司馬遼太郎『関ケ原』を読むと、関ケ原の戦いわけのわからない部分がわりとよく分かるようになる

関ケ原の戦いのわけのわからない部分は、一般的に豊臣秀頼を擁立した石田三成と徳川家康が戦ったということで説明されています。しかし、だとすれば豊臣政権という正規政権を守るための戦いであるにもかかわらず、なぜ秀吉七本槍と言われた福島正則が徳川家康につき、加藤清正は事実上の局外中立みたいになっていたのかということとがよく分かりません。

いろいろ読んでもわかったようなわからないような感じで上手に全体像をつかむことが分かりません。これは関係者、世間一般、などなどそれぞれにこの戦いの位置づけが違うことから説明が難しいややこしいことになっていることに原因があります。

まず、石田三成は徳川家康を謀反人と位置づけ、自分たちが豊臣政権の正規軍であるという立場を採って戦いに臨みます。一方の徳川家康ですが、そもそも上杉征伐を豊臣政権の正規軍という体制で行うために出発し、その途上で石田三成の旗揚げを知りますから、徳川家康こそが豊臣政権の正規軍という立場で、石田三成こそ謀反人という立場で戦いに臨むわけです。

ついでに言うと朝廷から見れば、関ケ原の戦いは石田三成と徳川家康の私闘という立場で事態の推移を見ていたものと考えられます。関ケ原の戦いから徳川家康の将軍就任まで3年もかかっているという事実は、朝廷が豊臣政権を正規の政権と見做していたため、私闘で勝っただけの徳川家康に将軍職を与える正当性があるとは当初考えていなかったことを示すものと思えるからです。

徳川家康に福島正則がついたのは関ケ原の戦いを大嫌いな石田三成をやっつけるための私闘と位置づけ、豊臣政権の正当性は一切毀損されないと思っていたかららしく、福島正則、加藤清正ともに豊臣政権への忠誠心は厚いものがあったと言われていますから、簡単に言うと大局観のようなものが全くなかったと考えるのが正しいように思えます。

百戦錬磨の大狸の徳川家康は、それをうまいこと言って、豊臣政権に挑戦するわけないじゃん。この戦いは豊臣政権の簒奪を狙う石田三成をやっつけるための戦いに決まってるじゃんという立場を貫き、まんまとそれに乗せられたという感じでしょうか。

もちろん、徳川家康は怪しいなあ、豊臣政権を潰して自分の政権を作ろうとしているんじゃないかなあと思った人は多いはずですが、そこからは心理戦も絡んできます。内心、徳川家康が次の天下を獲るだろうけど、豊臣政権に挑戦するのはスジが悪い。でも、表面上家康と三成の私闘ということなら、問題ないよねという立場で次の権力者徳川家康にすり寄るものが続出します。石田三成は嫌われまくったということで有名ですが、石田三成が嫌いな人は上に述べたような理屈で家康につくわけです。

一方、大局をきちんと見ていて、徳川家康をほうっておくと豊臣政権は潰されるよね。という立場で戦いに臨んだのが宇喜田秀家。漁夫の利でなんかとれるといいなあと思っていたのが毛利輝元。という辺りになるのではないかと思います。

さて、この戦争で誰がどちについたのかについては二人の女性の要素も無視できません。一人は秀吉の正妻である北政所、もう一人は秀頼の母親の淀殿です。北政所の目には、秀頼を生んだ淀殿に豊臣家を乗っ取られたような心境でしょうから、淀殿・三成同盟にシンパシーはありません。徳川家康に肩入れし、秀吉に恩を感じる大名に家康に加担しろとけしかけます。一方淀殿は三成と同じく人望にかけ、諸大名への影響力はありません。

突き詰めると、豊臣家内部の人間関係が分裂していたことが、徳川家康に隙を与えたとも言え、あらゆる権力が滅びる時はまず内部の崩壊があるということがこの場合にも当てはまるのではないかと思えます。司馬遼太郎さんの『関ケ原』を読むとその辺りのややこしいところがよく分かるようになります。

この戦いの以降、大坂の陣で豊臣家が完全に滅ぼされるまでの間、豊臣は豊臣で政権掌握者、家康は家康で政権掌握者というちょっとよく分からない曖昧な状況が続きます。これを終わらせるために家康は難癖をつけて大坂の陣を起こすわけです。

元々秀吉によって出世させてもらった豊臣家臣で家康に加担した大名たちを家康は快く受け入れていますが、戦争が終わった後はばんばん潰しています。家康が内心、裏切り者を軽蔑していたことを示すものではないかとも思いますし、やはり裏切るというのはいい結果をもらたらさないという教訓も含んでいるような気もします。

司馬遼太郎さんの作品に言及すると、島左近かっこいいです。私もかくありたいものです。

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原田眞人監督『関ケ原』の2人の女性の愛

原田眞人監督の『関ケ原』、観てきました。原田監督は「男にとって女性とは何か」を考え抜き、それが作品の内容に反映されていると私には思えます。で、どういう視点になるかというと、男性は女性に愛されなければ生きていけない(ある意味では独立性のない)存在であると規定し、女性から愛されるとどうなるか、愛されなければどうなのか、ということを問いかけてきます。たとえば『自由恋愛』では圧倒的な経済力にものを言わせて2人の女性を手に入れたトヨエツが、最後、女性たちに見放され悲しく退場していくのと対照的に女性たちは女性たちだけで存分に輝く世界が描かれます。『クライマーズハイ』では、妻に愛されなかった新聞記者が、妻以外の女性に愛され、後輩女性記者とは恋愛感情抜き(潜在的には恋愛感情はあるが、顕在化しない状態)で仕事に向き合います。

『関ケ原』では、石田三成を愛する伊賀くノ一の初音と徳川家康を愛する、これもはやはり伊賀のくノ一の蛇白(だったと思う)の2人は同じ伊賀人でありつつ、敵と味方に分かれるという設定になっています。石田三成を美化するスタンスで描かれ、徳川家康のタヌキぶりを強調する感じで描かれていますが、純粋で真っ直ぐな石田三成は行方不明になった初音を思いつつ、戦いに敗れて刑場へと向かいますが、その途上で初音が現れ、あたかも関係者でもなんでもないふりをして軽く会釈をします。石田三成と初音はプラトニックな関係ですが、その分、清潔感があり、石田三成という人物のやはり純粋さを描き切ったように感じられます。生きているということを見せるために彼女は現れたわけですが、石田三成は彼女の無事を知り、安心して刑場へと送られていきます。『ラセーヌの星』というアニメでマリーアントワネットが2人の子供が脱出できたことを知り、安心して刑場へと向かったのと個人的にはダブります。

一方で、徳川家康は話し上手で女性を魅了することも得意です。関ケ原の合戦の最中に陣中に現れた刺客に対し、白蛇が命がけで家康を守ろうとしますが、家康は彼女と刺客をまとめて切り殺してしまいます。原田作品ファンとしては、たとえ時代物映画であったとしても「女性を殺す」というのは最低の行為ということはすぐに察することができますから、家康という人物の悲劇性が描かれているというか、家康が自分の命のためには自分を愛した女性をためらいなく殺してしまう悲しい人生をおくった男という位置づけになるのではないかと思います。

徳川家康は役所広司さんが演じていますが、悪い奴に徹した描かれ方で、多分、この映画のためだと思いますが、全力で太っており、ルックス的にも悪い奴感が全開になっており、監督の求めに応じて役作りをしたこの人は凄い人だとつくづく思えてきます。

原作を読んだことがなかったので、すぐに書店に行き、原作を買い、現在読んでいるところですが、原作と映画にはかなりの違いがありますし、原田監督としては原作を越えた原田色をしっかり出すということを意識したでしょうから、原作と映画の両方に触れてしっかり楽しむというのがお勧めと思います。

原田監督の作品は、分からない人には分からなくていいというスタンスで作られているため、予備知識がないとなんのことか分からない場面や台詞がたくさん出てきます。私も一部、ちょっとよく分からない部分がありましたが、それはみる側の勉強不足に起因していることになりますから、原作を読んだり、他にもいろいろ勉強してまた映画を観て、そういうことか、と納得するのもありかも知れません。

徳川家康と三浦按針



イギリス人航海士のウイリアムアダムスは、ロッテルダムでオランダ船籍のリーフデ号に乗り込み東洋への航海に出発します。しかし、他国船に襲われたり、寄港先で現地人に襲われたりして人員が減少していき、残り少ない乗組員たちとともに、彼は豊後の国、今の大分県に漂着します。

関ケ原の戦いの少し前の時期、徳川家康が彼と面会し、西洋事情をいろいろと問い質します。ウイリアムアダムスを江戸に招き三浦按針という名前を与え、250石の知行も与えて彼を外交・技術顧問として重宝したようです。この他にも同じ船に乗っていたオランダ人航海士のヤンヨーステンにも名前を与え、江戸で屋敷を与えたといいます。ヤンヨーステンは耶揚子という名前を与えられ、今の東京駅の八重洲口の「八重洲」は耶揚子がなまったものであると伝えられています。織田有楽斎の屋敷があったから有楽町というのと同じ感じです。他にもリーフデ号の船長だった人物も徳川家康に仕えたと言われます。

ヤンヨーステンと船長はオランダに帰国するための航海でなくなってしまいますが、三浦按針は日本に残り、50歳以上まで生きて日本で亡くなります。当時としてはわりと普通の年齢で、充分に生きて死んだということができるかも知れません。
イギリス東インド会社のクローブ号が貿易を求めて平戸に来た際、三浦按針には帰国するという選択肢もあったようですが、彼は日本に留まりました。その心境というものは想像するしかありませんが、知行も与えられて専門家扱いされていたので、日本の居心地がそこまで悪いというわけではなかったのかも知れません。

三浦按針は日本人女性と結婚し、息子のジョセフと娘のスザンナをもうけたとされており、息子のジョセフは二代目三浦按針として貿易などをやっていたようです。ただし、ジョセフの晩年については知られておらず、その後、子孫が続いたかどうかも分かっていません。日本がヨーロッパとの貿易を制限する方針をとったことで、ジョセフはあまり活躍の場を得ることができなくなったのかも知れません。アンボイナ事件により、イギリス東インド会社の劣勢が決定的となり、ヨーロッパの対日本貿易はオランダが独占するようになっていきますので、そのこともイギリス人の血を引くジョセフの人生に影を落としたのではないかとも思えます。子孫がいるという噂もあるようですが、何代も続くうちに見た目も普通の日本人なのかも知れません。また、子孫の方がいらっしゃるとしても、ご本人もそのことを知らないとかそういう感じかも知れません。

徳川家康と豊臣秀吉

豊臣秀吉にとって、その晩年に最も重くのしかかったのは徳川家康という存在ではなかったかと思います。織田信長が生きていた間、秀吉は信長の家臣で、家康は信長の同盟者ですから、家康の方が格上ではありましたが、同時に信長に認めてもらうための競争者であり、信長の死後、秀吉は清須会議を経て政権を確実なものにしていきますが、その過程で彼に立ちはだかったのが他ならぬ徳川家康でした。

徳川家康は織田信雄と連合し、秀吉を政権の簒奪者であると非難し、北条氏や毛利氏への協力も仰いで秀吉包囲を固めていきます。清須会議の際に秀吉に抱き込まれた池田恒興が秀吉の側につき、戦いは8か月に及ぶ長期戦で、膠着状態が続きますが、長久手の戦いで池田恒興が戦死し、秀吉は窮地に立たされます。劣勢を挽回するため、秀吉は家康との衝突を諦めて家康が担ぐ織田信雄の伊勢を攻め上げ、信雄は単独講和に踏み切り、家康は梯子を外された形になってしまいます。秀吉の戦略勝ちと言えます。

その後、家康と秀吉の間で和解が行われ、家康が秀吉に臣従するという形式でことが収まりました。しかし、戦闘そのものでは家康が勝っていたという事実は誰もが知っていることですし、じゃあもう一回やるかという時におそらくは勝つ自信がなかったのでしょう。家康に何らかの処分が下されるということはありませんでした。秀吉としては恐るべき家康が譲歩してくれたというだけで満足するべきだと考えたのかも知れません。

その後秀吉は小田原攻めで北条氏を滅ぼし、家康を三河から江戸へ国替えをさせます。京都から少しでも遠い所に家康を追放するという狙いがあったことは間違いのない事と思います。秀吉は家康の江戸建設に落ち度があれば難癖をつけて家康征伐ということも狙っていたという話もありますが、もし難癖をつけるのであれば、なんでもいいので理由を見つけて言いがかりをつけて戦端を開いていたでしょうから、秀吉は小牧長久手の戦い以降は家康には勝てないと観念していたのではないかと私は思います。

小田原攻めの前に近衛前久の猶子となって関白職を得て「天下人」になった秀吉は、上昇志向の性格を変えることができず、外へ関心を向け、明征服、その通り道としての朝鮮出兵という完全に無意味なことにエネルギーを費やします。もし私が秀吉のアドバイザーだったら、朝鮮出兵にかける多大な情熱とリソースを家康潰しに使うべきだと提言したと思いますが、秀吉がそうしなかったということは、やはり、家康のことが怖かったのでしょう。家康もそれが分かっていたので、後はじっと秀吉が死ぬのを待つという戦略をとったわけです。秀吉毒殺説があり、秀吉の朝鮮侵攻で迷惑していた李朝が秀吉暗殺を仕掛けたみたいな話を聞いたことがありますが、家康が秀吉を毒殺していても全然おかしくなく、家康は後に李朝との関係改善に努力しますが、両者が協力して秀吉を狙ったということがあったとしても不思議ではありません。完全に想像ですが。

秀吉が亡くなった後、秀吉の危惧した通りに歴史は推移し、やがて長い泰平の江戸時代に入ります。政権交代や下剋上などのダイナミズムを奪い、外国からの影響も排除することで安定指向の時代が作られていくわけですが、幕末になって日本は西洋を事実上無視していたことのつけを払わなくてはいけなくなります。安定した江戸時代が良かったのか悪かったのか、やはり何事も禍福は糾える縄の如しということかも知れません。

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織田信長と豊臣秀吉



豊臣秀吉は晩年、織田信長に寝所から引きずり出されて叱責される夢を何度となく見たといいます。想像するしかありませんが、病気が重くなり自分が近い将来亡くなることへの直観、自分の死後、徳川家康に秀頼が押しつぶされるのではないかという不安、秀次とその一族郎党を殺したことへの良心の呵責などが織田信長という巨大な存在に集約されて秀吉の夢の中に出て来たのではないかという気がします。

また、織田信長暗殺秀吉黒幕説に立てば、信長を殺したのも秀吉ですから、そのことも重く彼の心にのしかかったかも知れません。明智光秀の信長殺害に関する毛利に宛てた手紙が偶然にも秀吉の陣営に届くというのも話がうますぎて、あんまり信用できません。また、近衛前久の猶子になって公卿の家柄になり関白職を手に入れるという流れを見れば、近衛前久と秀吉が密某して信長を殺したとする説も必ずしもとんでも説とも言えない気がしてきます。

信長暗殺秀吉黒幕説が仮に都市伝説のようなものだとしても、本能寺の変の後の秀吉の動きは織田政権の簒奪そのものと言ってよく、このことの事実関係に議論があるわけでもありませんし、主家がその当主が殺されて困っている時に漁夫の利を狙っていくというのは、人間的に全然信用できないということの証左でもあり、そりゃ信長に叱責される夢を見るのも無理のないことのように思えます。

『太閤記』みたいなのを読むと、秀吉が信長の草履を温めていたなどのよくできた主従関係のエピソードが描かれていて、できすぎな感が強いわけですが、太田牛一の『信長公記』では少年時代の信長は結構な悪ガキで行儀も悪く、不良仲間と肩を組んで連れ立って練り歩いていたそうですから、ヤンキーカーストの頂点に立つ信長の目からすれば、秀吉は自分の分をよくわきまえて従順なパシリだったという風な感じで
したでしょうから、使いやすかったのかも知れません。

ヤンキーカーストの世界では強い者と弱い者がはっきりと区別され、席次のようなものも明確になっており、そういうのに馴染めない人物は村八分みたいにされてしまいますので、ローンウルフを選ぶしかなく、芸術家になったり(成功するとは限らない)、坊さんになったりしたのだと思いますが、カーストの内側にいる場合は、力さえあれば逆転したい、下剋上したい、席次を上げたいと思うのが常とも言えるでしょうから、秀吉の場合は正しくその夢を実現したのだと言えますし、且つ、それによって得られる現世的な楽しみを存分に享受したとも言え、おめでとうというくらいのことを言ってあげてもいいですが、清須会議や秀次事件を見ると、「姑息」「ずるがしこい」という言葉どうしても私の頭に浮かび、利休切腹のことを考えると「小さい男」という言葉が浮かび、朝鮮出兵や天皇の北京行幸計画などについては無謀、アホ、現実認識の歪みなどを感じてしまいます。

秀吉のことをただあしざまに述べてしまっているだけになってしまった感がありますので、少しは褒めることも述べようと思いますが、彼の子飼いの家臣たちの忠誠心は非常に高いもので、そこは人の心を掴むのに長けており、この人のためなら死んでもいいという武将が何人もいたという事実は称賛されるに価することではないかと思います。石田三成と加藤清正は互いに憎み合う関係で、殺し合いにまで発展しますが、豊臣氏への忠誠という立場では同じで、関ケ原の戦いの後も豊臣秀頼がかくも大切にされて敬意を集めたのも彼らの忠誠心の高さ故という気がします。秀吉の弱点は一代で天下を獲ったために譜代の家臣がいなかったことだという指摘を読んだことがありますが、たとえば幕末では徳川の譜代大名や旗本たちは結構役立たずで、長年仕えた家臣が頼りになるとは必ずしも言えないという気もします。

やがて全部家康がもらい受けることになりますので、いろいろあってホトトギスですね。

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高山右近の無私

大阪で生まれた高山右近は、その人生で無私を貫いた人物として知られており、私も高山右近のことはどうしても敬意を込めて語りたいという感情を持っています。

高山右近が好印象の理由として挙げられるのは、裏切りや謀反が当たり前の時代にあって、そういった渦中に巻き込まれる中、必ず筋を通すというか、裏切りや謀反をした方にはつかなかったというある種の原則を持っていて、それを曲げなかったというものがあるかも知れません。

もっとも、荒木村重には助けてもらった恩があり、荒木村重が織田信長に対して謀反を起こしたときは悩んだ末に筋を通して織田信長に降伏しますが、これは相当に悩んだ末であったことのようです。両方に義理立てできないという時に、筋を曲げている方から離れるという決断ができたのは、自分の中にそういう原則を持っていたからかも知れません。

彼を語る上でカトリックを外すことはできません。いわゆる欲望を満たすという誘惑に揺らがなかったバックボーンとしてカトリックが彼を支えていたであろうことは間違いないように思います。イエズス会は世界各地で随分あこぎなこともしていますので、カトリックが突出して素晴らしいとかそういうことを言うつもりはないですが、高山右近の場合はカトリックを通じて筋を通す自己教育を怠らなかったのだろうと推量します。

豊臣秀吉が伴天連追放令を出したことで、カトリックの洗礼を受けていた高山右近は進退に窮しますが、ここは小西行長の援助を受けてしばらく瀬戸内海に身を隠し、後に前田利家に招かれて、信仰だけに生きる生活を送るようになります。瀬戸内海では領地を捨てての潜伏生活で心理的にも体力的にも厳しかったのではないかと想像しますが、それでも小西行長の援助で生きながらえることができ、更には前田利家が引き受けてくれてもいますから「神は決してお見捨てにならない」という信念をますます強くしたに違いありません。

人生の終盤では、徳川家康がカトリックの禁令を出し、信仰を捨てるか日本を出るかの選択を迫られた時は、信仰を守って日本を出ることを選択し、宣教師たちとともにルソン島のマニラに渡ります。マニラでは熱烈な歓迎を受けたとされていますが、ほどなく病を得て亡くなりました。

この選択は難しいところで、人生の最期くらいゆっくりとした気持ちで穏やかな生活を送りたいと願うのが人情ではないかとも思いますが、彼の場合、信仰を貫くことへの満足感の方がより重要でしたでしょうから、老齢になって知らない土地へ行ったことは確かに苦労でしたでしょうけれども、多少寿命が短くなっても信仰を優先することの方がより彼個人にとっては良かったのではないかと思います。あと、想像ですが、当時の日本のキリシタンの人々のほとんどは南蛮経由でやってくるヨーロッパ人に会うことはあっても、南蛮がどんなところか見ることはできません。ですので、高山右近としてはこれを好機として南蛮がどんなところか見てみたいと思ったのではないかなあとも思います。自分の内面を最後まで守り抜き、知らない土地を見ることもできて、それなりに波乱万丈で、なかなかいい人生ではありませんか。

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大坂夏の陣と徳川家康戦死説

大坂冬の陣は真田幸村の築いた真田丸によって徳川家康は大阪城攻略を断念するということで一旦幕を引きます。しかし、講和条件が大阪城の外堀を埋めるという、大阪城を無力化するものでしたので、近い将来、もう一回戦あるということを徳川方は十分に考慮していたことは間違いがありません。一方で、豊臣方としては、大阪城が裸同然になってしまった以上、もう一回戦やるとなったら籠城はできませんし、野戦になったら物量で徳川家康に負けるということはだいたい分かっていたはずですから「徳川家康がこれで納得してくれればいいのだが…」という強い不安を感じていたに相違ないと想像します。

徳川方が講和条件にはない内堀の埋め立てを始めたことで豊臣方から待ったがかかり、講和決裂で大坂夏の陣になります。徳川家康は大阪城南方の茶臼山に陣取り、言葉は悪いですが高みの見物で、自分の軍が大阪城を文字通り燃やすところを見届けようという感じだったかも知れないのですが、真田幸村は大阪城での籠城戦が見込めない以上、野戦に打って出るという戦法を選択します。

天王寺あたりで真田幸村、木村長門守の軍が徳川軍と衝突しますが、別動隊が側面から徳川家康の本陣に襲い掛かります。絶体絶命のピンチで敵が圧倒的有利に見えるという時に織田信長桶狭間の戦いで今川義元の首だけに集中するという戦法を取りますが、大変に似ています。おそらく真田幸村の念頭には織田信長のこともあったのではないかと思います。

徳川家康は慌てて逃走し、正史では辛くも逃げ切り、真田幸村が戦死して豊臣方は抵抗力を失い、豊臣家は滅亡します。

さて、この時に徳川家康は実は逃げ切ることができず、戦死したというある種の都市伝説があります。

徳川家康は豊臣氏を滅ぼした翌年に亡くなっていますので、影武者でなんとか生きていることにして、一年くらいでいろいろ方がついたところで死んだことにするというのは、あり得ることかも知れません。

ただ、私個人としては徳川家康は実際に生き延びたのではないかと思っています。大阪城落城の直前、徳川家康の孫で豊臣秀頼の妻の千姫が大阪城から徳川陣営へと送られてきます。千姫は秀頼と淀殿の助命を嘆願しますが聞き入れられず、助命嘆願が不成功であったということを知ってから、秀頼と淀殿は自決しています。この時、助命しないとの最終決断をしたのは徳川家康だったとされています。

もし、徳川家康が戦死していて、最終判断が秀忠に委ねられるという局面であったとした場合、果たして秀忠は秀頼と淀殿の命を奪わないという決断をしただろうかという疑問が私の中に残っています。秀忠はわりと豊臣家に対して融和的で、西国は豊臣氏、東国は徳川氏でいいではないかという考えを持っていたふしがあり、秀忠が真実の最終判断者であれば、二人の命を助けるという選択は大いにあり得たのではないかという気がするのです。また、秀頼と千姫の間に生まれた子の国松も捉えられて斬首されていますが、このような非情な決断は影武者による仮の政権ではできないのではないのではないかとも思えます。本物の徳川家康が覚悟を決めて「やれ」と言わなければ、そうはならなかったのではないかという気がします。大阪で徳川家康が不人気なのは十分に理解できます。

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真田丸の戦術的効果

豊臣秀吉が築いた大阪城が難攻不落とされた所以は二重の堀にあります。特に外堀の場合、背後に淀川という幅の広い川があり、そこから水を引き込んで周囲も川の水で満たしていたわけですが、仮に敵が侵入を試みた場合、水があるとどうしても動きが緩慢になりますので、銃でねらい撃ちできるという効果が期待できました。

銃が西洋から伝来する前から弓矢を用いても同様の効果が期待できたと思いますが、当時は銃の保有数が日本は世界一で、基本的に戦争は銃でやるもので、銃撃をくぐりぬけて来た敵がもしいたとすれば接近戦で刀や槍を使うというようのが一般的だったと理解しています。もっとも、銃は専門性をある程度要求されますので(たとえば私は使い方を全く知りません)、銃の担当者は専ら銃を用い、敵が銃撃をくぐりぬけて来た場合は槍や刀の別の部隊が前面に出ていくということになると思います。また、銃は走りながら撃つとあんまり命中しませんし、突撃中の場合、味方の背中に当たる可能性もありますので、攻める側は当時はやはり刀と槍を重視せざるを得なかったとも思います。

さて、いずれにせよ、堀の水辺でまごまごしている敵を銃撃することを想定して作られた大阪城でしたが、南側の堀だけ水がなく、仮に敵が進撃してくるとすれば、空堀の南側から来るのではないかという危惧が豊臣サイドにはありました。そこで真田幸村が丸く湾曲に突出した砦を築いたのが真田丸です。一体、このような丸いものを突出させて何の得があるのかと私は子どものころ不可思議に思っていましたが、突出した部分があると、敵に対して十字砲火を浴びせることができるという利点があります。

一方からだけの射撃ですと、敵が遮蔽物に身を隠せば足止めはできても討ち取ることはできません。また、ワンサイドからだけの銃撃ですとやがて死角を悟られてそこを狙われてしまいます。ところが十字砲火を浴びせることができるとなると、双方から身を護る遮蔽物はそう簡単に見つかりませんし、移動式トーチカでも用意しなくてはいけないということになります。また、同時に二倍の銃弾を撃ち込むことができるため、下手な鉄砲数撃ちゃ当たるを地でいくことができ、とても有利になります。

要するに凸凹にさえなっていればそれでオーケーで、凸凹形式を発展させたものが北海道の五稜郭になります。五稜郭はよく見ると五芒星のそれぞれの突端が更にぐにゃぐにゃとしていて、十字砲火を何重にも浴びせられることを狙った構造になっています。

この真田丸を作ったことにより大坂冬の陣では真田幸村は見事大阪城を守り抜き、徳川家康は諦めて一旦休戦というか、外堀を埋めるという条件で講和します。ですが、徳川方が内堀も埋め始めたために「話が違うじゃないか」と決裂。大坂夏の陣になります。大坂夏の陣では堀がなくなってしまったために籠城戦は不可能と見て真田幸村は野戦を選びますが、あと一息というところで戦死してしまいました。

大阪で徳川家康がやたら不人気なのは、いちゃもんつけて騙し討ちというのが理由として挙げられると思います。ただ、豊臣秀吉も織田政権乗っ取りの時に随分あこぎなことをしていますので、どっちもどっちと個人的には思います。

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石田三成と加藤清正

豊臣秀吉の死後、豊臣家の家臣は石田三成、小西行長の文治行政官派閥と、加藤清正、福島正則などの武闘派に分裂します。一般に、関ケ原の戦いは豊臣氏に忠誠を誓う石田三成が、ポスト豊臣を狙う徳川家康に挑戦したものだと言われていますが、よく少しよく見てみると、石田三成派が加藤清正派の一掃を狙い、失敗したという側面があるようにも思えます。

豊臣秀吉は朝鮮半島を通って明に攻め込み、当時の世界観で言えばほぼ世界征服に等しい野望を抱きます。それは無駄で無意味な野望ですので、それを評価する人はいないと思いますが、秀吉に引き上げてもらった武将たちは真っすぐな気持ちで戦争に臨み、朝鮮半島に上陸して北上していきます。

この時の戦争のことで、おそらくは当初から肌の合わなかったであろう文治派と武闘派の決裂が決定的になります。加藤清正は秀吉への忠誠心の一心で、鴨緑江を越えて満州族と戦闘するところまで行きますが、堺の商人の息子で、秀吉に取り立てられて武将になった小西行長は平壌から先へは進もうとせず、和平工作することによって戦後の貿易利権を得ようと画策します。また、第二次朝鮮出兵では、加藤清正の動きを朝鮮王朝側に伝えて、加藤清正の戦死を狙う動きを見せており、そのような動きは加藤清正のような当事者であればじっとよく観察していれば分かってきますから、両者が分裂するのは当然と言えば当然のことのように思います。命がけの戦いをしている時に裏切者が出れば、それを赦すというのはなかなかできることではありません。

石田三成も朝鮮半島に上陸しますが、後方の占領地には行くものの、前線へは行きません。仕事の割り当てが違いますから、文官が前線に行く必要はないと言えばそれまでですが、北へ北へと戦って進んだ加藤清正のような立場からすれば、「石田三成は安全なところで口だけ達者だ」と怒りを感じたとしても、それは人情としてそうなるだろうとも思えます。蔚山城の戦いで「一部の日本兵がサボタージュをしていた」という報告が豊臣秀吉の耳に入り、秀吉はサボタージュしたとされる武将たちを叱責しますが、この時の告げ口した側とされた側で秀吉家臣たちは決定的に分裂したとも言われています。

このことの恨みが秀吉の死後に起きた石田三成暗殺未遂事件につながり、反石田派の豊臣家臣たちが関ケ原の戦いでは家康につくという展開になります。このような展開が起きたことの背景には、関ケ原の戦いが当時は豊臣vs徳川の戦いだと考えられていなかったことの証の一つとも言え、石田三成側は自分たちは豊臣秀頼を戴く正規軍のつもりだったかも知れませんが、徳川家康側としては、石田三成が私闘を開始したという議論が可能な構図だったとも言えます。

もし、石田三成の心中を想像するならば、徳川家康は豊臣氏にとって危険な存在なので何とか理由をつけて潰したいが、同時に加藤清正などの同じ豊臣氏内部の政敵をまとめて一掃したい、むしろ人間的な感情としては家康よりも加藤清正や福島正則との決着をつけたい、または自分に対する暗殺未遂事件へのリベンジがしたいということが大きな動機になっていたのではないかとも思えます。同じ職場にそういう相手がいたとしたら、現代でも心理的な負担は大きいに違いありませんから、関ケ原の戦いの準備をしている時、石田三成の脳裏に浮かぶ顔は家康よりも加藤清正だったかも知れません。

関ケ原の戦いの時、反石田三成派の福島正則は東軍の先頭で戦い、加藤清正は九州から動きませんでした。福島正則は徳川家康の味方になるに辺り、豊臣秀頼に害をなさないということを徳川家康に確認を取ろうとしています。仮に豊臣秀頼が石田三成に請われて関ケ原の戦場に登場していれば、どっちが正規軍かがあまりに明らかで徳川家康は負けていたかも知れないとも言われますが、豊臣家家臣が二派に別れて戦っていた以上、秀頼カードがもし切られていれば、有効に機能した可能性は十分にあると思います。そうはなりませんでしたが。

関ケ原の戦いが1600年で、徳川家康が征夷大将軍に任命されるのが1603年ですので、家康は朝廷への工作に3年もかかっていることになり、朝廷としても、また世間的にも関ケ原の戦いを歴史にどう位置付けるについて迷っていたということが感じられます。関ケ原の戦いで徳川家康が勝ってはいるものの、豊臣氏不介入のところで行われた私闘である限り、豊臣氏の権威が揺らぐものではないはずで、この辺りの筋論をどう乗り切るか、家康は苦労したに違いありません。

話が家康に逸れてしまいましたが、石田三成は関ケ原の戦いの後、行方をくらますものの見つかって斬首されます。小西行長も同様の運命を辿ります。加藤清正は豊臣氏への忠誠は変わりませんので、家康と秀頼の会見の際には秀頼を守る目的で二条城へ行き、秀頼に贈られた饅頭に毒が入ってはいけないと、自分が食べて二か月後に病死しています。遅効性の毒が入っていたのではないかと言われる所以になっています。

以上のようなことを考えると、豊臣家臣の分裂が徳川家康に好機を伺う余地を与えたとも言え、チームワークや団結の乱れがいかに深刻な問題かということが分かります。

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織田信長と徳川家康

桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、今川軍が敗走した後、今川軍の一員と見なされていた徳川家康は、本来の故郷である三河を占領し、独立を果たします。しかし、周囲には天下取りを構想するだけの力がある今川氏、戦国最強と恐れられた武田信玄がいますので、とても安心した領国経営というわけにはいきません。織田信長が同盟者として登場してくれたことは相当に心強いことであったに違いありません。

織田信長にとっても、徳川家康が今川・武田との緩衝地帯の役割を果たしてくれるため、やはり必要な同盟者であったと言えることでしょう。

ただし、対等な同盟とはほど遠く、織田信長と徳川家康はまるで主従関係があるかのように強者と弱者の色分けがはっきりとしています。しかも、信長がどこまで信頼できる同盟者だったのかというのはわりと疑問で、武田信玄が京都を目指して進軍する途中で起きた三方が原の戦いでは、信長が浅井朝倉と戦争で忙しかったというのはもちろんあったとしても、徳川家康のところには僅かな援軍しか送っておらず、果たして本気で信長は家康を助ける気があったのかという疑問すら湧いてきます。

長篠の戦い以降、武田勝頼は敗戦処理に忙しく、武田からかけられる重苦しいプレッシャーからはある程度解放されますが、徳川家康の妻と息子に武田氏との内通の疑いがかけられ、徳川家康は二人の命を差し出すことで、どうにか信長の理解を得ようと努めます。織田・徳川同盟では、徳川家康が献身的に尽くし、家康にとっては武田氏よりも織田信長の方がだんだんやっかいな疲れる存在に変わって行ったとのではないかという気もします。

徳川家康が信長を裏切ることは一度もなく、誰よりも忠実な部下だったと形容することも可能のように思いますが、本能寺の変の時、明智光秀の兵隊たちは徳川家康を殺しに行くのだと思っていたという話もあり、織田信長が同盟者をあまり大事にしていなかった、用が済めば切り捨ててしまう人だと当時の人は受け取っていたのかも知れません。武田勝頼を滅ぼした後となっては、確かに徳川家康は用済みです。

浅井長政が朝倉義景の味方をして織田信長を裏切った時、信長は唖然として浅井長政の真意を理解できなかったと言われていますが、その辺り、浅井朝倉の関係性を知っていればよく理解できることであり、むしろ信長の人間観察力は大丈夫かと言いたくなります。

いわゆる「英雄」タイプの人には良くも悪くも他人の心中を想像しない、またはできない、或いは他人の事情は無視するというタイプの人が多いのかも知れません。後醍醐天皇にもそういう一面があったように思いますし、源義経ももしかするとそうだったかも知れません。英雄タイプの人は波に乗って大きな業績を挙げることもありますが、波が引いた時は運命的な見えない力で淘汰されていく、そういうようにも思えてきます。

いずれにせよ、徳川家康は最終勝利者なわけですが、徳川家康のように他人の顔色をうかがいながら生きて来た人物が、織田信長の性格を見抜けないはずがありません。本能寺の変の徳川家康黒幕説も私はある程度説得力があるように思えます。武田勝頼が死に、上杉謙信が病没した以上、次は自分かも知れない。信長は妻と息子の仇でもある。よし、やってしまおうという動機があったとしても全く不思議ではありません。

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