徳川慶喜と島津久光

徳川慶喜は前半生、実に多くの敵に出会い、彼はことごとく勝利したと言ってもいいのですが、彼の政治家人生でおそらく一番やっかいな存在でありながら、慶喜本人は歯牙にもかけなかったであろうという複雑な立場になる人物が島津久光です。

島津氏は久光が藩の実験を握る前の藩主だった島津斉彬の時代から幕政への参画を試みており、ある意味では傀儡する目的で擁立したのが若き日の一橋慶喜でした。慶喜は水戸徳川家出身であるため、本来なら将軍候補にはなり得ないはずですが、一橋に養子に入ったことで俄然将軍就任の可能性が膨れ上がります。そもそも彼を将軍にするために敢えて一橋に引っ張ったと言うこともできるはずです。

で、慶喜を将軍にしようとするグループが一橋派なわけですが、水戸の徳川斉昭や島津斉彬などが一橋派の支柱になっていくわけです。一方で、井伊直弼は水戸系将軍誕生絶対阻止を目指し、敢えて紀州徳川家の慶福を14代将軍に擁立しようと画策します。8代将軍吉宗以降、紀州徳川家は準本家筋みたいになっていますから、筋としてはさほど悪くはないわけですが、徳川三卿から将軍を出すことが慣例化していた当時、一橋慶喜の方が、法の秩序みたいな観点から言うと有利というちょっと複雑な状況が生まれてきます。結果としては井伊直弼が押し切って14代将軍は慶福に決まり、名を家定を改めて将軍宣下を受けることになります。一方で一橋派は粛清されます。安政の大獄なわけです。

ここで、ぐるっと歴史が変わるのは、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、一橋派が息を吹き返します。その時は島津斉彬が亡くなっていて、久光の息子が藩主を相続し、久光は藩父という法律的には何の根拠もないものの、島津家長という不思議な立場で幕政への介入を図っており、一橋慶喜は将軍後見職、更に同じく一橋派だった松平春嶽を政治総裁職に就けるという前例のない荒業が成された背景には久光の画策があったと言われています。

さて、そこまで慶喜に尽くした久光ですが慶喜は久光のことをてんで相手にする気はなかったようです。晩年でのインタビューでも久光のことはあまり好きじゃなかったと述べていますが、幕末の京都で慶喜が政治の中心にいた時代でも、久光に対しては冷たく当たり、酒に酔った勢いで天下の愚物と罵って、敢えて人間関係を破壊して久光の政治への介入を阻止します。久光は侮辱されたことをきっかけに慶喜を支えて幕政に参加するという方針を取りやめ、幕府を潰して島津の天下取りを目指すように方針転換します。

ここで登場するのが西郷隆盛で、隆盛は久光のことが嫌いだったようですが、それでも慶喜を倒すという一点で両者は共通しており、久光の金と兵隊、大久保利通の政治力、西郷隆盛の軍事に関する天才性が実にうまく機能して幕府打倒へと歴史の歯車が動いてきます。その後、廃藩置県で久光は大久保と西郷に騙されたと怒りまくって花火をばんばん打ち上げさせたという話は有名ですが、新政府を作った西郷と大久保も袂を分かち西南戦争に発展していくことはここで改めて述べるまでもありません。島津久光、西郷隆盛、大久保利通という個性も才能も全然違う3人が、たまたまこの時目標を一つにしたことが歴史を変え、それが終わるとばらばらになるというところに天の配剤のようなものを感じなくもありません。

いずれにせよ今回のテーマは慶喜と久光なのですが、もし慶喜が久光と人間関係がうまくいっていたとすれば薩摩藩の討幕方針が打ち出されることもなかったでしょうから、慶喜が久光を排除し続けたのは彼にとっては最大の失策と言えるかも知れません。慶喜の人生で、久光は最も軽く扱った人間の一人に違いないと私は思っていますが、そういうことが後々大きく響くというのは教訓と言えるようにも思えます。もっとも、久光は騒ぎを大きくしただけで本人が何かを成し遂げたというわけでもないように思うので、それでも幕末の最重要人物の一人なわけですから人生というものの不思議さを感じずにはいられませんねえ。




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佐藤正美著文春文庫版『大君の通貨』に学ぶ

難しい本です。文春文庫版は読みやすく改訂されているらしいのですが、それでも充分に難しいです。文章がきれいで、小説風で柔らかい雰囲気の文体にはなっていると思うのですが、それでもやっぱり難しいです。

何が難しいのかというと、貨幣交換の比率のごちゃごちゃとした計算が意外に厄介です。丁寧に説明してくれているのですが、それでも途中で何度も訳が分からなくなりそうになります。何度も繰り返し説明してくれているのでどうにか内容についていった「つもり」にはなっていますが、本当に理解できたかどうか自分でもちょっと怪しい気がします。

幕末、幕府が発行していた銀貨はどんどん質が落ちていて、それでも国内での金との交換比率を変化させなかったため、幕府は銀貨を出せば出すほど儲かるのですが、アメリカのハリスやらイギリスのオールコックやらがやってきて、アメリカの銀を日本の銀で計量し、それに相当する金貨を得ようとし、そうすると海外の金と銀の交換比率に比べて日本の金は不当に安くなってきているので、それを香港なり上海なりに持ち出して再び銀に換えれば濡れ手に粟の大儲けということになっていたという内容です。私の理解が正しければ。

それが要因で幕府は財政難を極め、国内は狂乱インフレに陥り、小室直樹先生風に言えば急性アノミー(無規範)が生じて幕府は潰れて新政府ができたという流れです。ついでにいえば、荒れに荒れたドルとの交換レートを何とかするために貨幣制度を見直して円を作ったということも言えるかも知れません。

通常なら、幕府の高官の無知蒙昧による失政として説明されるべきところを、この本ではハリスやオールコックの側が不十分な情報に基づいて誤解し、幕府に詰め寄り、ある意味ではつけこんで大いに儲け、その結果幕府が潰れたという視点で書かれています。

オールコックが書いた『大君の通貨』やハリスの『日本滞在記』などに書かれていることと同時に書かれていないことをよく吟味し、むしろ書かれていないことに注目し、行間を読み、裏を見透かし、新しい幕末史を描いているため、はっきり言って傑出しておもしろく、寸暇を惜しんで読みたくなる本です。いい本に出合えたという実感で、読後感は素晴らしいものです。素直に著者に敬意を持つことができます。

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近藤勇と伊東甲子太郎

伊東甲子太郎は、幕末の動乱の中で、ありあまる才能を持ちながら、それを発揮しきれずに不運な最期を遂げた人物で、大勢にはほとんど影響しなかったとはいえ、印象深い人物と言えます。

役者のように美しい顔立ちをしていて、剣術も一流、西洋の事情にも通じており、江戸で道場を開いていた時には相当に人気があったといいます。

門下生の藤堂平助が近藤勇の新選組に加入していた縁で、伊東も招かれて京都へむかいます。新選組の参謀で、近藤勇と同格の扱いとなり、その大物ぶりが知れるのですが、おそらくは政治の中心が京都に移っていることや、世の中が激しく変動していることに気づいていた彼は京都の政局に参加して自分の才能を発揮してみたいという願いを持っていたのだろうと思います。

ただし、想像ですが近藤勇にとっては自分より優れていると思える人物が仲間にいることは居心地の良くないことでしたでしょうし、伊東にとってもそれは同じだったかも知れません。2人は一緒に西国視察と遊説を行いますが、京都へ帰還後は伊東が孝明天皇の御陵を守備するとして御陵衛士という聞いたこともないような集団を形成し、新選組とは袂を分かちます。新選組には局を脱する者は切腹という恐ろしい掟がありましたので、表面的にとはいえ円満に伊東たちが新選組から出て行ったという一事だけをとってみても、近藤・土方は伊東に切腹させられるだけの力がなかったことが分かります。

水戸学も学んだことがある伊東はおそらくはある程度思想性のある仕事を京都でやりたかったのでしょうけれど、新選組は武闘派の色が濃すぎて自分の理想とは違い、がっかりしたのかも知れません。

私はもしかすると伊東が出ていったことで近藤はほっとしたのではないかと想像していて、伊東を殺す決心を先に固めたのは土方ではなかったかとも思います。

坂本龍馬が暗殺された時、伊東は現場に残された刀の鞘が新選組の原田左之助の物だと証言していますが、坂本龍馬が暗殺された日の夜、近藤勇が「今日は誠忠組が坂本龍馬を殺したのでいい気分だ」と言ったとの話もあるので、私は新選組暗殺説は採らないのですが、そうなると伊東の証言は何となく怪しい感じのするもので、伊東のその時の哀しい心のうちをついつい想像してしまいます。

旧暦の11月、真冬の京都で伊東は近藤と対面して酒食を共にし、その帰り道に油小路で新選組に襲撃されて命を落とします。伊東ほどの人物がこんな形で命を取られるというのは気の毒に思えてなりません。

伊東の残党が死体を回収するために油小路に来るのを新選組の方では待ちかまえていて、伊東の残党たちもそれは覚悟していたため、斬り合いになりましたが、伊東の残党のうち加納道之助など生き延びた者が今出川の薩摩藩邸に匿われ、ほどなく鳥羽伏見の戦いが起きたときは加納たちが大砲で新選組を狙い打ちしていたと言われています。土方は薩長の戦線が横一線で厚みのないことを見抜き、背後に回ろうとしましたが加納たちの砲撃によってそれが阻害されたのだとすれば、土方の動きはおそらく徳川軍逆転の唯一のチャンスだったかも知れませんので、伊東の死で加納たちが明確に薩長に回ったことは目立たないところで鳥羽伏見の戦いの戦局を決定づけたと言えるかも知れません。

近藤勇が流山で新政府軍に捕縛された際、近藤は自分は大久保大和であるとの偽名を使いましたが、新政府軍に従軍していた加納に見つかり、近藤勇だということがばれるという顛末になっており、命運尽きるとこのような落語みたいなことも起きるのか…と思ってしまいます。

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鳥羽伏見の戦いと徳川軍の敗因

大政奉還という劇的な政権移行が行われた後も、朝廷は徳川慶喜を頼りにしており、外交を含む当面の各行政事務は徳川が執行することになり、新しい政権にも徳川慶喜を入れた、徳川中心の新政府づくりの流れが生まれます。

岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛は徳川慶喜の智謀に恐れをなしますが、最終手段として武力による御所制圧という結局はかつて長州が試みたことと同じ手段に訴えます。

有名な小御所会議が慶喜を排除した形で開かれ、慶喜の官位と徳川氏の領地の剥奪が決められ、松平春嶽と徳川慶勝が二条城へ行き、その決定を慶喜に伝えます。慶喜は即答を避け、また軍事的な衝突も回避するために徳川軍とともに大阪城まで撤退し、様子を見るという作戦に出ます。慶喜の腹の内ではそのうち慶喜抜きの新政府は瓦解に近い状態となり、泣きついてくるだろうという計算があったと言われています。しかし孝明天皇が亡くなってしまった後ですので、慶喜は以前ほどの優位性が得られたかどうかはちょっと何とも言えないところです。

松平春嶽と徳川慶勝が再び大阪城の慶喜を訪問し、官位と領地の返上について確認しますが、同時に近日中の慶喜上洛についても合意されたと言われています。松平春嶽は心中では慶喜にシンパシーを抱いていたとも言われていますので、新政府内部に慶喜親派がいることと、近日の慶喜上洛が合意されたことは、慶喜的には自分の狙い通りに物事が動きつつあると見ていたかも知れません。実際に慶喜が会議にも出席することになれば、弁舌で負けることはなく、しかも元将軍で母親は宮様という圧倒的な威光がものを言い、主導権を握れると睨んでいたのではないかと思います。

その狙いが崩れるのは江戸で薩摩藩廷を出入り浪士たちが市中で強盗を繰り返すという事件が頻発し、薩摩藩邸焼き討ち事件が起きたことですが、これによって大阪城で不満を抱えたまま我慢していた兵たちの怒りが爆発。徳川慶喜がしぶしぶ同意するという形で徳川軍が京都を目指して進軍します。徳川軍のフランス式歩兵連隊は鳥羽街道を通り、会津軍は伏見街道を通ったとされています。

徳川・会津軍は慶喜上洛の名目でいわば無害通行を主張して京へ入ろうとしますが、薩摩・長州軍がそれを認めず、両者は交渉しますが、ほどなく交渉決裂ということで実力勝負ということになります。

不可解なのはなぜ徳川軍が敗けたのかということに尽きます。会津軍は必ずしも薩摩・長州軍に比して近代化が進んでいたとはいえず、会津藩が注文した大量の最新の銃が戊辰戦争が終わった後に届き、代金を支払う主体が存在しなくなっていたという珍事も発生していますが、これは翻ればこの段階では薩長に対抗できるだけの近代装備はまだ整っていなかったことの証明と言えるかも知れません。そのため、伏見街道で会津が敗けたことは全く不可解ということもできません。

しかしながら、徳川軍は大金をはたいて充分な海軍力と最新式の陸軍力を持っており、既に列強も簡単には手出しできないほどまで強くなっていて、仮に戦局が長期化すれば、海軍力を使って瀬戸内海を封鎖し、山陽道にも艦砲射撃をかけることで薩長の兵站を遮断するという奥の手があり、そもそもそこまでしなくても徳川の歩兵連隊がきちんと使われていれば薩長が一日で敗走した可能性も充分にあったと考えることができます。勝海舟は後に薩長軍は横一列で厚みがなく、どこか一か所でも突破できればそれで勝てたと回想しています。もちろん、勝海舟は現場にいたわけではなく、後から他の人から聞いてそういう見立てをしているわけですが、兵員の差から考えてもおそらくその見立てに相違あるまいとも思えます。

土方歳三が薩長軍には厚みがないことを見抜き、背後に回って挟撃しようとしますが、伊東甲子太郎の残党が近藤勇を銃撃して重傷を負わせたり、新選組の陣地に砲撃を加えたりと狙い撃ちしてそれどころではなくなり、撤退せざるを得なかったようです。

ただ、初日の戦局は一進一退だったものの、翌日、薩長側に錦の御旗が翻り、それにびびった徳川軍が敗走したとされています。私は錦の御旗にびびって敗走したというのが本当かどうかについては懐疑的です。錦の御旗は楠木正成以来使われたことがなく、要するに誰も見たことがないものですから、果たしてそのような旗がたてられたところで、そうだとすぐにわかるかどうかという疑問が残ります。私だったら旗手を狙い撃ちさせます。慶喜が水戸学を叩き込まれていたことと関連付けた説明もよくありますが、慶喜本人は大阪城にいて現場にはいなかったわけですから、関係ないようにも思います。幕府軍関係者が後日、敗戦の理由について述べる際に「錦の御旗が出て来たから…」と言い訳に利用し、薩長側も天皇を担ぐことで自分たちの正当化を図っていますので、その言い訳は薩長にとっても都合がよく、明治に入ってから、双方関係者がそういうことで話をまとめたのではないかという気がしてなりません。

では実際になぜ敗けたのかと言えば、一点突破する意思を持っていなかったのではないかと推量する他なく、覚悟が決まっていなかったと考える以外にはありません。慶喜本人が「このままでは俺は切腹だ…」と保身で脱走していますから、そもそもいろいろダメなわけです。

敢えて言えば、徳川慶喜は井伊直弼の安政の大獄の結果、政治家としてのデビューが遅れ、実際に自分がイニシアチブをとれるようになった時には既に徳川の命運は尽きていたようにも思え、そこは気の毒に思えまし、慶喜からすれば既に内側からダメになってしまった幕府のために腹を切るのはバカバカしいと思ったとしても責められないような気もしなくはありません。

ただ、徳川慶喜は「百言あって一誠なし」と評されるタイプで保身が全てみたいなところがある人ですから、小手先の議論では勝てても、大久保・西郷のようなタイプが死ぬ気でいどんてきた場合にはやっぱり勝てなかっただろうなあとも思えます。


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禁門の変で京都に直接の進軍を試みた長州は孝明天皇から朝敵指定を受け、幕府の命令による西国の諸藩の兵を集めた、いわば正規軍が編成され、長州を包囲します。長州藩では藩論が二分し、恭順派と抵抗派で激しい議論が戦わせられますが、恭順派が勝利し、一旦は和平交渉が行われます。
ところが徹底抗戦派の高杉晋作が藩内でクーデターを起こして勝利し、長州藩の態度は硬化。戦端が開かれるという展開になります。

諸藩の兵力は長州藩によって各個撃破されますが、その後幕府軍歩兵が投入され、東方面の戦線は膠着状態に入ります。高杉晋作は西方面の戦線に着目し、九州上陸を画策します。海軍力では幕府軍が圧倒的な戦力を有しており、通常であれば関門海峡を渡ることはとても不可能なことのように思われましたが、巨大な幕府艦隊に対して夜間の接近戦をしかけるという奇策をかけ、坂本龍馬も参加して、これを突破。高杉晋作とその兵力は小倉城を目指して進撃していきます。

小倉藩は幕閣の小笠原氏が藩主をつとめており、長州征討の現地司令官を担当し、各藩に命令する立場にありましたが、長州の積極的な攻勢に対して諸藩は消極的で戦意に乏しく、小倉藩は次第に追い詰められていきます。長州サイドがグラバーから買い入れた最新のミニエーゲベール銃を大量に保有していたことも戦局を分けたとも言えます。幕府軍こそ最新の装備を揃えてはいましたが、長州征討に駆り出された藩の中には火縄銃数十丁というところもあったでしょうから、そういうところはそもそも勝負にならなかったはずです。

熊本藩の細川氏がアームストロング法を所持しており、小倉城の手前に布陣。長州の兵はアームストロング法に阻まれて前進できないという事態に陥ります。長州の兵隊にとって小倉上周辺は「敵地」ですので、戦闘の長期化は兵站の疲弊を招く恐れがあり、仮にここでの膠着状態が長期にわたれば、結果は違っていたかも知れません。

しかし、小倉藩の弱みは細川氏の軍だけにしか頼れなかったという点にあり、まことに心細いもので、結果として細川氏の軍だけが常時最前線に立たされるという厳しい状況が生まれ、細川軍に疲労と不満が蓄積され、最終的には戦闘の継続を拒否し、撤兵します。

アームストロング砲のプレッシャーから解放された長州軍は前進を開始しますが、小倉藩は小倉城に放火して後退。戦闘はその後しばらく続くものの終始長州の有利で推移します。ここに来て小倉軍の戦線が完全な崩壊を見せるという事態に陥らなかったことには、小倉側が背水の陣にならざるを得ず、徹底抗戦したためと考えることもできます。

長州優位の状態で停戦が成立し、講和の使者としては干されていた勝海舟が人脈力を買われて広島へ送られます。長州は朝敵指定が解除され、面目躍如。風前の灯だったはずの長州藩は息を吹き返し、幕府打倒に邁進していくことになります。

ここで気になるのは圧倒的な兵力を誇っていたはずの征討軍がなぜかくも赤子の手をひねる如くに負けたかということなのですが、最大の要因は諸藩の寄せ集めであったため、指揮あ上がらず、それぞれの大名は戦争させられるのを迷惑だくらいに感じていて、積極的な動きを見せようとしなかったことにその要因があるように思えます。大軍よりも少数精鋭の方が充分に役に立つということは源義経や楠木正成の例で証明されているとすら言えるかも知れません。

それを悟ったからこそ、徳川慶喜は直参の兵力で改めての長州攻略を構想しますが、徳川慶喜自身がわりとポジショントークに終始する人で、もし幕府軍精鋭だけで戦線を形成し、おそらくは失敗した場合は自分の責任問題になると考えてそれを撤回。この段階で徳川幕府崩壊は決定的なものになったと考えることもできるかも知れません。

以上のようなことを総合すると、責任感のある上司と少数精鋭の二つが成功の要因ではないかと思えてきます。長州征討ではその両方がなかったために、負けるのは必定だったとすら言えるかも知れません。




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勝海舟はもともと家柄的にはそんなによかったわけではありませんが、オランダ語と航海技術の習得によって見出されるようになり、幕政にも参加していくようになります。

勝海舟は幕府を中心とした日本連合のような大艦隊を造り、列強に対抗するというような構想を描いていたようですが、国政は幕府が独占するものと考えていた幕閣たちから敵視され、どちらかと言えば浮いた存在になっていきます。

神戸に操練所を設けて坂本龍馬などの浪人を集めて食客三千人みたいな感じになっていき、そのことも幕府関係者から背を向けられるという展開を見ますが、結果としてはこのことが勝海舟の財産になっていきます。

勝海舟の回想録を読めばよく分かりますが、とにかくよくしゃべる。言いたい放題。甚だしいとすら言える我田引水の議論が多く、そういうことで嫌われていたのではないかと思います。アメリカに行く咸臨丸には艦長として乗り込みましたが、正使の木村摂津守とは折り合いが悪く、一水夫として乗り込んだ福沢諭吉も後年、これでもかと勝海舟を非難しています。

徳川慶喜も勝海舟を寄せ付けようとはしませんでした。多分、嫌いだったのだと思います。

嫌われまくって一旦は幕政を身を引くことになった勝海舟ですが、第二次長州征伐で失敗し、その講和のための使者として長州との交渉に臨むため広島へ行くように命じられることで、政治に復帰しています。勝海舟が広島に行っている間に慶喜は将軍に就任しており、海舟の言によると「いつのまにか君臣の関係になってしまった。私は徳川の家臣ですが、あなたの家臣ではありませんよと言った」とのことで、慶喜と海舟という頭の切れる者同士、おそらくは近くにいてもお互いに傷つけあうだけだったでしょうから、慶喜的にも「こいつ、面倒くせぇ」と思ったのではないかという気がします。

その後は江戸に居たわけですが、鳥羽伏見の戦いで徳川軍が惨敗し、あろうことか徳川慶喜が大阪から脱出して江戸に帰還。慶喜は政治からは降りるという決心を固めたことで、後は官軍との話し合いで慶喜の生命と江戸の街を守らなくてはいけないということになり、西郷隆盛とも面識があり、いろいろ顔が広い勝海舟が交渉役になります。神戸の操練所でやっていたことがここで役に立ったと言うこともできると思います。

明治維新後、勝海舟は徳川家中の世話人のような立場になり、あれこれと面倒を見て徳川慶喜に関しては朝敵指定の解除に漕ぎつけ、その後随分経ってからですが明治天皇と徳川慶喜の会見の実現にも尽力しています。その時のことを『氷川清話』では「慶喜は涙を流して自分に頭を下げた」と得意げに語っており、こんなことを他所でしゃべる部下にいたらいやだろうなあと私は一人ごちました。

どうであれ、慶喜にとって勝海舟は命の恩人であり、江戸を戦場にしなかった功労者だという点では変わりありません。能力のあるものは嫌われてなんぼなのかも知れません。

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近藤勇とその仲間は将軍家茂の上洛警護のための浪士隊に応募し、清川八郎が浪士隊を私兵化して江戸に連れて帰ろうとする際、それをよしとせずに京都に留まり、あれやこれやと足掻いてみせて出世のチャンスを狙います。

新選組の名が世間に知られるようになったのはなんと言っても池田屋事件で、全てが終わった後の今の時代を生きる我々の視点からすれば、長州に絶対の復讐を誓わせたという意味ではパールハーバー並の禍根を残しましたが、当時としては仮にも京都市中に火をつけて混乱に乗じて孝明天皇を誘拐するなどという馬鹿げた事件を未然に防いだとして大手柄ということになりました。新選組の白地に青を染めた隊服は赤穂浪士をイメージしていたそうで、近藤勇が京都滞在に「男のロマン」を感じていたであろうことが想像できます。

新選組は会津藩にも大いに重宝され、徳川慶喜の面目も保たれたと考えられたかも知れません。後に近藤勇は直参旗本にも取り上げられますので、まさしく大出世、実際によく仕事もしているということで、徳川慶喜と近藤勇の関係はwinwinなものであったと言えます。

しかし鳥羽伏見の戦いの後、新選組は徳川から見放されたも同然の愚連隊になり、流山で近藤勇は大久保大和という偽名を使いますが見破られ、池田屋事件では土佐藩士も死んでいますので長州・土佐両者からの恨み骨髄で切腹すらさせてもらえず、斬首刑にされるという運命を迎えます。土方歳三が近藤勇の助命を頼みに勝海舟に談判しますが、その件で勝海舟が動いたという話も聞きませんので、勝海舟としては慶喜の命がどうなるか分からないというこの時期に、近藤勇どころではなく、黙って泣いて死んでもらおうと決め込んだのかも知れません。近藤勇は新参者とはいえ徳川の正規軍の一員ですので、果たしてこの処断に法や正義はあるのかという疑問はどうしても湧いてきますが、たとえば池田屋事件の時はまだ会津藩お預かりの身であったので、正規の職責としてしたことではない、などの論法で論破するということもあったかなかったか。

明治維新後、徳川慶喜がある人と座談している時に近藤勇の話になり、慶喜は「近藤か…」と遠くを見る目をして涙を流したという話を読んだことがあります。京都で政治をしていた徳川慶喜にとって、江戸の幕閣よりも近藤勇は身近な存在であり、よく仕事をしていたことも知っていて、自分の命は助かったけれど、近藤勇の場合はそうではなかったということを慶喜は腹に染み入るように反芻していたのではないかと私は想像します。

晩年の徳川慶喜について、幕府を見棄てて自分だけ楽隠居のずるいやつと見るか、それとも何があっても動こうとせず、士族の乱にも加担せず、大局をよく知る人であったかと見るかは人それぞれと思いますが、私には彼が深い諦めと韜晦、そしておそらくは後悔を反芻する日々ではなかったかと思えます。


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徳川慶喜による大政奉還は海外でも世界史を学ぶ人にはよく知られています。「将軍」または「大君」というネーミングがブランド化しており、神聖ローマ皇帝みたいなイメージで語られますので、将軍自らがその権力を手放した大政奉還という出来事はヨーロッパの歴史で言えばカノッサの屈辱なみによく知られており、且つ、細かいことまでは海外では知られていませんから、なぜそんな不思議なことが起きるのかと首を傾げる人も多いように思います。

大政奉還というアイデアを出した人物は必ずしも坂本龍馬が最初というわけでもないらしいのですが、一応、坂本龍馬の発案ということで記憶している人は多いと思います。実際、徳川慶喜が大政奉還をする直接のきっかけになったのは山之内容堂の建白書で、その建白書は後藤象二郎から山之内容堂に働きかけて書かれたもので、後藤象二郎は坂本龍馬からその案をもらっていますので、「坂本龍馬が大政奉還を発案して徳川慶喜を動かした」というのは間違ってはいないと思います。

徳川が政権を返上した後の新しい政府の政権構想では、坂本龍馬は徳川慶喜を中心にした新政府を考えていたとも言われており、大政奉還がなされた時に、徳川慶喜の器量の大きさを知った龍馬は感激し、命をこの人に捧げるとまで書き残し、坂本龍馬暗殺薩摩主犯説が唱えられる背景には、坂本龍馬の慶喜への傾倒が主要因だともされていますので、徳川慶喜は坂本龍馬人生最大の仕事の相手であり、命を落とすことになった原因であったとすら言えますが、その当の徳川慶喜は明治維新後になるまで坂本龍馬の存在を知らなかったようです。

維新後、静岡県に引っ込んで世の中との交わりを絶つようにして生活していた徳川慶喜ですが、維新後にいろいろと刊行された維新秘話モノなどの本は読みまくっていたらしく、それらの書物の中で坂本龍馬の名前を発見し、薩長同盟も坂本龍馬が間に入ってしたということも知り、そんなことがあったのかと驚いたそうです。

幕末維新モノの本については普通の人はだいたい、一般的な意味での興味があったり、知識がほしいと思って読むものだと思いますが、徳川慶喜は当事者ですから、あの時、その時、いろいろ胸の中で去来し、その背景に何があったのか、自分の知らないところでどういう動きがあったのか、納得のいく説明がほしいと思うこともいろいろあったでしょうから、単なる回想ものでも自分と直接関連することとしてついつい食い入るように読んだのではないかと想像します。そして、ああ、あの時のことは背後関係にこういうことがあったのかと合点したり、あの野郎、裏でそんなことを…と思ったり、いろいろだったのではないでしょうか。



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徳川慶喜は京都の政界で活躍中、概ね、京都の朝廷関係者からは好意的に受け入れられており、その実感が慶喜の政権運営への自身を持たせたのではないかと推量します。政治に忙殺されていた時期は江戸に立ち寄ることもなく、ひたすら京都か大阪にいて幕閣を江戸から呼び寄せて仕事をしていたのも、近畿にいるとシンパが多くて狙い通りに物事が動くということが強い理由としてあったかも知れません。

特に孝明天皇が徳川慶喜びいきで、時の天皇が慶喜に厚い信頼を寄せている以上、他の公達もなかなか反対というわけにもいかず、親長州反幕府の公卿たちは自業自得の面もあったとはいえ都落ちさせられています。

江戸幕府にとって京都はある意味では敵地とも言えるはずですが、そのような土地で慶喜がかくも優位に振る舞うことができたことの理由としては、母親が有栖川家の正真正銘の皇族で、血筋的に文句がつかなかったというのが大きかったかも知れません。慶喜を関白に推す声が上がったのも、そういう母方の血筋が影響しているように思えます。また、水戸学が熱心な尊王思想で、慶喜はその教養を身につけていたでしょうから、そういうことも朝廷からは好意的に受け入れられていたように見受けられます。

慶喜は将軍就任後に宮様の側室を得ようと画策した時期があったようなのですが、もしかすると宮様との間に生まれたことも嫡流にしようという目論見もあったかも知れず、慶喜自身も自分の母親が宮様であるということの計り知れない利点をよく知っていたということの証左と言えるかも知れません。

慶喜がわりとあっさりと大政奉還で江戸幕府を解散してしまうのも、自分は朝廷派の人間であるという自覚があり、先方を焦らせて狙い通りの政治を進めると言う、時に大胆とも思える戦略で政治に臨んだのも、以上述べたことからくる大きな自信に裏打ちされいたのではないかとも思えます。

そのような経緯があったため、薩長クーデターで京都が占領され、慶喜が一旦大阪城へ退いた時、家臣たちが憤慨する一方で慶喜がじっと待ちの姿勢に入り、自分に泣きついてくるのを待つというのは過去の経験から導き出されたなかなかの上策であったとも言えるでしょう。ただ孝明天皇が亡くなり、明治天皇の抱き込み見込みは立っていなかったので、計算がうまく立たない時期に入ったと言えるかも知れません。

慶喜は家臣団の怒りを鎮めることができず、やむを得ない形で軍を大阪から京都へと進めさせます。兵隊の数で言えば徳川軍が圧倒的に有利、装備の点でもフランス式陸軍連隊を投入していますので、必ずしも徳川軍が劣っていたとも言えません。戦場に楠木正成以来の「錦の御旗」が登場し、そこで形成が決定的になったというのは私には何となく信じられないのですが、大阪城で戦況の報告を待っていた徳川慶喜がその報せを受けたときの心理的なショックは相当に大きかったものと想像できます。

朝廷の支持を得ているということを権力の基盤にしていた慶喜にとって錦の御旗に弾を打ち込むということは自己否定にならざるを得ず、これはもはや戦闘停止、ゲームオーバーと彼が考えたとしても全く無理はありません。 

兵隊を見棄てて自分だけ江戸へ軍艦で逃げ帰るという最後の最後でみっともない姿を見せるのことになったのは、慶喜本人がこの段階でゲームオーバーであるということを充分に理解していたからであり、江戸でフランス公使のロッシュからの協力を申し出られても断ってお寺に謹慎する道を選んだというのも、江戸には慶喜の権力基盤がないという現実をよく分かっていたということの証左のように思えます。この辺りを充分に見通したあたり、確かに聡明です。慶喜が政争で一か八かの賭けをしたことはなく、必ず状況を分析した上で勝てる戦略を立てて事に臨んでいましたので、江戸へやってくる官軍を迎え撃つというのは勝てるかどうかわからない、やってみなければわからない賭けになりましたので、そういうリスクは取らなかったのでしょう。慶喜の心中はそれまでに交流した朝廷の面々の顔が浮かび、今や朝敵指定された自分のことをどう言っているかというのが去来したことと想像します。

政治にも軍事にもずば抜けて明るかったであろう慶喜が維新後に沈黙を守り抜いたのは、ある意味では拗ねて見せていたというのもありそうな気がしますし、過去の面白い大政治をしていたことから考えれば、それよりも格下の政治ゲームに参加する気になれないというのもあったのではないかと思います。幸いにして彼は多趣味で、写真を撮ったり油絵を描いたりして長い晩年を送ります。結果としては潔い、いい晩年ではなかったかと思えます。


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ナポレオン三世と徳川慶喜

幕末の日本はイギリス人のグラバーの支援を受ける薩長同盟軍とフランスが肩入れしている徳川軍とに分かれ、英仏の代理戦争が日本で行われたかの感があります。

特にフランス公使のロッシュの場合、国の方針を越えて徳川慶喜に個人的に相当肩入れしていたらしいと言われています。ロッシュは徳川慶喜にフランス産の馬を送った他、ナポレオン三世からの贈り物として皇帝服も送られており、慶喜が皇帝服を着て撮影した写真も残されているほどです。また、幕府はフランスから240万ドルの支援を受けて横須賀製鉄所の設立の計画にも着手しており、ここだけを見ると徳川幕府とフランス公使のロッシュとの関係は相当な浅からぬものであったと考えるべきでしょう。

ナポレオン三世は世界中に影響力を及ぼす壮大な構想を描き、クリミア戦争でも辛うじて勝利した側につくことでいけいけどんどんではありましたが、アルジェリア植民地政策の強化、中国、ベトナムへの侵略的進出、メキシコへの出兵など野心に燃えた人物であり、ナポレオン三世と深くかかわると、下手をすると日本にも口実をつけて大量に兵を送り込み植民地にしてしまおうという野望をもち、しかもそれを実行しかねないという懸念のある人物でしたので、ナポレオン三世から大金を借りることは日本にフランスの橋頭保を築かせる格好の口実にすらなり得、なかなか楽観できるものではありませんでした。

ただ、徳川慶喜が完全にロッシュべったりだったかと言うと怪しい点が残っており、大政奉還後に薩長による武力的京都占領に伴い、大坂に撤退した徳川慶喜でしたが、大坂ではロッシュとだけでなくイギリス公使のパークスとも面談し、「今後も日本の外交を司るのは自分だ」と宣言しています。そういう意味では慶喜はフランス一辺倒というわけではなく、イギリスともある程度わたりをつけた等距離外交を目指していたと見ることもでき、イギリスに対して意地悪な見方をするとすれば、薩長に肩入れしつつも、勝ち馬に乗るために幕府と薩長の両方と気脈を通じていたという言い方もできるのではないかと思います。

勝海舟の回想によると、江戸開城について西郷隆盛と話し合った際、慶喜の助命をどうしても西郷隆盛が受け入れない場合にはイギリス公使パークスの手引きで徳川慶喜をイギリスに亡命させる手筈を整えていたということですから、いざいよいよという時には、ナポレオン三世よりはイギリスの方が信用できると踏んでいたのかも知れません。

当のロッシュは慶喜の江戸帰還後も徹底抗戦を訴えており、それは単にナポレオン三世の意図というものだけでなく、個人的に慶喜への親愛の情が強かったからだともいわれています。慶喜はフランス式陸軍連隊を創設させており、ジュール・ブリュネというフランス人軍事顧問は函館戦争まで旧幕府軍と行動を共にしていますので、利害だけでなくもうちょっと親愛の情で幕府とフランスが結ばれていたという可能性も捨てきれません。

徳川慶喜に結構、肉迫していたともいえるナポレオン三世ですが、肩入れしていた江戸幕府は潰れる、メキシコに置いた傀儡皇帝のマクシミリアンは殺される、挙句の果てには普仏戦争で自身が捕虜になってしまい、国民の支持も失った彼はイギリスに亡命して晩年を送ります。

ナポレオン三世はそういう意味では武運があまり味方していない人で、自分がプロイセンと戦って捕虜になり失脚しただけでなく、メキシコ皇帝として担いでいたハプスブルク家の血を引くマクシミリアンは最期には銃殺されており、かかわった人はことごとくエライ目に遭わされているという印象が強いです。徳川慶喜の場合は水戸で謹慎させられ、その後は静岡県でおとなしく隠居生活をさせられることになりますが、ナポレオン三世と手を結んだ人のわりには穏便な余生をそういことができたと言うことができるかも知れません。



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