和辻哲郎の『アフリカの文化』論

和辻哲郎は1937年に『思想』という雑誌で、『アフリカの文化』という文章を発表した。フロベニウスの『アフリカの文化史』という書物を引き合いに出し、アフリカには「合目的的、峻厳、構造的」な文明が存在していたことを日本人に紹介している。

アフリカの歴史は古く、たとえばエチオピアには2000年以上続いた皇帝国家があったことは知られているが、ヨーロッパで文明が発達するより遥か以前から精緻な構造物や文化体系が存在したというのである。それを破壊したのは大航海時代のヨーロッパ諸国で、古くから存在したアフリカの文物を破壊し尽くし、プランテーション農業を普及させた。和辻哲郎の言葉を借りれば、そのような貧しいアフリカイメージは「ヨーロッパの作り事」であるらしい。

アフリカ人が迷信の偶像崇拝の文化にすがり、進歩しようとしないというのも全くの嘘で、植民地化、プランテーション化によって旧来のものが破壊された結果、貧しく、「ヨーロッパ商人に寄生する」アフリカ人社会が創造されてしまったというのである。アフリカの古くからある高い文明性については大航海時代の初期の征服者たちは気づいていたものの、次第に忘れ去られ、やがてはディズレイリがヨーロッパという巨大大陸を自分の足でまたぐような風刺画で表現される、ヨーロッパに支配され、教育され、文明をもたらされる側の立場に立たされるようになってしまったというわけだ。呪術を信じ、非文明的なアフリカ人というイメージは奴隷商人によって利用され、非文明人なので(場合によっては人間より動物に近いという観念すら持って)、アメリカ大陸に奴隷として人身売買されることの罪悪感は消し去られ正当化された。

19世紀の冒険家たちがアフリカの奥地に足を踏み入れることにより、まだヨーロッパの支配が及ばない地域へ行った際、そこで完成された美しく豊かで合理性のある文明的なアフリカ人の姿を発見したのだという。フロベニウスが1906年にアフリカ探検旅行に行った際には、上に述べたような完成されたアフリカ社会が残された地域があり、その文明の度合いの高さに驚いたという。

和辻哲郎がこの文章で述べていることは、サイードが『オリエンタリズム』で主張したことと相当程度に重複していると言える。サイードはアラブ世界がヨーロッパ人が勝手に自分たちの好きなようにアラブ人の姿を描いたと主張しているのに対し、和辻哲郎はそれと同様のことがアフリカ人に対して行われたと、サイードがオリエンタリズムを書く何十年も前に指摘していたということになる。

もっとも、和辻がこのような文章を発表した背景には、当時の日本人が欧米人に対して劣等感を持っていたことと無関係ではないだろう。何事も欧米が進歩しており、日本で完成された文化や歴史を捨て去ることが果たして正しいのかという問いを彼は『アフリカの文化』という文章で発したのである。この文章が発表された時期は既に日中戦争が始まっている時期で、欧米社会からの日本に対する批判は厳しかった。それら批判に対する心理的な反抗がこの文章の持つ性格の一面であるが、サイードより40年も前に同様の指摘をしていることは重要と思えるので、ここで紹介しておきたいと思った。



リチャード・ストーリィ『超国家主義の心理と行動』の日本帝国滅亡必然説

リチャード・ストーリィなる人物はイギリス生まれの学者さんなのですが、過去、日本がなにゆえに帝国主義に邁進し、滅亡したかを実証的に研究したのが『超国家主義の心理と行動』という著作です。原文の英語のタイトルは「Double patriot」となっていますが、ここで言うダブルとは二重という意味ではなくて、二倍という意味、普通より二倍の濃さを持った愛国主義というイメージなのだそうです。

玄洋社の頭山満のような、アジア主義者が民間で広がり、彼らが軍人とつながって拡大主義が台頭するというのを延々と様々な資料を用いて述べています。『西園寺公望と政局』のような資料も用いていますので、日本人であれば彼の研究を後追いして裏取りをするのも可能と思います。

面白いのは226から日中戦争あたりの記述で、重要なファクターとして石原莞爾が登場します。226事件皇道派が一掃された後に、石原莞爾が陸軍の大物たちを裏で操り、対ソビエト戦に備えた国家構想を抱き、実現しようとしていた一方で、陸軍内部では統制派が登場し、彼らが日中戦争にのめり込んでいきます。いつ、どこで誰が何を話し合ったのかを克明に再現しており、研究というよりは取材の集積みたいになっています。

当初は民間の運動に注目していますが、後半はほとんど政治の中枢、政局のドラマで、ナチスと同盟をしたいグループとそうでないグループとの相克、昭和天皇が狂信的愛国者を嫌っていたという点で狂信的愛国者は大きな矛盾をはらんでいたが、木戸内大臣が昭和天皇さえ守ればいいという覚悟で彼らを適当にスルーしていく様子、政治家たちが暗殺を恐れて軍をコントロールできなくなる様子等々が非常に詳しく書かれています。記述は真珠湾攻撃の直前までなされていますが、日本は北進論と南進論で分裂したいたものの、北進すればソビエト連邦との戦争は必至、南進すればアメリカとの戦争は必至、どう転んでもナチス滅亡も必至だったため、対ソ戦であろうと対米戦であろうと「日本にとって破滅に終わるという点で、まったく変わるところはなかったのである」と書かれています。滅亡まで「国家主義運動は走り切った」とも書いてあるため、一旦暴走した愛国主義は滅亡まで突き進むしかなかったのだと言うことも示唆しています。

特徴を上げるとすれば、原則として東京裁判で事実認定されたことをベースにしており、そういう意味では昭和天皇に対してはあまり批判的ではなく、一方で軍や愛国主義者に対しては冷たい視線が維持されています。ヨーロッパ人が日本の軍国主義を書くとどうなるかということがよく分かる一冊と言えます。


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昭和史71‐植民地と総力戦

日中戦争が泥沼化していく中、植民地では志願兵制が導入されていきます。私の手元の資料では植民地の人の健康管理、体力増進をやたら強調していますので、将来的には徴兵制に対応できるように整えようとしていた意図があったようにも思えます。

朝鮮半島での志願兵制は少し早かったようですが、昭和17年には台湾でも志願兵制が施行されることになり、それに先駆けて皇民報公会なるものも組織されることになったと、手元にある資料の昭和16年7月1日付の号で述べています。

で、この皇民報公会が何をするのかというと、台湾全島民を組織化し、皇民化を徹底し、お国へのご奉公をいつでもやれる組織にするということらしく、これまで「総力戦」という言葉は何度も当該資料で出てきましたが、ここにきてそれを実際にやろうというわけです。とはいえ、既に経済警察が置かれて経済の仕組みは統制経済、近衛文麿が大政翼賛会を作って政治的にも政党政治が死に絶え、蒋介石との戦争に莫大な戦費を使っていますから、とっくの昔に総力戦は始まっているとも言えますし、もうちょっとつっこんだことを言うとすれば、全島民ということですから女性、子供、老人も組織化するとしても、一体、それが戦争にどういう役に立つのか私にはちょっとよく理解できませんし、そういうことをやろうとするというのは日本帝国に焦りがあったことの証明のようにも思えます。

台湾は南進論の拠点と位置づけられており、当時既に東南アジア進出(侵略?)は既定路線になっていたわけが、当時、それらの地域はほぼ全域が欧米の植民地だったので、欧米諸国と戦争するつもりが充分にあったということも分かります。当該の号では、アメリカ、イギリスの民主主義・自由主義の体制に対抗して民族生存の戦いが行われるという趣旨のことが書かれてありますから、やなりわりと早い段階でアメリカとの戦争は想定されていたと言えると思いますが、一方でよく知られているように、中央ではぎりぎりまで本当にアメリカと戦争するべきかどうかで悩みぬき、憔悴していたとすら言える印象がありますし、ぎりぎりのところで近衛文麿が思いとどまろうとして東条英機の反発に遭い、首相の座を投げ出すあたり、政治家は迷っていたけれど、官僚は準備万端整えつつあったと見てもいいのかも知れません。もちろん、官僚は目の前の仕事に力を尽くしたのだと思いますが、大局的な判断するべき閣僚たちが右往左往の状態に陥っていたと見るべきなのかも知れません。

ここは想像になりますが、中央の意思決定関係者たち(政局関係者たち)、軍、官僚、植民地官僚、外交官がそれぞれにある人はアメリカとの戦争は困ると言い、ある人は蒋介石打倒のためなら世界を相手に戦争すると言い、ある人は戦争以外の手段で東南アジアを自分たちのブロックを確立しようとし、全体としては大東亜共栄圏という国策がある以上、周囲との軋轢、摩擦、対立は避けられないとも思えるものの、その国策はやめてしまおうという勇気のある人はいなかった。それが結果としては滅亡への悲劇につながったのではないかという気がします。


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昭和史68‐日満華共同宣言

昭和15年11月30日、日満華共同宣言というものが出されます。同日、南京で日華基本条約も結ばれています。ここで言う「華」とは、汪兆銘政権のことを指します。当該の共同宣言では、日本と満州国、汪兆銘の中華民国の相互承認及び日満華経済ブロックの確立、更に防共をうたっているわけですが、私の手元にあるとある情報機関の昭和16年1月1日号(新年号)では、当該情報機関がその後の展開をどう考えていたかがよく分かる(つまり、日本帝国の考えていた方向性がよく分かる)記事がありましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。

当該の記事では日満華は「共同の理想」があるとし、その共同の理想とは「アジア人によるアジアの解放」であり、「大東亜広域共栄圏」の確立としています。「大東亜共栄圏」ではなく、「大東亜広域共栄圏」としているあたり、いわゆる大東亜共栄圏構想がまだはっきりとは定まっていない、手探りの段階だったことを示すのではないかとも思えてきます。

続いて、当該の記事では日本と蒋介石政権との戦争は単にその二つの勢力の戦いではなく、蒋介石を支援する英米を中心とした列強との闘いであるとも強調されています。即ち、遅くとも昭和16年初頭の段階で日本帝国は世界を敵にして戦う決意を固めつつあったということが見えてきます。言うまでもないことですが、世界を敵にして戦って勝てるわけがありませんから、その後、日本帝国が滅亡の過程を辿って行ったのは当然の帰結と言うことができるかも知れません。当該記事ではフィリピンに於いてアメリカの航空勢力が拡充されている点に警戒感を示し、オランダ領インドネシアでは排日運動が盛んになって、嫌がらせされていることへの嫌悪感も書かれており、やはり世界を相手に戦争をする気がまんまんであったということが分かります。

もちろん、このように強気の姿勢で事態に臨むことができたのは日本にはドイツのアドルフヒトラーがついているということが自信の根拠となっていたわけなのですが、さすがにアドルフヒトラーと組むという悪手を選んでしまったことに、21世紀の現代を生きる日本人としてはがっくりするしかありません。ドイツの技術力は見事なものだったらしいのですが、資本力の底力みたいなものの点では英米に対しては各段に劣っており、長期戦になれば資本力がものを言うわけですから、アメリカ、イギリスサイドではさほど悲観的ではなかったようです。イギリスでは既にチェンバレンが退き、チャーチルが首相の座に就いていましたが、チャーチルはアメリカの参戦を心待ちにしており、ルーズベルトは日本に先に一発撃たせることで国内のモンロー主義を一掃し、英米世界秩序みたいなものを維持しようと考えていたという話は随所にありますから、日本がアドルフヒトラーをどんなに頼りに思っていても、アドルフヒトラーは実はそこまで強くなかったという現実に気づいていなかったというのが日本帝国の悲劇なのかも知れません。ドイツと同盟していなければ日本の政治家や軍人がここまで強気になることはなかったでしょうから、かえすがえすもがっくし、残念、何をやっているのだか…と辛い心境にならざるを得ません。私の手元にある資料は昭和17年までありますので、もう少しの間、資料の読み込みを続けたいと思っていますが、どうしても暗い心境になってしまいます。

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昭和史67‐ビルマルート爆撃

とある情報機関の発行していた機関紙の昭和15年12月1日付の号では、ビルマの援蒋ルートを日本軍が爆撃したことに関する記事が掲載されていますので、ちょっと紹介してみたいと思います。当該の記事によると「イギリスをはじめアメリカやロシアは飛行機、自動車、弾丸、鉄砲を重慶に売り込んで蒋介石の後押し」をしていると述べられており、イギリス、アメリカ、ロシアの真の目的は日本と蒋介石政府の双方を弱らせて東洋の土地を奪うことだとしています。

で、メコン川の遥か上流のヒマラヤ山脈を伊豆の踊子の如く九十九折りになって重慶へと向かうトラックを足止めするために、ヒマラヤ奥地の橋を爆撃したという武勇談が述べられているわけですが、この段階でイギリス、アメリカをはっきりと「敵認定」していることが分かるほか、当該記事ではソビエト連邦も敵認定していることが感じ取れます。

爆撃した橋は「功果橋」と呼ぶらしく、その橋が果たして誰の所有なのか、イギリス領ビルマの範囲内なのか、それともチベットなのか或いはちょっと見当のつかない場所なのかは検索をかけてみてもわからなかったのですが、蒋介石政府にたどり着く前の地点を攻撃しているわけですから、既にイギリスとは戦闘行為が始まったと受け取ってもいいくらいの事態に昭和15年末頃の段階で発展していたということが分かります。

日中戦争が始まった当初、アメリカはモンロー主義で、芦田均の『第二次世界大戦外交史』ではイギリス、フランスオランダは当初日本と事を構えて東南アジアの植民地を失うことを恐れていたとも書かれてありましたから、そもそも欧米と事を構えることを日本帝国の当局者も想定していなかったのではないかと思います。早々に戦争を終わらせていれば、太平洋戦争になることはなかったかも知れません。ところが、延々といつまでも戦争が終わらず、近衛文麿はここぞとばかりにそもそもの持論である全体主義的統制経済をやり始め、軍需品が必要ですから民生品が品薄になり物資不足で資金も不足という深刻な事態に陥りつつある中で、愈々欧米諸国とも事を構える決心を堅めつつあるあたり、読んでいる現代人の私としては背筋が寒くなる思いです。

当該の情報機関は当初は台湾とその対岸の広東、南京あたりの情報収集及び戦果の宣伝みたいなことをしていたのですが、だんだん手を広げるようになり、フィリピンインドネシアインドシナと範囲が拡大して今回とうとうビルマまで手を出したという感じです。「東亜共栄圏」なる言葉が公然と使われ始め、日満支(汪兆銘政権)だけでなく、東南アジア全域を含む日本経済ブロックを作ろうとしていたわけですが、どうも当初からそのような想定をしていたわけではなく、どこかの時点で「行けるところまで行こう」という発想になったように思えます。行けるところまで行こうとすれば、必ず欧米の大国と戦争になるまで突き進むことになりますから、そういう決心をした段階で日本帝国滅亡フラグが立ったも同然とも思え、かえすがえす「馬鹿なことを…」と思はざるを得ません。広田内閣の五相会議で南進が採用され、近衛内閣の閣議で南進が改めて正式に国策として採用されたことから、官僚主義的に深く考えずに国策通りに進んだのかも知れません。一旦決まった政策について臨機応変できないあたり、今ももしかするとあまり変わらないのではないかという気もします。援蒋ルートを断ちたい陸軍と日本経済ブロックを作りたい政治家と、宮崎滔天や頭山満みたいな民間の大アジア主義がぐちゃっと混ざって肥大したという感もなくもありません。精工に練られた構想というわけではなく船頭多くして船山に登る式の場当たり的、ご都合主義的な拡大主義が見て取れます。

一重に蒋介石との戦争に勝つために遠いビルマまで爆撃に出かけ、英米と険悪になり対抗策としてドイツのアドルフヒトラーと結ぶという悪手を選び、滅亡への坂道を転げ落ちようとしている日本帝国の姿を追うのは心理的なダメージが強いですが、取り敢えず手元の資料は全部読む覚悟で読み進めています。

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とある情報機関が発行していた昭和15年9月15日付の機関紙で、フランス領インドシナについて紹介する記事がありましたので、ここでちょっと紹介してみたいと思います。当該の記事では、インドシナ半島の風土や気候のようなものを紹介した後で、フランスが領有するに至った経緯が書かれています。そんなに難しいことや裏情報みたいなものは特になく、一般知識の範囲でフランスが徐々に当該地域を領有していった様子が書かれています。ちょっと興味深いのは、当時のフランスがあてこんだ流通ルートと援蒋ルートが同じものだという指摘がされている点です。更にその記事の最後の方では、フランス本国が「衰弱」したので、今後の展開は違ったものになるだろうというような意味の言葉で締めくくられています。

昭和15年の段階では、フランスには親ナチス的なヴィシー政府が成立しており、フランス領インドシナもヴィシー政府の治下に収まっていましたから、日本としては南進という国策がある上に、「東亜経済ブロック」拡大という野心的な視点からも獲れそうな場所であり、同時に援蒋ルートを断ち切るためにもほしい場所であったということが、当該の記事からうっすらと見えてくるように思えます。おそらく財界はマーケットという意味で欲しがり、陸軍は援蒋ルートの遮断という意味で欲しがり、当時の近衛文麿内閣は統制経済、全体主義を是とし、ナチスを理想とする今から見ればとんでもない政権でしたが、統制経済が必要になってくるというのははっきり言えば物資不足の裏返しなので、統制経済をやりたい政治サイドとしてもインドシナ半島の資源があれば助かるという意味で欲しがっていたのかも知れません。

その後日本は同意の上で北部フランス領インドシナに進駐し、更には南部フランス領インドシナに進駐します。南部に進駐する前、アメリカのルーズベルト大統領が、もし日本が南部フランス領インドシナに進駐すれば経済封鎖すると明確に警告していたにもかかわらず、フランス本国がナチスに握られている間に多分大丈夫だろう的な発想で進駐してしまうわけですが、そのような行動に出てしまった背景には、上に述べたように軍、財界、政治家がこぞってそこを欲しがっていて日本の中で残念なことにコンセンサスが取れてしまったことに要員があるように思えます。そしてルーズベルトは警告通りに経済封鎖を始めるわけです。

少し長めのスパンで言えば、日本帝国は満州事変での対応を誤って滅亡への第一歩を踏み出したと言えますが、もう少し短めのスパンで言えば、この南部フランス領インドシナへの進駐が日本の命取りになったとも思えますから、何をやっているのだか…とため息をつくしかありません。

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昭和15年8月15日付のとある情報機関の機関紙に、台北帝国大学の浅井恵倫教授がオランダの植民地政策がどういうものかを論じる原稿を寄せていますので、ちょっと紹介してみたいと思います。この浅井教授という人がどういう人なのか検索をかけてみたところ、オランダに留学してライデン大学で台湾原住民の言語の研究で博士号を取得した人で、その後台湾で教授になり、戦後もしばらく中華民国のために台湾で仕事をした人であったことが分かりました。要するにオランダと台湾のプロということになりますから、オランダの植民地政策と日本の植民地政策の違いを論じるのにうってつけの人物と言えるかも知れません。で、当該の記事によると、オランダのような小国がどうしてインドネシアのような広大な地域を支配し続けることができているのかという点について、当該地域の王族を優遇し、王族を通じて現地の人を間接支配をしたからだということらしいです。このことについて、浅井教授の原稿では

王族を通じて一般土民(ママ)は自由に操縦され、飽くなき搾取に搾取は繰り返され、蘭印民衆の永久に立つことのできない様に、仕組んでしまったのである。その仕打ちたるや正に悪辣といふか、非人道的と言ふか、これを台湾の植民地政策と比較対照した時、まさに雲泥の差があるといはなければならない。そこには、東洋と西洋に於ける、自らの民族的見解の差があるのではあるが、一は精神的同化を目指し、一は物質的搾取を目的とする、東西の両極端をよく表現してゐるものと言へよう。

としています。日本帝国の敗戦後、日本の皇民化は内心の自由を奪おうとしたという観点から批判されるわけですが、当該の原稿では日本の植民地政策は精神的な合一、即ち愛情があるのに対して、オランダの植民地政策には単なる物理的な搾取があるのみで、現地の人を幸福にしようとか、そういうものは全然ないという批判をしています。

現代人の観点に立つとすれば、半分当たっていて半分当たっていないという感じではないかと思います。日本帝国が台湾の開発に大変に熱心であったことはよく知られています。良いか悪いかは別にして農業を振興させ、資源を開発し、現地の人に義務教育を施し、工業化も目指しました。長い目で見れば植民地が農工業で発展している方が、帝国の収支は良くなるという意味で帝国にとっては優良資産になりますし、現地の人にとっても生活の向上につながります。李登輝さんが総統をしていた時代にはよくこういった点が良い評価がなされていました。ですが一方で、皇民化という取り組みは「私は何者なのか」という大切な内心な問題に介入し、日本人だと信じ込むように誘導したという点では、やはり必ずしも高く評価することはできないのではないかとも思えます。戦後の日本国憲法では内心の自由を重視しますから、その憲法下で教育を受けた戦後世代としては内心の自由を侵す皇民化は問題視せざるを得ません。ですので、浅井教授の指摘は半分は当たっているけど半分は外れていると言う結論になってしまいます。

尤も、当時は日中戦争の真っ最中に情報機関のプロパガンダ紙に原稿を書くわけですから、浅井教授としても日本の帝国主義を批判するわけにはいかなかったでしょうから、先に引用したような内容にならざるを得なかったとも思えます。当時は「日本人になれること=良いこと」を大前提にしないと原稿が書けなかったでしょうから、上のような体裁にするしかなかったのかも知れません。

当該の原稿では最後の方で「来たるべき日のために」という、なかなか意味深長な言葉も含まれています。当時既にオランダ本国はナチスドイツの支配下に入っており、やがてアンネフランクが隠れ家で後に世界が涙する日記を書くことになるわけですが、オランダ領インドネシアは本国のバックアップなしに経営を続けなければならないという逼迫した状態に置かれていたわけで、当該の記事では今こそ現地住民が立つことができるという趣旨のことを述べています。日本帝国はインドネシアの現地の人々を助けることができるし、台湾は南進政策の重大な拠点なので、その持つ意味は大きいという趣旨のことも述べられています。「大東亜共栄圏言説」なるものがどういうものかがよく分かると記事だと言うこともできるようにも思います。大東亜共栄圏は結果としては失敗でしたし、日本人にとって何らメリットはなく、戦後も批判の対象になるわけですが、当時の日本人が「大東亜共栄圏」にどういうイメージを持っていたかを感じ取れたような気がしなくもありません。

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昭和15年5月11日付のとある情報機関の発行した機関紙によると、同年4月26日に南京に於て国民政府遷都慶祝大会が挙行されたという内容の記事が掲載されていましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。「遷都」というのがポイントです。ここで言う国民政府とは蒋介石政権のことではなく、汪兆銘政権のことを指しています。つまり、汪兆銘政権が正式な中国の「国民政府」であり、重慶にいる蒋介石の国民政府はニセモノで、本物の国民政府を南京に「遷都」させて誕生させたというわけです。ですので、当時の段階では国民政府が2つあったということになってしまいます。国旗も酷似しており、どっちがどっちでどうなのかと言うわけのわからない混乱状況に陥ってしまった感があるのですが、「和平反共及び日華親善」という標語も見られ、日本帝国が汪兆銘政権の既成事実化を狙っていたことが分かります。当該記事をざっと読むと要するに蒋介石が共産党と手を組んだのがいけないということらしく、蒋介石が容共を続ける限り戦争は継続されるということらしいです。で、本当は日本人と中国人は大の仲良し、悪いのは蒋介石という構図になっているわけですが、不思議なことに毛沢東の名前をこれまで一度も見たことがありません。張学良の名前も全然出てきません。ひたすら蒋介石、蒋介石です。この辺り、裏があるとすればどんな裏があるのか、情報不足で推測するのもちょっと難しいのですが、打倒蒋介石に慣性の法則が働いて加速しているようにも思えます。このように日中戦争は「反共」を大義に継続されていったわけですが、一方で松岡洋右がスターリンと接近して日ソ不可侵条約を結び、太平洋戦争の最後の方になると、ソビエト連邦を唯一の友好国と頼みにするようになるのですから、やはり何かが誤っていた、どこかに齟齬が生じていたと感じないわけにはいきません。やっぱりゾルゲと尾崎穂積に誘導されていたということなのでしょうか。

国共合作も謎が多く、張学良がその真相については最期まで明かさなかったため、今に至るまで実際のところははっきりとはしていません。蒋介石が西安事件で監禁された時に脅迫されて共産党と協力することにしたということまでは分かります。しかしその後、自由の身になった蒋介石が太平洋戦争が終わるまでその約束を守り続けたことや、張学良が軟禁され続けたことも疑問です。普通に考えれば蒋介石が自由を回復すれば張学良を殺して既定路線通りに毛沢東と戦争を続けていたはずですが、そういう風にはなりませんでした。張学良の口述という中国語の本をパラパラっと読んだことがありますが、張学良は蒋介石を信頼していたらしく台湾に移転してからも親交が続いたと言っています。一体、裏に何があってどうなっていたのでしょうか。考え込んでいくうちに、蒋介石と汪兆銘の仲間割れ、張学良と毛沢東も加わった集合離散、合従連衡に日本帝国が振り回されていたようにすら思えてきます。

当該の号には上に挙げた記事の他に援蒋ルートについても説明されており、一般に援蒋ルートと言えば東南アジア、たとえばフランス領インドシナ、或いは英領ビルマからの重慶へのルートが知られていますが、ソビエト連邦から新疆方面を通って重慶への援助ルートがあると記載されています。ソビエト連邦からも援助がもらえたから蒋介石は西安事件後も国共合作を続けたという安易な判断でいいのかどうか、結論しかねるところですが、考えれば考えるほど、中国の近現代史は奥が深いというか、裏が深いというか、質実剛健とか武士に二言がないのが大和魂とかみたいにわりと真っ直ぐなことが好きな日本人にはとても太刀打ちできないよう事柄のように思えてしまい、その意味でも日中戦争は早々に決着させておくべきだったと思えてなりません。


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昭和10年代は戦争の時代でしたが、当時の日中戦争は日本がそれまでに経験したことのない戦争でした。過去の戦争と何が違うのかというと、日中戦争は日本帝国の想定を超えた長期戦になったということです。日清戦争は半年程度。日露戦争も一年ないくらい。第一次世界大戦はちょっかいを出した程度で終わっているため、恒久的補給のような気の遠くなるようなことを考える必要がなく、局地戦で勝利して講話するという手段を選ぶことができたわけですが、日中戦争の場合、トラウトマン工作があったにもかかわらず、日本帝国はあたかもそんな簡単に講話なんかするものか、「蒋介石をやっつける」(松岡洋右)まで戦争するという総力戦・長期戦の道を突き進みます。

総力戦ということになれば、現場の戦闘力だけでなくいわゆる銃後が重要で、国民または植民地の人たちの戦争協力を得るためのプロパガンダが必要になりますから、当時はプロパガンダ映画、プロパガンダポスター、プロパガンダ写真と官僚たちはプロパガンダに力を入れていきます。

で、長期戦ということになれば、もはや次世代に託さなければならないという、これもまた気の遠くなるような発想が帝国官僚に生まれてきたように見受けられます。私が追いかけている情報機関の資料の昭和15年5月1日付の号に「少年保護に就て」と題された記事が掲載されています。長々と引用することはやめておきますが、簡単に言うと、不良少年に対して愛の精神で善の道へと指導していくことの必要性を訴えています。当該記事ではそのような少年指導の好例としてヒトラーユーゲントを挙げています。第一次世界大戦で再起不能に思えたドイツがやたらと強いのはアドルフヒトラーがヒトラーユーゲントを組織したからだとしています。短く引用しますが、曰く

(ドイツ)政府が第二の国民即ち青少年の育成に着目し、殊に1934年のヒットラー出現以来は、ヒットラー・ユーゲントを組織し、健全なる育成に、努力したことが、最も大きな原因の一つであると言っても敢て過言ではないと思ふ。

としています。なので、ヒトラーユーゲントをモデルにして、日本も戦争継続の為には次の世代の兵隊になる青少年の健全育成が必要だと訴えているわけです。戦後、ナチスドイツに参加していた人物がイスラエルのモサドのような組織に追われ続けたことは『ナチス狩り』という本に詳しいですし、更にはアイヒマン裁判、他にも戯曲で『ヒットラーの弁明』のようなものもあって、これもモサドが決してナチスを赦さなかったことを理解する手がかりになる作品なのですが、当時ヒトラーユーゲントに参加した少年たちはその後の人生、一生「あいつはヒトラーユーゲントだった」と言われ続けるという意味で、当時は判断力のない少年だったわけですから、気の毒なようにも思えますし、当該記事でヒトラーユーゲントを好例として挙げているのを読んだ時、ついつい「あちゃー」「やれやれ」と思ってしまいます。どうも当時の日本帝国の官僚たちはナチスドイツを理想とし、心理的にナチスドイツに依存していたのではないかと思えます。

『昭和天皇独白録』でも、当時の権力の中枢にいた人物たちはドイツがヨーロッパでの戦争で勝つ確立は100%。と考え、ドイツと同盟している限りは大丈夫。ドイツがイギリスを倒してくれるから、そしたらアメリカも譲歩するだろうという現実から遊離した考えに引っ張られ、更にはドイツが先に単独講和されると日本が置いて行かれるのが不安だと思い込んで、アメリカと戦争を始める前にドイツとの間で単独不講和の約束まで取り付けて、シンガポール陥落後は講話の好機だった可能性がありますが、ドイツがソビエト連邦との戦争で敗け始めていたにもかかわらず、単独不講和の約束があるからとダラダラと戦争していった様子が述べられています。

戦前の日本は今以上の官僚主義で、元老も言わば官僚のトップですし、元老に指名される首相も官僚出身(軍事官僚を含む)で、官僚は基本的には戦争のようなイレギュラーなものは嫌うものでから蒋介石との戦争を国家の究極目標みたいに突き進んで行ったのは今でも理解に苦しみますが、「ドイツがいるから大丈夫」という悪魔の囁きのようなものが当時の国家の中枢関係者の心の中でこだましていたのかも知れません。

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昭和史55‐物資の窮乏

昭和史59‐汪兆銘政権と青天白日旗

蒋介石と対立し、袂を分かった汪兆銘が日本軍と結び南京臨時政府を設立しますが、当初は五族協和を表す五色旗を使用していました。昭和15年に入り「臨時」政府は、は正式名称を名乗ることとし、「国民政府」を名乗るようになります。お気づきと思いますが、蒋介石の国民政府と汪兆銘の国民政府、二つの国民政府が両立状態が生まれてしまったわけです。日本帝国としては近衛文麿が「国民政府を相手とせず」と声明して以降、蒋介石政権は正式な中国政府ではないとの立場を貫き通す所存ですから、以降、国民政府と言えば、汪兆銘政権を指すことにしたわけです。

で、問題となるのが青天白日旗です。国民政府と言えば青天白日旗がセットみたいなところがあって、汪兆銘政権でも青天白日旗を自国(自政権と呼ぶべき?)の国旗として使用しようということになったのですが、それでは見分けがつきません。それで見分けがつくようにと、汪兆銘サイドでは青天白日旗の上に三角の黄色い布をつけ足して、そこにスローガンを入れ込むというスタイルをとったようですが、将来的には青天白日旗のオリジナルを使いたいと言う意向が汪兆銘には強かったようです。ここは蒋介石と汪兆銘、どちらにとっても意地のかかった問題だったのかも知れません。

どっちがどっち?という点では当時の発行物で、日本は二ホンかニッポンかについて書かれているのもちょっと面白かったので紹介したいと思います。例えば日本書紀のように、当時は聖典のように扱われていた書物は二ホンと読みます。一方で、大日本帝国憲法の場合はニッポンと読むわけです。他にも用例はいろいろあるとは思いますが、これはどちらが正しいとはなかなか断じ難いところで、私個人的としては二ホンと読む方が好きですが、ニッポンと読む方が勢いがあって力強くていいと思う人もいるようですし、経験的に聴いた限りでは欧米の人はnihonよりもnipponの方が発音はしやすいようです。当時の日本帝国としては「ニッポン」を正式名称として広めたいという意欲が強く映画で日本はjapanですが、そこをnipponという表記で普及させたいとしています。一般的に日本帝国と言えば英語ではthe empire of japanになるでしょうけれど、恐らく日本帝国サイドとしてはthe great empire of nipponにしたかった(great britain=大英帝国みたいな感じでしょうかね)ということなのでしょう。そのような英語表記が広まったというのは私は読んだことがありませんし、普及する前に日本帝国が滅亡するので、それが普及することは永遠になくなったわけです。

まあ、個人的には「にほん」という響きの方が好きなことは好きですなんですがねえ…

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