徳川慶喜と孝明天皇



徳川慶喜は京都の政界で活躍中、概ね、京都の朝廷関係者からは好意的に受け入れられており、その実感が慶喜の政権運営への自身を持たせたのではないかと推量します。政治に忙殺されていた時期は江戸に立ち寄ることもなく、ひたすら京都か大阪にいて幕閣を江戸から呼び寄せて仕事をしていたのも、近畿にいるとシンパが多くて狙い通りに物事が動くということが強い理由としてあったかも知れません。

特に孝明天皇が徳川慶喜びいきで、時の天皇が慶喜に厚い信頼を寄せている以上、他の公達もなかなか反対というわけにもいかず、親長州反幕府の公卿たちは自業自得の面もあったとはいえ都落ちさせられています。

江戸幕府にとって京都はある意味では敵地とも言えるはずですが、そのような土地で慶喜がかくも優位に振る舞うことができたことの理由としては、母親が有栖川家の正真正銘の皇族で、血筋的に文句がつかなかったというのが大きかったかも知れません。慶喜を関白に推す声が上がったのも、そういう母方の血筋が影響しているように思えます。また、水戸学が熱心な尊王思想で、慶喜はその教養を身につけていたでしょうから、そういうことも朝廷からは好意的に受け入れられていたように見受けられます。

慶喜は将軍就任後に宮様の側室を得ようと画策した時期があったようなのですが、もしかすると宮様との間に生まれたことも嫡流にしようという目論見もあったかも知れず、慶喜自身も自分の母親が宮様であるということの計り知れない利点をよく知っていたということの証左と言えるかも知れません。

慶喜がわりとあっさりと大政奉還で江戸幕府を解散してしまうのも、自分は朝廷派の人間であるという自覚があり、先方を焦らせて狙い通りの政治を進めると言う、時に大胆とも思える戦略で政治に臨んだのも、以上述べたことからくる大きな自信に裏打ちされいたのではないかとも思えます。

そのような経緯があったため、薩長クーデターで京都が占領され、慶喜が一旦大阪城へ退いた時、家臣たちが憤慨する一方で慶喜がじっと待ちの姿勢に入り、自分に泣きついてくるのを待つというのは過去の経験から導き出されたなかなかの上策であったとも言えるでしょう。ただ孝明天皇が亡くなり、明治天皇の抱き込み見込みは立っていなかったので、計算がうまく立たない時期に入ったと言えるかも知れません。

慶喜は家臣団の怒りを鎮めることができず、やむを得ない形で軍を大阪から京都へと進めさせます。兵隊の数で言えば徳川軍が圧倒的に有利、装備の点でもフランス式陸軍連隊を投入していますので、必ずしも徳川軍が劣っていたとも言えません。戦場に楠木正成以来の「錦の御旗」が登場し、そこで形成が決定的になったというのは私には何となく信じられないのですが、大阪城で戦況の報告を待っていた徳川慶喜がその報せを受けたときの心理的なショックは相当に大きかったものと想像できます。

朝廷の支持を得ているということを権力の基盤にしていた慶喜にとって錦の御旗に弾を打ち込むということは自己否定にならざるを得ず、これはもはや戦闘停止、ゲームオーバーと彼が考えたとしても全く無理はありません。 

兵隊を見棄てて自分だけ江戸へ軍艦で逃げ帰るという最後の最後でみっともない姿を見せるのことになったのは、慶喜本人がこの段階でゲームオーバーであるということを充分に理解していたからであり、江戸でフランス公使のロッシュからの協力を申し出られても断ってお寺に謹慎する道を選んだというのも、江戸には慶喜の権力基盤がないという現実をよく分かっていたということの証左のように思えます。この辺りを充分に見通したあたり、確かに聡明です。慶喜が政争で一か八かの賭けをしたことはなく、必ず状況を分析した上で勝てる戦略を立てて事に臨んでいましたので、江戸へやってくる官軍を迎え撃つというのは勝てるかどうかわからない、やってみなければわからない賭けになりましたので、そういうリスクは取らなかったのでしょう。慶喜の心中はそれまでに交流した朝廷の面々の顔が浮かび、今や朝敵指定された自分のことをどう言っているかというのが去来したことと想像します。

政治にも軍事にもずば抜けて明るかったであろう慶喜が維新後に沈黙を守り抜いたのは、ある意味では拗ねて見せていたというのもありそうな気がしますし、過去の面白い大政治をしていたことから考えれば、それよりも格下の政治ゲームに参加する気になれないというのもあったのではないかと思います。幸いにして彼は多趣味で、写真を撮ったり油絵を描いたりして長い晩年を送ります。結果としては潔い、いい晩年ではなかったかと思えます。




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幕末の日本はイギリス人のグラバーの支援を受ける薩長同盟軍とフランスが肩入れしている徳川軍とに分かれ、英仏の代理戦争が日本で行われたかの感があります。

特にフランス公使のロッシュの場合、国の方針を越えて徳川慶喜に個人的に相当肩入れしていたらしいと言われています。ロッシュは徳川慶喜にフランス産の馬を送った他、ナポレオン三世からの贈り物として皇帝服も送られており、慶喜が皇帝服を着て撮影した写真も残されているほどです。また、幕府はフランスから240万ドルの支援を受けて横須賀製鉄所の設立の計画にも着手しており、ここだけを見ると徳川幕府とフランス公使のロッシュとの関係は相当な浅からぬものであったと考えるべきでしょう。

ナポレオン三世は世界中に影響力を及ぼす壮大な構想を描き、クリミア戦争でも辛うじて勝利した側につくことでいけいけどんどんではありましたが、アルジェリア植民地政策の強化、中国、ベトナムへの侵略的進出、メキシコへの出兵など野心に燃えた人物であり、ナポレオン三世と深くかかわると、下手をすると日本にも口実をつけて大量に兵を送り込み植民地にしてしまおうという野望をもち、しかもそれを実行しかねないという懸念のある人物でしたので、ナポレオン三世から大金を借りることは日本にフランスの橋頭保を築かせる格好の口実にすらなり得、なかなか楽観できるものではありませんでした。

ただ、徳川慶喜が完全にロッシュべったりだったかと言うと怪しい点が残っており、大政奉還後に薩長による武力的京都占領に伴い、大坂に撤退した徳川慶喜でしたが、大坂ではロッシュとだけでなくイギリス公使のパークスとも面談し、「今後も日本の外交を司るのは自分だ」と宣言しています。そういう意味では慶喜はフランス一辺倒というわけではなく、イギリスともある程度わたりをつけた等距離外交を目指していたと見ることもでき、イギリスに対して意地悪な見方をするとすれば、薩長に肩入れしつつも、勝ち馬に乗るために幕府と薩長の両方と気脈を通じていたという言い方もできるのではないかと思います。

勝海舟の回想によると、江戸開城について西郷隆盛と話し合った際、慶喜の助命をどうしても西郷隆盛が受け入れない場合にはイギリス公使パークスの手引きで徳川慶喜をイギリスに亡命させる手筈を整えていたということですから、いざいよいよという時には、ナポレオン三世よりはイギリスの方が信用できると踏んでいたのかも知れません。

当のロッシュは慶喜の江戸帰還後も徹底抗戦を訴えており、それは単にナポレオン三世の意図というものだけでなく、個人的に慶喜への親愛の情が強かったからだともいわれています。慶喜はフランス式陸軍連隊を創設させており、ジュール・ブリュネというフランス人軍事顧問は函館戦争まで旧幕府軍と行動を共にしていますので、利害だけでなくもうちょっと親愛の情で幕府とフランスが結ばれていたという可能性も捨てきれません。

徳川慶喜に結構、肉迫していたともいえるナポレオン三世ですが、肩入れしていた江戸幕府は潰れる、メキシコに置いた傀儡皇帝のマクシミリアンは殺される、挙句の果てには普仏戦争で自身が捕虜になってしまい、国民の支持も失った彼はイギリスに亡命して晩年を送ります。

ナポレオン三世はそういう意味では武運があまり味方していない人で、自分がプロイセンと戦って捕虜になり失脚しただけでなく、メキシコ皇帝として担いでいたハプスブルク家の血を引くマクシミリアンは最期には銃殺されており、かかわった人はことごとくエライ目に遭わされているという印象が強いです。徳川慶喜の場合は水戸で謹慎させられ、その後は静岡県でおとなしく隠居生活をさせられることになりますが、ナポレオン三世と手を結んだ人のわりには穏便な余生をそういことができたと言うことができるかも知れません。



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ペリー艦隊が浦賀沖に現れた1853年、時の徳川将軍は第12代徳川家慶でした。家慶が将軍に就任したばかりのころは、先代将軍家斉が大御所として実質的な権力を握っておりあまりぱっとせず、次の将軍に予定されていた家定は極度な病弱でおそらく大変不安に思ったでしょうから、気の毒な将軍だなあという印象が強いです。

水戸家は本来絶対に将軍職に就けないとされていた水戸家の徳川慶喜を一橋家に養子として入れたのは、家慶の発案によるもので、慶喜の頭の良さは幼少期から評判で、できればそういう人物を次の将軍にしたいと家慶が考えていたと言われています。もし仮に慶喜が13代目の将軍に就任していたとしたら、後年、将軍後見職や禁裏御守衛総督の時に相当に熱心に政治に参加していたことを考えると、なかなか手腕を発揮していたかも知れず、日本は天皇家と徳川家の両方を君主にした立憲君主制の国なっていたかも知れません。

徳川慶喜は徳川将軍の中で唯一写真の残されている人物ですが、なかなかの美男子で、徳川家定が将軍をしていた時に、お女中たちが慶喜が通るとはしゃぐので、家定が非常に嫉妬したという話も読んだことがあります。大奥のお女中たちと飽くまでも臣下の立場である慶喜が顔を合わせる機会があったかどうかは多少怪しいですが、二百年続いた大奥ですので、その辺はいろいろとうまい仕掛けがあったとしても不思議ではありません。

家定の死後、江戸幕府内部では一橋慶喜擁立派と紀州の徳川慶富を擁立する南紀派とに分裂し、南紀派が勝利して大老井伊直弼の辣腕が発揮されるという展開になりますが、いわゆる安政の大獄で一橋派に対する粛清が行われ、徳川慶喜も謹慎が命じられます。この辺り、慶喜本人からしてみれば何もしていないのに罪人扱いをされたわけで、不必要に政治に介入しようとした父親に対して頭に来たか、それともこの手の茶番で右往左往し日常の仕事はほとんど劇場国家の江戸幕府に愛想が尽きたかしたか、その心境は想像になりますが、こんな幕府ならなくても日本は困るまいという考えが彼の内面に生まれて、大政奉還という奇策に出るのにためらいを感じなかったのではないかという気もします。

勝海舟の回想によれば徳川慶喜はなかなかの西洋好きだったらしく、その点で国学一筋だった父親の徳川斉昭とは合わなかったでしょうから、仮に13代将軍に慶喜が就任していたとしても、徳川斉昭が生きている間はいろいろうるさく口を出されて意外な迷走を見せた可能性も残ってはいますが…。



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