台湾近現代史20 台湾人の元日本軍人と軍属

太平洋戦争では、台湾人も日本軍の軍人として、または軍属として日本軍に協力しています。いわゆる原住民と呼ばれる人たちは運動神経がすばらしく、南方のジャングルでは頼りになる戦力になったとも聞いたことがあります。

台湾人の一般男性を「徴兵」したのは昭和20年に入ってからのことで、主としてアメリカ軍が台湾に侵攻してきた場合に備えてのことでしたので、アメリカ軍の台湾への侵攻はありませんでしたから、その場合に於いての戦死者について議論する必要はあまりないかも知れません(ただ、台北にも空襲はありましたので、それによる被害について誰がどう補償するのか、みたいな議論はあり得るように思えます)。

ただ、それ以前から志願兵の募集はなされており、当時の台湾の若い人は日本軍の兵隊になれば外の世界を見ることができるという考えで応募する人が多く、競争率は大変高いものだったそうです。

台湾での徴兵がぎりぎりまで行われなかった理由としては、当時は兵役と参政権が不離不足の関係にあると考えられていたからで、この発想が女性参政権が戦後になるまで実現しなかったことの理由にもなるのですが「帝国議会」に台湾からの代表者がいない以上、徴兵するのは相矛盾するという発想から、徴兵がなされなかったものと理解しています。そのため、昭和20年に入って台湾の一般男性が軒並み徴兵される事態に突入すると、慌てて林献堂という台湾の超大金持ちの名士(林家は林爽文事件で財を成し、日本で台湾売却論が起きた時は買い取り費用の準備までした壮絶な大金持ちです)を勅撰議員に任命して、法理上の矛盾を解消しようとしています。ただし、直後に敗戦を迎えていますので、林献堂が帝国議会の議場に立つことはありませんでした。

さて、そうは言っても上に述べたように原住民の人たちが南方の戦線で活躍し、戦死している人もいます。他にも軍属の立場で通訳を務め、戦後のBC級裁判で捕虜虐待の罪に問われて刑死した人もいらっしゃいます。そういう方たちを「戦没者」として扱うかどうかでは随分といろいろな議論があるようです。

靖国神社では台湾人の戦没者も合祀されており、おそらく、ここは想像になりますが、BC級で裁かれた人も「法務死」という名目で合祀されているものと思います。

一方で、日本の敗戦により日本国籍から離脱してしまったために、いわゆる恩給が受け取れないと言うことで訴訟にもなっています。裁判所は不当な差別とは言えないとの結論を出しましたが、一方で政府からは人道的観点から弔慰金または見舞金が支払われました。

台湾の戦没者や戦傷者については、日華平和条約が日中国交回復によって無効にされてしまい、結果として個人補償が宙に浮いてしまった形となっており、とても気の毒なケースのように思えます。

太平洋戦争という未曽有の歴史的な出来事が関連していることや、日本が世界的にも稀にみる豊かな国になったことを考慮すると、できるだけ手厚くするという方向であってほしいものだと個人的には思います。

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『BC級裁判を読む』を読む

終戦直後に行われた戦争犯罪人に対する裁判では、東京裁判にばかり議論が集中しがちですが、同時に多くのBC級戦犯に対する裁判が、各地で開かれていたものの、あまりそれについての議論に触れることはありません。

私の漠然としたイメージでは『私は貝になりたい』的な、勝者による敗者に対する一方的な決めつけ裁判が行われたのではないかというものでしたが、実際にこの本を読んでみると、なかなかそう簡単に判断できるわけでもないということがよく分かります。

B級戦争犯罪人とはハーグ陸戦条約で禁止されているような通常の戦争犯罪を犯した人のことで、たとえば一般市民への残虐行為や捕虜に対する虐待などが入ります。C級の場合、主としてナチスドイツによるホロコーストを裁くことを想定して設けられた概念ですが、日本の場合、それに相当するかどうか議論が分かれるところであり、中国は南京事件をしてC級に値すると主張したようなのですが、結果的にはB級とC級の線引きは曖昧なまま、BC級というくくりで裁判が行われたようです。

難しいのは、多くの場合、上官の命令で行われた残虐行為について、一般の兵隊や下士官などにその責任を問うことができるかどうかという点です。法理法論を説くならば、アメリカ軍による日本各地への空襲や広島・長崎への原子爆弾の投下は一般市民に対する大規模な残虐行為と言っていいはずですから、もし、命令によって行われた日本の兵隊の残虐行為が裁かれるのであれば、アメリカ軍の兵隊も命令に従って行ったそれら残虐行為の責任を問われなくてはいけなくなるという、アメリカにとっても困る状態が生まれてしまいます。

アメリカ側のそのことについては考えていたふしもあるらしく、命令によって行われた場合、或いは組織的に行われたケースに関しては、なるべく命令権者に死刑を言い渡し、命令に従った兵隊に対しては、有期刑でなんとか話をまとめていこうとしたようです。もちろん、「公平な裁き」ということを考えれば、たとえ有期刑であったとしても、アメリカの兵隊は全く罪に問われていないとすれば、不公平なことは間違いがありませんので、それでいいのかという疑問は残らざるを得ませんが、この本を読んで、必ずしも一般に言われているほど、一方的なものとも言い切れなかったということが理解でき、私にとってはそれなりに収穫があったと感じます。

もちろん、捕虜に対する尋問の際、通訳をしていた二等兵が捕虜に対する残虐行為の罪で死刑を宣告されるなど、それはいくらなんでもあんまりだ、かわいそうすぎるという例もないわけではありません。また、栄養失調で捕虜がばたばたと倒れて行った時、日本の兵隊さんも同じく栄養失調でばたばたと倒れていたというようなケース(要するに補給の船が来ないので、捕虜も兵隊も一蓮托生で食糧を得られていなかった)ではそれなりに情状酌量があってもいいのではないかという疑問も残ります。アメリカの捕虜になった日本兵は食事も充分に与えられ、強制的に労働させられることはなかったと聞いたことがありますから、捕虜に対する虐待という点では、日本に分がないとも思えます。

一般市民への残虐行為については、私は日本軍が「現地調達主義」を採用していた以上、現場の兵隊さんは現地人の住宅に入り込んで食糧を略奪せざるを得なくなりますから、そこには構造的な問題があったと言わざるを得ないように思えます。そのようなことを考えると、日本は無理な戦争を無理を承知で無理無理に進めた結果、その手の戦争犯罪が頻発したとも言える気がしますので、どうしても現場の兵隊さんに対しては同情的な心境になることを禁じ得ません。

とはいえ、シンガポールでの華僑虐殺事件などは、急迫性もなく、その必要もないのに明白な意図をもって組織的に行われていた場合もあったようですので、弁解の余地のないものもあったのではないかなあと思います。一方で、空襲の帰りにB29が墜落してしまい、生き延びた搭乗員が現場で処刑されるというケースも多々あったようですが、一般市民を焼き殺しているわけですから、感情面に於いて理解できると同時に、それでもそれは戦時国際法違反になるという板挟み的な心境にもなります。

いずれにせよ、読み進める過程で多くの目をそむけたくなるようなケースが次々と登場しますので、精神的には非常に疲れました。それでももちろん、是非とも読むべき一冊と思います。

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『昭和天皇独白録』を読む

昭和天皇は昭和史の主役と言えます。また個人的には国民的スーパースターだったと言っていいのではないかとも思えます。その側近が数回に渡り、昭和天皇にインタビューし、それを書き起こしてまとめたものが、この『昭和天皇独白録』です。

御用掛だった寺崎英也が「文責」を担ったもので、同書に一緒に収録されている、寺崎氏のお嬢さんの手記によれば、ずっと長い間、家で保管(あるいは放置)していたのだが、お嬢さんがアメリカで育ったために日本語で書かれた寺崎氏の原稿を読解することができず、日本の学者に依頼して解読と分析を頼んだところ「稀有な史料」との返答を受け取り、これを世に出すことが自分の責任であると考えるようになって、ようやく出版されたという経緯があるそうです。

この寺崎英也という人は、もともとは外務省の人で、宮内省に出向していた時期に御用掛を務めて、この聞き書きを行ったわけですが、太平洋戦争との関連では実に不思議な役回りを負った人と言えます。1941年12月7日に日本はアメリカに対して交渉の打ち切りを通告する(宣戦布告)わけですが、その通告が予定よりも遅れてしまい、ハル国務長官に手交された時には既に真珠湾攻撃が始まっていたことは、よく知られています。その要因として当時のワシントン駐在の大使館員たちが前日に歓送会を開いており、翌日は日曜日でみんな休日モードに入っていたため、要するにだらっとしてしまったために日本から暗号電文で送られてきた交渉打ち切りの通告の文章をタイプに打ち出して正式な文書にするという作業が遅れてしまい、結果としては「真珠湾は宣戦布告前に行った騙し討ち」と後々まで言われ続け、アメリカが原子爆弾投下を正当化する理由の一つにもされてきました。外務省のその時のあまりに重大な失態をおかしてしまった時、寺崎氏は駐ワシントン大使館の職員で、中南米に転任することが決まり、真珠湾攻撃の前日は寺崎氏のための歓送会がチャイナタウンで開かれたということらしく、要するに寺崎氏の転任が宣戦布告の通知が遅れたことの要因となってしまったとも言え、寺崎氏の外務省人生でも痛恨の一事になってしまったに違いありません。

それはともかく、『昭和天皇独白録』の内容はなかなか面白いもので、多少の記憶違いも指摘されてはいますが、田中義一首相の時には、関東軍の河本大作大佐による張作霖事件について、田中首相がうやむやにしてしまおうとしたことに頭に来た昭和天皇は「辞表を出してはどうか」と言ったとこの本の中では認めています。田中義一首相が昭和天皇に「叱責された」ことは有名で、昭和天皇がなんと言ったのかは議論のあるところですが、当時まだ若かった昭和天皇が、かなりはっきりと辞めろと言ったという本人の回想があるわけですから、語気や語彙については多少の議論が残るとしても、だいたい田中義一首相辞任事件の真相ははっきり見える言っていいかも知れません。

それから、松岡洋右に対する意見が非常に厳しいものだったことも個人的には興味深いことのように思えます。ヨーロッパから帰ってきた松岡は有頂天の大得意で大のドイツびいきになっており、昭和天皇は「ヒトラーに買収でもされたのではないか」と述べています。本当にお金をもらうという形の買収があったかどうかは分かりませんが、松岡がヒトラーから大いに持ち上げられ、歓待されて、すっかり抱き込まれてしまっていたということは言えるかも知れません。松岡洋右がそういうこともあって、枢軸国を固めればアメリカと対抗できると信じるようになり、儚いまでも僅かな希望だった日米諒解案に大反対して潰してしまったというのは本当に日本が助かる最後のチャンスを不意にしてしまったとも言え、松岡という御仁の責任の深さについて、私は改めて考え込まずにはいられませんでした。

側近が昭和天皇にインタビューして聞き書きした理由としては、昭和天皇が戦争犯罪人の訴追から逃れるために、ある種の記憶の整理を目的としていたと言う人もいますが、当時は既に昭和天皇の訴追はないということがだいたいはっきりしていた時期でもありましたし、大変にリラックスしてざっくばらんに語っているということが読み取れますので、昭和天皇にとっては本当に信頼できる人だけに語った回想であり、寺崎氏も飽くまでも史料として保存するだけのつもりだったのかも知れません。

昭和天皇が何を考えていたのか、何を感じていたのかを知る貴重な情報源ですし、普通に読んでいておもしろい歴史の本とも言えます。昭和史の予備知識を充分にもってから読むと、より味わい深いというか、楽しんで読めるのではないかなあと思います。

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鈴木貫太郎内閣‐日本のバドリオ

太平洋戦争もいよいよ望み薄となってきた時期、小磯国昭内閣が中国との単独講和の可能性を模索し、窓口となる人物があまりに信用に足りなかったことから講和は失敗に終わり、その責任を負う形で小磯内閣が総辞職します。その後、後継首相として重臣会議は日露戦争にも参戦したある種の伝説的英雄と見られていた鈴木貫太郎を指名します。鈴木は固辞しますが、昭和天皇たっての希望ということがあり、昭和天皇本人が鈴木貫太郎に頼んだとも言われています。近衛文麿も鈴木貫太郎内閣の成立には積極的だったとも言われています。

もし本当に昭和天皇が頼んだとすれば、天皇の越権行為であり、立憲主義がだいぶ揺らいでいたことを示す事例だと受け取ることもできますが、非常時なので非情の手段をとったとして例外的なことであったという説明も可能かも知れません。

鈴木が昭和天皇から期待されていたことは終戦工作で、とにかく本土決戦に入ってしまう前に戦争を終わらせたいという相当悲壮な覚悟で職務に臨む必要があったに違いありません。

米内光政と木戸幸一がソビエト連邦を仲介にした和平工作に乗り気で、鈴貫太郎もそれに期待をよせていたフシがないわけでもないですが、スターリンは最初から適当に流すつもりであり、当時の状況的にわざわざ仲介して有条件降伏に持ち込むよりも、時期を逃さず日本に侵攻して戦国武将なみに切り取り次第だと考えていたようですから、確かに望み薄であり、徒に終戦を遅らせたという点は残念に思わざるを得ません。

鈴木貫太郎にとって幸だったのか不幸だったのか、7月下旬に連合国側からポツダム宣言が発表され、軍部の強硬論にも配慮して鈴木は「ポツダム宣言にはコメントしない」という態度でしたが、それが「黙殺(ignore)」という表現で世界に伝わり、要するに「拒否(refuse)」なのだなと解釈されてしまい、原子爆弾の投下とソビエト連邦の火事場泥棒的参戦を招いてしまいます。その件について、あくまでも政治家は結果責任だとすれば、鈴木貫太郎には責任があるとも言えますが、原子爆弾とソ連の参戦はそもそも非常識ですから、それを鈴木貫太郎に責任を負わせるのは酷と言えるかも知れません。

1945年8月9日に天皇の地位のを条件にポツダム宣言を受け入れるということを昭和天皇の「聖断」という形で結論を出しますが、連合国側に戦後の天皇の扱いについて「天皇は連合国の制限下におかれる」という返答の解釈で紛糾し、8月14日、改めて昭和天皇の聖断をもう一度仰ぐというやり方でポツダム宣言の受諾を正式に表明することに漕ぎつけます。ちなみに世界は8月9日の段階で日本がポツダム宣言の受け入れを申し入れてきたことが大ニュースになっており、何がどうなっているのか知らぬは日本人ばかりという風になっていたらしいです。

1945年8月14日の夜は、戦争継続派の軍人たちが鈴木貫太郎の自宅を焼き討ちするは、皇居にまで侵入して終戦の詔勅のラジオ放送を阻止しようとまで画策しますが、結局は成功せず、無事ラジオ放送が行われ、ようやく戦争が終わるという展開になります。

既には日本はボロボロでしたら、何故ここまで講和が遅れたのかという疑問がどうしても残る一方、とりあえず本土決戦は避けることができたという意味ではそれなりに評価されてしかるべき内閣と言っていいのではないかとも思えます。

鈴木貫太郎は昭和天皇からとにかく戦争を終わらせることを頼まれており、周囲には「俺はバドリオになるぞ」と話したと言います。バドリオはイタリア降伏を実現させたイタリアの首相であり、要するに戦争継続派を切り捨てて何が何でも戦争を終わらせる役割を自認していたと考えられています。阿南陸軍大臣の出方次第では内閣不一致で総辞職、終戦工作は一からやり直しという不安要素を常に抱えており、そういう意味では阿南が陸軍部内を何とか抑えて終戦に持ち込めるよう努力したという点も評価されるべきかも知れません。阿南は8月15日の朝、終戦のラジオを聴く前に自決しており、彼の美学を称える人もいるようです。

鈴木貫太郎は終戦工作が終わると早速辞表を出し8月17日には総辞職しています。鈴木貫太郎内閣の次は、超短命の東久邇宮内閣が終戦手続きを進めることになります。




小磯国昭内閣‐幻の日中和平工作

サイパン島の陥落の責任を取る形で東条英機内閣が総辞職し、西園寺公望亡き後、首相指名の機能を担っていた重臣会議は小磯国昭を後継首相として指名します。小磯は出身母体が陸軍ですが、現役を退いて長いため戦争の実態に疎く、米内光政を副首相として補佐させるという条件での首相就任です。

明らかに「あんまりイニシアチブをとらなさそうな人」を選んでいるフシがあり、実際の政治を近衛文麿あたりが仕切って、小磯は責任を取るためだけの傀儡であった可能性が高いようにも思えます。小磯政権期に近衛上奏文も出されています。

小磯国昭の方針は「敵に一撃を与えて講和」を目指すもので、その一環としてレイテ島での決戦が模索されます。フィリピンが陥落すればインドネシアから日本まで石油を送るシーレーンを失うため、日本は戦争の継続が不可能となるため、連合艦隊も残存空母を囮にしてアメリカの航空戦力をレイテ島から引き離し、レイテ沖で裸同然のアメリカ軍に戦艦大和と武蔵が巨大な大砲で好き放題砲撃するという作戦に乗り出します。レイテ沖海戦ではほぼ連合艦隊の目論見通りに戦況が推移しますが、敵の目前きた戦艦大和が謎の反転をすることで完全に空振りに終わります。この作戦では空母は全滅。武蔵も撃沈され、連合艦隊はその後組織的な作戦行動ができなくなるほどの痛手を負いました。

以前、大和の乗員だった人のインタビューを見たことがありますが、敵の補助空母艦隊を発見し、圧倒的な彼我兵力差で、これはバンバン撃ち込めば勝てるという印象を得たそうですが、半端な戦闘した後に「目標はレイテだから」ということで、それら敵艦隊を攻撃目標から外し、レイテに行くのかなあと思ったら反転してしまったということでした。不可解としか言いようがありません。

アメリカ側の戦記物ドキュメンタリーでこの海戦を扱っているものがあり、アメリカ軍は未曾有の危機に陥ったものの、反撃を恐れたバトルシップ大和が退却したためにことなきを得たという説明になっていましたので、当該の小規模な海戦があったことはほぼ間違いなさそうですが、大和の反転については「反転命令があった」というまことしやかな嘘がまかり通っており(私はそんな命令はなかったと思います)、知れば知るほどがっくりきます。私の祖父は戦艦武蔵の乗員で、90パーセント以上が戦死した中生還しており、呉で終戦を迎えています。広島の原子爆弾のきのこ雲も見たでしょうから、なかなか壮絶な戦歴です。

それはそうとして、1945年3月中国から一人の男が和平の使者と称して東京を訪問します。繆斌(びゅうひん)という人物で、蒋介石政権が満州国を承認し、日本がそれ以外の中国全土から撤退することで日中和平という提案だったと言われていますが、この時期になると東京大空襲も行われており、日本の敗色は濃厚で、蒋介石の国書も持たないこの人物が本当に正式な使者であったかどうかは相当程度に疑わしく、重光葵は相手にするなと反発します。小磯国昭はそれでも繆斌和平工作に懸けようとしますが、昭和天皇から不興を買い、この和平工作の失敗を受けて小磯内閣は総辞職するという展開になります。ちなみに繆斌は終戦直後に日本に内通しようとした罪で銃殺されています。

私には繆斌がホンモノの使者であったのか、それともある種の利権漁りの延長みたいな人物だったのかを断定するだけの材料はありませんが、飽くまでも想像ですけれど、繆斌は汪兆銘の政府に参加していた人物ですので、戦後の身の処し方を考えて、嘘でもでっち上げでも「そんなはずでは」になるにしても、日本との和平話を進めることで得点を上げて戦後の身の安定を図ったのではなかろうかと思えます。そういう意味ではあんまり乗れる話ではなかったかも知れません。

そうは言ってもその後日本はスターリンに和平の仲介を頼むという、実現性があるとは到底思えない策に出ますので、どっこいどっこいというか、或いは命運尽きるとそういう胡散臭い話しか集まって来ないということを示しているのか、いずれにせよ繰り返しになりますががっくりすることばかりです。

小磯政権の後は、昭和天皇が直々に鈴木貫太郎に依頼し、終戦を使命とする内閣が登場することになります。




ミッドウェー海戦がいろいろな意味で残念な件

連合艦隊の山本五十六長官は、真珠湾攻撃に成功した後、はて…と困ってしまいます。その後のプランをあまりよく考えていなかったからです。

まずはっきりしていることはハワイの真珠湾基地は生きているということ、そしてアメリカの空母艦隊も無傷だということでした。

もしアメリカの空母艦隊を殲滅し、ハワイも獲ることができれば、太平洋全域の制海権を握ることができるようになり、長期的にはアメリカが盛り返してくることは分かっているとしても、その後の緒戦で勝利を重ねやすくなりますから、アメリカの戦意を挫くいい一手になる可能性があります。

とにかく押せるだけ押しまくって、講和に持ち込むしかありませんので、よしハワイを獲ろうと、アメリカの空母艦隊も今度はおびきよせて一機に叩いてしまおうということになり、見方によっては真珠湾攻撃以上に皇国の荒廃この一戦にありとも言えるミッドウェー作戦を立案します。

作戦の内容はまず第一波がミッドウェーを空爆し、続いて上陸部隊が同島を占拠。そのうちアメリカの空母艦隊が出てくるので見つけ次第に殲滅し、裸の同然のハワイまで駒を進めるというものでした。

ところが、机上演習をやってみると、アメリカ空母艦隊が想定よりもかなり速くミッドウェー海域まで出てくることがわかってきます。本来であれば、ミッドウェーのようなあってもなくてもいいような小島を叩くよりも、ほいほいと出てきてくれたアメリカ空母を先に撃つということに作戦の順番を変えなくてはいけませんが、動かす艦船が多すぎることで負担に感じたのか、机上演習ではアメリカの空母はもっと後からやってくるという風に設定を変更し、演習が続けられます。敵の弾が自分の艦船に当たるかどうか、当たっても沈没か大破か小破か無傷かということは時の運ですので、演習でも設定のしようがなく、そういう時はサイコロを振り賽の目で受ける被害の程度を決めていきます。その時も、演習中に甚大な被害が出る目が出たときは、違う目が出たことにして、沈没する目が出たとしても大破だったことにするみたいな感じで演習の内容が操作されたといます。要するに予め策定した作戦が望む結果が出せるように、演習の内容を改ざんしていたと言えますので、もはやこれは演習でもなんでもなく、官僚的な辻褄合わせをしているだけだったと言うしかありません。

実際の戦闘では、敵空母艦隊を発見するために飛ばした哨戒機が、敵の真上を飛んでおきながら雲の厚みに阻まれて視認することができず、敵の空母は来ていないと報告を上げています。また敵に発見され敵空母が近いということが分かってから、当初ミッドウェー爆撃用に搭載されていた爆弾を外して空母を狙うための魚雷に交換するの90分かかっており、その時間的なロスによって敵から先制攻撃を受けるという悲しい結果を迎えています。机上の演習の方が正しかったのです。敵空母の動きは速かったのです。こういう場合はまずは第一波を飛ばして敵空母の甲板に爆弾を落として穴を開けて、使い物にならないようにしてから第二派が魚雷で沈めるのがいいのですが、司令官がテンパってしまい、そういう判断ができなかったのです。

更に不可解としか言いようがありませんが、戦艦大和が最新鋭の傍受システムで敵空母の居場所を知っておきながら、敵に大和の実力を知られることを恐れて最前線の艦隊にその事実を知らせなかったという話も残されています。「何のための大和なんじゃい」と突っ込む気力もないほどに残念な要素に溢れています。

そのような劣勢でも敵空母を二隻沈め、日本空母を二隻守った現場のパイロットの優秀さに驚くしかありません。凄い、訓練って凄い。と思います。ですが、作戦を立案する人たちが全体にゆるんでしまっていた、日本海海戦の時のような絶体絶命一発勝負のような緊張感を失っており、ついでに言うとあまりに強い不安や恐怖に押しつぶされて判断を間違えていたように思え、返す返す残念でこの時代のことはとにかくガックリするしかありません。

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真珠湾攻撃がいろいろな意味で残念な件

真珠湾攻撃を「政治」「戦略」「戦術」の三つのフェーズに分けて考えてみたいと思います。

まず、政治的な意味で言えば、かくも大失敗な攻撃はありません。連合艦隊の山本五十六はアメリカに痛打を与えてその戦意を挫くとという方針を持っていたと言われていますが、あまりにも唐突な攻撃を受けたためにアメリカではむしろ戦意が高揚し、逆の結果を招いています。フィリピンあたりで小競り合いをしてアメリカの太平洋艦隊をおびき出し、当時であれば圧倒的に連合艦隊の方が強かったですから、そこで艦隊決戦で全滅させていればアメリカも戦意を喪失するというシナリオがあり得ましたが、そういう順序をいくつか飛ばしてしまっているので、政治的には全くの大失敗。狙いを外しまくりというしかありません。

次に、戦略という点から見ればどうでしょうか。戦略的には真珠湾攻撃はアメリカが当面、太平洋で動きが取れなくなることを目指すものです。そういう意味では何といってもハルゼーの空母艦隊を討ち漏らしており、ぶっちゃけ戦略的にはもはやどうでもいい戦艦とか巡洋艦とか沈めまくったわけですが、その無用の長物と化していた戦艦も真珠湾は太平洋の海に比べれば全然浅いのでその多くが引き揚げられて修繕されていますので、真珠湾攻撃の戦果事態が無意味であったと言っても言い過ぎではないかも知れません。当時はシンガポールですら占領できるだけの力があったわけですので、ハワイのそのものの占領も充分に可能だったと言え、やはり、どうせやるのであればハワイ占領を企図しておくべきでした。半年後に「やっぱりハワイをとっておけばよかった」という後悔の念からミッドウェー海戦という更に残念な結果を招くことになってしまいますが、そういう意味では思い切りが悪かった一発殴って逃げ帰るという戦略そのものに欠陥があったと思わざるを得ません。全く残念というか、orzとしか言いようがありません。

では、戦術的にはどうでしょうか。こっそりと太平洋の北側からハワイに迫り、攻めること火の如し、走ること風の如しですので、見事と言わざるを得ず、そのために費やした訓練の成果であり、現場のパイロットの人たちへは敬意の念を抱かないわけにはいきません。ミッドウェー海戦では司令官の判断ミスが大きく影響しますが、それでもそこから反撃してアメリカの空母を二隻沈めていますので、やはり現場が如何に優秀であったかについて思いを致さざるを得ないと思います。

そのように思うと、もしあの時にハワイを占領しておけば、太平洋は西海岸に至るまで日本が制海権をとることができ、相当有利に戦局が推移した可能性を考えると悔やまれてなりません。とはいえ、戦争が長引けば必ずアメリカ有利の展開になることは間違いなかったでしょうから、東条英機が早期講和を全然考えていなかった以上、最終的な結果にはあまり違いはなかったかも知れません。当時のことは知れば知るほどorzです…。

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東条英機内閣‐責任とらされ内閣

第三次近衛文麿内閣がアメリカから受けた経済制裁に対する事態の打開を諦めて総辞職し、その後継首相として指名されたのが東条英機でした。アメリカとはどのみち戦争になるだろうから、対米強硬派の東条英機を首相にして敗戦の責任をとらせるのがいいだろうという見方も存在していたらしく、同時に東条英機が首相になれば陸軍もおさまるだろうという国内政局的な見方も存在していたようです。

登場の前の近衛が貴族院出身、その前の米内が海軍、その前の阿部が陸軍でしたから、衆議院がほとんど積極的な存在意義を発揮することができなかった当時、国内政局的には「次は陸軍」という鼻息の荒い人たちを納得させるという意味合いもあったかも知れません。アメリカと戦争すれば即滅亡くらいの認識はあったでしょうから、そういう時に国内事情で人事を決めていかなくてはいけなかったというあたり、日本帝国が変化できない恐竜になっていたことの証左の一つのように思えてなりません。

個人的にはもし松岡洋右が組閣を命じられたとすれば、ちょっと違ったのではないかという気もします。というのも、松岡は対米強硬派と知られてはいたものの、おそらくアメリカとの交渉での引き際も考えることができた当時としては数少ない知米派ではなかったかという気もするからです。国際連盟脱退の際、それを実際に行ったのは松岡ですが、彼本人はイギリスが示した妥協案に乗るべきだと考えており、にもかかわらず東京では「国際連盟から脱退すれば、その決議に拘束されない」という小手先のレトリックがまかり通り、脱退案が浮上し、訓令として松岡のもとに届けられます。松岡は訓令に従って国際連盟を脱退し、その後はひたすらアメリカに対抗できる勢力を確立するためにドイツやソ連と連携を図るという無理ゲーを無理と承知で進めていくことになったわけですが、日米開戦に至るまでの半年ほどの間、リアリティのある対米外交ができた人間がいなかったという現実を踏まえると、やっぱり実は松岡洋右の方がまだましな結果に導くことができたのではないかとふと思わなくもありません。

いずれにせよ、国内では陸軍をなだめなくてはならず、一方でアメリカもそれなりにふてぶてしいですから、その板挟みでどの政治家が首相になってもうまくいくとはちょっと考えにくく、どうせやるなら東条英機に責任を取らせようと考える人がいたとしても、国内政局という観点に於けるリアリティは充分にありますので、まあ、それまでの経緯をいろいろ考えれば、行くところまで行くべくして行ってしまったということかも知れません。

太平洋戦争では緒戦の勝利で国内は狂喜乱舞し、有利な条件で講和に持ち込むという大事なことを誰もが忘れてしまいます。真珠湾攻撃が鮮やかすぎたためにアメリカは闘志満々で、長期戦になればアメリカの勝利は確実でしたから、講和しようとしてもできなかったかも知れません。太平洋戦争ではじりじり敗け始め、サイパン島の陥落で東条は引責辞任ということになります。

東条内閣の次は小磯国昭が組閣を命じられますが、もはやなすすべはなく、この時に首相に就任したことで戦後にA級戦犯に指名され、終身刑を言い渡されますので、気の毒以外の何物でもないのですが、この時代ことはがっくりする以外の言葉が出てきません。


パールハーバーの海底映像

今日は12月8日で真珠湾攻撃から75周年にあたります。ABCがパールハーバーの海底映像を配信しているのを、今、なんとなく見ています。日本海軍が発射したであろう水雷が錆びた状態で沈んでいたりする映像が流れていますが、実はあまり関心が湧きません。そばに比較的最近に沈んで来たであろうジュースの缶も映っていますので「そりゃ、いかんだろう」と、むしろそっちの方に関心が向いてしまいます。

パールハーバー記念館はアメリカ人は列をなして見学に行きますが、私が訪れたときは日本人はほとんど見かけることはなく、関心の向く方向の違いというものがけっこうはっきりと現れるものだなあという印象を得たことがあります。パールハーバーは狭い上に深さも知れていますので、前々からどこに何が沈んでいるかは分かっているわけですし、戦争中に結構引き上げられて修理されて戦線に出たりしていますので、そんなに珍しいということもないのではという気もします。

武蔵や大和の映像であれば、深海に沈んでいますし、広い太平洋の中で見つけなくてはいけないので、映像を撮るというのもなかなか大変な作業だとおもいます。また、我々の物語の一部のようにも思えて、もうちょっと関心が湧くのですが、やはり、「古跡」の映像は自分がどういう物語の世界に生きているかによって関心が湧いたり湧かなかったりするものだということが言えるのだろうなあと思えます。私の祖父が武蔵に乗っていて、幸い生還したのですが、私の心中に、そういうのもあって、武蔵や大和には関心を持てるのかも知れません。

安倍首相がパールハーバーを訪問するとのことですが、謝罪しないそうです。戦争した相手同士で謝罪するしないをいつまでも言っていても前に進むことができませんので、どうしても謝罪しなくてはいけないとは思いませんが、訪問して哀悼の言葉を述べることには意義があるのではないかと思います。

オバマ大統領も広島に訪問し、哀悼の主旨のことを述べていましたが、謝罪はありませんでした。ただ、それでも、アメリカの大統領が広島で献花する姿はやはり心に触れるものがあり、感動的な場面だったと思います。安倍首相がパールハーバーを訪問する映像も同様に心に触れるものになってくれればいいと思います。

私は個人的には双方の首相と大統領が毎年太平洋戦争の激戦地で会談し、「和解サミット」みたいなことを恒例化するのも悪くないのではないかと思っています。一年目はパールハーバー、二年目はミッドウェー島、三年目はガダルカナル、その後、全ての島を訪問するのもちょっと大変な気がするので、サイパン、硫黄島、沖縄のような感じで10年くらいかけて訪問し、謝罪するしないを議論がおかしくなっていくので、そういうのは抜きにして、哀悼の言葉を述べるということをすれば、双方の心の中に何となく今も抜き去りがたく残っている傷のようなものが和らいでいく、癒されていくということがあり得るのではないかと思わなくもありません。フィリピンも激戦地でしたが、デュテルテさんがどういう反応を示すのか分からないので、とりあえずフィリピンに関しては触らぬ神に祟りなしということにし、パラオは多分、双方の訪問を歓迎してくれるでしょうから、パラオには行く、みたいな感じでやればいいのではないかと思います。

沖縄の訪問はいろいろと議論を呼ぶことでしょうけれど、一度はサミットもやっているわけですから、次は哀悼の言葉を述べることを主目的とした訪問をすることはもちろん不可能ではないはずです。まあ、でも、やりたがりませんかね…。

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『この世界の片隅に』と『瀬戸内少年野球団』

『この世界の片隅に』の評判があまりにいいので観てきました。多くの人が言っているように、映画が終わった瞬間、この映画をどう理解していいのかが分からなくなってしまいます。凄かったことは間違いないのですが、明確な「泣かせどころ」があるわけではなく、すずさんの心の変化に気づくことはいろいろありますが、「ここが見どころ」というものがあるわけでもなく、でも感動的で、私の場合は涙が二すじほどすっと流れました。隣の席の人はほとんど号泣です。

時代背景は太平洋戦争ですから、「戦争もの」に区分することも可能ですが、空襲のシーンはもちろんあるものの、空襲がメインというわけでもありません。実はギャグ満載であり、「戦時下の銃後の生活をメインにしたギャグ漫画映画」に『今日のねこ村さん』なみのほのぼのした感じが加えられ、『じゃりン子チエ』を連想させるちょっとコミカルな感じで描かれる人々、確信犯的なすずさんの天然キャラが全部入れ込まれているにもかかわらず、全く無理を感じず、原子爆弾という重いテーマも、それは重いことなのだと感じることができる、普通に考えればあり得ないような映画です。すずさんの声は確かにのんさん以外にはあり得ず、私にはこの映画のために彼女は生まれてきたのではないかとすら思えます。

戦時下の日常をたんたんと生き、生活の窮乏もたんたんと受け入れる人々の姿が静かで圧倒的です。時々ポエティックな場面があり、それはすずさんの心の中で起きている現象を表現しているのだと私は思いますが、それ以外の場面が極めてリアルに描かれているために、三文詩人のような安さは生まれず、ポエティックな場面を文字通り詩的に受け取ることができます。ギャグもしかりで、ギャグの場面以外がめちゃめちゃしっかりしているので、ギャグを入れ込まれてくると笑うしかなくなってしまいます。そして静かに一人また一人と大切な人がいなくなっていく現象に薄ら寒い恐怖も覚えます。これは原作も読まなくてはいけなくなってしまいました。

個人的には私の祖父が連合艦隊の人で呉で終戦を迎えていますので、私の祖父もこういう光景を見ていたのだろうかという感慨もありました。

終戦のラジオ放送の場面では、一緒に聴いていた人たちが「そうか、敗けたのか」と、これもまた淡々と受け入れる中、すずさんだけが号泣し、「最後の一人まで戦うつもりじゃなかったのか。なぜここであきらめるのか」と叫びます。周囲の人からは「はいはい(あなたは天然だからすぐ感情が昂るのよねえ)」といなされますが、私はあのラジオ放送ですずさんみたいな感じた人は実は意外と多かったのではないかと想像していて、戦後、それを口にするのは憚られていてあまり語られなかったのではないかというようなことを、ふと思いました。

さて、物語は戦後も少し描かれますが、アメリカ軍の兵隊からチョコレートをもらったり、配給でアメリカ軍の残飯ぞうすいをもらったりして、がらっと変わった新しい日常を、人々はまたしても淡々と受け入れます。

アメリカ軍が来て、チョコレートをばら撒いて、人々が敗戦の傷から少しずつ立ち直って生きる姿は『瀬戸内少年野球団』を連想させます。この作品では敗戦があったとしても、それでも今を生きる人々のたくましさを感じることができると同時に、ヒロインの女の子のお父さんが戦争犯罪人で処刑されるなど、戦争に敗けるとはどういうことかをじわっと観客に問いかけています。

『瀬戸内少年野球団』の風景は、屈辱的ではあるけれど、それが戦後日本の出発点で、後世の人にもそれを忘れないでほしいという願いをこめて制作されたものだと私は思いますし、私は世代的にぎりぎりどうにか、そういう貧しかった日本の印象を記憶の片隅には残っていて、この映画のメッセージ性にぐっとくるところがあったのですが、『この世界の片隅に』は『瀬戸内少年野球団』より少し前の時代から時間的シークエンスを描いており、その描こうとしたところは実は同じものなのではないかという気がしてきます。

もし、これら二つの作品を連続して観ることができれば、ある意味では現代日本の原風景とも呼びうるものを感じることができるのではないかなあとも思えます。