クリミア戦争と日本

1850年代は世界史的にも日本史的にも大きな転換点を迎えていた時代と言えます。

1850年代の日本で起きた大事件と言えばペリーの来航とその結果としての日米和親条約、更にプチャーチンの来航とその結果としての日露和親条約と領土の確定、1858年の安政五か国条約などがあり、日本は列強の力に屈して国是たる鎖国を捨て、不平等条約を締結せざるを得なくなるという辛い時代でもあります。しかし一方で、植民地化されるような憂き目に遭うことはなく、不平等条約だけで済んだという見方もできるのではないかと思います。

1853年から1856年までの間、イギリス・フランス・オスマントルコ連合軍とロシアとの間で第ゼロ次世界大戦とも言えるクリミア戦争が行われ、列強はその戦争に忙殺されていたために、日本がまだ世間知らずのひよっこだった状態の時に軍事力で蹂躙されるという最悪の事態に至らずに済んだと見ることも可能ではないかと思います。

ペリーが江戸湾沖に出現したことはショッキングな事件と言えますが、列強の中ではまだ新興国の部類に入るアメリカはクリミア戦争に参加しておらず、英仏がクリミア戦争に忙殺されて太平洋の方が手薄になった力の空白になったこともあって、ペリーは場合によっては琉球占領まで構想するという大胆さを見せることができました。日本は少しずつ外交を学び、列強とわたりあうようになっていきますが、クリミア戦争がなければ英米仏露で日本に侵攻して分け合うなどという事態が起きなかったとは言い切れず、わりと外交が素人で正直なアメリカ人のペリーと、クリミア戦争中であんまり派手にやれずに物腰柔らかなロシア人のプチャーチンとの間で慣らし運転をし、その後で英仏という真打登場ですので、日本人にとってはやりやすい順番だったと言えるかも知れません。

また、ペリー来航後の江戸幕府の軍事力の増強は目覚ましいものがあり、特に軍艦はお金にいとめをつけずにバンバン外国から輸入しており、1860年代にはそう簡単には手出しさせないところまでそれが育っていきます。アメリカの南北戦争が終わり、大量のエンフィールド銃が日本に入ってきますが、これも含んで驚くべき猛スピードで近代化が進められたとも言えそうです。

ここまでばっちり備えておいて鳥羽伏見の戦いで幕府軍がぼろ負けしたというのはもはや謎で、錦の御旗の登場くらいでしか説明がつかないのですが、佐幕派討幕派合わせて相当な軍事力を備えていたというのが植民地にならずに済んだ背景にあると思えますので、繰り返しになりますが1850年代という微妙な時代を比較的穏便に過ごせた日本は幸運だったと捉えることができると思えます。

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徳川慶喜と家慶と家定

ペリー艦隊が浦賀沖に現れた1853年、時の徳川将軍は第12代徳川家慶でした。家慶が将軍に就任したばかりのころは、先代将軍家斉が大御所として実質的な権力を握っておりあまりぱっとせず、次の将軍に予定されていた家定は極度な病弱でおそらく大変不安に思ったでしょうから、気の毒な将軍だなあという印象が強いです。

水戸家は本来絶対に将軍職に就けないとされていた水戸家の徳川慶喜を一橋家に養子として入れたのは、家慶の発案によるもので、慶喜の頭の良さは幼少期から評判で、できればそういう人物を次の将軍にしたいと家慶が考えていたと言われています。もし仮に慶喜が13代目の将軍に就任していたとしたら、後年、将軍後見職や禁裏御守衛総督の時に相当に熱心に政治に参加していたことを考えると、なかなか手腕を発揮していたかも知れず、日本は天皇家と徳川家の両方を君主にした立憲君主制の国なっていたかも知れません。

徳川慶喜は徳川将軍の中で唯一写真の残されている人物ですが、なかなかの美男子で、徳川家定が将軍をしていた時に、お女中たちが慶喜が通るとはしゃぐので、家定が非常に嫉妬したという話も読んだことがあります。大奥のお女中たちと飽くまでも臣下の立場である慶喜が顔を合わせる機会があったかどうかは多少怪しいですが、二百年続いた大奥ですので、その辺はいろいろとうまい仕掛けがあったとしても不思議ではありません。

家定の死後、江戸幕府内部では一橋慶喜擁立派と紀州の徳川慶富を擁立する南紀派とに分裂し、南紀派が勝利して大老井伊直弼の辣腕が発揮されるという展開になりますが、いわゆる安政の大獄で一橋派に対する粛清が行われ、徳川慶喜も謹慎が命じられます。この辺り、慶喜本人からしてみれば何もしていないのに罪人扱いをされたわけで、不必要に政治に介入しようとした父親に対して頭に来たか、それともこの手の茶番で右往左往し日常の仕事はほとんど劇場国家の江戸幕府に愛想が尽きたかしたか、その心境は想像になりますが、こんな幕府ならなくても日本は困るまいという考えが彼の内面に生まれて、大政奉還という奇策に出るのにためらいを感じなかったのではないかという気もします。

勝海舟の回想によれば徳川慶喜はなかなかの西洋好きだったらしく、その点で国学一筋だった父親の徳川斉昭とは合わなかったでしょうから、仮に13代将軍に慶喜が就任していたとしても、徳川斉昭が生きている間はいろいろうるさく口を出されて意外な迷走を見せた可能性も残ってはいますが…。



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