レイテ沖海戦をどう見るか

レイテ沖海戦は、その作戦はほぼ成功しながら、言わば現場の職務放棄とも言える事態で失敗してしまった戦いです。

 フィリピンのレイテ島にアメリカ軍が上陸し、続いて補給部隊が上陸することになっていましたが、その時にフィリピン北方沖に小沢空母艦隊が出撃。アメリカの戦闘機が小沢艦隊に集中している間に巨大戦艦大和と武蔵がレイテ沖に出現してアメリカの補給部隊を砲撃するという、戦国絵巻もののような華麗な作戦です。

 フィリピンは日本とインドネシアの間にある資源ルートで、そこを失えば石油が入ってこなくなり、戦艦も動かせなくなるため、日本は最後の空母艦隊を失う覚悟で囮として使用し、日本海軍の象徴的存在である大和と武蔵で敵の補給部隊、即ち戦争を続けるための核心の部分を撃つことになっていました。捨てるものは捨てるという腹を括った覚悟を決めた作戦であり、全体としてはほぼ成功していたにも関わらず、大和がフィリピンから反転し、最後の目的を遂げることができなかったことは、今日まで謎の反転として知られています。

 結果として空母艦隊も失われ得たものは何もなく、連合艦隊はそれを最後に組織的な作戦を行うことができなくなってしまいます。

 なぜ栗田長官が大和を反転させたのかは現在も議論が続くところです。私個人としては大和の保全(即ち栗田長官個人の身の保全)を優先したのだろうと思いますが、やはり本人が生前そうではなかったと言い張っていた以上、あまりにも不名誉な話ですから、謎ということで曖昧にされているのかも知れません。

 ではもし、大和が作戦通りに砲撃していたらどうなっていたでしょうか?レイテ沖に辿り着く前に武蔵は撃沈されています。アメリカ側は大和の出現を予期していなかったわけではありません。そのため、大和が砲撃していたなら小沢艦隊を沈めた飛行機の群れが返す刀で大和に襲いかかり、大和も撃沈されていた可能性が十分に高かったように思います。

 ただし、それによって補給物資を失ったアメリカ軍はフィリピン作戦で多くの支障をきたしたことでしょうから、戦争はまた違った様相を見せた可能性もあります。

 とはいえ、それも物量の問題に過ぎず、しばらくすればもっと沢山の補給が到着して何ともなかったということも大いにあり得ます。

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ミッドウェー海戦の辛いところ

 あの時ハワイを占領しておけばよかった…という後悔から考え出されたのがミッドウェー海戦です。川崎にアメリカ機が爆弾を落とすという事件もありましたので、事態を放置しておけば日本本土が空襲の危険にさらされるという不安も掻き立てられました。

連合艦隊の総力を尽くし、まずミッドウェー島を爆撃、次いでそれを占領。続いてハワイから迎撃のために出てくるであろうアメリカ空母艦隊を全滅させてハワイに進撃するという計画通りに進めば華麗かつ緻密な職人芸的作戦が展開されるはずでした。出撃艦隊後方には戦艦大和も出撃し、海上のパレードといった印象すら与えるものです。

残念ながら計画はうまくいかず、日本の空母は四隻が撃沈されてしまうことになりますが、そのような結果になってしまった原因はアメリカ空母艦隊が予定よりも早く出て来たことでした。有名な話ですが、日本の暗号通信は解読されていて、日本の予想よりも早く迎撃に出て来たのです。

飽くまでも結果論ですが、敵の艦隊を発見すれば即座に戦闘機を発進させ、こちらがやられる前に攻撃しなくてはいけません。ゼロ戦はミッドウェー島爆撃のための爆弾をつけていましたが、そのまま飛び立ち、敵空母の甲板に爆弾を落とし、とりあえず使えない状態にしておいて、帰還した飛行機に今度は魚雷を抱かせて出撃させて撃沈する、という手順を選ばなくてなりません。

しかしながら、敵空母発見の知らせを受けて急いで爆弾を取り外し、魚雷に付け替えている間に攻撃を受けるという痛恨の事態に立ち至ってしまいます。

確かに大きな痛手となる戦いでしたが、ゼロ戦は味方の空母をよく守り、且つ、アメリカの空母を二隻沈めています。上層部の采配ミスで混乱する中、喝采を送るべきことのようにも思えます。

日本側の哨戒機はアメリカ空母艦隊の上空を飛びながら、雲の上から警戒していたために発見できなかったと言います。普通に考えれば雲の下を確認しない哨戒活動というものは考えられません。戦いの長期化が必至の情勢下で、敵の空母を発見したくない、敵の空母はいないものと考えたい、という恐怖心から来る現実の誤認が深層心理にあったのではないかと私は時々思うのです。

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サイパン島の戦いのこと

私の母方の祖父がサイパン島で戦死していますので、母が訪問したがり、一緒に何度か訪れたことがあります。もし、遊びに出かけるのなら、サイパン島よりグアム島の方が楽しいのではないかという印象が私の中にはあるのですが、そもそも父祖の世代が飢えや火炎放射器で苦しみ抜いたということを考えると、あまり楽しみたいという気持ちにもなりにくいです。

 祖父がどのようにして戦死したかということについては、今に至るまでさっぱり分かっていません。サイパン島は玉砕していますので、生きて帰った人が本当に少なく、証言してくれる人もいませんので、これは永遠に分からないままになると思います。

 サイパン島の戦いはガダルカナル島の戦いとはその持っていた意味が大きく違います。ガダルカナル島の戦いは積極的な攻勢に出ることを企図していたものですが、サイパン島には日本人の市民が生活していたため、その人たちを守らなければいけなかったということとアメリカの爆撃機が日本本土まで到達できる距離にあるため、サイパン島が陥落すれば、その後は空襲が頻繁に行われることを覚悟しなくてはいけませんでした。

 生き残った人々は島の南端の方へと逃れ、日本艦隊が救援に来てくれることを期待しますが、言うまでもなくそのようなことは起きませんでした。逃げる先を失った人々が島の南端で海に飛び降り、バンザイクリフと呼ばれたことは知られていることです。私と母もバンザイクリフは訪問しましたが、景色が大変美しい場所ではあるものの、やはり気持ちが何とも言えない追い詰められたような心境になってしまいました。あの海の景色は当時の日本人はまさしく行き場のない「絶海」に見えたのだろうと思います。

 サイパン島が陥落したことで、その後は日本市民の被害が増えることがはっきりしていたわけですから、その段階で日本不利を認め、戦争を終わらせるという選択肢がどこまで現実的だったかは分かりません。しかしながら、東条内閣は責任を取って総辞職するものの、戦争は継続されていきます。辛い歴史ですが、忘れることもいけません。

関連項目
ガダルカナル島の戦い

ガダルカナル島の戦いのこと

日本軍はガダルカナル島を攻略し、現地に飛行場を建設することにより、アメリカとオーストラリアとの連絡を絶ち、更に、オーストラリアを攻略して日本優位の講和を画策していたようです。

しかし、ガダルカナル島の戦いはそのように簡単なものではありませんでした。日本軍の飛行場建設を知ったアメリカ軍は事態の重大さに気づき、即座に攻撃を仕掛けて飛行場を奪取します。日本軍はその奪回のために最初は一木支隊約1000人を投入しますが、全滅してしまいます。その後、辻正信参謀が到着してジャングルの中を進軍し、昭和天皇の誕生日と同じ日に奪回するという英雄主義的な作戦を進めますが、結局は成功せず、日本軍は二万人の死者を出し、残りの兵隊さんたちは脱出するという完全な敗北を喫することになりました。

ガダルカナルの飛行場を奪取したアメリカ軍は、当初に於いて補給が追い付いておらず、日本軍に強襲されても反撃する弾がないという非常に心細い状態だったことが知られています。しかしその段階で、日本軍が本格的な攻勢に出ることはなく、少数の部隊を派遣して勝てるはずと考えていたというのは理解に苦しむところです。

内心ではアメリカ軍が強いということに恐怖心を抱いていたことは間違いのないことでしょうけれど、その恐怖心を正面から受け止めず、敵は弱いという幻想を作り上げ、それを現実だと思い込もうとしていたと考えるのが、安易すぎるかも知れませんが妥当ではないかという気がします。

当初の段階で少数の部隊しか送り込まなかったというのも、大部隊を送って船が撃沈されたらどうしよう…などの恐怖心があって、小出しにしてしまったというのが本当のところではないかも思います。

太平洋戦争に関するものは、読めば読むほど、「ああ、これは勝てない…」という感想に至ってしまいます。

関連項目
サイパン島の戦い