台湾近現代史17 台湾民主国

1895年、日清戦争の戦況が日本有利で進展し、北洋艦隊が威海衛で降伏すると、日清双方で講和の機会が探られます。双方ともに欧米の介入に脅威を感じており、そうなる前に停戦したかったというのが本音のようです。もっとも、日本サイドでは連戦連勝が報じられ、北京まで侵入し直隷決戦に持ち込むべしと豪語する人もいたようですが、そんなことをすれば広大な中国大陸の追いかけっこで双方ともに疲弊し果て、運が悪ければ両方ともロシアなりアメリカなりイギリスなりに分割されて飲み込まれていたでしょうから、早めの手打ちが正解です。

伊藤博文、陸奥宗光が李鴻章を下関に招いて結ばれた下関条約により台湾は日本に割譲されることになりましたが、台湾現地では異を唱える人々が台湾民主国を宣言します。後に清の近代化に力を尽くす張之洞と唐景崧が協議して共和国の体裁で建国を宣言し、唐景崧が初代大統領(中国語では総統)に選ばれます。これをして東アジア最初の共和国と見做す向きもあるようですが、その前に榎本武揚らが北海道で蝦夷共和国を作り、榎本が互選により総裁に選ばれていますので、日本の事例の方が先にあるとも言えます。尤も、更にその前にボルネオ島で客家人による共和政体が存在していましたので、それを認めるとすれば、東アジアで共和国を最初に作ったのは客家人ということもできそうです。

外務大臣にフランス留学帰りの陳季同を任用し、各国領事にその建国を宣言しますが、各国領事からの承認を得ることはありませんでした(蝦夷共和国では各国領事から「交戦団体」として認定されています。尤も、正式な承認ではなく現地の領事が便宜的な裁量によって認定したものです)。

台湾民主国では実際に国旗、紙幣、郵便切手がデザインされましたが、主権を象徴するこれらの品物をさっと考案するあたり、確かに西洋通の人物たちが計画したに違いなしと思えます。

このようにして始動した台湾民主国ですが、現実問題として樺山資紀率いる日本軍が台湾を受け取りに来るわけですから、抵抗戦争をせざるを得ません。まだ清朝の官僚である李経芳と日本側との間で接受式が行われていないにも関わらず、はやる日本軍が上陸を開始しています。

台湾民主国では抵抗体制を固めるとともに、議会を開設し、当時台湾一の富豪と言われた林維源を(林爽文事件の時に巨富を成した板橋林家の出身)議長に任じますが、林維源はこれを拒否。巨額の献金をした後、厦門へと脱出します。手切れ金ということだったのかも知れません。

肝心の唐景崧も公金を抱えて脱走し、一旦ここで台湾民主国は頓挫したかに見えます。

しかし、台南で清仏戦争の英雄の劉永福が第二代大統領に選出します。これをして台南共和制または第二共和政と呼ぶ人もいるようです。台湾民主国による抵抗は続きましたが、同年10月に日本軍が台南市を包囲。劉永福が中国大陸へ脱出して台湾民主国は瓦解します。

21世紀に入ってから制作された映画『セデック・バレ』でもこの時の様子は描かれていますが、漢人と原住民の人々が協力していたらしき形跡は特にみられず、台湾民主国と霧社事件を同一のシークエンスと捉えることには疑問も沸きますが、太平洋戦争を経験した日本人としては海外に領土を持つことの難しさをよく示しているという点では通じるものもあるかも知れません。石橋湛山流の「小日本主義」の方が、恨まれずに済んだ分、日本人にとってはよかったかも知れないとも思えます。

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日清戦争の「勝因」

李氏朝鮮王朝への影響力の拡大を目指す日本は、李王朝が長らく朝貢していた清との対決を覚悟していくようになります。ごく個人的な意見ですが、明治初期から日本では「征韓論」が湧いては消えていくので、よちよち歩きの新政府が外国に攻めて行くという発想事態がよく理解できませんし、朝鮮半島、遼東半島、南満州へと利権を拡大したことがやがては日本帝国の滅亡へとつながっていきますので、短期的には良かったかも知れませんが長期的には大陸進出は怪我の素と言えなくもない気がします。

それはともかく、日本はまず李王朝が清朝に朝貢するという伝統的なスタイルを保とうとすることを嫌がり、なんだかんだと楔を打ち込んでいこうとしますが、福沢諭吉の金玉均の明治維新をモデルとした改革を目指したクーデターに絡んだ第一回目の軍事衝突は日本側の敗退で終わります。これで落胆としたいうか、憤慨したというか、すっかり嫌になってしまった福沢諭吉が『脱亜論』を時事新報に掲載するという流れになります。

この結果、天津条約が結ばれますが、日本敗者として交渉に臨まざるを得なかったものの、今後は朝鮮半島に出兵する際には日清が同時に出兵するという何故か不思議と日本に有利な取り決めがなされ、後日に発生した東学党の乱では李王朝が鎮圧のために清に軍の派遣を要請すると、天津条約を盾に日本軍も出兵します。両軍本気の出兵ですので、一触即発、開戦必至の状況に至ります。

日本軍は宣戦布告前に朝鮮王宮を占拠するという、はっきり言えば暴挙に出たと私は思いますが、その後に清に宣戦を布告し、正式に戦争状態に入ります。宣戦布告の前に朝鮮王宮を占拠した動機としては、清に宣戦布告すると李王朝も一緒に日本に宣戦布告する可能性もあり、アクターが2対1になることを恐れ、それを阻止するのが狙いだったのではないかと思えます。

清は兵隊の数では文句なしですし、大砲はドイツのクルップ社から買った鉄製の大砲が標準装備。それに対して日本軍は国産の青銅の大砲です。鉄の大砲の方が丈夫ですので、射程距離も伸びやすく、ぶっちゃけ清の圧倒的有利です。よくこの状態で伊藤博文は戦争をやる気になったものだと首を傾げてたくならなくもありません。しかも国内では衆議院選挙の真っ最中、対外戦争が起きれば国内がまとまった政局的にも有利という判断はあり得ますが、ちょっと方向性を間違えれば全部瓦解しますので、博打も博打。大博打です。

ところがいざ戦端が開かれると各地で日本軍が圧勝します。どこへ行っても激戦があった翌日には清軍が撤退しているというのが続きます。袁世凱が決戦を避けたからだという説明もありますが、私個人としてはこれは袁世凱の深刻なサボタージュだと思えます。温存した兵力を結局は辛亥革命に使いますので、この人一体何なんだというか、内部にこんなのがいれば、そりゃあ勝てません。大事な時に裏切る兵隊100万人よりどこまでもついてきてくれる200人です。

海戦では結論としてはなかなか勝負がつきません。当時の北洋艦隊は定遠と鎮遠というこれもドイツ製の世界最大最新の戦艦を二隻持っていましたが、日本の連合艦隊はそもそも戦艦がありません。速力と操艦技術で北洋艦隊は撤退しますが、よくもまあこんな海戦をやるつもりになったなあと驚愕します。

その後北洋艦隊が閉じこもってしまい、じっと我慢の包囲作戦になるわけですが、陸戦で日本軍が旅順、威海衛を陥落させたことでいよいよ講和という話になっていきます。陸軍部内には北京まで行って直隷決戦を主張する人もいたようですが、そんなことをすれば光緒帝は熱河、更にどっか遠くへと避難して、そのうち日本軍の兵站が疲弊してしまうという日中戦争と同じ展開になってしまいますので、直隷決戦をやらなくて本当に良かったです。

このように見ていくと清の陸海軍ともに戦意に乏しかったことが日本の勝因であり、そこには李鴻章が戦力を温存した状態で列強の介入による講和という筋書きがあったとも言われますが、頼みにする予定の列強の介入がなされる前に決着がついたわけで、李鴻章の読みが外れたとも言え、敵失という天祐で戦争に勝てたのだということが分かります。

日露戦争も天祐だらけで第一世界大戦も日本だけにとっては天祐みたいな棚ぼた的な展開を見せますが、日本は天祐で勝利を重ねることができたということをだんだん理解できなくなっていった人たちが運命の太平洋戦争に突入したとも言えますので、確かに勝ったことは勝ったわけですが、素直に喜ぶわけにもいかない複雑な心境で見ざるを得ない日本帝国のデビュー戦です。
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第二次伊藤博文内閣

松方正義が立ち往生する形で辞任した後を受け、伊藤博文は陸奥宗光、大山巌、黒田清隆山県有朋ら重鎮を閣僚として集めたいわばドリームチーム内閣を目指します。

しかし、当時は議院内閣制ではないため、議会の方は反政府で勢いづいており、政権運営はそう簡単なものではなかったようです。陸奥宗光が列強との不平等条約の改正に尽力していましたが、議会の反政府政党からは全面的な平等条約以外は認められないとの突き上げがあり、じょじょに妥協していくならともかく、安政の五か国条約を一挙に完全平等にするというのはハードルが高すぎて不可能とも言えますので、議会で官側の政党が少数派であったこともあり、早々に行き詰まりを見せて伊藤博文は衆議院の解散に打って出ます。

反政府と見られた各会派は政府の圧力によって議席を伸ばすことができなかった一方で、伊藤との連携の可能性を含んでいた自由党は議席を120まで伸ばします。一方で政府系政党は議席を激減させますが、自由党と合わせれば過半数を抑えられるというところまで持っていきます。政府の圧力で議席が伸びたり伸びなかったりするあたり、相当に裏とか闇とかそういった深かったに違いなく、現代の我々の価値観から言えばおよそ公正とはほど遠い選挙が行われていたに違いないことを伺わせるものです。

野党各派は自由党の星亨攻撃に狙いを定め、旧中村藩主の相馬家のお家騒動で星亨が贈収賄に絡んだという疑いで責めあげられ、衆議院議長不信任案が可決し、伊藤博文は更にもう一度衆議院の解散の挙に出ます。与党が少数だと何も決まらないという見本みたいなことが繰り返されている感が強いです。

ところがこの選挙期間中に日清戦争が勃発し(選挙期間中を狙って伊藤が始めた)、広島で臨時に行われた帝国議会では各会派一致して日清戦争を支持します。

第二次伊藤内閣を語る上で日清戦争は欠かせませんが、陸戦では連戦連勝、開戦の方では軍艦の大きさの違いが日清双方では歴然としており清の北洋艦隊の圧倒的優位のはずでしたが、関門海峡で幕府軍と接近戦をした経験がものを言ったのか、黄海海戦でも接近戦と小回りの利く動きで北洋艦隊は威海衛に撤退します。日本海軍が威海衛を包囲していたところで陸軍が陸伝いに威海衛を制圧し、北洋艦隊は降伏。提督の汝昌が自決するという展開を見せます。

陸奥宗光と共に李鴻章と交渉した下関条約で日本の勝利が確定し、台湾の領有、遼東半島の租借、賠償金二億テールという交渉面でも完全勝利を収め、第二次伊藤博文内閣はそれまでバタバタと倒れていた黒田、山県、松方の政権と比べて長期の政権運営に成功します。

議会の協力がなければ政権運営はできないと悟った伊藤博文は黒田清隆以来の議会と政府は別であるとする超然主義を捨て、自由党の板垣退助と進歩党の大隈重信を閣内に取り込んで挙国一致状態を戦後も続けようとしますが、板垣退助と大隈重信が宿敵化して激しく対立し、伊藤はこりゃ無理だと判断して辞任へと至ります。

いろいろ裏が真っ黒であるにせよ、議会の存在感を政府が理解するようになったという点では日本の民主主義がそれだけ前進したと考えることもでき、そういう意味では憲政の常道への一歩を踏み出したという意義をこの内閣から見出すことも可能なように思います。

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