時代劇映画『十三人の刺客』の新しいvirと古いvir



江戸時代後期、前の将軍の息子にして現将軍の弟というやたらと血筋のいい明石藩の松平のお殿様があまりに性格が残虐すぎるために老中幕閣により暗殺が決定され、旗本を中心にした13人の暗殺部隊が動員、今風に言えばkeyresolve的に実行し、見事打ち取るという映画があります。史実とある程度重なる部分があり、ある程度違う部分があるらしいので、実際の歴史はちょっと忘れて物語に集中して考えたいと思います。個人的にはお殿様がおかしな人である場合、わざわざ暗殺部隊を送らなくても幕閣と大名の家臣が結託して殿ご乱心で座敷牢という流れでOkなのではないかとも思いますが、それでは映画になりませんから、まあ、大袈裟に切ったはったになるわけです。しかし、とてもおもしろいです。

2010年の新しいバージョンでは狂気の殿様の役は稲垣吾郎さんがやってます。自分で自分が狂ってるという自覚があって、「世の中が血で血を洗う戦乱になったらいいなあ」という願望を持つような、かなりいってしまっている人です。で、幕府から密命を帯びた13人の男たちが参勤交代の行列を待ち受け、策を用いて既定のルートを通れなくしてしまい、待ち伏せして袋小路に追い込み打ち取るわけですが、稲垣吾郎は最期に「こんなに楽しい日はなかった。礼を言う」と言って死んでいきます。悪い奴もそれなりに絵になるというパターンで仕上がっています。印象に残ったのは、お家のためと命がけでお殿様を守る明石藩士の顔がほとんど画面に映らないことです。旅装をして笠を被っていますから顔が見えにくいというのはあるでしょうけれど、ばたばた殺されていく端役の人たちの個性はあんまり見えないようにしたほうが演出的にいいという判断があったのかも知れません。

新しいバージョンの刺客たちの首領は役所広司さんがやってます。

もう一つ古い1965年のバージョンがあります。時代劇の巨匠、工藤栄一さんが監督しています。この映画では凶器のお殿様は自分の命は普通の人と同様に惜しいけれど、他人の命はそうではない、ただのわがままぼんぼんという感じになってます。で、おもしろいのは13人の暗殺部隊の首領と、明石藩の重役の頭脳戦みたいなところがかなりおもしろく描かれています。まあ、ちょっと忠臣蔵の頭脳戦の描き方に近いような気がしなくもありません。というか、多分、それなりにそういったことも意識していたのかも知れません。で、大勢の明石藩士が死にゆくわけですが、わりと顔がよく映っていて、襲われる側も殿を守るために必死という感じが伝わってきます。襲われる側の気持ちもよく理解できるというか、私はそっちに感情移入してしあい、ああ、気の毒だと思いながら見入ってしまったので、非常にエネルギーを使いましたが、観る側にエネルギーを使わせるのも映画の力量ですから、凄い映画だと私は素直に思いました。日本の時代劇映画は世界を席巻し、多くの才能に影響を与えていますが、時代劇を見れば見るほどそりゃそうだ、おもしろすぎると納得します。

古いバージョンは片岡千恵蔵が首領をやってます。

原田眞人監督『関ケ原』の2人の女性の愛

原田眞人監督の『関ケ原』、観てきました。原田監督は「男にとって女性とは何か」を考え抜き、それが作品の内容に反映されていると私には思えます。で、どういう視点になるかというと、男性は女性に愛されなければ生きていけない(ある意味では独立性のない)存在であると規定し、女性から愛されるとどうなるか、愛されなければどうなのか、ということを問いかけてきます。たとえば『自由恋愛』では圧倒的な経済力にものを言わせて2人の女性を手に入れたトヨエツが、最後、女性たちに見放され悲しく退場していくのと対照的に女性たちは女性たちだけで存分に輝く世界が描かれます。『クライマーズハイ』では、妻に愛されなかった新聞記者が、妻以外の女性に愛され、後輩女性記者とは恋愛感情抜き(潜在的には恋愛感情はあるが、顕在化しない状態)で仕事に向き合います。

『関ケ原』では、石田三成を愛する伊賀くノ一の初音と徳川家康を愛する、これもはやはり伊賀のくノ一の蛇白(だったと思う)の2人は同じ伊賀人でありつつ、敵と味方に分かれるという設定になっています。石田三成を美化するスタンスで描かれ、徳川家康のタヌキぶりを強調する感じで描かれていますが、純粋で真っ直ぐな石田三成は行方不明になった初音を思いつつ、戦いに敗れて刑場へと向かいますが、その途上で初音が現れ、あたかも関係者でもなんでもないふりをして軽く会釈をします。石田三成と初音はプラトニックな関係ですが、その分、清潔感があり、石田三成という人物のやはり純粋さを描き切ったように感じられます。生きているということを見せるために彼女は現れたわけですが、石田三成は彼女の無事を知り、安心して刑場へと送られていきます。『ラセーヌの星』というアニメでマリーアントワネットが2人の子供が脱出できたことを知り、安心して刑場へと向かったのと個人的にはダブります。

一方で、徳川家康は話し上手で女性を魅了することも得意です。関ケ原の合戦の最中に陣中に現れた刺客に対し、白蛇が命がけで家康を守ろうとしますが、家康は彼女と刺客をまとめて切り殺してしまいます。原田作品ファンとしては、たとえ時代物映画であったとしても「女性を殺す」というのは最低の行為ということはすぐに察することができますから、家康という人物の悲劇性が描かれているというか、家康が自分の命のためには自分を愛した女性をためらいなく殺してしまう悲しい人生をおくった男という位置づけになるのではないかと思います。

徳川家康は役所広司さんが演じていますが、悪い奴に徹した描かれ方で、多分、この映画のためだと思いますが、全力で太っており、ルックス的にも悪い奴感が全開になっており、監督の求めに応じて役作りをしたこの人は凄い人だとつくづく思えてきます。

原作を読んだことがなかったので、すぐに書店に行き、原作を買い、現在読んでいるところですが、原作と映画にはかなりの違いがありますし、原田監督としては原作を越えた原田色をしっかり出すということを意識したでしょうから、原作と映画の両方に触れてしっかり楽しむというのがお勧めと思います。

原田監督の作品は、分からない人には分からなくていいというスタンスで作られているため、予備知識がないとなんのことか分からない場面や台詞がたくさん出てきます。私も一部、ちょっとよく分からない部分がありましたが、それはみる側の勉強不足に起因していることになりますから、原作を読んだり、他にもいろいろ勉強してまた映画を観て、そういうことか、と納得するのもありかも知れません。

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宮崎駿『風立ちぬ』の倫理と愛のエゴイズム

今更ながら、『風立ちぬ』について考えてみたいと思います。この作品は、徹頭徹尾、主人公(まず間違いなく、宮崎駿さんの完全なる投影)のエゴイズムが描かれています。エゴイズムを完全にやり切ったらここまで美しくなるということを証明したとも言っていいほどに美しい映画です。なぜかくも美しいのかと言えば、主人公が他人のことを一切考えず、自分のエゴイズムを貫徹したからであり、いかに生きるかということを考える上でも格好の材料とも言える作品と思います。

主人公の堀越二郎は高い倫理観を持っています。この作品の美しさを支えているのは彼の倫理観の高さによると言ってもいいかも知れません。もちろん作画もすばらしく、音楽もきれいなのですが、観る人が堀越二郎のように自分の好きなことにしか関心のない人物に感情移入できるのは、彼が高い倫理観に基づいて行動していることに尽きるのではないかと思います。彼の倫理観は弱い者に対しては優しくするで透徹されており、たとえばいじめられている下級生を見かければ助けますし、関東大震災で菜穂子さんとお絹が罹災した際には、背負って歩き、救援を求め、一切が終われば恩着せがましいところを一切見せずにさっていきます。気持ちいいまでに親切です。しかし、それは例えば倫理や道徳の教育を訓練を受けたり、あるいは自己教育や鍛錬、修養などによって身に着けた優しさや親切さとは違うものです。そもそもの性格として弱い者を助けたいという欲求持っており、弱い者を見かけたら本能に従って助けているだけであり、広い意味ではエゴイズムを満たしているに過ぎず、作者の宮崎駿さんは意図的にそのような人物にしています。堀越二郎は仕事帰りに雑貨屋さんみたいなところで「シベリア」というカステラみたいなお菓子を買いますが、近くの電柱の下で帰りの遅い親を待つ貧しそうな三人兄弟を見かけます。いかにも弱く、社会的な弱者に見え、彼はその本能的欲求したがって彼らに親切にしたいと思い、彼らにシベリアをあげようとします。しかし、一番上の女の子がそれを拒絶し、姉と弟はそこから走って逃げていきます。わざわざこのようなシークエンスが入れこまれている理由は、堀越二郎が深い思索や鍛錬の末に親切な人間になったのではなく、弱い者に親切にして自分が満足を得たいというエゴイズムを実践しているのであるということを宮崎駿さんが観客に教えるためであったのだと私は確信しています。

堀越二郎のエゴイズムは仕事でも発揮されます。仕事をすれば周辺で何が起きているか全然気づかなくなるほどに没頭します。服部課長が来ても気づきません。話しかけられても気づきません。技術者ですから、もちろんそれはそれでよく、仕事ができるという意味で堀越は重宝されますし、服部さんは堀越を大事にします。しかし、服部さんは堀越二郎に人間的な愛情は持ってはいません。堀越二郎に特高警察の捜査の手が伸びた時、服部さんは「会社は君を全力で守る」と言いますが、続けて「君が役に立つ人間である間は」とも付け足します。日本ではかつて愛社精神などという言葉が流行し、組織や構成員は人間愛によって結ばれていることを強調する精神がありましたが、堀越と服部課長の間にそのような人間愛はありません。服部課長は堀越の技術だけを必要としており、堀越もそれで満足しています。堀越も会社から愛されることをそもそも必要としておらず、飛行機の設計という仕事さえさせてもらえれば充分に、あるいは十二分に満足であり、ウエットなものはむしろ邪魔であり、完璧なwin-winが成立しています。

堀越の徹底したエゴイズムは菜穂子さんとの愛情関係に於いても遺憾なく発揮されます。結核という当時としては死に至る病におかされていた菜穂子さんは療養所を脱出して堀越二郎に会いに行きます。本来であれば、療養所に返すのが筋というものですが、堀越は菜穂子さんを帰さずに妻として迎えます。このことに対し、上司の黒川さんだけが彼に「それは君のエゴイズムではないのか」と本質をつくのですが、堀越は否定せず「覚悟はしています」と言ってのけ、黒川も納得します。これはもちろん価値観の問題で、菜穂子さんに少しでも長く生きてほしいと思えば療養所に帰ってもらうのがベストですが、命を縮めてでも愛する人との短い時間に人生の幸福を凝縮させるというのもまた一つの考え方です。ですから、良い悪いを超えたところにはなってしまいますし、もちろん菜穂子さんというパートナーの願望もあって成立することではありますけれど、堀越本人はそれが自分のエゴイズムによる帰結であることを否定せず、平然として疑問すら抱かない姿を宮崎さんは描きたかったのだと思います。

ここでエゴイズムはどこまで正当化し得るのかという問題に突き当たります。堀越二郎は飛行機を作りたいだけであり、天下国家には関心がありません。送られてきた新しい資材を包んだ新聞紙にははっきりとわかるように上海事変と書いてありますが、そのような新聞報道には一切関心を持たず堀越はその資材だけに関心を向けています。しかし堀越が作る飛行機が実際に上海を爆撃し、重慶を爆撃し、真珠湾を爆撃し、多くの特攻隊員もまた堀越の設計した飛行機で死んでいきます。しかしそれは堀越の関心の外ということになります。堀越の同期が「俺たちは武器商人じゃない。飛行機を作っているんだ」と言い、堀越は沈黙でそれに同意を示しますが、自分のエゴイズムのもたらす帰結についてすら関心がないということもそのシークエンスで表現されています。結果としては菜穂子さんの死期を早めることになってしまったことも堀越は覚悟の上であり、透徹したエゴイズムのためには払わなければならない犠牲であるということを彼本人も理解しているわけです。堀越が菜穂子さんの寝床の隣で仕事をするとき、たばこが吸いたくなりますが、菜穂子さんが「ここで吸って」と頼むので、堀越はたばこを我慢することなく、そこで吸います。エゴイストであるがゆえに仕事と愛とたばこを吸いたいという欲望のすべてを満たすことが可能になるのであり、おいしいところを全部持っていく様は見事としか言いようがありません。

しかし、この映画の最後の最後で、堀越もまたその責任を負わなくてはいけなくなることが明らかになります。菜穂子さんはいよいよ病状が深刻になるということを悟り、一人黙って療養所へと帰ります。そこにある種の死の美学があり、ある意味では菜穂子さんのエゴイズムとも言えますが、菜穂子さんがんだ後、最後の場面で「あなた生きて」と堀越に言います。堀越には生きるという罰が与えられ、菜穂子さんのように人生を美しく仕上げるということが許されません。堀越の作った飛行機のために多くの人が死に、最後は日本が滅亡します。亡国の民として、亡国の責任者の一人として、恥ずべき敗戦国民として「生きろ」と命じられたわけです。

この作品では恥ずべき後半生の堀越の姿は描かれません。そこは観客の想像に任されることにならざるを得ず、作品では飽くまでも堀越のエゴイズムのピーク、絶頂期、美しい部分だけを特段に強調し、全力で美化して描かれています。意図してそうしているわけです。

私はこの作品を繰り返し観て、そのたびに深く感動しました。それは音楽が美しいからであり、作画が美しいからであり、堀越と菜穂子さんの短いながらも人生をかけた愛が美しいからであり、同時にエゴイズムを徹底して貫くことにも美しさを感じたからです。

そのように思えば、男は仕事ができてなんぼであり、仕事さえできればいくらでもエゴイズムは貫けるのだというわりと古典的な結論に落ち着くようにも思え、それはまさしく宮崎駿が仕事に打ち込む人生を他者に見せることで証明しているのだとも思えます。

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『この世界の片隅に』と『瀬戸内少年野球団』

『この世界の片隅に』の評判があまりにいいので観てきました。多くの人が言っているように、映画が終わった瞬間、この映画をどう理解していいのかが分からなくなってしまいます。凄かったことは間違いないのですが、明確な「泣かせどころ」があるわけではなく、すずさんの心の変化に気づくことはいろいろありますが、「ここが見どころ」というものがあるわけでもなく、でも感動的で、私の場合は涙が二すじほどすっと流れました。隣の席の人はほとんど号泣です。

時代背景は太平洋戦争ですから、「戦争もの」に区分することも可能ですが、空襲のシーンはもちろんあるものの、空襲がメインというわけでもありません。実はギャグ満載であり、「戦時下の銃後の生活をメインにしたギャグ漫画映画」に『今日のねこ村さん』なみのほのぼのした感じが加えられ、『じゃりン子チエ』を連想させるちょっとコミカルな感じで描かれる人々、確信犯的なすずさんの天然キャラが全部入れ込まれているにもかかわらず、全く無理を感じず、原子爆弾という重いテーマも、それは重いことなのだと感じることができる、普通に考えればあり得ないような映画です。すずさんの声は確かにのんさん以外にはあり得ず、私にはこの映画のために彼女は生まれてきたのではないかとすら思えます。

戦時下の日常をたんたんと生き、生活の窮乏もたんたんと受け入れる人々の姿が静かで圧倒的です。時々ポエティックな場面があり、それはすずさんの心の中で起きている現象を表現しているのだと私は思いますが、それ以外の場面が極めてリアルに描かれているために、三文詩人のような安さは生まれず、ポエティックな場面を文字通り詩的に受け取ることができます。ギャグもしかりで、ギャグの場面以外がめちゃめちゃしっかりしているので、ギャグを入れ込まれてくると笑うしかなくなってしまいます。そして静かに一人また一人と大切な人がいなくなっていく現象に薄ら寒い恐怖も覚えます。これは原作も読まなくてはいけなくなってしまいました。

個人的には私の祖父が連合艦隊の人で呉で終戦を迎えていますので、私の祖父もこういう光景を見ていたのだろうかという感慨もありました。

終戦のラジオ放送の場面では、一緒に聴いていた人たちが「そうか、敗けたのか」と、これもまた淡々と受け入れる中、すずさんだけが号泣し、「最後の一人まで戦うつもりじゃなかったのか。なぜここであきらめるのか」と叫びます。周囲の人からは「はいはい(あなたは天然だからすぐ感情が昂るのよねえ)」といなされますが、私はあのラジオ放送ですずさんみたいな感じた人は実は意外と多かったのではないかと想像していて、戦後、それを口にするのは憚られていてあまり語られなかったのではないかというようなことを、ふと思いました。

さて、物語は戦後も少し描かれますが、アメリカ軍の兵隊からチョコレートをもらったり、配給でアメリカ軍の残飯ぞうすいをもらったりして、がらっと変わった新しい日常を、人々はまたしても淡々と受け入れます。

アメリカ軍が来て、チョコレートをばら撒いて、人々が敗戦の傷から少しずつ立ち直って生きる姿は『瀬戸内少年野球団』を連想させます。この作品では敗戦があったとしても、それでも今を生きる人々のたくましさを感じることができると同時に、ヒロインの女の子のお父さんが戦争犯罪人で処刑されるなど、戦争に敗けるとはどういうことかをじわっと観客に問いかけています。

『瀬戸内少年野球団』の風景は、屈辱的ではあるけれど、それが戦後日本の出発点で、後世の人にもそれを忘れないでほしいという願いをこめて制作されたものだと私は思いますし、私は世代的にぎりぎりどうにか、そういう貧しかった日本の印象を記憶の片隅には残っていて、この映画のメッセージ性にぐっとくるところがあったのですが、『この世界の片隅に』は『瀬戸内少年野球団』より少し前の時代から時間的シークエンスを描いており、その描こうとしたところは実は同じものなのではないかという気がしてきます。

もし、これら二つの作品を連続して観ることができれば、ある意味では現代日本の原風景とも呼びうるものを感じることができるのではないかなあとも思えます。

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『かもめ食堂』で「明日、シナモンロールを作りましょうか」がジーンと来る場面だと気づいた件

フィンランドで小林聡美さんが経営している食堂を手伝うことになった片桐はいりが、妙に空回り気味なやる気を出してしまい、お店のメインメニューのおにぎりにトナカイ、ザリガニ、ニシンの具を入れたらフィンランド人の客にウケるのではないかと提案し、小林聡美さんが渋々受け入れる場面があります。

試しに作ってみたものの、明らかな失敗作で、しかも片桐はいりさんは小林聡美さんのお店のコンセプトに挑戦したとも言える場面で、人間関係的に微妙な空気が漂います。その日の夜、小林聡美さんが就寝儀礼のように毎日行っている合気道の膝行の練習中に片桐はいりさんがお邪魔して「私にも膝行を教えてください」と言ってきます。小林聡美さんは快諾し、二人で膝行の練習をしますが、片桐はいりさんには膝行の経験なく、全く様になりません。そこで小林聡美さんが「明日、シナモンロールを作りましょうか」と提案します。小林聡美さんの心中を想像してみると、「そうかあ、私との人間関係を良くしたいと思って膝行を習いに来たのかあ、しおらしいなあ、客が店に全然来ないというのは確かだし、何か新しい手をうたないといけないという片桐はいりさんの意見も決して間違っていたわけでもないしなあ、なんかやった方がいいというのも確かだしなあ、あ、シナモンロール」という心の動きがあったと拝察できます。

片桐はいりさんの目的は膝行を習うことではなくて、小林聡美さんとの関係修復なのですが、その気持ちが嬉しいなあと思わせて、小林聡美さんのどこかにあったかたまりがほぐれて、シナモンロールというアイデアが化学反応的に生まれる場面です。

シナモンロールを作ってみたら、それまで外で見ていただけのフィンランド人のおばさま三人組がお店に入ってきてコーヒーとシナモンロールを注文します。客が入り始めた、お店が機能し始めた感動的な瞬間です。

そのように思うと、人間万事塞翁が馬みたいな感じの展開で、最初、片桐はいりさんの新しいおにぎりの具のアイデアは小林さとみさんにとってははっきり言えばちょっとうっとおしいというか、「こんな人に店を手伝ってもらうことは本当に良かったのか、やっぱりせっかく自分の店を出したんだから、自分の好きなようにしたいのに、もしかして、この人、無駄におせっかいの多い人かも」と思ったものの、結果としてはシナモンロールというアイデアが誕生して、お客を呼び込むことになったわけで、その最初の一歩である片桐はいりさんのちょっと空回り気味なやる気は全然無駄ではなく、有効だった、二人で新しいものを作りだすための感動的な展開だったということが分かります。

やっぱり評価されている映画は何回見ても気づくものがあります。『ゴッドファーザー』を何回も繰り返してみるとモーグリーンに関心を持つようになったりするのと同じことかも知れません。

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『かもめ食堂』を学生にみせた話
『かもめ食堂』の覚悟と孤独と救い

『かもめ食堂』を学生にみせた話

時々、学生に小林聡美さんの『かもめ食堂』を見てもらいます。毎年一回は必ず見せているので、私も結果としては何度となく見ることになってしまいました。何度も観ると、映画のもう少し深いところも見えてきます。また学生の反応から、気づかなかったことに気づくこともできます。何度も同じ映画を観ることは大切なことです。細部に込められた演出の工夫にも気づきやすくなりますし、そういったことを積み重ねることで、物語を作った人が込めた「映画の心」が見えて来ることが時々あります。

わざわざフィンランドまで来て食堂を経営する小林聡美さんにも必ずなんらかの事情があるはずです。映画の冒頭で家庭環境について少し述べられていますが、その事情とは、小林聡美さんと母親とのことまで遡ることなのかも知れません。

かもめ食堂を手伝う片桐はいりさんも、「どうしても」な事情があったから、目をつむって指でさした場所がフィンランドだったというだけでフィンランドに来ています。そこに語られざるいろいろな過去、おそらくは悲痛な過去があったに違いありませんが、それは観客は想像するしかありません。

もたいまさこさんは過去20年間ご両親の介護に捧げてようやく自由な身になったというわけで、お金は遺産とか生命保険とかが充分に入ってきたので、さあ、これから自分の人生を…と思うものの、何をやっていいかはよくわからないという感じです。

三人の日本人の女性がどのような過去と事情を持ったとしても、それが具体的に現在進行形で描かれるということはありません。その役割は、小林聡美さんたちからはゆったりのんびりとしているように見えるフィンランド人が背負います。コーヒーショップの経営に失敗して奥さんと娘とも離れてくらすことになってしまった40代くらいの男性、理由もなく旦那に出て行かれ、丑の刻参りでもするしかない中年の女性、友達が全然いない日本おたくの若者の男性など、彼、彼女たちの悲しみや喪失感は現在進行形であり、生きることの辛さや悲しさを日本人の登場人物の前にさらけ出しています。フィンランドに行けば自分の問題は解決するかも…という甘い日本人の期待は、実際のフィンランド人の人生の生老病死の悲しみについて聞かされることで砕かれてしまいます。はっきりと砕かれたというみせ方はしていませんが、よく見ればわかります。「どこへ行っても悲しい人は悲しいし、寂しい人は寂しいんじゃないんですか」という言葉に集約されているのかも知れません。

孤独を覚悟し、受け入れてかもめ食堂を経営する小林聡美さんの姿は凛としていて絵になります。何にも甘えず、自分のできることをやるという姿勢で臨んだ食堂が満席になったからこそ、プールで見ず知らずの人から拍手されるという祝福の場面の挿入されるのではないかと思います。

事情を抱えながら凛として自分のやりたいことに臨み、成功を収めるというのは相当な人生修行の末にようやくなされることのようにも思え、映画の中の小林聡美さんはそういう粋に達しているようにも見えます。人生を考える上で深みのある映画と思います。私もまた来年学生にみせることで、また新しい気づきを得られるかも知れないと思えます。そういう映画です。

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北野武監督『ソナチネ』のタナトス

北野武さんの映画の多くはタナトス感全開ですが、『ソナチネ』は特にそれが加速しているというか、主人公が死ぬために長い長いエピローグで構成されているとも言えそうな作品です。

北野映画では大抵の場合主人公が最後に死にますが、この映画死ななくてはいけない特別な理由がないにもかかわらず最後に自ら命を絶つため、タナトスへの欲求が際立って強く前面に出ているように思えます。『HANA-BI』では、奥さんが不治の病で未来への希望が感じられないために最後に死を選ぶというのは、良いか悪いかは別にして、観る側に対する説得材料があると言えますが、『ソナチネ』の場合はヤクザの抗争の全体の枠組みとしては罠に嵌められて梯子を外された形になりますし、仲間が順番に殺されていき最後は事実上一人になるという事情はありますが、個々の戦闘では主人公が連戦連勝しており、最後の復讐戦でも勝利していますので、物理的にも生きることを選ぶことは十分に可能であるにもかかわらず、何故か自ら死を選びます。

何故、勝利を収めておきながら死ぬことを選ぶのか、様々な議論が可能でしょうけれど、映画の中で「あんまり死ぬのが怖いと思っていると死にたくなる」という台詞がもしかすると回答の一つになるかも知れません。主人公は実際には生を強く願っていて、その願いが強すぎるためにかえって生きることが負担になり、生きるというゲームから抜けたくなるということなのかも知れません。

この映画でも時間を持て余す「兄ちゃん」たちが、よく遊びます。素朴な遊びです。沖縄のヤクザの抗争の行先が見えず、受け入れ先のヤクザでも対処に困り、東京から遠征してきた主人公たちはどことも知れない景色の美しい沖縄の海辺で何も起きない日々を送ります。紙相撲をやってみたり、浜辺で相撲をとってみたり、落とし穴を作ってみたり、花火もやるし、踊りもやります。男だけの世界で子どもに帰って遊ぶのは北野作品の真骨頂とも言うべきもので、『Brother』でも主人公たちはバスケットボールとかしてよく遊びますし、『菊次郎の夏』はもはや遊んでいる場面を撮ることがだけが目的で作った作品なのではないかとすら思えてきます。その様子は本当に楽しそうで、幸福そうで、北野武という人が人生で何を一番楽しいと思っているかが伝わってくるようにも感じられます。

ただし、上に挙げた作品で主人公が死なないのは『菊次郎の夏』だけで、それ以外は最後に殺されるか自殺するかしています。観方によってはそのような映画ばかり作るというのは奇妙というか、不気味ですらあると言ってもいいと思いますし、そのような不気味さと良い年の男たちがじゃれ合うように遊ぶ姿のアンバランスさが作品の魅力になっているとも思えます。

『Brother』の場合も、最後は敢えて敵のイタリアマフィアのボスを逃がし、自分の居場所を明らかにすることで狙わせていますので、ほぼ自ら死ぬことを選んだと言ってよく「自決」という言葉はもしかすると相当に監督の頭の中を占めているのかも知れません。

フロイトの言うように、人は誰しもが「生」への執着が強いだけ「死」への欲求が強いのだとすれば、生きることを享受したいという思いが強ければ強いほど、死ぬしかなくなるのかも知れません。そういう意味では、北野映画で主人公が死ぬことは虚無とは全く逆のベクトルを向いた帰結と捉えることも可能なのかも知れません。

北野作品では登場する人の多くが憂いを帯びた表情をしており、アドレナリン出まくりのバイオレンス映画とはそこで一線を画しているのではないかとも思えます。時々、幸福そうな笑顔だけを担当する人が登場しますが、何も考えない生きているだけで幸福とも言えそうなその笑顔がかえって観客に不安を感じさせ、漂う不安感が魅力となって人を惹きつけるということも言えるのではないかと思います。

さらにもう一つ付け加えると、北野作品では台詞が一つ一つ丁寧にはっきり発音されており、発話者が不満を持っているのか、それとも不安を感じているのか、怒っているのか、喜んでいるのかよく分かるように作られていると思えます。そういう意味では様々な解釈がされる北野映画ですが、監督の表現したいことはちゃんと分かるように、はっきりと表現されているため、答えは自ずと出ていると言えるかも知れません。

あー、最後にもう一個言うと、とにかく音楽が素敵です。久石譲さんですから、ジブリなみの美しい音楽です。ジブリ作品ではかわいい女の子が出てきて久石譲さんの音楽で引き立ちますが、北野作品では人殺しかヤクザをバックにこの美しい音楽が流れます。そしてそれが、やたらと絵にになる。あるいは絵になるような気にさせられるというのは、やはり演出の勝利ということかも知れません。

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映画『台湾人生』の日本語世代と向き合えるか

酒井充子監督が何度も台湾を訪れ、台湾の日本語世代に何度なくインタビューを重ねて制作されたドキュメンタリー映画です。太平洋戦争が終わる前に「日本帝国」の一部だった台湾で生まれ、日本語を学び、戦争が終わって日本から置き去りにされ、中国人になるつもりもない、そういう時代のエアポケットに入ってしまった人たちと言っていいかも知れません。

もちろん今の若い台湾の人たちは日本人に置き去りにされたという感覚は持っていません。ただ、『海角7号』が観客に訴えかけるのは、そういう日本語世代の風景であり、若い人はそこに自分のおじいちゃん、おばあちゃんの物語を見出すことができ、記録的なヒットになったのではないかなあと思います。通常、おじいちゃん、おばあちゃんというのは優しい存在です。それが「台湾人の温もり」的な価値観と合うために、台湾で共感する人が多いのだという気がするのです。

さて、それはそうとして、この『台湾人生』という映画に登場する人物の中で、一人、大変激怒されるご老人がいらっしゃいます。日本が戦争に負けて引き揚げて行った後、国民党がやってきますが、現地人と国民党との紛糾が激化した228事件が起こります(『非情城市』という有名な映画がありますが、あの映画も228事件を知らないと何のことか分かりません)。当時、そのご老人は新聞記者で、取材に行った話をされていましたが、その後の白色テロにより弟さんが銃殺されたという重い過去を背負っています。インタビューの最初の方では普通に、おだやかに話しておられたご老人ですが、後半ではいきなりかっとなり、「なぜ、日本人は私たちを見捨てたのか!」と詰め寄るようにカメラを見つめて言葉を荒げるのです。

私たちは戦後、太平洋戦争で日本が負けることで、多くの周辺の地域や国々が日本からの圧迫から解放されたと学習していますので、このご老人の「何故、日本人は私たちを見捨てたのか」という詰問を一瞬、うまく飲み込むことができません。そんなことを言われるのは想定外です。ただ、司馬遼太郎さんが台湾を訪問した時に同様の質問をご婦人から受けて返答に窮したということを書き残していますし、邱永漢氏が亡命生活のことを短い小説形式にし、居場所のない私たちを日本政府は見捨てるのか?と投げかけています。

そしてついに、私たち日本人は、彼らの問いに対してまともに答えることができないまま、今日を迎えています。李登輝さんはまだお元気ですが、日本語世代と呼ばれる人たちは李登輝さんより少し若い世代くらいまでなので、若くても80歳を過ぎてます。最近は人間は長生きするようになってきたので、この世代が簡単にいなくなるとも思いませんが、そういう人たちに対して、どう応答するべきかについては、もしかすると私たち日本人はそれなりの責任を負っているのかも知れません。ただ、それについては全く考えてこなかった歴史があるので、私はああするべきだ、とか、こうするべきだ、と簡単に言うことができません。そういう人たちが存在していて、私たちと同時代を共有しているこを知ること、知ろうとすることが大切かも知れません。向き合うことができるかと言い換えてもいいかも知れません。この映画を観れば、その第一歩になりそうに思います。

私、酒井監督に二度お会いしたことがあります。先方は覚えてくれてないかなぁ…。

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台湾映画・エドワードヤン監督『牯嶺街少年殺人事件』の牯嶺街に行った話

映画『BOX~袴田事件 命とは~』と報道

袴田事件は昭和の冤罪事件として大変に知られています。事件そのものは残酷で、犯人逮捕を急がなければ世論が警察を叩くというプレッシャーの中で、自白の強要と証拠のねつ造が行われたと考えられています。現在は袴田さんは自由の身ですが40年間、多くの人が冤罪を疑う中、獄中に閉じ込められ、日々、刑の執行の恐怖に晒されていたというのは、取返しがつかない以外の言葉がありません。私は個人的には「本当の犯人はあの人なのではないかな」という人がいますが、その方はもう亡くなられています。多分、多くの人が「あの人ではないかな」と思っている、その人です。

当時、判決文を書いた裁判官の人が「無罪だと確信しながら有罪の死刑判決を書いた」と証言したことで、袴田さんの事件は大きな転機を迎えたと思います。勇気を持って証言したことを称賛する人もいると思いますが、私は個人的には「なぜもっと早く証言しなかったのか」と疑問を感じます。合議制の他の2人の裁判官が亡くなったから証言したとのことですが、そのような社会的地位のある人の立場を守るという理由だけで、何も悪いことをしていない人が40年間も拘置所に入れられて毎日刑の執行に怯える日々を送ることを見ぬふりをしていたということを、私には上手に納得することができません。それでも証言しないよりは絶対にいいですから、袴田さんが自由になれたことはよかったと思います。

袴田さんの事件の場合、いろいろな疑問点が既に提示されてはいますが、犯行時に来ていたズボンが味噌だるに隠してあって、味噌に浸かっていたからズボンが縮み、袴田さんのサイズに合わないという判断がまかり通るというのが私には特に理解することができません。

ここには報道の問題もあると思います。新聞には証拠調べに関することがほとんど報道されません。初公判、論告、判決くらいしか記事になりません。それだけの情報では読者には判断ができません。公開裁判の原則はありますが、しょっちゅう足を運べるわけでもありません。新聞には証拠調べの記事を書いてほしいです。新聞記者は発表会見に出る以外は囲み、または夜討ち朝駆けでリーク集めをするのが仕事ですが、検証をすることがありません。検証できる体制ではないというのもあると思いますが、検証できる方法も考えるべきです。だめなのかな…。

袴田さんが自由になった時、コンビニに並ぶ新聞の見出しを見て「おーっ」と思い、毎日新聞を買ったのを今も記憶に残っています。

萩原聖人さんが当該の裁判官の役をしています。この人はいい人の役も悪い人の役もどっちも様になるので、凄い人だと思います。

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新藤兼人監督『北斎漫画』の情熱の人生

緒方拳さんが主人公の葛飾北斎をやっています。まだ若くて力強くて男臭い緒方拳です。元々は名のある富裕な職人の養子でしたが絵をやりたいという一心で家を飛び出し、貧乏暮らしです。娘のお栄(田中裕子)と二人で暮らしていて、とんがらし売りなどをやって歩いたりするものの、生活はよくなりません。葛飾北斎みたいなタイプは絵を描く以外に何もできないので、それを貫くしかないのです。

そのうち評判があがり、極端に大きな絵を描いたり、逆に米粒に絵を描いてみせたりして派手なこともやりますが、気の強い性格が災いし、友人の十返舎一九も鶴屋南北も北斎から離れて行きます。

前半は若いころの情熱的で引っ込みのつかない、走り出したら止まらない様子が描かれますが、後半では老境に入った北斎の姿が描かれます。緒方拳もとんでもなく老けた役をしています。地方から口利き屋を通してアシスタントを雇ったりしますが、もう、そのアシスタントの女性を口説くエネルギーもありません。ただ、女性の裸体画をたくさん書いた北斎はこの女性をモデルに絵を描くことを思いつき、女性も描かれることによって内面の何かが芽生えるという、人間の深淵に迫ろうとする場面もあります。

個人的には老境に達した北斎もお栄も一緒に童謡を歌う場面が好きで、人間愛に満ちていて、みんな幸せそうで、あの場面のことだけは何度となく思い出します。忘れることができません。人の幸せはそういう一瞬に現れ出てくるものかも知れません。

時代は既に幕末直前、ほぼ幕末で、江戸後期は江戸文化が爛熟を迎える時期ですから、もしあの当時、江戸に生まれていたら結構、おもしろかったかも知れません。金持ちに生まれるか貧乏に生まれるかで違いが出そうですが、とても興味深い時代のように思います。

お栄の作とされる絵が原宿の太田記念美術館に保存されていて、明暗を意識した洋画みたいなおもしろい絵なのですが、ゴッホとの関連性を指摘する人もいます。日本は日本で西洋の影響を受けるようになり、ヨーロッパはヨーロッパでジャポニズムの波が始まろうとしている時代だと思うと、更に好奇心が刺激され、ああ、あの時代にちょっと行ってみたいと思ってみることもあります。

葛飾北斎の絵は世界で高く評価され、ハワイの美術館にも神奈川沖波裏が展示されているのを見たことがあります。当時の日本人にとって浮世絵は珍しくもなんともない、今で言えばカレンダーかチラシくらいの扱いだったみたいな感じで、輸出する漆器の包み紙に使われていたところ、西洋人は漆器よりも包み紙に興味を持ち、今となっては海外の美術館で展示されるのですから、時代が変わればいろいろなことが変わるものです。

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