赦せないことを赦せるか

随分以前に観た韓国映画で題名も忘れてしまったのだが、有名な俳優さんが出演している韓国映画が今も時々、頭の中で蘇る。主人公は若いころ警察官をしていて、結婚し、公務員を辞めて実業家になり、妻が不倫して赦せずに離婚し、事業協力者に裏切られて破産し、文無しになって自殺するという救いが全くない映画なのだが、私はどうしても時々思い出してしまい、その主人公の彼の何が人生を破滅させたのかを考え込んでしまう。

というのも彼は全く悪いことはしていない。警察官を辞めて実業家になるのは個人の自由だ。妻が不倫して離婚するのは正当な事由だ。事業協力者に裏切られたのも、裏切った方が悪い。にもかかわらず、彼は自分の人生を回復させることができなかった。なぜ、どこからこの人はおかしくなっていったのだろう、と良く考え、自分の人生の教訓にしたいというようなことを反芻するようにして考えてしまう。

ただ、彼が破滅していったことについて、私はなんとなく分かるような気がしなくもなかった。それは、彼の不倫した妻に対する態度に現れているように思える。妻の不倫は疑惑ではなく間違いなく申し開きのできない現場を押さえていて、警察官らしく現行犯で捕まえたと言える。その後、妻は泣きに泣いて赦しを請うのだが、彼はどうしても赦すことができず、妻を置いて振り返りもせずに家を出る。私には、ここがターニングポイントだったのではないかと思える。これは難しい問題で、もし自分が同じ立場でパートナーを赦すことができるかと問われれば、自信がない。赦せないかも知れない。パートナーに浮気されたことがないし、私も二股のようなことはしたことがないので心境が完全に分かるわけではないが、普通に考えて赦せないだろうし、世間的にも赦せないことは理解されるだろう。

ただ、泣いて赦しを請う人間に対し、一切の赦しを与えず、背を向けて立ち去るという軽蔑の姿勢を見せる彼の覚悟には強い攻撃性が感じられた。攻撃性は方向性の問題なので、時に他人を傷つけるし、時に自分を傷つける。彼はあの時、妻を赦さないという覚悟をすることによって、結局は自分を赦すことができず、自ら人生の破滅を招いたということができるのではないだろうか、という気がするのだ。

もちろん、そういったことは演出の問題もあるから、私の勝手な解釈で、制作者はただ単に救いのない人生を描いて観客を落ち込ませようと意図していただけかも知れない。ただし、本でも映画でも受け手の心に響かなくてはいけないので、作品には必ず制作者の人間に対する理解が入っていなくてはいけないし、そうでなくては作品は作れないとも言える。

赦し難しことを赦すというのは人によっていろいろあるだろうから、貞操の問題だけに集約されるものではないかも知れない。しかし、貞操は最も分かりやすい例だということはできるだろう。私にもひたすら赦せないと思っていた人が何人かいるが、最近、なんとなく、赦してもいいのではないかという気がしてきた。そして、ある人は言外に赦しを私に請うていたということも思い出した。あの時、私は赦しを与えないという姿勢を言外で見せた。今思えば、赦しておけばよかった。赦しを与えた時、心の傷はそれだけ苛まれなくなるような気がする。なぜなら、赦した側にとっても完全な過去になるからだ。赦しがたいことを赦すから値打ちがあるのである。そして、赦することは自分を救済することにも繋がるはずなのだ。

関連記事
不遇の時期をどう過ごすか
心理的な傷から如何にして立ち直るか

スタンフォード監獄実験で証明されたものは何か

スタンフォード大学で行われた有名な心理実験。学生アルバイトを集めて適当に看守役と囚人役に分け、看守役が囚人役に対して激しい罵倒を浴びせたり、理不尽なお仕置きをしたりを続けた場合、看守はより看守らしく、囚人はより囚人らしくなっていくという仮説を証明しようとした。一般に、看守役の囚人役に対する暴虐な態度があまりに酷く、予定の二週間を大幅に繰り上げて実験は終了したが、見かねて中止しなければならないほどに看守はより看守らしく、囚人はより囚人らしくなっていくことが証明されたとされている。

ナチスドイツがユダヤ人に対するホロコーストをなぜ成し得たか、なぜ起こり得たかについて考察手掛かりになるとも理解されているだろう。

だが、私はこの監獄実験について多少の情報を集めてみた結果、看守がより看守らしく、囚人がより囚人らしくなるということは全く証明されなかったのではないかと思える。なぜなら、囚人役はあまりに耐え難い場合はドロップアウトすることが認められ、ドロップアウトしない囚人役はアルバイト料をもらうために囚人役を続けていたに過ぎず、看守が看守に徹し、囚人が囚人に徹することができた理由は、繰り返しになるがアルバイト料をもらえるという相応の理由があったからだ。

たとえある人物が有罪判決を受け、自分もその罪を認めている場合、監獄に閉じ込められることには相応の理由があるということを本人も理解しているため、囚人らしい行動を要求された場合、それに応じるだろう。囚人役の学生がアルバイト料のために囚人役をするのと同じである。看守も仕事である。

従って、この実験はナチスドイツがホロコーストを成し得た理由の証明にはならないのではないかと私は思う。ホロコーストの犠牲者は、相応の理由がないにもかかわらず、犠牲になった。ホロコーストの実行者は相応の理由がないと知りつつ、実行したのだから、スタンフォード監獄実験では説明のつかない全く異質な現象だったと考えるべきなのではないかと私には思える。

翻って言うと、スタンフォード監獄実験は、相応の理由がなければ人は囚人に徹しないということを証明したと言うこともでき、ナチスドイツのホロコーストは全く次元の違う視点を持たなければ説明できないということを証明したのではないだろうか。私が過去に見聞した範囲で言えば、ホロコーストという現象の一端を一番よく説明しているのは『ファニア歌いなさい』という映画だと思う。繰り返しみたいとはとても思えないトラウマ映画なため一回観ただけの感想にはなるが、別次元で人が壊れていく様子が描かれていると感じられた。私見です。

心理的な傷から如何にして立ち直るか

心理的な傷は時間軸で言えば短期的なものと長期的なものに分けることができる。そしてその立ち直り方は消極的なものと積極的なものに分けることができる。心に傷を一切負わずに人生を終えることができる人はおそらく皆無である。私も自分の心理的な問題を解決するために様々な努力をしてきたし、現在もそれは継続中だと言える。ここでは、私なりに心理的な傷から立ち直るために実践したことや学んだこと、その効果などを手短にまとめてみたい。

まず、心理的な傷の短期的なものというのは、たとえば誰かに批判されたり、ちょっとしたことで相手の怒りを買ったり、仕事でミスをしてしまったり、飲み過ぎてしまったりして落ち込んでしまった場合のようなものを指している。そして長期的な傷というのは主として幼少年期にたとえばイジメにあったとか、虐待されたとか、或いは事故にあったなど人格形成期に於ける傷が生涯にわたってその人の心を苛むような類のものを指している。短期的な心の傷を受ける要因は主として普段は忘れるようにしている長期的な心の傷の再生みたいなできごとであるため、短期的な心の傷も突き詰めれば長期的な心の傷が起因しているということができるため、突き詰めれば長期的な心の傷を如何にして治癒させるかということが課題になる。ただし、長期的な心の傷の治癒には積極的な療法を長期間断続的に行わなくてはならないため、これを読んですぐに解決するようなものではない。場合によってはさっき傷ついたからその治癒の方法をこの記事で知りたいと思う人もいるはずであるため、先に短期的な問題、直近の問題について取り扱い、続いて長期的な解決について取り扱いたい。

短期的な問題、たとえば誰かに嫌なことを言われたり、仕事をミスをしたりという場合、消極的な治癒方法はそれなりに有効である。消極的な治癒方法とは簡単に言えば時間が解決するということだ。私の場合、激しく落ち込んだ場合も二週間もすればどうにか気力を取り戻すことができる。経験的にマックスに落ち込んでも二週間程度で回復できるため、傷つくようなことが起きても「二週間の辛抱だ」と思うことにしている。実際、数日前にちょっとここでは言えないくらいショッキングなことが起きたが(そのことについて私が悪いとはちょっと思えないようなことだった)、今は次第に回復基調に入りつつあり、個人的な経験測として「二週間もあればだいたい大丈夫」という考えがあるため、結果としては「いつまでこの苦しみが続くのか」という不安からは解放されやすく、その分、心理的な立ち直りは楽にできるようになってきた。これは最近そうなってきたのであって、何度もショッキングなことを経験するうちにようやく気付くことのできた私の心の内側での現象であると言える。短期的な問題についてはその他にとりあえず寝るとか、お酒などの嗜好品にとりあえず逃げ込むとか、週末は自宅に引きこもってyoutubeやnetflixを視聴して何も考えないようにするなど、消極的ではあるが、ある程度の積極性(お酒を飲んだり、何かを視聴したりするのでなにがしかの行動は伴っている)を持っているが、これは耐え難いと思える経験が生じたとき、自分を現実から一旦切り離すことで痛みが軽減するのを待つという方法になる。短期的な心理的な傷に対する積極的なアプローチはカウンセラーに電話するということを私個人は今でも時々やっている。心の痛みを軽減するために他人に話すということは効果があるが、友人にいちいち相談することは、度が過ぎると友人を遠ざけることになりかねないし、自分の恥ずかしい面を友人を見せる場合もあるため、私はわりと慎重である。カウンセラーであれば、他人に話せないことを話せる上に、自分との相性が合う相手であれば適切な意見交換を行うことにより、痛みをかなり軽減させることも可能だ。心理的なショックを受けた場合、私の場合、何が起きているのか理解できない、私が悪いのか悪くないのかも判断できない、原因も分からないという軽いパニックを起こすことになるのだが、いい大人が「パニックだ」と騒いでも信用を落とす以外の効果はないため、とりあえずその場はぐっと耐え、時間を見つけてカウンセラーに電話することにしている。当然後で料金を払わなくてはならないが、一時的にとはいえパニックになっている場合、それこそ死んでしまいたいと思うこともあるから、自分の生命に比べればカウンセリング費用はむしろ衣食住同様の必要経費と言ってもいいと私は考えている。死ぬより金を払う方が断然いいに決まっているからである。カウンセラーを話すことによって、自分の身に何が起きたのか、何が原因で、善処する方法はあるかということについて考えることができるようになるため、無用な危機を避けることもできる。ショッキングなことが起きれば数日間は見た目には普通でも頭の中はパニックになっているため適切な判断ができない状態になっている可能性があり、それでも仕事をしたり日常の選択をし、社会的に行動しなくてはならない。パニック状態のままそれらを遂行すれば無用に傷口を広げることも起きかねないので、私はカウンセラーに頼ることはリスクコントロールの面を有するとも思っている。著名人になればなるほどお抱えの占い師がいたり、宗教的なものに頼ったりする傾向があると聞いたことがあるが、それは、そういったことがリスクコントロールになり、例えば逆ギレするなどの本来なくていいはずのカタストロフを避けることになるのだと言える。

では、長期的な問題について考えたい。よく時間が薬というが、長期的な心理的な傷は時間では解決しない。放置しておけば生涯にわたり本人を苛み続ける。上に述べたように短期的なショックの由来も長期的な心の傷に由来しているため、明朗な人生を送るためには長期的な心の傷に対して戦略的なアプローチを考えなくてはいけない。高額なセミナーに行ってある程度良くなるという人もいるかも知れないから、完全に否定はしないが、個人的にはおそらくそういったアプローチは短期的な効果しか持たず、根源的な治癒には至らないのではないかと考えている。長期的な心の傷は、その人の認知と行動に影響する。人は心の傷によって認知と行動がある程度決定されてしまい、それを繰り返し、その人自身という人格が作り上げられていくことになる。そのため、長期的な心の傷の治癒のためには認知と行動を忍耐強く変えるように努力し、最終的には自分は別人格になるくらいの覚悟も必要になる。認知を行動を変えるというのは、たとえば「私はいつも嫌われる」という認知がある場合、それは幼少期にイジメを受けたりしたことからそういう認知が生まれるわけだが、「必ずしもそうではない」「場合によっては好かれる」という認知へと変化させていくよう自己内対話を行うことになる。この自己内対話が上手にできるようになるためにカウンセリングを利用することは有効かも知れない。自己内対話が上手にできるようになれば、自分できるためカウンセラーの力は必ずしも必要ではない。カウンセラーにはクライアントの根本的な心理的問題を解決することはできない。経験を積んだカウンセラーであればそのことはよく知っている。新人のカウンセラーはカウンセリングで人を救うことに無限の可能性を感じている場合があり、その場合はカウンセラー本人も自分の心の傷を治癒するためにカウンセリング技術に頼りたいという願望があるため、クライアントに対しても「絶対治癒できる。治癒させよう」という姿勢で臨むが、私の経験で言うと、カウンセラー本人にそのような力はない。内科医は患者に薬を投与したり安静にするよう命じることはできるが、病気そのものはその人の生命力で治癒していくのに似ている。ただし、たとえば風邪は自然治癒する可能性が高いが、心理的な傷はそうではないため、「うつは心の風邪」のような楽観視はできない。「うつは心の癌」だと私は捉えており、放置すればキルケゴールの言うように死に至る病になる場合もある。

ここまでに長期的な治癒の手段として自己内対話を上手に行うことで認知を変化させるということを述べたが、自己内対話を理屈抜きで強引に良い方向へもっていこうとするのがいわゆるアファメーションと呼ばれるものであると私は考えている。たとえば斎藤一人氏の「愛してます、ついてる、嬉しい、楽しい、感謝してます、幸せ、ありがとう、ゆるします」であったり、「私は愛と光と忍耐です」のような「天国言葉」を毎日繰り返し唱えなさいという教えは、現実が如何に望ましくないものであったとしても、強引に自分に今の現実は素晴らしいと認知させることで、即ち認知を変えることで行動が変化し、結果として人生も良くなるとする考えが基本になっている私は理解している。斎藤一人氏については賛否あると思うが、アプローチとしては正しいと言える。自己内対話によって認知を変化させることには限界があるからだ。人にはどうしても「こうとしか考えられない」という認知がある。そのため、自己内対話をどれだけ深めても突き詰めたコアな部分の認知を変化させることは難しく、そこまでで納得するか諦めるかをせざるを得ない。しかし、斎藤一人氏のようなアファメーション方式では、理屈抜きで認知を変える言葉を自分の頭に強引に押し込んでいくため、自己内対話の壁を超える可能性はある。認知が変われば行動が自ずと変わるため、得られる結果も自動的に変わってくる。高額な心理療法、たとえば前世療法や催眠療法などの手段で認知を変えることはあり得るが、アファメーションは無料でできるため、金銭的にもお得と言える。ただし、忍耐強くやらなくてはならない。コアな部分の認知は何十年も保たれ、その人の人格そのものになっているため、アファメーションもある程度のところまでいくと固い壁を破るのに相当な根気を要することになる。自我が抵抗するのだと言い換えることもできる。ではどうするかというと、私の場合、カウンセリングとアファメーションの双方を利用することにしている。カウンセリングで自分の抱える問題を整理し、アファメーションをするのである。この場合、問題の核になる部分の整理ができた状態で行うため、自我の抵抗を受けにくくなるからだ。

私の経験に基づくものだが、以上述べたことを生活に取り入れるだけでも人生は良くなるはずだし、心理的な苦しみは相当に軽減される。しかし、それだけでも完全な解決ということには至らない。人は結果を良くすることにこだわってしまうからだ。「私は人に嫌われる」という認知を「必ずしもそうではない」と変えることができたとしても、人に必ず好かれるとは限らない、嫌われることはあるし、或いは実際に嫌われているとは言えなくても嫌われたと判断せざるを得ないようなことも起きる。そのようなことはアファメーションをしていても起きるため、アファメーションには効果がないと落胆することも起きるだろう。

ここを乗り越えるのが最大の難関であると言える。「私は人に嫌われる」という認知を矯正しても嫌われることがあるため、人に好かれているという実感を得たいという効果を求め続ける限り、「やっぱり嫌われた」の堂々巡りに陥る危険がある。ここでようやく自分を別人格に変化させる、或いは昇華させるという次元の問題に取り組まなくてはならない。それは「私は人に嫌われても大丈夫」という信念を自分で創造できるかどうかということであり、これはカウンセリングやアファメーションだけで乗り越えられるかどうかは疑問である。カウンセリングは無理にクライアントを変えようとはしない。また、アファメーションは自我の抵抗に合う。また、人は自我を守りたがる。そこを越えられるかどうかは、今の私にとっても課題であるため、ここでこうすればいいという結論を出すことはできない。しかし、ここに気づくことができている以上、そのように自分を昇華させることはできるのではないかとも考えている。「私は人に好かれているか嫌われているかを問題にしない」という信念を確立することができた場合、私は純粋に他人の意見を無視して自分のやりたいことに取り組むことができるし、自分を活かした人生を実感することができるかも知れない。繰り返しになるが、そこまでたどり着くための方法論を私はまだ確立していない。ここまで来ると言語化できる方法論が存在しないため、瞑想や座禅という、ちょっとワープした手法へ移行せざるを得ないかも知れないし、過去の偉人たちの多くが瞑想や座禅にたどり着いたのも同じ理由ではないかと察せられる。

しかし、問題の整理ができていないまま瞑想をしたところで過去の心の傷から解放されるわけではない。問題は頭の中を堂々巡りするだろう。カウンセリングとアファメーションと瞑想を日常に取り入れていくことで「私は大丈夫だし他人にも愛を持って接することができる」という心境に入れるのではないかと思う。この場合、私は他人に愛されなくても大丈夫だという信念を確立しているため、他人が私を愛するかどうかは関係なく他人を愛することができるようになるはずである。ここまでくれば仙人の領域かも知れないし、一生かけて辿り着けるかどうかは分からないが、目指す価値はある。目指してみたい。真実にその領域に辿り着いた時、過去の心の傷は治癒したというよりは問題ではなくなるはずなので、結果として治癒したことになると言えるかも知れない。

赦せないことを赦せるか
不遇の時期をどう過ごすか

【自己訓練】マインドフルネス呼吸法をやってみた

最近、精神科医の和田秀樹さんが監修したアドラー心理学に関するムック本を読んでみたのですが、本の後ろの方でマインドフルネス呼吸法をやってみましょうみたいなことが書いてあったので、ちょっとやってみました。

マインドフルネス呼吸法というのはやり方そのものは簡単で、本の説明に従えば、楽な姿勢で座り、目を閉じ、数秒かけて息を吸い、数秒かけて吐く、というただそれだけのことですから、難しいということは全然ありません。以前、座禅を習ったことがあるのですが、そこでは先生から座禅をする時は雑念を追い払わなくてはいけない、雑念が浮かんでい来たら意図的にそれを排除し「無」の状態を目指さなくてはいけないと教わりました。それを実践するのは意外と難しいもので、雑念は次から次へと湧いてきますから、雑念を追い払おうとする心の動きだけで結構疲れてしまいます。また、座禅の組み方や姿勢の在り方なども、ちゃんとしたお作法やルールがありますから、そっちの方に気を取られ、精神が休まるとかそういう境地にはなかなか辿り着くことができませんでした。もちろん、西田幾多郎が座禅を通じて東洋の思想を西洋的な論理でも理解できるように体系化したことには意義があり、マインドフルネス呼吸法も究極的には西田幾多郎的な善の研究的なところを目指す一歩なのだとは思いますし、ゆくゆくは座禅マスターみたいなところにたどり着きたいという願望のようなものはあります。とはいえ、実践的に今の生活に合うようにというような感じで求めるとすれば、マインドフルネス呼吸法の方がやりやすいなあというのが実感です。マインドフルネスと座禅のどちらかがより優れているかなどという議論を始めてしまえば、むしろ本来の目的にそぐわず、本末転倒かも知れません。

マインドフルネス呼吸法のいいところは、禅を習ったときに禁じられた雑念を放置してオーケーなところです。むしろ、静かに目を閉じ呼吸をしているときは湧いてくる雑念からヒントが得られるのではないかとすら思えます。アニメの一休さんが座禅を組んで頓智を思いつくのも、マインドフルネス的効果なのではなかろうかという気がします。

先日、ちょっとやってみて、頭の中に「無理するな」という言葉が浮かび、あ、そうか、楽に生きよう。などと思え、自分にとってはちょうど自分に必要な言葉だったように思えましたから、自己対話としても活用できるのではないかという気がします。ユングは人の心の中には、女性的な男性性、男性的な女性性、感情的包容力のある女性性、リーダーシップのある男性性などが同居しているとしましたが、自己対話とは、そういった自分の内面にあるいくつかのパーソナリティとの対話であるかも知れず、それは迷ったときや疲れているとき、困ったときなどに叡智に近づく効果的な方法であるかも知れません。

まあ、そこまで深く考えなくとも、休憩としても最適ですから、今後も思い立った時にやってみようと思います。ほんの数分、目を閉じて静かに呼吸するだけで、意外と疲れも減少すると感じます。

広告


ユング‐無意識に人の可能性がある

ユングがフロイトの弟子だったことは有名ですが、同時にフロイトと袂を分かったこともよく知られています。両者は無意識が存在することでは一致していましたが、無意識とは何かということについて大きく異なる見解を持っていました。

フロイトは無意識には碌なものが存在しないと考えていました。心の傷であったり、破壊衝動であったり、性に対する衝動であったりと一般的な社会通念からは望ましくないものばかりが入っていると考えたのです。通常、人間は意識で無意識を抑え込んでおり、人に迷惑をかけないとか暴力を振るわないとか、トラウマが刺激されてできないことに対して「大丈夫、怖くない」とか言って自分を励まして紳士淑女として社会生活を送ります。しかし、たとえばお酒に酔っ払うなどのような状態になった時に、意識のコントロールが弱まり、無意識の衝動が湧き上がってきてしまい、普段ならやらないことをやってしまうという困ったことが起きてしまいます。フロイト的にはそういった困った無意識をどうやって制御するかが肝要であるということになります。

一方でユングはフロイトとは全く異なる観点から無意識を理解していました。無意識には人間の可能性が充ちていると考えたのです。たとえば芸術作品は計画して作るものとは限りません。ある種の閃き、天から降りて来るメッセージのようなものを受け取り、それを絵画にしたり彫刻にしたり文芸作品にしたり、或いは音楽にしたりと昇華させ、人々の楽しみや喜びに貢献することができます。そのため、ユングの発想法から行けば、無意識は抑え込んだり制御したりするものではなく、大いに解放することで人々の幸福度は更に大きくなると考えたわけです。

ユングとフロイトのどちらが正しいということはなく、どちらにも正しい面があると思えます。芸術が時にアウトローだったりするのは、ユング的な要素とフロイト的な要素の双方が表出した結果と捉えることができますし、芸術とは得てして諸刃の剣だったりもすると思えます。

ユングは更に、人には集合無意識があると考えました。世界各地の神話や民話に共通点が多いこと(洪水などの大災害から生き延びるなど)に着目し、人は祖先より受け継いだ膨大な記憶をそれぞれに蓄積しており、遡れば遡るほど祖先は共通していきますし、現代を生きる人もそれを受け継いでいるわけですから、我々は大きい全体の枠組みとして多くのものを共有していると言え、それが集合無意識であるとしたわけです。人々がある時、渦のように革命を起こしたり、或いはとあるトポスに支配的な空気が生まれたり、選挙で特定の政党が大勝ちしたりするのも、この集合無意識の視点から説明することも可能と思えます。

夢野久作の『ドグラマグラ』もユングの精神分析を基礎にしてその作品を書いたと言っていいと思いますし、当時としてはまさしく最先端のヨーロッパの心理学を採り入れた作品と言えます。現代風に言えば量子論小説を書くくらいの試みではなかったかと思えます。

ユングの集合無意識の理論はエーリッヒフロムの社会心理学にも応用可能と思えますし、ユングの考え方は現代も受け入れられているものですから、大変に興味深く、世の中の動きを考える際にユング的な「集合無意識」の視点から考えるのも面白いかも知れません。

スポンサーリンク


フロイト‐人は無意識によって支配されている

ヨーロッパでは伝統的に人間の理性を追及し、理性とは何かを明らかにしようとする試みが続けられました。ある程度は現代でもそうかも知れません。それに対するカウンターパートを唱えたのがフロイトであると言ってもいいかも知れません。アメリカではプラグマティズムがそのカウンターパートであり、ヨーロッパ内部ではオーストリア人のフロイトがそうであったというわけです。

フロイトは人は理性によって行動したり決断したりするのではなく、無意識によって自分ではどうすることもできないような衝動で行動したり決断したりするのだと考えました。無意識とは何かと説明するとすれば、エロス、タナトス、トラウマ、エディプスコンプレックスあたりに集約できるかも知れません。

エロスとは主として性に対する衝動であり、これには社会通念上の制限があるのが普通ですから、当然に抑圧され、無意識の世界、自分では気づかない心の奥底の領域に閉じ込めざるを得なくなります。

エロスは単に性的なことだけを指すのではなく、生きるということと密接に結びついています。生きるとは即ち創造的であり生産的な行為のことです。ですので、一生懸命仕事をしている人やがんばっている人、情熱的に生きている人はそれだけでエロスに満ちていると言うことができるかも知れません。

そのエロスの反対にあるのがタナトスです。一般に破壊衝動と訳されていると理解しています。フロイトは第一次世界大戦をその目で見ていますから、かくも残酷なことが起きるのは経済的合理性などでは説明できず、人の心の奥深いところに破壊衝動、タナトスへの欲求があるからだとフロイトは考えました。カミュの理由なき殺人もこういう視点から説明可能かも知れません。また、私たちがカミュの『異邦人』を読んで、読んだ人が全員そうではないにしても、ある程度理解できるなあと思えるのも、私たちの心の奥底にタナトスが共通して存在しているからだと考えることも可能なように思えます。

トラウマは精神的外傷と訳されるもので、幼少年期の心の傷が生涯ついてまわるとフロイトは考えました。なくて七癖と言いますが、心の傷を抑圧しているために人は時として合理性に欠く行動をとるのだというわけです。ドイツの伝統的な観念論や古代ギリシャ以来の理性に対して喧嘩を売っているとも言えますが、確かにトラウマという言葉を使うことによっていろいろ説明できることは確かなようにも思えます。

最後にエディプスコンプレックスですが、これが果たして各人に誰にでも存在するかどうかはあんまり分かりません。「父親」的存在に厳しくされることで、父親を克服したいという願望が生まれることは理解できますが、そこを母親という女性の取り合いの話になるのがすんなりと受け入れることができず、これはヨーロッパ社会に特有の何かなのではないかとも思えますが、そこは人それぞれの判断や感じ方によって異なるかも知れません。

フロイトが理性ではなく無意識という言葉で人間を説明したことの画期性は今も否定されてはいませんが、フロイトが無意識を否定的・悲観的に捉えていたのに対し、弟子のユングは無意識に対して創造性などの人間の可能性を見出し、アドラーはトラウマに捉われない人生の構築を唱えるようになり、フロイトと決別することになります。

スポンサーリンク


デカルト‐神と私、精神と肉体、感情と理性の二元論

デカルトは「方法的懐疑」という手法を通じて真理に迫ろうと考えました。即ち、いかなるものに対して疑いの目を向けてみる、例えば「東京湾は東京都に隣接している」という命題があった際、本当に東京湾と東京都は隣接しているのか、地図を見れば隣接しているように見えるが、地図が間違っているかも知れないし、自分の目が間違っているかも知れない、経験的に正しいと思っていることも、五感の経験が錯覚や夢のようなものではないという保証はないと考えたわけです。そして、それを突き詰めた結果、それについて考えている自分の主観が存在するということだけは疑いようのない事実であるとの結論に達し、有名な「我思う、故に我あり」に辿り着きます。

認識していることがどれだけ正しいのかわからない不完全な私が存在することを前提に、不完全が存在する以上、論理的に考えて完全が存在する余地は残されており、その思索の結果として完全な神は存在すると結論します。パスカルは人間が理性で考えて神が存在すると結論すること事態が傲慢不遜であると批判したと言いますが、神の存在証明を論理的帰結に求めるか、神秘的経験に求めるか、聖書的奇跡に求めるかは当時のヨーロッパ人にとっては重要な問題だったのかも知れません。現代人であれば、神は主観の問題であるということで結論に代えることも可能ではないかとも思えます。私は個人的に、それを神と呼ぶかどうかは別として、いわゆるサムシングレートみたいな存在はあるのではないかなあと思ってはいますが、これも主観に過ぎません。

さて、デカルトの立場であれば、神を経験的に感知することはできませんから、理性を用いて演繹的にその存在を証明しかないということになり、いわゆる大陸的合理主義としてイギリス経験論との対比関係と位置付けられています。

この演繹的思考法を用いれば、神であろうと宇宙人であろうと地底人であろうと演繹的のその存在、不存在を論証することが可能になります。詭弁に陥りやすいため、注意は必要ですが、詭弁はいつの時代にも存在すると考えれば、デカルトに限らず、いかなる学問にも共通して注意しなければならないとも言えそうにも思います。

デカルトはこの演繹的思考により、精神は肉体とは別個の存在であるとの立場に立ち(主観を持ち考えている私は肉体の存在不存在とは直接関係しない)、精神と肉体の二元論に至ります。考えに考え抜いたわりには普通の結論のように思えなくもありません。真理は常識の中に存在しているのかも知れません。

心の動きに於いても理性と感情の二元論で説明することが可能であり、デカルトは理性によって感情を抑制することをその道徳律としました。フロイトが人間の心を意識と無意識に分けたのは、デカルトの理性と感情の二元論に対するカウンターパートであると考えていたのかも知れません。理性と感情がはっきりしていれば、理性によって感情を支配することは論理的に可能ですが、人は必ずへんな癖があったり、わかっちゃいるけどやめられないことがあったり、うまく説明できないけどどうしてもやりたいことがあったりする、非論理的な側面を持っており、しばしば理性によってコントロールすることに限界が生じます。そのため、デカルトの思考法だけでは日常生活に応用することに限界があるため、フロイトとしては意識と無意識という分け方を用いることによって、人間の心をより実際に近い形で説明できると考えたのではないかとも私には思えます。

よくポストモダンで脱二項対立という言い方がされましたが、まずはデカルトの二元論を知らないと、ポストモダンの意味するところもはっきりせず、理解に苦しむことになると思います。尤も、二元論だの二項対立だの脱二項対立だのというのはヨーロッパ人の教養から生まれて来た発想法であるため、日本人がそのことで悩む必要はないかも知れません。日本の場合、例えば能の世界観であったり、或いは盂蘭盆の習慣であったりというように、そもそも死者と生者の境界が曖昧で、その曖昧さを楽しむという独特のスタイルがありますので、それはそれで大切にすればいいのではないかとも思えます。

武田信玄の父子関係の陰



武田信玄は政治家としては有能で、戦争にも強かったことで知られていますが、彼が暗い父子関係を経験していたこともよく知られています。

有名なのは武田信虎の追放ですが、これはどうも今川義元との密約があったらしく、武田信虎が駿府の今川を訪問した後、甲斐へ帰国しようとする際に国境を閉ざして父の帰宅を拒絶しています。

信虎に人間的な問題があったという指摘もあるようですが、家臣団の支持がなければ却って武田信玄が家臣団に殺されることもあり得ますので、武田信玄本人、家臣団、更に今川氏と関係者が事前に同意した上での追放劇だったようです。武田信玄は今川氏に信虎の生活費を送っていたとされており、一番確実なのは殺してしまうことかも知れませんが、さすがにそれは躊躇われたということなのだろうと思います。信虎追放についてはどうしても信虎が人間的に問題があったという取り繕うのような記述だけが残り、実際のところは分からないわけですが、信虎によって潰された家が復活していることから、やはり武田信玄と家臣団との間に充分な了解があったのだろうと考えることができます。

もし以上のことだけで済むのであれば、武田信玄の戦略家としての一面を語るだけで終わるかも知れないのですが、武田信玄の息子の武田信義も不審な死を遂げており、そこに暗い影をどうしても見てしまわないわけにはいきません。『甲陽軍鑑』では、武田信義が謀反を計画し、その事件の発覚後に東光寺というお寺に幽閉され、二年後に亡くなったされています。死因については不明なままですが、殺されたか、自決したか、自決させられたかのいずれかと考えるしかありません。

その背景には武田信義の今川氏の娘と政略結婚しており、結果、信義が今川派となってしまい、武田信玄の今川侵攻の方針と対立したからだともされていますが、やはり死ぬところまで追い込むところに非情さを感じざるを得ません。

フロイト的にエディプスコンプレックスである程度は説明できることかとは思いますが、武田信玄が父の信虎は追放するだけに止め、息子の信義は死ぬところまで追い詰めたのは何故なのだろうという疑問も残ります。もしか息子から見て父はどうしても偉大な存在に見えやすく、信虎の命を獲るのは怖かったのかも知れません。一方で、息子に対しては自分の所有物だという意識が当時の人物であれば当然持っていたでしょうから、自分の所有物を煮ても焼いても構わないと考える非対称的な人間関係が作られていたのかも知れません。家族を愛することが極端に苦手な人だったのではないかとも思えます。

武田信玄の父との関係、また息子との関係を見ると、そこに「歪み」を感じます。しかし、人は誰しもが何らかの歪みを持つもので、武田信玄にも歪みがあるのは普通のこととも言えます。ただ、彼の場合は自分の歪みに対する自覚があったのではないか、それ故に戦いになったら相手の心の歪みを見出してそこを衝いていくこともできたのではないかとも思います。三方が原の戦いは半分は徳川家康との心理戦で、徳川家康は武田信玄の狙い通りに出撃して、待ち伏せされるという展開を見せます。そのように相手の心を見透し、見えない糸で相手を動かしてしまう力があったのも、自分の心理的な歪みに対する自覚ゆえのことかも知れないと思います。最近の流行の言い方で言えば、自分を受け入れることで弱点を克服する、というような感じで言えるかも知れません。

信長が本能寺の変で死んでしまうのは、京都は既に完全にコントロール下にあって安全だと思い込みたいという信長の心理が働いていたと見ることもでき、そういう意味では信長には焦りがあって、現実を受け入れなかったために招いた結果と言うこともできます。朝倉義景も今自分が引いても問題ないと思いたいという願望が現実に対する認識を誤ったとも言えます。

その辺り、武田信玄は自分の願望や恐怖と現実を混同することを避けることで戦国最強と呼ばれるほどの成果を挙げたと捉えることもでき、現代を生きる我々にとっても参考にできる部分があるのではないかとも思います。

関連記事
織田信長と足利義昭と武田信玄
乃至政彦『戦国の陣形』に学ぶ
勅使河原宏監督『豪姫』の時間を隔てた愛

嫌いな人を愛する

生きているとどうしても嫌いな人に出会います。学校や職場に嫌いな人がいて、しかも何らかの理由で協力しなければいけない立場になることもあります。もし、過去のいきさつにひっかかることがあったから嫌いだとすれば、話し合ってそのことに決着をつけるとか、或いは相手が謝ってくれたらそれで赦すとかそういうことができますが、謝らない場合もあります。逆切れされてむしろ悔しい思いをすることもあります。更に言えば、生理的に嫌いな場合、どれほど努力してもやっぱり嫌いなものは嫌いですから、どんなに自己暗示をかけて「あの人は良い人だ。僕はあの人のことが好きだ」などとやってみたところで、かえって自分の心に嘘をつき、自分を苦しめてしまうことになってしまいます。人によってはもう無理…と思って職場をやめてしまうこともあると思います。嫌いな人のために自分が転職リスクをとらないといけないなんて、馬鹿馬鹿しすぎて本当に残念な気持ちになってしまうかも知れません。

私個人は嫌いな人のことを好きになることはまず不可能だと思っています。99パーセントくらいは不可能で、これはもう仕方がない。好きになることを諦めるしかない。できればその人とかかわりのない生活を送りたいと願うしかないかも知れないと思います。残りの1パーセントは相手がある時、とてつもなく自分を助けてくれることがあった、それで相手に対する見方が変わったというようなこともあり得ると思いますが、そもそも生理的に嫌いというのは、「この人はそういう人じゃない」と深いレベルで気づいているから嫌いなので、そういうことはあまり期待しない方が良さそうな気もします。

自分を変えれば相手が変わるとよく言われますが、自分に無理をかけて相手に笑顔を見せて、相手に親切をして…といったことを続ければそっちの方が苦痛でかえってよくないような気がします。

ここは、「自分はあの人のことは嫌いなんだ」と開き直ってやっていくしかありません。嫌いな人がいるというのは普通のことで、嫌いな人とかかわりたくないと思うのは正常な心の動きだと思います。

ただし、相手の不幸を望む必要はありません。他人の不幸は蜜の味で、嫌いな人が困ったことになっていたりしたら、ちょっと気分が晴れるという経験は私もないわけではありません。ですが、そういうのは美しくないですから、相手が自分と関係のないところで幸福になってくれるといいなあと思う心の在り方を、ある種の矜持として持ちたいものです。というよりも、嫌いな人のことで自分が心の中で汚れたことを考えるなんて、そっちの方が嫌です。「憎む」などというエネルギーを浪費する行為を嫌いな人のためにやりたくありません。

「嫌いな人を愛する」というのがこの記事のタイトルですが、「嫌いな人のことを嫌いのままでいい」のであれば、愛するってどういうことよ?ということになります。タイトルと内容が矛盾しているみたいに思います。

愛には無数の形やパターンがあると思いますから、飽くまでもその一形態ですが、どんなに嫌いな人でも人間としての価値は自分と同じだけあるのだと認め、あんなに嫌な人にもその人のことを愛している人もいるのだと認める、すなわち人間として尊重する。できるだけ接点を減らして口もききたくないですし、顔も見たくないですが、それでもその人も価値ある人間で尊厳があるのだと、心の中で認めることも、一つの愛の形かなあと思います。表現する必要はありません。表現するために相手と接点を持たなくてはいけなくなりますから、表現しなくていいです。

ただ、心の中でそう思う、相手の人間としての尊厳を静かに認める。そのうえで敬遠する。そうすると敬遠の仕方が変わってきます。どのみち相手も自分のことを嫌いなことは想像に難くありませんが、敬遠の仕方が変わると、相手の敵意を逸らすことができ、無用なトラブルを減らすことになるのではないかなあと思います。

『幸せになる勇気』のアドラー心理学の愛の実践

とてもいい本です。アドラー心理学の実践編で、『嫌われる勇気』の続編です。以前『嫌われる勇気』を読んだとき、レトリックばかりのように思えて、上手に理解することができませんでした。アドラー心理学の入門みたいなものを読んだこともありましたが、反論したいことやもっと質問したいことが沢山あって、ちょっと違うかなあと思っていましたが、この本を読んでだいぶよく腑に落ちた感じがします。

私の理解ではアドラー心理学は

1、他者の評価を気にしない
2、自分のやりたいことをやる
3、他人に押し付けない
4、そのままの自分を受け入れる

という感じです。一つ一つの言葉は確かにその通り!と納得できますが、「でも、しかし…」がついてきます。そんな生き方してたら、どんどん孤独になるのでは?一人で生きろと?みたいな疑問が私の中にはありました。それなら、それでいいですが、そしたらアドラーさんみたいな偉い先生の話なんか聞かなくてもできるもんと思っていました。一人でできるもん。です。

ところがこの本では、更にその一歩、愛の実践の話に入ります。愛とは能動的に他人を信頼し、その反応は相手に任せて自分が実践するものだ、ということらしいです。途中でエーリッヒフロムの本が念頭に浮かびましたが、この本でもフロムに触れています。ただ、フロムの『愛するということ』は前置きが長く、結論があっさりしていて、拍子抜けで、正直ちょっとがっかりでした。

それに対して『幸せになる勇気』では、実践するとはどういうことか、どのように実践するのかが具体的に分かりやすくかかれてあり、自分にも実践できそうだと感じました。

また、他者評価を気にしない、そのままの自分を受け入れる(そのままの他人も受け入れる)、自分を愛する、他者を愛するということなどについて、普通にいろいろ疑問に思ったり反論したくなったりすることが対話形式で述べられていて、「そうそう、そこ、それ」と膝を打つ思いで読み進めるができました。相手がどういう反応をするかは完全に相手に任せて、自分は目の前にいる人物に対して自分ができることをする、という姿勢はある種の決然さを要求されますが、何故、そうすることに価値があるのかということを納得することができます。

相手に任せるということが相手を尊敬することであり、それが真実に人間関係を築いていくことができるというのは、確かにそのとおりですが、そのためには相手が期待通りの反応をしないことを受け入れるという勇気を持つしかありません。まさしく『嫌われる勇気』です。

そして更に一歩進めるならば、愛の実践もまた、男女愛であれば特定の異性と幸福を築いていくという決然たる意志によって行われることで、そういう意味では『幸せになる勇気』を持つのがいいと述べています。

私はどんなことでも好き嫌いが激しく、嫌いな人とは「さよなら…」しかないと思い込んでいる面がありますが、そこを更に、それが男女愛であっても、或いは友情であっても、その他いかなる人間関係でも、相手に強いることなく幸福な関係を築こうとする決意を持つ。というのは当然のようでいて忘れてしまいがちな人生の価値と言えるかも知れないなあと思います。

個人主義的に生きている人でも、共同体重視思考で生きている人でも、一読してみて自分の在り方を省みる手助けをしてくれる本になると思います。真摯な、とてもいい本です。