う話が湧いて出ます。連合艦隊が挟み撃ちに遭って全滅したら、対馬海峡の制海権がロシア側に移りますので、兵站が途切れてしまい、大陸の日本軍は立ち枯れして日本終了のお知らせになってしまいます。ちなみに清は局外中立を宣言し、好きにしてくれわしゃ知らんという立場を採ります。

ロシアは旅順港を取り巻く山々に堅固なコンクリートの要塞を築いていましたが、児玉源太郎は別に放っておけばいいと思っていて、旅順要塞の攻略をあまり重視しておらず、乃木希典の第三軍を送り込んだものの「突撃でばーっとやったら旅順要塞も陥落するだろう」という甘い考えで対処します。

気の毒なのは乃木希典の方で、コンクリートと機関銃でがちがちに固めてあるところに「突撃でばーっとやって、何とかしろ」と言われたのでその通りにやってみたら大量に戦死者が出るという展開になってしまいます。普通に考えてそれは無理というもので、司馬遼太郎さんは乃木希典が無能だったからだという観点から『坂の上の雲』を描きましたが、私は乃木希典が悪いというよりも「突撃でばーっとやれ」と言った児玉源太郎の方に問題があるのではないかというように私には思えます。

旅順要塞そのものを獲れるかどうかは戦略的な観点からははっきり言えばどちらでもよく、どこか一か所でもいいから旅順港が見える高台を奪取して砲撃で旅順艦隊を撃滅するのがいいということが分かって来たので、乃木希典の第三軍は旅順港を望見できる203高地に攻撃の軸足を変えます。ここもなかなか手ごわいですが、内地から送られてきた巨大な大砲でバンバン撃ち込みながら兵隊もどんどん突撃させて、味方の弾で兵隊がちょっとぐらい死んでもいいという無慈悲な作戦では203高地はようやく陥落。旅順艦隊を砲撃して同艦隊は全滅します。連合艦隊はこれで安心して佐世保に帰り、艦隊をきちんと修理してバルチック艦隊との決戦に臨むことになります。

次の問題はバルチック艦隊がどのルートで来るのかよくわからないということで、対馬海峡ルート、津軽海峡ルート、宗谷海峡ルートが想定され、討ち漏らしたら大変だと秋山真之参謀はのたうち回るように悩み抜きますが、バルチック艦隊のような巨大な船の集団が安全に通ろうと思えば充分な深さと幅のある対馬海峡を選ぶに違いなく、ここは東郷平八郎長官の見立てが正しかったと思えます。

有名な日本海海戦は秋山参謀の考えた丁字作戦でバルチック艦隊を全滅させたということになっていますが、最近の研究ではどうもぐねぐねに回りこんだりしていたようです。いずれにせよ稀に見る圧勝で海の方は心配なくなります。

陸の方では奉天の会戦でクロパトキンのロシア軍が北へと撤退します。日本が勝ったというよりもクロパトキン的には日本をどんどん北へおびきよせて兵站を疲れさせるという作戦で、日本軍が疲れ切るころにはヨーロッパからも兵隊がどっさり来て日本軍全滅でやっぱり日本終了のお知らせになるという予定でしたし、実際、奉天会戦で日本軍は疲れ切り大砲の弾もろくに残っていないという状態になってしまいます。

弾がないということがバレる前に何とか講和しないと、繰り返しになりますが日本終了のお知らせになるのですが、伊藤博文が金子堅太郎をアメリカに送り込み、セオドアルーズベルトに頼み込んで講和の仲介をしてもらえることになり、ポーツマス会議が行われます。

ポーツマス条約では賠償金はもらえませんでしたが、ここで戦争が終わっただけでも御の字で「賠償金が獲れてない!」と新聞が煽ったことで日比谷焼き討ち事件が起きますが、それは無理難題というものです。

このように見ていくと、現場の努力が多大であったことは間違いないないと思いますが、戦争が更に長期化していれば、日本軍の全滅は必至だったと言えること、高橋是がアメリカとイギリスで公債を売りまくって借金まみれで財政的にも限界が見えていたこともあり、アメリカとイギリスが日本に対して好意的で、戦争がやめられるように話をつけさせてくれたという天祐のおかげで体裁上「勝てた」ということが分かってきます。運が良かったからと言うこともできますが、そこが神話化されて後の世代では太平洋戦争が行われることになりますので、勝って兜の緒を締めよという意味のことを秋山真之が述べていますが、実際、その通りだということを40年後に身を以て示すことになってしまいます。
広告



広告

関連記事
日清戦争の「勝因」
元寇の「勝因」
第一次桂太郎内閣

第一次桂太郎内閣

桂太郎は戊辰戦争に参加したいわば歴戦の勇士みたいな人ですが、維新後短期ドイツに留学し、帰国後に大尉クラスで陸軍に入り、山県有朋派で軍歴を積んだ人です。

第四次伊藤博文内閣が政党政治運営をしようとして行き詰まり、次の首相の成り手がいない中で「桂にでもやらせよう」みたいなノリで首相に選ばれますが、結果としては政治の世界の世代交代につながった上に、桂太郎と西園寺公望が交代で首相になるという桂西時代を作っていくことにもなります。

発足当初は伊藤博文の立憲政友会が議会で小村寿太郎に協力しないというまさかの嫌がらせにも遭っており、よく見てみると伊藤と山県のつばぜりあいの道具に桂が使われていた側面があったようにも思えます。桂は立憲政友会側の西園寺公望を次の首相に推すという密約をすることで、政局をどうにか乗り切ったと言われており、桂と西園寺の仲介をしたのが原敬だという話もあるようです。

桂太郎内閣では小村寿太郎が外務大臣になり、日英同盟の締結に成功した他、日露戦争でも勝利し、小村寿太郎がポーツマス条約でどうにかぎりぎり日本が勝ったと言える内容に持ち込んだと言うのも桂太郎内閣の功績と言えるかも知れません。

日英同盟が結ばれたのは、ロシアの東洋進出を妨害したいイギリスと進出される側の日本の思惑が一致したからと言えますが、当時から火中の栗を日本が拾わされるのだという揶揄もあったものの、日清戦争が始まると議会が一致して伊藤博文に協力するという展開になったこともあったように、結果としては対外戦争によって国が一致団結し政権が国内的に安定するという効果があったように見え、そういう意味では明治憲法時代の内閣には潜在的に戦争を許容するというか、場合によっては戦争で内閣が延命できるという無言の法則ができたというような、戦争に親和性の高い内閣が作られやすくなっていったという側面あったのではないかという気がしないわけでもありません。

日露戦争では局地戦では日本が連戦連勝と言っていい成果を収めたものの、ポーツマス条約ではいろいろ難航してしまい、南樺太という当初は両国民雑居の地として主権が曖昧だったところを日本がどうにか手に入れることができた他、日清戦争によって得た当然の権益をロシアに横取りされたと当時の人が考えていた遼東半島の租借権を得ただけで、賠償金はなしということで話を収めたことから、桂太郎に非難が集まり、というか新聞が煽って市民が激昂して日比谷焼き討ち事件も起きて、桂太郎は西園寺公望に首相の座を譲ることになります。ただ、その後は桂と西園寺が交代で政権を担うようになり、伊藤・山県時代が少しずつ終わっていくことになります。


関連記事
第二次山県有朋内閣
第一次大隈重信内閣
第三次伊藤博文内閣

第四次伊藤博文内閣

政府が議会を抑えなくては物事を前に進めることができないと悟った伊藤博文たちが立憲政友会という政党を立ち上げたのに対し、「人気投票で選ばれた政党政治家に権力が運営できるものか」と考える超然内閣思想の山県有朋が「やれるものならやってみな」という形で伊藤博文に下駄を預けて始まったのが第四次伊藤博文内閣です。

伊藤博文の立場からすれば、政党政治が本当にできるかどうかの実験してみるという要素が強かったでしょうし、明治天皇と伊藤博文はある種の盟友関係にあったと私は思いますので、明治天皇も不安だったのではないかと思えます。

第四次伊藤博文内閣ではさっそく井上薫の大蔵大臣人事で紛糾し、星亨が収賄疑惑で逓信大臣を辞任させられるという、なかなかに踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂的な展開を見せて行きます。衆議院は伊藤の立憲政友会が過半数を抑えていましたので予算を通過させることができましたが、貴族院の方で予算が通りません。予算に関しては衆議院に先議権があり、貴族院で予算が通らないというのは必ずしも内閣の致命傷になるとは言い難いですが、貴族院はその性質上、政党政治には不賛成な立場であり、明治維新の元勲であるはずの伊藤博文が政党政治志向に切り替えたことへの反発があり、ある種の嫌がらせみたいな状態になってしまったと言えます。

そこへ鉄道公債問題が浮上してきます。政友会の政治家たちはもっと急いで鉄道を作ってほしいとせっついてきます。自分の選挙区に鉄道を伸ばしてほしいのです。今と同じです。井上薫の大蔵委大臣人事をご破算にさせて大蔵委大臣のポストに収まった渡辺国武が財政緊縮派の人で、当時は鉄道建設は全て鉄道公債で費用が捻出されていましたが、「今後は公債による鉄道建設は不可(鉄道は当面は作らない)」と言い出して紛糾します。無駄な公共インフラは慎まれなければいけませんが、必要なインフラはやらなくてはいけません。現代のインフラ整備に関する議論と全く同じものを見ている気がしてしまい「100年前から何も変わっていないのか…」とちょっとため息をつきたくなります。

事態の収拾に限界を感じた伊藤博文は首相を辞任。井上薫を次の首相にするという話が持ち上がりましたが、井上薫は大蔵大臣に渋沢栄一を、陸軍大臣に桂太郎を据える人事を構想したものの両者に断られ、首相就任を辞退します。結果、桂太郎が元老たちから推薦され、第一次桂太郎内閣という長期政権が登場することになります。


関連記事
第二次山県有朋内閣
第三次伊藤博文内閣
第一次大隈重信内閣

第二次山県有朋内閣

第一次大隈重信内閣が内部崩壊同然の形で終了し、山県有朋が再び首相の座に就くことになります。困った時の伊藤博文は「ちょっとしばらく自由にやらせてほしい」感が強く、薩摩閥の首相は絶対こけるという経験則みたいなのがなんとなく積まれてきて、政党政治家に首相をさせると、おそらくは当時の感覚としては「やっぱり…(現代の感覚としては政党政治家が首相になるのは当然ですが)」という失望感があって、残っているのは山県か…という消去法的な感じだったのではという気がしなくもありません。

山県は薩長が日本のエスタブリッシュメントになって「愚民どもを導いてやる」という意識の強い人だったようですので、内閣は当然議会におもねらない超然内閣。思想的な運動や労働運動の集会に規制をかける治安警察法を通したり、一番やってはいけない軍部大臣現役武官制を導入したりと、日本帝国滅亡の種を懇切丁寧に蒔いた人と言えなくもないように思います。

しかし、そのような内閣では議会とうまくいくはずがありません。議会がごねれば予算が通らないという重い代償がついてきます。これはやはり内閣に協力する与党がどうしても必要だという認識が生まれ、まあ、ようやく理解したのかという感じですが、伊藤博文を総裁にした立憲政友会が星亨や金子堅太郎たちと一緒に立ち上げられるという展開になります。地主、資本家、三井財閥などがその支持層ということだったらしいので、戦後の自民党みたいなものだとも言えるように思います。

明治天皇はそんなの作って大丈夫なのかと不安に感じたようなのですが、そういう疑問を持つというのは、やはり薩長エスタブリッシュメントが日本をリードするのがあるべき姿だと信じていたという証左と言えるかも知れません。

トクヴィルが『アメリカの民主政治』という本で、責任の重い政治家が国民の人気取りに忙殺されることへの疑義を呈していましたが、おそらくは当時の政府の内側の人たちにも「国民の頭を下げて、おべんちゃらを言うことばかり考えている人間に政治ができるか」と思っていたのかも知れません。立憲政友会の発足には貴族院も反発していたようです。

とはいえ、投票によって選ばれた政治家が責任を負うというのが民主主義の基本理念ですので、そこは乗り越えなければならない壁であり、まあ、そこは何とか乗り越えて、やがて原敬のような人も登場してくることになります。

山県有朋は立憲政友会を作った伊藤博文に対して「政党政治、やれるものならやってみな」という感じで伊藤を四度目の首相に据える形で首相の座から降りることになります。

広告



広告

関連記事
第三次伊藤博文内閣
第二次松方正義内閣
第二次伊藤博文内閣

第一次大隈重信内閣

第一次大隈重信内閣は議会が騒ぎに騒ぎ立てて明治政府から妥協を引き出して成立した内閣と言えます。

ただし、日本の憲政史上初の政党内閣と位置付けられることに意義を見出すこともできますし、初の非薩長内閣という意味でも評価できるかも知れません。非薩長で冷遇されていた人たちは喝采したかも知れません。

しかしながら、政党内での足の引きずり合いに忙しく、目ぼしい成果を挙げることのないままこの内閣は短命で終わってしまいます。大隈重信の進歩党と板垣退助の自由党が合併して憲政党という巨大な政党をいったんは作り上げますが、主としてポスト争いが要因となって旧進歩系と旧自由系の間で亀裂が生じます。首相の大隈系より内相の板垣系の方が人数が多いので、板垣系は現代風に言えば与党内野党で、大隈はいきなり少数派閥の領袖みたいな感じになっていきます。なんだか今とあんまり変わらない感じです。

「おしとおる」のニックネームを持つ星亨が外相のポストを得られなかったことで大隈重信を降ろしにかかります。尾崎行雄が「日本がもし共和政治の国になってもアメリカみたいに人徳のある人が大統領になるのではなく、どのみち財閥の大金持ちが大統領になるだろう」とおそらくはリンカーンを念頭に置いた演説をしたことが「不敬になる」という言葉の綾的な揚げ足取り的批判を浴び、尾崎行雄が文相を辞任。星亨が憲政党の分裂工作に走ることで、こりゃもうだめだと数か月で大隈重信内閣は瓦解します。

権謀術策と金権とポスト争いという見事なまでに悪い部分がばーっと見えて来る歴史の一場面とも言えますが、なんとなく星亨が小沢一郎さんに見えてきます。

この辺りまでの経験から、議会が政権の味方をしなければ政策は通らない、即ち議会がどうであろうと内閣は内閣だとする超然主義は通用しないということが分かってきたことにより、事実上首相の指名権を持つ元老は議会の第一党の党首を自動的に首相に推薦するという「憲政の常道」が確立していくことになりますが、議会政治はその後も権謀術策の歴史が続きますので、憲政の常道を始めた当の本人である西園寺公望が後には議会の工作に嫌気がさして議会人以外を首相に指名するようになり、憲政の常道は概念としては今も生きているとは言えますが、実質的に有効に運用された期間はそんなに長くはありませんでした。

確かに書いていてもうんざりしてしまいそうな展開だったわけですが、大隈内閣の次に誕生した第二次山県有朋内閣では、再び超然内閣を目指します。それを山県有朋の個人的な権力に対する意見や感じ方、性格などの面から説明することも可能でしょうし、実際に政党政治家に政治をやらせてみたらうまくいかないということが証明されたことで、その反動が起きたと説明することも可能かも知れません。

広告



広告

関連記事
第三次伊藤博文内閣
第二次松方正義内閣
第二次伊藤博文内閣