脳と自慰行為の関係を真剣に考えた幸福論

六週間ほど自慰行為をやらないという実験的なことを続けていたのですが、夜毎、「今日はもうやってしまおうか、いやもう一日我慢しよう」という自己内対話がぐるぐると回り続け、ここまで思い詰めるのなら、やってしまおう、自慰をするのが普通のことだと考え、昨日、自慰をしたわけです。この六週間、心身の変化は感じてはいたのですが、その効果が断酒によって得られているものなのか、丹田呼吸法によるものなのか、それとも減煙か、自慰行為禁止かの判断がつかなくなってきており、自分の心身への変化も知りたいという思いもありました。ただ、エッチな画像の助けが必要なので、その方面の検索をかけ、画像の力を借りて行いました。動画はなんとか踏みとどまりました。まあ、こんなものかとその瞬間は思ったのですが、減煙中にもかかわらず、昨夜はすぱすぱと吸いたいだけ吸うという感じになり、今朝も吸いたいだけ吸っていることに気づきました。また、驚くべきことにだるいというか、かったるい感じがありました。もうちょっと頭の回転もちょっとだれた感じになっており、学生から外国語に関する質問を受けた際、ちょっとうまく答えられないというがっかりなことすら起きてしまいました。

見た目にも変化がありました。このところ節制を続けていることで(普段は白米もなるべく避けています)、表情に鬼気迫るものがあるというか、良くも悪くも迫力が出ていて、奥二重の目が細い二重になるという謎の現象も起きており、果たしてこれは自慰行為をしないことの効果なのかどうか疑わしく思っていたのですが、奥二重に戻っており、ああ、なるほど、いわゆるおな禁の効果は少しずつ出ていたのだということが分かりました。

心理的にも変化がありました。帰宅中、断酒したにもかかわらず、お酒が飲みたいという心境になったのです。そこは思いとどまりましたが、食事はいつもよりかなり多めでした(今日は担当するコマが3つもあったので、体力勝負ですから確かに、多めに食べる日ではあるのですが…)。

だるい、頭が鈍る、細い二重が奥二重に戻る、食べる量が増える、お酒がほしくなる、タバコの量が増える

と、マイナスなものが一挙に出てきましたから、いわゆるおな禁は効果があったのだということを、今回久々に自慰行為をやってみて知ることができました。

さて、ここで気になるのはなぜ、なぜ、そのようなことが起きるのかということです。以下はド文系の私の仮説です。エッチな画像を見て自慰行為をすると、脳の快楽系の神経に電気が走るはずです。そして快楽系の神経が刺激されると、快楽系は更に刺激を求めるようになり、「もっと、もっと」という信号を出してくるのではないかと私は推論します。お酒がほしくなったり、タバコの量が増えたり、更に食事の量まで増えたのですから、エビデンス面から見ても悪くない推論です。

ここまで考えて、私は脳そのものの機能ということに考えが及びました。即ち「不幸な人は生涯不幸である」ということの理由が分かった気がしたのです。不幸や不満を感じるとき、脳のそれに相当する部分に電気が流れ、刺激されるはずです。不幸を感じる神経系統が刺激されると、活発化し、もっと、もっと不幸を。と本人の意思とは関係なく不幸を求め、結果として不幸な人生になるのではないかと思えるのです。

快楽と幸福は別なものです。快楽の神経系統が刺激されると、脳の当該部位はより強い刺激を求めるようになり、その衝動に従い続けると最悪の場合は身を滅ぼします。一方で幸福の神経系統を刺激することがもし可能であれば、脳の幸福を感じる神経系統がより強い刺激を求めるようになり、結果として幸福な人生を得ることができるという帰結を得ることができました。

さて、オナニーの話題であるにもかかわらず、幸福を得る方法論へと話題はシフトしてきたわけですが、幸福になるためには快楽の神経系統への刺激をなるべく避ける、不幸の神経系統の刺激もなるべく避ける、幸福への神経系統を強めることを意識するべしということになります。この場合の幸福とは、美しい自然を見てそれを美しいと感じる、普通の街の光景であってもそこに幸福の種子を見つける、退屈な人間関係であっても、そこに幸福の種子を見つけるという努力を必要とするものではないかと思います。この努力を怠ると、退屈を埋めるために快楽を求め、快楽追求体質になってしまい、脳の機能の問題として無限に快楽を追及し続け、破滅するということになりかねません。宝くじで大金を当てた人が不幸になるのは、大金がいきなり転がり込んできたことで快楽系統が極端な刺激を受けてとまらなくなり、無駄にジェット機や無人島を買うという愚かしい行為に走り、野垂れ死にしてしまうということではないかとも思えます。

幸福の神経系統が極端な刺激を受けるとすれば、脳が無限に幸福を追求することになりますが、快楽の神経系統が壊れるくらいの刺激が宝くじに当たることだとすれば、幸福の神経系統が極端に刺激されることは滅多にありません。従って日々の生活の中に幸福の種子を見出していくことが幸福な人生を歩む唯一確実な方法ではないかとも思えます。ああ、お日様があって幸せ。月があって幸せ。木が葉をつけていて幸せ。などのようなことに「幸せだ」という反応を示すように自分を訓練し、突き詰めていくと家族がいて幸せ。家族がいなかったとしても孤独なら孤独の楽しみを見いだせて幸せ。今の仕事があって幸せ。仕事がなかったら自分を振り返る時間が持てて幸せ。いい人に出会うと幸せ。頭に来る人に出会ったら、世の中にはいろいろな人がいるものだと知ることができて幸せ、この程度で済んで幸せ。などなど、様々な日々の出来事にああ、幸せ、幸せという認識を持つように自分を訓練していれば、脳の幸福を感じる神経系統が刺激され続け、脳が幸福な人生を創造するということになります。ですから、いわゆるアファメーションで私は幸せだ幸せだと言い続けていると幸せになるというのは全くの嘘というわけではないわけです。私はついてる、私は運がいいと言うと運が良くなるというのも全く間違っているというわけでもなさそうに思います。おそらくは半分はアファメーションなどによって幸福を感じる脳の部位を鍛え、残りの半分は仕事をがんばるとか挑戦するとかという行動が必要なのでしょう。幸福脳を鍛えることと、行動が車の両輪というわけです。

自慰行為を六週間断ってみて、一回やってみたことで我ながら大きな気づきを得たように思います。さて一つだけ心配なのは、使わなければ機能が低下するのではないかということです。機能が低下することを私は望んではいません。真剣ですから、敢えて書きますが男性器は筋肉の部類に入るのか、内臓の部類として捉えるべきかで分かれてくると思います。もし筋肉と同じ性質を持つとすれば、歩けば歩くほど足腰が鍛えられるのと同様に、男性器も使えば使うほど機能が向上するということになります。一方で、内臓と同じだとすれば、お酒を飲めば飲むほど肝臓への負担を大きくし、極端な場合は病気になってしまいます。お酒を飲めばお酒に強くはなりますが、それはお酒に対して麻痺しているだけで、アルコールを分解する肝臓への負担が変わるわけではないでしょう。

経験的にですが、使わなければ退化するように思えます。ド文系の仮説なので、確実ではないのですが、経験的に、以前実験的に毎日のようにしていた頃のパートナーから「大きい」と言われました。毎日は使い過ぎかな…と考えていたのですが、筋肉同様に発達していたと見るべきように思えます。また、六週間全く使わないことで、小さくなったな、しぼんだかもという印象はありましたから、経験的には筋肉と同じもののように思えます。一方で、解剖学的には性器は内臓の一部として扱われるのではないかとも思いますから、私の経験だけをどこまで信じていいか、或いはおえらい専門家の言うことよりも自分の経験を信じるべきか…など、結論は出しかねるところです。

一応、最後に今後の方針のようなものを書いておきたいのですが、ストイックな生活を送ることで心身に良い効果が得られるということはかなりはっきり言えますので、これは続けたいと思っています。自慰行為についてはしばらくまたやめてみて、再び同様の効果が見られるようになってから、画像や動画に頼らず、想像力で行為をしてみてはまた違った知見を得られるのではないかと考えています。エッチな動画や画像を見ることは、依存症のリスクがあり、脳の働きを低下させる恐れがあると思いますが、想像に頼った自慰行為の場合、脳の前頭前野が鍛えられる可能性は残されています。本当にあほみたいなことを真剣に考えて書いていますが、わりと人生の奥義のようなところに近づいている気もしなくはありませんので、ご容赦願います。

【自己訓練】将来を心配しすぎない

将来には不安がつきまとうものです。ですから、将来に備えて人は様々な予防策を講じます。保険に入る、貯金する、資産を購入する、健康食品を食べる、運動する、勉強する、スキルを身に着ける。などなど、将来のために何かをしている人は多いでしょう。何もしていない人の方が少ないかも知れません。しかし、将来を心配し過ぎることは必ずしも賢明な生き方とは思えません。なぜなら、将来がどうなるか、一分一秒先がどうなるかは、誰にも分からないからです。ある程度の見通しは立ちます。ある程度の想像はできます。しかしそれは飽くまでも想像であって、現実ではありません。「将来」という現実はまだ来ていないのです。その将来のために思い悩み、思い煩う人がいるとすれば、それはとてももったないことです。

もちろん、人は将来を心配しやすいように生まれついています。最悪を予想して、最善を尽くすことで人は自己保全の確立を高めることができます。しかし、最善を尽くすためには将来を心配し過ぎることは逆効果になりかねません。将来の未だ起きていないことを想像することに頭脳のエネルギーを使う分、最善を尽くす力がそがれてしまいかねません。

また、将来への不安が過度になると、それに振り回されてしまい、何が最善の手なのかを考える余裕がなくなってしまいます。最善のはずだと思って、悪手を選んでしまったという経験は誰にでも一度や二度はあるのではないかと思います。私もしょっちゅうです。冷静な判断をするためには、過度な不安から自分を解放しなくてはいけません。

不安は抑え込もうとすると反発力が強くなり、人はかえって不安に飲み込まれてしまうものではないかと私は思っています。ですから、抑え込むのではなく、解放するのです。完全な解放は人間の性質上あり得ませんし、全く将来について考えないと言うのもよくありませんが、不安がもたげてきたときに、意識して「気にしない気にしない」と軽く首を振ってみる。不安で押しつぶされそうになったら深呼吸をしてみる。散歩をする。おいしいものを食べる。などをしてちょっと不安を忘れてみるのです。技術的な問題です。自己訓練です。いったん不安を手放すと、次に不安がやってきたとしても自分を不安にさせている要因について多少距離を置いて考えることができるようになります。冷静に分析し、判断し、そこでようやく最善と思える手が思いつくのです。それの積み重ねによって結果として振り返った時、充実した時間を過ごしていたことに気づくことができるかも知れません。将来は大切ですが、将来は今の積み重ねです。今を充実させることにエネルギーを使ってみることが賢明と思えます。

今を充実させると言っても、湯水のようにお金を使って不安をごまかすとか、そういうことではありません。心を静めて美しい絵画や景色を見る。目を閉じる。今、取り敢えず目の前にあることをきちんとこなす。深呼吸する。そして落ち着いた状態でほしいものを買ったり、食べたりするのがいいのではないか、結果として仕事や人間関係のクオリティがあがり、飽くまでもその結果として人生が充実するのではないかと思えます。



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【自己訓練】嫌いなことはやらない勇気を持つ

「自己訓練」と言えば、人のやらないことをやる。みたいなことがぱっと頭に思い浮かびます。そういう雑巾がけのようなことももちろん大切ですし、徳を積むという意味ではいいかも知れません。しかし、それでもやるべきではないと思えることもあります。どうしても嫌いな仕事、或いは自分を過度に酷使してしまう仕事です。

どうしても好きになれない仕事とはどういう仕事でしょうか。意味があると思えない仕事などはやはりやりたくないでしょう。雑巾がけ的な仕事とは少しニュアンスが違います。雑巾がけ的な仕事は社会的公益に叶う、または組織の仲間に貢献できるという意味がある場合、それは積極的にやるべきです。しかし、意味があるとは思えなず、単に辛いだけの仕事をするのは、やらない勇気を持つこともよりよい人生を送るためには大切なことではないかと思います。

たとえお金がもらえるとしても、嫌いなことをしていると自分が疲弊していきます。疲弊している中、大切なことに取り組むとミスが増えます。やりたいことをやる時間を削り、ミスをカバーすることになるので、人生から豊かさのようなものが消えてしまい、悪い循環へと落ち込んでしまいます。

これも自己訓練です。やるべきなのにやりたくないことなのか、それとも雑巾がけと思い、下積みのつもりでやるべきことなのか、それとも本当に嫌いなのかを見分ける目を養わなくてはいけません。そして、これが「嫌いなことだ」と気づいたときに、それを辞めるという勇気も持たなくてはいけません。辞める勇気がないとだらだらといつまでもやり続けてしまい、結果として心には何も残らず、疲弊だけがずっしりと肩にのしかかっていたということにもなりかねません。

上ようなことを見極める目を持つこと、見極めがついたらやるべきこととそうでないことを分け、そうでないものを断捨離する、辞めるという勇気を持つことも自己訓練と思います。もちろん、すぐには判断がつかないということも多いでしょう。ただ、上に述べたことを意識するだけで、多少なりとも大切な人生から無駄を省くことができるようになるのではないかと思えます。



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【自己訓練】無名でも幸せだと気づく

多くの人には「有名になってみたい」というわりと子供っぽい憧れがあるのではないでしょうか。「有名人」にカテゴリーされると、どこへ行っても注目されていい気分。アイドルや映画俳優になって、注目を浴びたい、或いは本を何冊も出版して著名人と呼ばれたいという願望は私にもないわけではありません(最近は諦めてますが…)

ただし、この世に生まれてきた人の大半の人は有名にならずに人生を終えていきます。有名にならないことが普通なのです。ですから、有名にならなくては幸せになれないという思い込みがあると大抵の場合は不幸への道を歩むことになりかねません。

そのため、「無名でも幸せだ」と思うように自己訓練することは、よりよい人生を得るために有効なことと思えます。もちろん、有名になることを目指すなというわけではありません。有名になることだけを願い、それだけを目指して動くというのはバックボーンや信念が軽佻浮薄なため、有名になったとしても短期間、場合によっては些細なことで足元をすくわれて表舞台から去っていくことにってしまうことも珍しいことではありません。

むしろお勧めしたいのは、有名になることを目指すのではなく、自分の仕事をこつこつしっかりとやることではないかと思います。人生では何回か追い風が吹いてくることがありますから、その追い風に乗って著名人と呼ばれる人になることは充分にあり得ます。しかも、自分の仕事をしっかりやってきたという基盤の上の名声ですから、少々のことで揺らぐことはありません。

そのような追い風、神風を味方につけるためには、やはり今目の前にある仕事にしっかりこつこつ取り組むことではないかと思います。それはアルバイトであったとしても、普通の社員の人であったとしても、自由業、自営業であったとしても同じだと私は考えています。目の前の仕事にしっかりこつこつ取り組む以外の生き方はないのではないか、その結果、様々な実を結ぶ。それ以外にはないと私は思います。そうしている人だけが追い風に乗るだけの力がつくし、追い風が吹いたときにワンステップ上に行けるのではないか、人生とはそういうものではないかと思います。それまでは焦らずじわじわです。

さて、今日もがんばりますか。



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【自己訓練】贅沢しなくても幸せだと気づく

贅沢することは確かに楽しいです。おいしいものを食べる、素敵なホテルに宿泊する、豪華な旅行をする、素敵な洋服を着る。ヘリコプターで東京の夜景を見る、豪華客船に乗る、などなど、この世にはいろいろな贅沢がありますし、贅沢すれば心も充実して、人生捨てたものじゃないと思える効果があることは確かだと思います。

ただし、贅沢できなければ心が充実しないかと言えば、それは違うということについては多くの人が同意してくださるのではないでしょうか。天候のいい日はそれだけで幸福感を得ることができます。友人と会い、コーヒー一杯で語り合う時の幸福感もまたしかり。家族となんとなく過ごすだけで幸福を感じる人もいることでしょう。分かりやすくパッとお金を使うことよりも、小さなこと、お金のかかならないこと、些細なことに幸せを感じるように自分を訓練することは、よりよい人生を送るために有効ではないかと思います。

これもやはり自己訓練です。小さいところに良いところを見出すのです。安いお店で食事するときに、ああ、食事ができてありがたい。おいしくないお店で食べても、それでも誰かが努力していろいろな人の手を経て自分の目の前にお料理が届けられたことのありがたみを考える。洋服にお金をかけられない場合、有酸素運動で体を絞ればファストファッションが似合う体になることも期待できます。お金をかけずに幸福感を感じられることを工夫して、試行錯誤してみるのです。

もちろん、贅沢するなと言うわけではありません。贅沢は経済を活性化させるという観点からもいいものです。時には贅沢することも大切です。ただし、自分が幸福になることを贅沢に委ねてしまうと、そういった外から与えられるものに幸福度を依存してしまうことになってしまいます。美食は不幸の始まりという言葉がありますが、美食しなくても幸福だと自分で気づけるようになれば、幸福のハードルが下がりますから、結果として幸福になりやすいと言えます。また、いわゆる「引き寄せの法則」のようなスピリチュアル系の教えでも、幸福感を持っていると幸福が引き寄せられるということですから、どんな時でも幸福でいるようにする、そのように自己訓練をするということは、長い目で見れば内面的にも外形的にも幸福になる可能性を上げることができると言えるのではないかと思います。



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【自己訓練】現状で恵まれていることに気づく

2chで一世を風靡したひろゆきさんが、美食は不幸の始まりみたいなことを言っている動画をyoutubeで見たことがありますが、私は確かにその通りと妙に納得してしまいました。彼曰く、卵かけごはんをおいしいと思えないのは不幸であるとのことなのです。確かに正論と思います。卵かけごはんは確かに安くてしかもとてもおいしいです。頭の中で想像しただけでも幸福感が広がるくらいにおいしいです。卵ごはんを食べるお金もないという人は多分、ほとんどいないと思います。ですから、手に入るところに幸せはごろごろ存在すると言ってもいいかも知れません。卵とお米が自分のところに回ってくるのは物流システムがあるおかげですが、交換は人の本来的な行動であるとレヴィストロースも指摘している通り、物流システムは人間が持つ本来的な「交換したい」という本能に根差しており、突き詰めれば神が人に与えた本性の結果、卵とお米が自分のところに回ってきたと言うこともできると思います(神という言葉を使いましたが、特定の宗教は関係ありません。念のため)

いずれにせよ、そのように実は人は生きているだけで様々なものに恵まれています。寝る場所があり、意見交換をする友達がいて、大抵の人には職業があり、多い少ないはあっても収入があり、卵とお米を買うことができます。このような一見当たり前のことが、実は天の恵みであるということ、自分は恵まれているということに気づくことは精神衛生上、とても良い効果があるのではないかと思います。宗教チックな言い方やお説教的な言い方を避けるとすれば、現状の自分が恵まれていると考える訓練をすることで、精神衛生がより良い状態になり、結果として人生がよくなっていくというテクニカルな問題として論じることも可能と思います。

神様とか天の意思とかそういうものを信じるか信じないかは別にして、現状の自分は恵まれているという訓練は私もなるべくやるようにしています。結果としては頭に来ることや腹が立つことは減少します。人生は主観のみによって構成されていますので、怒りが減少することは即、人生の質が向上したと言っていいはずですから、今後もこのような自己訓練は続けたいと思っています。意図的に幸福感を増幅させるよう訓練することによって、実際に幸福になっていくということは多くの人が提言していることでもあります。また、幸福を感じる自己訓練は、成功する人生への道のりとも思います。

テクニカルな問題として、他者との比較はなるべく避けるべきです。時には他の人と比較することで自分の問題点が見え、改善すべき課題に気づくということもありますから、他人との比較を一切するべきではないとまでは言いませんし、比較するという思考回路がなければ人間の本性である交換が成立しません(自分はAとBを比較した結果、Aの方がよりよいと思うが、手元にはBがある。一方で、Bの方がより良いと思うけど、手元にはAがある人がいて、交換が成立します)。そのように思うと、比較するという思考を一切断ち切ってしまうことは人間性の喪失にもつながりかねませんから、比較することを完全に止めることはできません。しかし、繰り返しになりますがテクニカルな問題として他人と自分を比較し過ぎないように自分の思考に注意すべきではないかと思います。精神衛生上効果があると信じ、私は今日も、自己訓練をしています。



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【自己訓練】他人を赦す効用

よりよい人生を生きる上で、他人を赦すことは「必要」と言ってもいいかも知れません。なぜなら、他人から迷惑を受けることは生きていれば必ずあります。中には酷い攻撃をされたり、騙されたりなどの酷い目に遭わされることが絶対にない人生というものはおそらく存在しません。13代将軍家定が徳川慶喜が女性に人気があることに対して嫉妬したという話を読んだことがありますし、その徳川慶喜も西郷隆盛に殺されかけ、なんとか命だけはとりとめて長い長い諦めの人生を送ります。ですから、他人のせいで酷いことが起きる場合はあるのです。

もちろん、それが法律違反だった場合は法律に従って処理されなくてはいけませんが、法律違反とも言えないもの、泣き寝入りするしかないこともあるかも知れません。或いはせっかく雇い入れた部下が使えないタイプで部下のせいで思ったような効果を得ることができなかった、親のせい、兄弟のせい、学校の先生のせい、と他人のせいでいやなめに遭うことは必ずあると言ってもいいでしょう。

ですが、他人を憎むと結果として自分の苦しみが長引きます。よりよい人生を送りたいと願うのであれば、他人を憎むということを敢えてやめてみるということは、時に「必要」なのではないかと思えます。他人のせいで悪いことが起こった場合、たいていの場合には自分にも多少の非はありますから、その多少の非を認めることで他人への憎悪を減少させることができるかも知れません。また、これは倫理とかそういう話ではなくて効果、効用、功利的な問題ですから、結果として自分にとってもお得なのだと割り切り、テクニカルな問題として他人を赦すということを実践する、忘れてしまうというのが個人的にはお勧めなように思います。

絶対に赦せないということもあると思います。絶対に赦せないのを赦すのが、究極的なミソかも知れません。絶対に赦せないと思う相手をテクニカルに忘れていくようにすることで、毎日の生活のストレスは減少し、結果としてよりよい人生を得られるのではないかと思います。

タモリさんの赤塚不二夫さんへの弔辞はとても有名ですが、赤塚不二夫さんはどんなに酷い目に遭わされても「それでいいのだ」精神で、他人を呪うことがなかったという趣旨のことをタモリさんは弔辞で述べています。言葉にすると簡単かも知れないですが、実践するのは難しいことです。倫理的に考えても自分が正しいと思って憤懣やるかたなしのこともあるでしょう。私にだってそういうことはあります。そこをテクニカルな問題だと捉えなおして忘れて行くということを私自身も時に自分の人生をよりよくするための手段として意識的に取り入れようとしています。もちろん、完璧にはできません。イエスキリストですらいまわの際で父なる神に疑問を投げかけたと言われていますから、凡人の我々にそれを完全に達成することは無理かも知れません。しかし、実践することにより、状況がベターになるのであれば、やってみる価値はあるのではないでしょうか。ルイ16世は処刑される直前「私は全ての者を赦す」という言葉を残したそうです。この言葉はマリーアントワネットの「パンがなければお菓子を食べなさい」ほど有名ではありませんが、この最後の言葉にルイ16世という人物の器の大きさ、人間修行、自己訓練の態度を知ることができますから、そういう目で見ればルイ16世に対する印象も変わってきます。自分の名誉のためにも「赦す」ことを訓練したいものです。



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【自己訓練】正の自己内対話で人生を良くする



人の幸不幸は幼少期でだいたい決まると言う人がいます。ある意味に於いてそれは正しいと言えますが、同時にある意味に於いて、そこは必ず克服されなければならない課題である、人間という尊厳を持った存在である我々はその克服方法を探し求めざるを得ないとも言えると思います。

運よく幸福な幼少期を経験した人は「人生とは幸福で素晴らしく美しいものである」という確信を持つことができるようになりますから、人生で起きる全てのことをその思考パターンによって理解します。そのため、成長した後にどのようなことが起きようとも幸福感を維持することができます。そもそも生きているだけで幸福だという思考が定着しているため、多少のいやなことがあっても私は幸福だという思考パターンが持続しますから、どうということはないのです。人生の記憶は常に選択的なものですから、良いことだけを何度も思い出し、更に私は幸福であるという確信を強め、悪いことがあっても気にならず、場合によっては悪いことも良いことだと自分の頭の中でコードの読み替えをすることができますから、結果として人生には良いことしか起きないことになり、私は幸福だという思考パターンはますます強められ、一生幸福で過ごすことができます。幼少期の環境や経験は自分ではコントロールできませんから、これはもはや運の範疇に入るとも言え、そういう幼少期を過ごすことができた人には素直に「おめでとう。あなたは宝くじで10億円を当てる以上に運がいい」と祝福の言葉を述べるほかはありません。無条件に幸福な人生というプライスレスなものを手に入れることができたと言えるからです。

しかし、幼少期を幸福感だけに満たされて過ごすことができる人は稀なはずです。人生には良いことも悪いこともランダムで発生しますから、幼少期に悪い経験をしたり、嫌な思い出が残るという人の方が多いでしょうし、不運な場合には、幼少期に他人には言えないような経験をしたことで、ひたすら不幸を感じながら人生を送ってしまうケースもあるはずです。私は幸福だという確信を持った人が、成長後にいかなる経験をしても私は幸福だという確信を強めるように、私は不幸だという確信を持ってしまった人は、放置すれば生涯、私は不幸だという確信を強めていくことになってしまいます。

人には尊厳があり、人は自分を他人と同じように尊敬する権利を持っています。自分のその権利を守り、よりよい人生を送るためには、「私は不幸だ」という確信を強化することを可能な限り避け、「私は幸福だ」という確信を強めることができるよう、意識して選択し、行動するべきです。絶望に打ち負かされず、不幸感に支配されず、それを克服し、幸福感を勝ち取らなくてはいけません。たいていの人は「私は幸福だ」と「私は不幸だ」の感覚の自己内対話で揺れ動いているはずですから、私は不幸だと感じてしまった時、絶望に敗けそうになった時、不遇な時期のために手を打ち、私は幸福だと感じるように自己訓練をするのだと言ってもいいかも知れません。

手っ取りば早いのは絶望に打ち負かされそうになった時、好きなものを食べたり、好きなDVDを見たりすることです、非常に苦しい絶望するしかないような悲嘆に暮れるような状態の時は、まずは自己回復の時間をとるしかありませんので、チョコレートを食べるなり、アイスクリームを食べるなり、好きな映画俳優の動画を見るなりして自分を癒すことを考えなくてはいけません。これはてっとり早く、かつ安上がりですが、一時的な効果しかない応急処置であるということは知っておく必要があります。下手をすれば依存症になりますから、あくまでも一時的な自己救済手段です。

人生には時として自分の人生には価値がないと思いたくなるほどの悲嘆に襲われる時がありますが、そうでないときから、日常的に自己内対話が正の方向に向かうよう、特に「私は不幸だ」という感じ方の強い人は心がけなくてはいけません。そのような日常的な「訓練」として効果があるのは、一人の時でいいので「私は幸福だ」と言ってみることです。仮に24時間「私は不幸だ」と思っているとすれば、「私は幸福だ」と言葉に出すことにより、たとえ1秒でも「私は不幸だ」という思考が遮られ、不の自己内対話に多少なりともブレーキをかけることができます。

アドラーは外形的にいかなる不幸があったとしてもそれに立ち向かい幸福を勝ち取るべきだと言っているのは、実は幼少期に「私は不幸だ」という確信を持ってしまった人にとっては不可能と思えるほど酷で絶望的な努力です。しかし、それでも幸福感を勝ち取る努力を続ける以外には自己救済の道はないと彼が考えていたことについて私は完全に同意します。ですので、日ごろの自己救済の訓練を続けるべきです。もちろん「私は幸福だ」と繰り返し言葉にするとき「そんなことを言っている自分は馬鹿なのではないか」という考えが浮かんできます。そこは割り切って、1日1分とか5分とか決めて「私は幸福だ」と唱え、無理のない範囲で続けることがベストです。それを繰り返すことにより、「私は不幸だ」という確信がじょじょに揺らいで行き、その分、私は幸福だと考えることができるようになる可能性があがります。

高級レストランで食事をしたり、一流ホテルに宿泊することも、私は幸福だと感じるためには効果があります。実際に目の前に素晴らしい食事が出されたり、素敵な部屋に通されることで「私は幸福に値するのだ」と自分を説得する材料にできます。もちろん、これも時々、幸福感を強めるための強化合宿のようなものですから、金銭的な限界や物理的な限界を考慮し、依存症にならないように注意することは忘れてはいけません。カウンセリングを受けるのもいいでしょうし、あまりに残酷な挫折感を味わった場合には、金銭的にゆるすのであれば、しばらく
海外を歩くというのも私はアリだと思います。私は不幸だという思考の連鎖を断ち切ることができれば、自己回復力が機能し、やがてまたいろいろなことに挑戦できるようになっていきます。

有酸素運動瞑想も「私は不幸だ」という思考の連続性を断ち切る効果がありますから、日々続けることにより、不幸感の連続性が断ち切られ、その分、幸福感を得る可能性は上がります。健康にもいいので、特に有酸素運動はかなりお薦めと言えます。

もちろん、おそらく一番いいのは、良い意味での諦めを持つことです。充分に諦め、期待しない。そうすれば少々の挫折や嫌なことがあっても打ちのめされるということはありません。幼少期に「私は不幸だ」という確信を持ってしまった人には打ちのめされることが連続で起きてしまいます。悪いことがその人に集中して起きるのではなく、様々な事象から「私は不幸だ」という説得材料を見つけ出し、その信念を強化してしまうことがパターン化してしまっているからです。諦めるという究極の達観に至れば、そのパターンから逃れることができるかも知れません。しかし、これはおそらく最も難しい方法であるであるとも思えますから、敢えてお薦めはしません。

人生「私は幸福だ」と感じて生きるのが一番で、以上までに私が幸福だと感じるために講じ得る幾つかの手段を述べてみましたが、やはり外形的な成功というものは「私は幸福だ」と感じるために強い説得力を持つこともまた確かなように思えます。最初から諦めてしまっては人生を生きる醍醐味のようなものが失われてしまいます。目指している試験に合格したり、理想の恋人と結ばれたり、ほしいと思うだけの金銭的報酬を得たりすることは自分自身を「私は幸福だ」と説得する上での分かりやすい証拠であり、有力な説得力材料になることは事実と思いますから、俗っぽいとは言え、社会的、世間的な成功を目指すことも充分に良いことだと思います。

では、どうすればそのような成功を掴めるのか、また日を改めて確率論という観点から考えてみたいと思います。